ミャンマー紀行2004(21)タウンジー 山のパゴダで思うこと

(4)山の上のパゴダ

ホテルに戻りチェックアウト。山の上のパゴダに向かう。ホテルから直ぐの所にTAMが勤めるタウンジーホテルがある。やはりイギリス風の建物。タウンジーは高地で涼しい上に交通の要所。シャン州の評議会も開かれる政治の中心でもありイギリスも重視していたようだ。

 

ホテルの傍に差し掛かるとTAMが『ここは麻薬王クンサー夫人の家です』と言う。中国系ミャンマー人クンサーは80年代まで麻薬王と呼ばれ、闇の世界を牛耳っていたが、その重要拠点の1つがタウンジー。ここからタイ国境に抜けるルートは麻薬ルートであったようだ。彼は現在どんな生活を送っているのか?麻薬から手を引いてタイとの国境の村で静かに暮らしているとTAMは解説していたが、本当なのだろうか。俄かには信じ難い。家も各地に持ち、愛人も何人もいただろうか。

 

又戦時中のタウンジーについては、古山高麗雄氏の『フーコン戦記』にも描かれている。日本軍がここを占領した1942年から43年に掛けて司令部が置かれ、久留米の料亭翠香園が料亭を開いていたとある。将兵にとっては極楽であったと言う。慰安所も設置されていたようだ。戦地に料亭が進出したなどというのは初耳である。軍の膨張と軍に群がる商人達がここミャンマーにも蔓延っていたのだろう。何とも悲しい話であるが、それが我々の知らない歴史、特に戦争の実態なのかもしれない。

 

歴史にもしもは無いが、1942年に日本軍がヤンゴンを占領した時、ミャンマー独立勢力に後を任せて撤退していたら、その後はどうなっていただろうか?遠藤周作夫人、遠藤順子氏の『ビルマ独立に命をかけた男たち』(著者はビルマ独立を支援した民間人、岡田幸三郎の娘であり、今のスーチー氏の父、アウンサウン将軍が家に来たこともあるという特異な体験を持つ)の中で、ビルマ独立軍に参加した日本人の話として『例え戦争に敗れても、もし名誉ある撤退をしていたら、ビルマは非武装中立を宣言して、その独立を保てたはず』だと記している。更にそうしていれば、インパール作戦などで多くの日本人が死ぬことも無かった、と言っている。正に歴史に『もしも』であるが、やはりもしもは禁句かもしれない。

 

標高2,000mの山の上に登ると、四方が一望出来る。そこにパゴダが建ち、その先端には風鐸が付けられ風に吹かれて、良い音色で音を奏でている。この世の極楽、といわんばかりの山である。蝶が木に留まっている。TAMによれば毎年10月頃にはパゴダ一面が蝶で埋めつくされると言う。蝶々の愛好家にとってはたまらない場所らしい。モールメンの蛍と同じような話のようだ。もしかすると戦争で成仏できない仏の代わりに飛んでくるのだろうか?

ミャンマー 196m

ミャンマー 199m

 

下を眺めるとTAMが『実はビンダヤはあの山の向こう。直線では僅か20マイルなのです。しかし山のこと、道が蛇行しており、65マイル掛かるのです』と解説する。ここからはインレー湖もよく見える。パゴダでは皆自分の場所に行き、祈る。生まれた日の曜日によって祈る場所が違う。この自然な動作が凄い。今の日本には無いもの。宗教でも道徳でも自分の信じる物がある人が最後は強い。私もTTMの後ろについて、日曜日の場所で黙礼している。

ミャンマー 200m

 

車に戻ろうとするとTTMの『ちょっといいですか?』が出る。このパゴダにも寄付をするという。SS、TTと共にお坊さんのいる家屋に入る。部屋には老僧が一人きり。壁には何と鎌倉の大仏の写真などがある。お経をあげた後、老僧が流暢な英語で話し始める。これには驚く。彼は多くを語らないが、『日本人も沢山くるよ』と言う。この辺りで60年前に何があったか、彼はすべてを知っているようだ。しかしそのことには一切触れず、健康の為にといって、私にキャンディーを1つくれる。そして又いつか来なさい、とにこやかにいう。

ミャンマー 197m

 

戦争中日本兵とミャンマー人の交流は想像と違い、かなり友好的だったようだ。ミャンマー全体ではインドに対する敵対意識が強く、イギリスの手先としてやってくるグルカ兵にも嫌悪感があった。しかしここシャン州ではイギリスとも、そして日本とも友好的な関係が築かれていた。ここからタイ国境に逃げた日本兵も多かったはずだが、シャン州の人々のお世話になった人が多かったと聞く。ミャンマーをただ自分が戦った戦地としてだけではなく、人との交流を求めて再度訪れる元日本兵やその遺族もまた多かったはずだ。しかし元兵士も既に80歳を越えて年々来る数が減っている。ミャンマーとの今後の交流は我々の世代に掛かっている。どうすべきか?

 

ネル・アダムスというシャンの藩王の娘がいた。イギリス人と結婚し、数奇な運命に翻弄されたその女性が書いた『消え去った世界』を読んだ(既にメイミョーの所で紹介したが)。その中には日本軍の横暴振りも出てくるが、同時に民間日本人のカメイさんが防空壕を掘れとか、危ないから逃げろとか、色々と世話を焼いている。著者はそのことを50年以上経ってもしっかり覚えており、この本の日本語訳も偶然チェンマイで日本人と会って実現している。

 

そして日本占領時代ではなく、ビルマ軍事政権が彼らの生活を根底から変えてしまったことを嘆いている。シャン人はミャンマー人とは違うこともよく分かる。又日本政府も戦争中シャン州を高く評価していた。天然資源も豊富、農業生産性も高く、シャン人の単純で正直な性格にも好感を持っていたという。将来日本からの移民を連れて来るつもりであったらしい。日本人には間違いなく住み易い土地であったから。軍の考えだから第2の満州、といった政略的な意味合いが多いが、実際に日本の寒村から移住した人がいたら、天国と感じたかもしれない。帰りに山を降りながら、ここら辺りに日本語学校でも開こうか、などと夢のようなことを考えていた。

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