メーサローン茶旅2011(2)発展している茶業

(2)工場見学

直ぐに茶畑に行きたかったが、ちょうどフランス人が取材に来ていて、ご主人が連れていったと言うことで明日お願いすることに。代わりに近くに移った工場へ行って見る。以前はメーサローンビラの下のスペースで作業していたが、今ではホテルの下は使っていない。工場のスタッフが車で迎えに来てくれた。

工場は想像したより大きく、更に増築中。やはりかなり生産量が伸びている。既に午後4時であり、今日収穫した茶葉は天日干しから、室内へ移され、乾かされていた。更に中央には非常に大きなスペースがあり、台湾製の機械が並んでいた。壁にはこれまでの歴史、訪問した著名人の写真などが張られているが、何だか小型体育館のよう。

オジサンが入ってきた。台湾人の茶師。阿里山から来たそうで、59歳。前回私が訪れた直ぐ後にここに来て約5年。彼は厳しく現地スタッフを指導していた。茶の品質もかなり向上したという。「阿里山に比べればここのお茶はまだまだでしょう」と意地の悪い質問をしても、「茶は阿里山で採れてもよくない物もあり、ここで採れてもよい物もある。一概には言えない」と自信を覗かせる。

メーサローンは特に気候と土壌が茶の栽培に適しているという。そこに台湾の茶樹を植え、台湾の技術を使い、台湾製の機械で作り上げるのであるから、良いお茶が出来るはずと。基本は高山茶であるが、最近は台湾や大陸のブームにより、紅茶の生産も始めた。ここの紅茶は茶葉を丸めて作り、香りと甘みがあり、良くできている。

台湾への輸出が中心ではあるが、ヨーロッパからの注文も増えており、また中国へ直接売り込むことも始めた。台湾と遜色ないお茶が作れれば、コスト面からタイ産は極めて有利になるとみる。

茶作りに休みはない、と工場に寝泊まりする茶師の張さん。65歳の定年まで台湾に帰らず、ここで働くという。若者が選った茶葉を指し、「こんなに枝が入っているじゃないか」と怒鳴る姿に昔の日本人の匠のイメージが重なる。

(3)メーサローンビラ

メーサローンビラは今から25年前の1986年に作られた。この村は国共内戦で敗れ、ビルマに逃れた国民党軍とその家族が、更にビルマの革命により、その地を追われ、苦難の末辿りついた場所であった。1970年代蒋介石が亡くなった頃には大陸への反抗は実質的に不可能となり、この山の国民党軍にも転機がやって来た。

1974年、段希文将軍がタイ国王の謁見を賜り、当時の幹部の一人、雷雨田将軍は、「メーサローンで観光と茶を主産業とする」という方針を打ち出した。タイに土着するシグナルである。そしてメーサローンリゾートと言うホテルを作り営業を開始。当時雷将軍のもとで支配人を任されたのが現在メーサローンビラのオーナーである、李泰増氏である。 

彼はその後自らホテル事業に乗り出し、メーサローンビラが誕生する。それでも最初は簡単にお客が来るわけでもなく、台湾人観光客が僅かに来ただけであったらしい。現在の繁栄は25年の努力の賜物である。

李氏夫人の楊明菊さんは、1984年に生まれ故郷のミャンマー、ラショーから台湾へ働きに行く途中、親せきのいるこの地に寄り、そのまま李氏と結婚。ビラ開業当時から苦楽を共にしてきている。

   

現在傾斜面に60室を有し、茶畑が望める景色を持つメーサローンビラ。バンコックから見ればチェンマイでも十分涼しいようだが、ここまで上がってくれば本当に避暑が可能となる。

尚このホテルの建物正面には女性軍人の写真が飾られている。李氏の母親、梅景女史である。彼女は雲南出身、国民党の黄埔士官学校の一つを卒業するなど、幹部の一人。ご主人も雷将軍と同じ軍で働いたという。実はここの家族は歴史的には実に貴重な証人なのである。

12月28日(水)    (4)地獄の散歩

朝早く起きる。6時頃まだ外は暗い。7時になり、散歩に出る。最初は5年前も行った、巨大急須のモニュメントがある場所。前回は連れて行ってもらったが、今回は一人で行く。一つの小さな村を通る。既に人々は活動を開始しており、小学生は学校へ向かう。村を抜け、下るとそこには以前と変わらぬモニュメントが。なぜこんなものを作ったからは未だに疑問であるが、何となく懐かしい。

そこから下を見ると茶畑がきれいに並んでいた。思わず降りていく。ここの茶樹にも蜘蛛の巣が張り、自然な様子が伺われる。向こうを見ると上りの道が見えた。そしてその道を行けば、ちょうどビラに着く。では、ということで、どんどん降りて行き、その道を目指したのだが。

