シベリア鉄道で茶旅する2016(13)キャプタ ソ連時代も使われた国境ゲート

鉄道の切符はキャプタで一番良いホテルの1階で売られていた。これはインツーリスト系ホテルらしい。外国人がキャプタに来たら、普通はここに泊まるのだろう。ロシアに何度も来て、切符の購入にも慣れているはずのS氏が色々と惑っている。言葉が通じない分は彼がサポートしてくれているのだが、『何しろロシアで自分で切符を買うのは初めてなので』というから、驚いた。だがよく考えてみれば、これまでのロシアはビザを取るために日本で全てのアレンジを終える必要があったのだから、これは当然のことだった。どんな車両があるのか、何時に出発なのか、分らないことばかりだった。

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実はロシアには9つのタイムゾーンがあり、ウラジオストックとモスクワでは7時間の時差がある。我々のいるキャプタはどのタイムゾーンにあるのかをまず確認、イルクーツクと同タイム、モスクワとは時差5時間、日本とイルクーツクは同時刻だと理解した。ただ鉄道時間は全てモスクワタイムで表示されるため、それを間違うと5時間の差が生じてしまう。我々の列車は明日の午後2時(モスクワ時間午前9時)にナウシキを出ることが分かった。車両は彼が『一番安いやつ』と言ったに違いない。イルクーツクまでの列車の手配は完了した。

 

車は先ほど来た道を戻り、何と国境へ戻ってきた。宿へ行く前に、1か所見せたいものがあるというので、そこで停まる。その建物は古いが立派そうに見えた。『これは150年前、当時の大富豪、茶葉商人ヤーコフの邸宅だ』と彼は説明した。一体幾つ部屋があるのだろうという壮大なお屋敷だった。今も人が住んでいるようだったので中に入ってみた。そこには幼い子供が一人で遊んでいた。『昔は大豪邸、今は貧民が住む場末の家です』との言葉が歴史だった。ここで実際のロシア商人も茶葉取引をして、大儲けした、という事実は確認できた。

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気分の良い宿

何とロシア正教会の横に車は停まった。教会が見学できるのかと期待したが、彼は反対側にあるアパートに入っていった。その2階に受付があり、何とそこがホテルであることが初めて分かった。看板は出ていたかもしれないが、全く文字が目に入らない。受付の女性は簡単な英語を話した。部屋は3階で、3DKのアパートだった。1部屋にベッドが3つあり、共有のバストイレともう一部屋が付いていた。もし他の宿泊客が来れば、もう一部屋が提供されただろう。これこそ民泊だった。1人750㍔。ドミトリーの料金だった。

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S氏はしきりに『この宿の滞在証明をくれ』と言っている。一体何のことかと思って聞いてみると、以前のロシアでは自分がどこに泊まったかを各ホテルに証明してもらい、それを持ち歩く必要があったというのだ。もしそれをもらえなかったり、失くした場合、最悪出国できなくなる恐れがあるともいう。実際S氏は過去、出国できなくなりそうになったこともあり、殊の外神経を使っていたが、ロシアが初めての私には何のことやら、さっぱりわからなかった。結局この証明を各地でもらったが、それは3人で1枚だったりする。最終的にモスクワから出国した時、その提出を要求されることもなく、私自身はその証明を持つこともなかった。ロシアは確実に変わっているのだ。

 

午後の日差しが差し込み、周囲に遮るものもない。何とも明るい部屋、S氏は『ここに1週間居たら、原稿書けるだろうな』とつぶやく。そんな場所だった。ネットも普通に繋がり、向こうがモンゴルだということも忘れてしまう。Nさんはベッドに横たわり、スマホをいじり、私はお湯も沸かせるので、ゆっくりとお茶を飲むことが出来た。列車の中で北京からすでに36時間、こんな空間が求められていた、とよくわかる。皆大きく伸びをした。

 

夕方、もう一度国境付近を散策した。教会の横の道をモンゴルの方に向かって歩いていくと、古びたゲートがあった。何だろうかと回り込んでみると『CCCP』という文字がうっすら見えた。これはソ連の略称ではなかったか。やはりこのゲートはソ連時代までモンゴルとの国境として使われていたのだ、と確信した。勿論その前には、先ほどキャプタ博物館の写真でも見た、中国側の売買城とロシア側の倉庫・税関を結ぶ国境であったことは想像に難くない。金網の向こう側は雪をかぶった草原が広がるだけだが、あそこに売買城があったことに間違いはない。実に短い距離をロシア商人たちは往復していたことになる。横にはセレンゲ川も見えるので、このロケーションで正しいはずだった。

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しかしこの周辺には他に見るべきところもなかった。僅かにソ連時代の監視塔だったであろう塔が見えたが、今や誰も監視などしていない。その横には民家が少しだけ建っている。実効支配、という言葉が思い浮かぶ。陸路の国境は『そこに人が住んでいるかどうかで決まる』と中ロ国境で言われたことを思い出す。そういえば、3年前にここに来た時、モンゴル人が『ソ連時代は夜陰に紛れて、ソ連兵が国境の金網を10m前に出すんです。毎日国境は動いており、人が見はっていないと侵食されるんです』という衝撃的な言葉まで脳裏をよぎる。

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