シベリア鉄道で茶旅する2016(12)キャプタ茶葉博物館で

そしてついに目指す博物館に到着した。何だかとても立派な建物だった。1890年の建てられたこの建物、元々は学校として作られたとか。現在はキャプタ地方史博物館という名前らしい。中も豪華な作りで、往時のキャプタの様子を少し垣間見られる感じだ。我々が連絡したここの研究員、リリアさんは待っていてくれた。メッセージはちゃんと伝わっていたのだ。だが彼女は英語ができない。同僚が通訳をしてくれ、何とか会話が成立していく。なかなか回答が得られなかった理由も何となくわかる。

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まずは展示物を拝見する。当時のキャプタの茶貿易の様子を示す写真、ロシア商人の写真、そして運ばれてきた黒茶、茶葉を入れる缶。後に中国から贈られた茶葉もあった。なんと日本の甲冑もある。これはヨーロッパの貴族趣味の一環で、日本ブームの際に買い入れられたらしい。これらから、150年ほど前のキャプタの繁栄が、見て取れる。一時はロシア全体の税収の3割を稼ぎ出したという話もある茶葉の貿易。これが如何に儲かる商売だったがよくわかる。ロシア側で万里茶路に関する資料が残っているのはこの博物館だけだ、とリリアさんは言う。シベリアの外れ、もうロシア人はキャプタのことなど全く忘れてしまっている。

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万里茶路に置けるキャプタ。息子の高校の世界史の教科書を確認したところ、1727年のキャプタ条約は1689年のネルチンスク条約と合わせて載っていた。だがこれが何の条約なのか、一体何を意味しているのかを教わった記憶はない。ここで取引されていた主なものが茶葉だった、ということは書かれていただろうか。教科書には注釈に小さく『西部領土の確定と通商事項の取り決め』とだけ書かれている。恐らくは教科書を作っている人々自身が、ほとんど関心を持っていない歴史なのだ。だが今中国では、こういった歴史が掘りこされている。

 

この条約はロシア側が積極的で、清朝政府はあまり関心がなかった。あくまでも領土の確定のための条約で、貿易を促進しようとは思っていなかったはずだ。勿論当初茶葉がこれほどの戦略物資になるなど、想像もしていなかったことだろう。だが結果として、乾隆帝が対外貿易を広東一か所に制限した1757年の30年前に、実は北に抜け道ができており、1757年以降もこの道は大いに使われていた。日本も江戸時代は鎖国で、貿易は長崎に限定されていた、とよく言われているが、実際には琉球ルートをはじめ、「いくつかの穴が開いていたのと似ている。ただその規模は想像以上に大きい。

 

キャプタまで駱駝で運ばれてきた茶葉は、ここからどうしたのだろうか。ロシア商人、地元のキャプタ商人やイルクーツク商人がいたらしい。セレンゲ川を使って川で運ばれたものもあるだろうが、実は陸路で山の抜け道を通り、ショットカットしてイルクーツクに向かったとの話もあった。現在のシベリア鉄道のルートは相当遠回りになっているらしい。運んだのはブリヤート人。そんなことも、実際この地を訪れてみて、初めて分かるのである。

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リリアさんはお茶の用意までしてくれた。そのお茶は紅茶であり、淹れ方は完全にヨーロッパスタイル。お菓子などがふんだんに出される。お昼ご飯を食べていなかったので、有り難く頂く。しかしそこには万里茶路を感じさせるものはなかった。兎に角この博物館の応対は実に温かく、嬉しかった。そして『今日はどこに泊まるのか?』など色々と心配してくれ、ついには若い英語のできる男性が、我々を案内してくれることになった。

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買い物

彼は手を怪我していたので、別の人が運転してくれた。『この街に宿は3つしかない』というので、安いところ、というとにっこり。宿へ行く前に『手助けが必要なことはないか』と聞いてくれたので、まずは明日のシベリア鉄道のチケットを買いに行く。勿論キャプタには鉄道駅はなく、30㎞ほど離れたナウシカという街へ行く必要がある。そのバス停を教えてもらったが、バスは一日1本しかなく、その発車時間では鉄道に乗れないことが分かる。

 

切符を買うにしても、まずはルーブルが必要だった。銀行を探して入ると、両替は意外とスムーズにできた。ATMでのキャッシングは出来るものと出来ないものがあるようだった。私は米ドルを出して、現金の両替をした。ちゃんと機械化されており、こんなところに外国人がたくさん来るとも思えなかったが、職員は慣れた手つきで作業していた。昔の貿易の名残なのだろうか、そんなはずはないのだが。

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それから銀行近くの携帯ショップにも寄った。ロシアでも急速にスマホが普及しており、シムカードが買えそうだったから行ってみた。だがこちらは難航した。外国人にシムを売った経験もないようで、登録手続きに手間取り、ロシア人の客を大いに待たせてしまった。300㍔でシムが手に入った。これはロシア語ができる彼の存在がなければ、難しかっただろう。ただこのシムカード、いつまで使えるのかなど、全く分からない状態だったが、現時点ではネットはちゃんと繋がっていた。これは本当にありがたかった。

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