所謂谷底、には小川が流れていた。そして向こうへは渡れない。仕方なく道沿いに歩く。かなり外れた所に橋があり、やっと渡ったが、どんどん思っていた場所より離れていく。しかも今度は上り。これはきつい。しかし既に山の中、戻ることもできず、困る。かなり上った所で道が分かれる。えいやで道を選び更に進む。

山沿いに道が回る。茶畑も見えない。小屋もない。心持安心なのは、相当向こうではあるが、村が見えること。兎に角そこへ向かおうとする。が、また二股。ちょうど上から降りてくる茶摘みのおばさん達(少数民族)に話し掛けると道を教えてくれた。何とかもう一度橋を渡る。これであとは元に戻る方向へ行けばよいはずだが。そうではなかった。

木を切っているおじさんは私の思う方と反対を指した。どうなっているのか、分からないが従う。ようやく家が見えた。また私が行こうとした方と反対を指す人が。結局その道を行くと小さな村があり、そしてビラの下へ着いた。私の方向感覚が悪いのではなかった。山道がそのように出来ている、という知識がなかった、いや忘れていたのだ。長らく山に入らなければ、全く感覚がなくなることを知る。1時間半の壮絶な散歩であった。疲れた。

ビラで朝飯を頼む。出て来たお粥はタイのカオトーン。ニンニクが効いており、美味い。疲れがとれた。豆乳も甘くて、疲れた体には沁みた。

(6)茶畑

楊さんから「今日は茶畑に連れて行く」と言われ、運転手の手配の関係でお昼頃になったが、その運転手と言うのが何と娘さんだった。彼女はバンコックの大学卒業を控え、一時的に戻ってきて、ホテルを手伝っていた。専攻は観光学科、将来はここを継ぐのだろうか。「まだ分からない」というが、数年バンコックあたりで研修してから戻るのが良いだろう。因みに長男は既に茶業を手伝っているとのことだが、当日はバンコックの展示会に行っていた。

茶畑はビラから6㎞離れているという。確かに途中からかなりの山道に入った。運転はかなり難儀な状態になる。ぽつぽつと質素な家が見える。アカ族やリス族の村だという。彼らが茶摘みの担い手だ。

30分ぐらい掛けてようやく茶畑に到着。これは本当に奥深い所。きれいに茶樹が並んでおり、その規模も大きい。母と子は久しぶりの再会なのか、二人で写真など撮っている。その姿が実に幸せそう。そう、幸せそうな雰囲気の中でよい茶が出来るような気がした。

ちょうど茶摘みは終わっており、スプリンクラーで散水が行われていた。茶摘みは全て手摘みだが、水撒き他は機械がやっている。1990年、この地に最初に茶樹を植えた頃は色々と大変だったと話すが、今は極めて順調な様子。山の上から見える茶畑はじつに見事。

(7)お茶博

メーサローンビラのオーナー李さんにも会いたいと思っていたが、とても忙しいそうでなかなか顔が見えない。どこへ行ったのかと聞くと、何と『メーサローンの茶会』が開催されていて、そこに出店しているという。これは行って見ねば、ということで、茶畑帰りに連れて行ってもらった。

村の外れの広場に確かにイベント会場があった。ただ茶会というよりお茶博覧会、いやお茶を名目にした村のお祭りといった雰囲気。少数民族のアカ族やリス族が民族衣装に身を包み、皆で歌を歌ったり踊ったり、といったパフォーマンスを披露している。こんな光景はインドのダージリンやミャンマーのシャン州でも見たような気がする、何か共通項があるのだろうか。農作物などを持ちより、地面に座って売っている人々もいる。朝一のようで、何だか好ましい。

40-50軒のお茶関係のお店が出店している。基本的にはメーサローンで採れる烏龍茶を中心に売っていると見ていたが、緑茶あり、プーアール茶ありと、ほぼ同じ大きさの小屋に個々に個性を出して店づくりをしている。

李さんの小屋も準備が進んでいた。店先に大きな円盤型のプーアール茶が飾られている。これは何かの記念に作られたそうだが、残念ながら字も読めず、分からなかった。それにしてもメーサローンにプーアール茶、ちょっと意外な気もするが、李さん達の先祖は雲南省出身者が多く、縁は続いているのかもしれない。

李さんはとても忙しいようだが、私も昼飯に誘う。自身は食事の時間もないほど働いている。直ぐ近くに麺屋に入り、麺を頼んでくれる。この地方としては意外なほど辛い、が美味い。食べながら話を聞く。

   

実は李さんはタイの茶葉協会?会長の要職にあるという。勿論タイの茶葉生産量はそれほど多いわけではないが、それでも徐々に増やして来ている。品質も向上してきており、自信も出て来ている。現在は台湾への輸出が中心であるが、今後はタイ国内の販売促進、そして中国本土への直接輸出を目指して、活動している。中国語が出来る利点を生かして、李さん自らアモイの茶葉博覧会に出向いて、講演するなど着実に動いている。

李さんは麺を素早く口に入れ、そして立ち上がり小屋に戻っていった。タイの茶産業はこれから発展していくような気がした。






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