ミャンマー決死行2014(7)ミョーテイ 村の歴史は200年なのか

茶畑と茶摘み 村の歴史

茶工場の脇では子供たちが大縄跳びをしていた。何だか原風景?を感じる。村へ戻ると、道に牛がいた。先ほど見た牛は乳牛、または肉牛だったが、こちらは荷運びの牛。『昔は牛が坂を降りて茶葉を運んだ』と村長が言う。あの坂を牛が・・牛は凄い。馬やラクダの話は中国でよく聞いたが、茶葉が牛によって運ばれる、まだまだ世界は広いな。

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それから一軒の家に入ると、そこは茶工場。と言っても小規模で、家内工業だ。村で作られる緑茶を一番作っている家、ということで訪問となったようだ。古い製茶器具を使い、緑茶を作り、ラペソーにするため、階下に漬けていた。よく見ると下の庭にも茶が山積み。本当に手作業で茶が作られて良い。因みに緑茶として飲む茶葉は、すぐには出荷せず、数か月棚に仕舞っておく。その方が香りが出て、好みに合うというのだが、何だかプーアール茶の原料のようであり、微発酵しているので緑茶と呼ぶのかちょっと疑問。

 

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緑茶を頂いていると、長老が入って来た。皆が敬意を払っているので、単なるこの家の長老というだけではなく、村の長かもしれない。村長は現在の政府の任命のようだが、村には恐らく独特の長制度があるのだろう。長老は我々がお茶を飲んでいるのを黙って眺めていたが、すぐに帰ってしまった。私もちゃんと敬意を払う、挨拶をするべきだったと後悔した。

 

ランチもまた美味しく頂き、同時に先ほどの家からラペソーを干した酸茶と数か月置いた緑茶が届けられる。しかも緑茶には『4月、天日』とか『6月、乾燥機』などの表記がある。これで製造月と製造方法が分かる。ここではお茶を買う、ということは難しい。全て頂くことになってしまう。折角なので、この貴重な茶葉は持ち帰り、色々な人に紹介していこうと思う。それが恩返しだろう。そもそもこれだけ自然なお茶なんだから、興味のある人はいるだろうが。

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ランチ後、村を歩いていると、若いふっくらした女性が、赤ちゃんをおんぶしながら、茶葉を選り分けている姿が目に入った。思わずカメラを向けると、実にいい笑顔で応じてくれた。気持ちが温かくなった。この村の人々、特に女性の柔和さは少数民族特有のものであり、我々には和みとなるが、恐らくは外敵から身を守る1つの手段であるなど、マイノリティーの歴史と関係があるのではないか、と思っている。

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村長がバイクを持ち出した。またバイクに乗るのか、と思ったが拒否権はない。バイクの後ろに乗り、茶畑へ。とにかく山の急な坂道は怖い。いつになっても慣れない。特にスピードがゆっくりだと、ジェットコースターを思い出して心が縮む。10分ぐらいで茶畑に着きホッとした。ここは村長個人の畑らしい。

 

ここも本当に斜面の、茶樹がまばらに植えられた茶畑だった。茶摘みの男性が2人いたが、村以外の人を雇っていると言っていた。何故だろうか。村長は村の歴史を話す。『祖先は200年前にチベットに近い雲南省の山間から移動してきた。その時すでに茶作りはしていた』という。移動理由は不明だが、この地に納まったのは『土壌と気候』だと。祖先は神から茶樹を貰い受け、茶作りを始めたとの伝説があり、村でも祭っている。

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日差しが強くなり、結構暑い。朝晩の霧、日中の暑さ、この辺りが茶栽培には欠かせないのだろう。付近の家に入ると、そこにも製茶道具があった。基本的には個々の家々で昔から茶葉を摘み、そして製茶を行っている。茶葉の量も決して多く採れる訳でもなく、自分たちで作れるだけを作る。そんな環境は悪くはない。庭には野菜などを植え、茶はコメなどと引き換えてきたのだろう。

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学校と樹齢200年の茶樹

帰るのかと思い、バイクに乗ると、途中で停まる。結構大きな建物が見える。学校だった。『高校』とTさんは言ったが、この付近の子供のための小学校、中学校と周辺集落から来る生徒も吸収できる高校が併設されていた。その高校部分の校舎は日本政府の草の根支援で作られたという。Tさんはこれに関わったため、この村と出会った。

 

日本が作った校舎は結構立派だが、それほど大きい物ではない。ということは高校まで進学してくる生徒はそれほど多くはない。それでも昔は小学校にも行けない子供が多かったようだが、最近は小学校には殆ど行っているし、中にはマンダレーやタウンジーの大学に進学する者も出てきている。教育環境は少しずつ改善されている。大学を出た者が村に帰ってくれば大きな変化がありそうだが、残念ながら戻ってくる者はいないようだ。

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尚なぜこの村に学校を作ったのか、どんな繋がりがあったのかと聞いたところ、『これは公式ルートなので、ミャンマー政府が指定した』という。これは少数民族を懐柔したい政府の意向に沿い、日本が援助したというスタイル。そこにたまたま派遣されたTさんがこの村を気に入ってしまい、将来はここに住みたい、と思うほどになっていた。現在は携帯もネットも繋がらないが、そんな自然で静かな環境に身を置きたい気持ちは分かる。10年以上住むヤンゴンは急速な変貌を遂げ、昔の古き良き街が失われつつある。そんな変革の波はさすがにこの村までは来ないだろうとの思いもあるようだ。

 

今日は日曜日で校庭には誰もいなかった。敷地はかなり広く、数百人の子供たちがここで学ぶという。校長先生が敷地内に住んでいるというので挨拶に行く。女性でベテラン、最近転勤でこの学校に来たばかりだとか。突然の訪問にもかかわらず、色々と話してくれようとしたが、村人が遮り、外へ出た。『今度の校長はおしゃべりで、話し出すと止まらないから』という理由だったが、そうなのだろうか。

 

敷地内には茶樹が見えた。村長が『祖先がこの村に来た頃植えたと伝えられる茶樹、樹齢200年というところか』と言ったが、行ってみるとかなり大きい。私が以前見た100年の茶樹などはヒョロヒョロした感じだったから、これだけ立派で200年とは考えにくい。山間の生育の問題だろうか?でも茶葉は元気だ。いや、この村の歴史は紙にも残されておらず、言い伝えだけで語られているようだ。実は謎が多いのでは、と感じ興味を持つが、調べるすべはない。

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