ある日の台北日記2024その4(2)龍岡の米干節

夜は持木家で働いていたという台湾人女性の娘さんと息子さんに会う。場所は台中の真ん中、新光三越のカフェだった。正直台北の持木御殿で働いていたということで、お茶との関連は無さそうだったが、折角の陳さんの誘いなので、同席することとした。私に気を使ってわざわざ台北からお茶関係者まで呼んできてくれ、お茶を頂く。

既に70代になる廖さんの話を聞いていると、彼らのお母さんは日本時代に持木の家に住み、確かにお手伝いをしていたようだが、それは奉公人というより、寧ろ花嫁修業だったのではないかと思われた。事実廖さんの家は土城のそれなりの家だったようだから、日本人の家に住み、行儀見習いをして、日本語にも磨きをかけたのだろう。なぜそう思うかというと、持木の人々との付き合い方が、まるで家族のようであったからだ。そしてその付き合いは戦後も続いていたらしい。日本人と台湾人の交流には色々な形があることを知る。

夕飯は高級台湾料理を頂く。正直私は部外者なのだが、持木家の名代のように歓待して頂き、何とも恐縮だった。こんな立派な台湾料理はほぼ食べたことがない水準。話もどんどん出てきたが、その多くが台湾語でよく分からない。ただ分かるのは、持木家と廖家の深い繋がり、そしてそれがここ40年ほど切れていたこと、更にそれが今回復活して喜んでいることだろうか。

食後陳さんの車で高鐵駅へ。廖さんの弟さんとお茶関係者も台北に帰るので一緒に行く。彼らは65歳以上なので、商務車に半額で乗れるらしい。何と私の分まで購入して頂き、初めて商務車両に乗り込む。疲れていてすぐに寝込んでしまったが、どうやら飲み物サービスなどがあったらしい。夢の中で台北まで到着した。

4月28日(日)龍岡の米干節

翌日はまた電車に乗る。実は昨日台中から中壢に来て泊ろうかと考えていたが、台北まで戻った方が楽だったので出直した。中壢で降りてバスターミナルへ行き、ここでAさん、Uさんと合流してバスで龍岡へ向かった。龍岡は以前一度Aさんの案内で来ているが、ここはミャンマーから移住した人々が住む眷村があった。

本日は年に一度のお祭り、米干節を見学に来た。地元の人が案内してくれる。まずはモスクに入る。ちょうど説教の時間だったようで、アホーンのお話を聞くため信者が集まっていた。米干節に合わせて水掛祭りも行われており、多くの人が来ていた。その後皆さん旧交を温め、用意された昼ご飯を取って食べている。モスクの中を見学したかったが、今日もダメだった。いつの間にはUさんはイスラム教徒に交じった服装をして、記念写真を撮っている。

近所の市場も今日は大賑わいだった。タイ、ミャンマー方面の食材もかなり売られている。雲南美食の文字が随所にみられる。ここもある意味で観光地化しているということだ。売っている人たちも、雲南系華人で泰緬方面から移住してきた人々やその子孫であるらしい。今日はお祭りなので、特に屋台も多く出ている。

広場に移るとそこにはこの日のために沢山のブースが出ており、雲南や泰緬のグッズの紹介などがされている。向こうからは民族衣装を着た女性たちが躍りながらやってくる。広場の中でも音楽が鳴り、踊りの輪が広がっていく。これは以前プラーオ山中のリス族の村の踊りを彷彿とさせる。ただ衣装はいくつかの民族の物が着られており、ちょっとしたコスプレ感覚の人もいるかもしれない(泰緬の山岳民族がどれほど台湾に渡ってきたのだろうか)。

楽器を奏でていた男性、メーサローンから移住してきたという。最近も北部タイに行っており、その事情にはかなり詳しい。親族もまだあちらに暮らしているという。きっと複雑な事情があるのだろうが、躍っている時の表情は明るい。我々にも楽しそうに話してくれる。こういう人が今どれだけ龍岡に住んでいるのだろうか。既に移住開始から60年以上、多くの移住者が更に他の場所に移住しているらしい。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です