ミャンマー紀行2003(18)カロウ 衝撃的な日緬の歴史に出会う

ウラミ氏の話は衝撃的であった。まさかここに来てこんな話が聞けるとは思いも寄らない。氏は1931年生まれの72歳。12歳の時に日本軍がヤンゴンに侵攻。日本語が出来た氏は日本の兵隊に可愛がれ、軍の北進に連れて行かれたという。『日本の兵隊さんは子供が好きだから』『インパールまでは行かなかったけどね。ザガインまでね』と言う。インパールまで行っていれば、恐らく生きて帰れなかったろう。

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『確かに日本軍はミャンマーで悪いことをした・・・』氏はそれだけ言うと後の言葉を飲み込んだ。頭には何が浮かんでいるのだろうか?暫く無言の状態が続いたが、『日本の将校はミャンマー人の感情に配慮しなかった。涼しいからと僧坊に上がりこみ、抵抗する僧を平手で打った。ミャンマー人は親にも殴られたことが無い。このやり方はいけなかった』と言う。でも『ミャンマーの人々は逃げる日本の兵隊に握り飯を差し出した。ミャンマー人と日本人は仲がいいよ』

 

戦後は色々な仕事をしたようだが、日本のODAによる水力発電ダムのプロジェクトに参加。カヤー州のライコーに駐在。その研修の為、1970年には日本に滞在。北海道・東北での研修は寒くて辛かったと。そして11月には東京市谷におり、例の三島由紀夫割腹自殺事件に出くわす。氏は言う。『昔の日本人はそんな簡単に死にはしなかった』『最近の日本は自殺者が交通事故者を上回ったと聞いたが、本当か?何故なんだ?』氏は日本人が好きなのだ。この感覚は台湾でよく感じるそれである。良いも悪いも無く、好きな物は好きといった感じか?

 

その後奥さんの故郷であるここガロウに帰り、由緒あるガロウホテルの支配人になる。その時S氏と知り合いになる。ガロウホテルはサマセットモームも滞在し、小説を書いたというイギリス統治時代に建てられた由緒ある別荘風ホテル。ガロウには1870年以降にイギリス軍が侵攻。1,000mを超える高原で、絶好の避暑地として、開発される。軍の病院なども建てられる。現在もスイスの別荘を思わせる建物があるのはイギリス時代のものである。

 

ガロウホテルの支配人の傍ら、自宅に日本語センターを設立し、ミャンマー人に日本語を教え始める。生徒はガロウの他、遠くはタウンジーの大学生がバスで2時間掛けて習いに来るというから凄い。ホテルの支配人を退いて後は日本語の指導に専念している。話が尽きることが無く、とうとうご自宅にお邪魔してしまった。ご自宅は一軒家。暗くて広さが分からないが庭もある。玄関を入ると非常に広い居間がある。大きな祭壇が見える。テレビの前には奥さんと親戚の子供が台湾系ドラマを熱心に見ていた。部屋の隅にはゴルフバックがある。ガロウにはイギリス人が残したゴルフ場があり、以前はウラミ氏も良くプレーした。現在は息子さんが使っているそうだ。

 

ウラミ氏から衝撃的な手紙を見せられた。それは第2次大戦中に日本赤十字より派遣された元看護婦さんからのものだった。字体はしっかりしており、漢字は少なく振り仮名も振ってある。実はウラミ氏は漢字の勉強をする機会が無かったとのことで、彼女の配慮が強く感じられた。というよりどうしてもこれを読んで欲しいと言う願いが込められていた。手紙には彼女ら静岡班がガロウに滞在し、傷病兵の看護に当たったこと、戦況が悪くなり、最後はガロウを脱出、60日間山中を彷徨い、チェンマイに辿り着いたことが切々と書き込まれていた(この道は『白骨街道』と呼ばれ、日本兵の死体が累々と道端に溢れ、白骨化したと聞く)。私は歴史が好きで、結構知っているつもりでいたが、日本の看護婦さんがミャンマーに滞在し、死ぬ思いで逃げたことなど露ほども知らなかった。

 

香港に戻りどうしてもこのことは知って置きたいと思い、福田哲子さんの書いた『ビルマの風鐸』と言う本を読んだ。これが又衝撃的であった。赤十字の看護婦はその学校を出た後20年間は子供がいようが、病人を抱えていようが命令1つで戦地に赴かなければならない規則があったという。信じられないことである。まるで赤紙一枚の男子と同じ。勿論表面上は国際条約で赤十字の看護婦は安全が保証されていたが、いざ戦場に出れば実際は日本軍の配下も同じである。現実に本の中で和歌山班の看護婦が死んで行く場面がある。兵隊と同じ、いやそこに出てくる中尾婦長などは『天皇陛下万歳』と言って死んでいったのだ。当時は軍人でも『天皇陛下万歳』と言って死ねる人は少なかったと言うのに。又生き残ったが、現地人の妻となったことを恥じ、その後消息を絶った女性すらいた。元兵士で戦後日本に戻らず現地の山奥でひっそり暮らす日本人の話は聞いたことがあるが、まさか女性まで。『生きて虜囚の辱めを受けず』と言うたった一言の為に。あまりにも重過ぎる。

 

ウラミ氏に手紙を出した方は静岡班であり、全員無事に帰国したとなっているが、その思いはいかばかりか?彼女は何度もガロウを訪れ、ウラミ氏を知り、孫の写真まで送ってきている。但し最近は80歳を超え、体が弱ってミャンマーに来られないと嘆いている。これが日本とミャンマーの本当の歴史だ。

 

ウラミ氏は自ら大戦中のミャンマーの歴史を纏めて本にしていた。その中にはアウンサウン将軍(スーチーさんの父親)やネ・ウインなどが日本の軍服を着て写真に写っている。彼らはイギリスを憎み、日本の援助で独立を果たそうとした。今読んでいる遠藤周作夫人の遠藤順子著『ビルマ独立に命をかけた男たち』の中でも、彼女の自宅にアウンサウン将軍がお忍びでやってきたと書いている。日本の中にも心からビルマ独立を望んだ人々がいたことが分かる。ところが皮肉にも大戦末期、ビルマ軍は日本軍を見捨ててあのイギリス軍と手を組む。歴史とは、何という・・?

 

ウラミ氏の自宅には多くの日本人が訪れ、ノートに多くのメッセージが書き込まれている。その多くが若者で自宅前の日本語センターの看板を目にして、行き成り入ってきた者たちだという。確かにこの田舎町で日本語の看板を見れば興味を持つことだろう。でもノートが埋まって行くのはやはりウラミ氏の人柄だ。どんな人でも快く受け入れる、今の日本人にはなかなか出来ないことではないだろうか?これぞミャンマーといった思いだ。私もノートに書いた。『ミャンマーの歴史を勉強して出直してきたい』と。それにしても長い一日であった。朝の托鉢に始まり、山の学校、市場、茶農家、そしてウラミ氏との出会い。一生の内でもそう何度も体験できない貴重な日となった。

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