ある日の台北日記2024その4(6)鹿谷から魚池へ

5月2日(木)鹿谷で

ゆっくりと目覚める。食べ過ぎなので朝ご飯も食べず、部屋で休息。午後9時過ぎにトミーが車で迎えに来てくれ、鹿谷へ向かう。トミーも忙しいようで、ようやく会うことが出来て良かった。1時間ほどのドライブでお互いの近況を話す。懐かしい鹿谷へ登っていく。

既に春茶の生産は終わっていたので、以前も訪ねたことがある連山に連れて行ってもらう。そのすぐ近くに寺が鳳凰山寺と書かれていて気に掛かる。なぜここに潮州の鳳凰山を思い起こさせる廟があるのか。更にその門牌の横に像が立っていた。呉光亮と書かれているではないか。呉は1874年の牡丹社事件の際に清朝より派遣された軍人で、ここから東海岸への道を建設したとある。そして彼は広東英徳人。お茶と何か関連はあるのだろうか。

連山のお父さんがお茶を淹れてくれ、おしゃべりする。最近は高級な白茶も作っているぞ、と出してくれる。何とも精緻な造りで驚く。そこへUさんが合流して来る。表では茶葉が干されている。知り合いの茶葉が持ち込まれ、場所を提供しているだけだという。今年の春茶は良かったのだろうか。

さっきの寺を参拝する。資料が置かれていたので持ち帰る。やはり潮州と関連はありそうだ。潮州人はこの辺にもいたのだろうか。それとも客家か?昼ご飯は近所の食堂へ行く。何とベトナム人がやっている店でフォーなどを頂く。これから台湾の田舎はこんな店が増えるのだろう。

ここからどこへ行こうかと悩んでいると、Uさんが『陳さんのところへ行こう』という。そこは伝説の製茶師の家で、今は息子と孫がひきついでいる。当然敷居は高いが、私は過去何度かUさんに連れてきてもらっており、知らないことはない。そしてトミーの目が輝く。彼は行ったことがないらしい。

阿蹺本舗に行ってみるともう春茶は終わっているので、何となくのんびりしており、雑談に花が咲く。出来たばかりのお茶を飲みながら、焙煎室なども拝見する。一番驚いたのは88歳の阿蹺氏夫人が元気に枝取りをしていたことだろうか。また阿蹺氏は製茶師になる前は理髪師だったといい、その頃使っていたバリカンが日本製だったことだろうか。

最後に凍頂山に登る。初めてここに来た13年前は、茶畑が広がっていたが、その後来る度に野菜畑が増え、今ではほぼ茶畑は無くなっている。昔の景色とはかなり変わっており、そして以前からあった説明書きの看板が、その中に埋もれている様子が、何となく寂しい。もう凍頂烏龍茶なる名前は返上しても良いのでは、と思ってしまう有様。

そこから1時間ほど車に乗り、トミーに魚池まで送ってもらった。ここはバス路線が1日に何本もないので有難い。本日予約してもらっていた宿は民宿で、誰かの別荘という雰囲気だった。今はこんな宿が増えているのだろう。まだ日は暮れていなかったが、周囲に食べる所もないので、急いで魚池の街まで食べに行く。もう7年も前、埔里に拠点を置き、この辺を徘徊していた時の記憶を頼りに、なんとか広東系の食事にありつく。地方は食堂が早く閉まるので要注意だった。

5月3日(金)魚池で

翌朝は民宿の人が朝飯を置いておいてくれたので、飯団などを食べる。ちょうどデニスが迎えに来てくれる。1週間前にも会ったばかり。すぐに店へ行き、紅茶を飲み始めた。私は先週に続いてジョアンのプレゼン資料を日本語に訳す作業に打ち込む。なんなんだ、この空間は。

それから初めて?持木時代の茶工場跡へ行く。既に工場などはなく、草茫々だが、井戸の跡らしきところがあるという。後ろの方に少しある建物は戦後、外省人受入のために作られたらしい。その向こうの斜面に茶畑があった。一部無くなっているところは台湾農林が回収し、茶樹を切ってしまったところらしい。ちょうど13年前、私が初めて和果森林を訪ねた頃、問題になっていた場所だった。更に少し上ると、古い茶樹が何本もあり、興味深い。この中に谷村と持木が探し当てた原生種?はないのだろうか。ここから見る景色が良い。

ランチは、きれいなレストランに連れて行ってもらった。平日でも大賑わい。この辺にはあまり食べる所がないため、団体観光が使うところらしい。何だか美味しい食べ物が一杯出てきて有難い。バクバク食べる。ベジタリアンのスティーブは、自らの食べ物を自らオーダーして食べている。

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