バタバタ茶を訪ねて2013(1)真田神社と善光寺

【バタバタ茶を訪ねて】 2013年6月18日-6月25日

 

4月に広西壮族自治区の梧州に行った。そこには六堡茶という黒茶類の珍しいお茶があった。そのお茶について書かれた中国の本を買ったところ、その中に『同類のお茶が日本の富山県にもある』と書かれているのが目をひいた。何故あるんだ??

 

それでも富山県のどこにあるのかもよくわからないし、行く機会もないだろうと思っていたら、ちょうど長野県に行く用事が出来た。そして富山県のお茶、バタバタ茶についても京都の問屋さんが『取引があるから紹介する』と言ってくれた。だんだん条件が整ってきたので、訪ねてみることにした。

 

6月18日

1.   上田

今回は長野県上田市にお邪魔した。新幹線で行こうと思うと、大宮へ行くことに。ところが何とか大宮まで行くと、何と『上田行の指定券は売り切れ』と言われる。長野新幹線、よく見ると上田で停まらない便も多い。ちゃんと調べてくればよかった。日本では事前の調べが大切だ。

 

何とか自由席で座席を確保した。ネットでもやろうと思ったが、無料のWIFIなどはない。おまけに電源すらなかった。別の機会に新幹線で乗り込んできた台湾人が皆で電源を探していたのを思い出す。インバウンドにはWIFIと電源は必須だろう。そういえばその辺の電源に差し込んで『盗電』と言われるのは日本ぐらいではないかと思う。

 

昼過ぎに上田に到着。指定されたホテルはチェックイン時間前だったが、部屋を用意してくれた。これは大変ありがたかった。外は雨。それでも先ず行かなければならないところがある。雨をついて外へ出た。

 

真田神社

行くべきところ、そこは上田城。そして真田神社。真田昌幸、幸村(信繁)ゆかりの方から、『上田に行くなら一度行ったら』と言われていた。そうなれば行ってお参りするべし。地図を貰って歩き出す。

上田城までは意外と距離があった。しかも登り。ようやく二の丸跡へ。けやき遊歩道がある。上田城と言えば、徳川が2度にわたり、真田に苦杯を舐めさせられた場所として有名。徳川の時代に全て壊されてしまい、今は勿論その全容はないが面影は再現されている。何となくワクワクする。

城内はきれいに整備され、公園になっている。その一角に真田神社があった。その前にはなぜか若い女性が2人、不思議な格好をしていた。コスプレか?聞けば『歴史好き女子(歴女)』が増えているのだとか。真田神社も昔は訪れる人が少なかったが、最近の歴史ブームで参拝者が急増。テレビでも歴史物が多くなっており、特に若い女性が増えているらしい。面白い現象だ。

神社はこじんまりしている。真田家の家紋、六文銭が目立つ。神社自体は本当に小さい。そして歴史が感じられるが、正直それほど話題になるようなものではないと思う。そんなひっそりとした神社が好きだ。西の櫓から上田の街が見える。この街はお城が中心なのだな、とよくわかる。城内には胸像や碑がやけに多い。顕彰するのが好きなのだろうか。地元を大切にしているのだろうか。

街に戻ると真田十勇士のキャラクターがそこかしこにある。真田十勇士は確か大正時代に作られたヒーローだったと記憶している。すると上田とは関係がないようだが、今はゆるキャラブーム。何かキャラクターを、ということで作られたのかもしれない。因みに昼の街は雨のせいか、人通りも殆ど無く、ひっそりとしていた。

その後地元企業関連の会に出席すると、元気な企業経営者の方々が沢山いた。海外進出の意欲も高く、皆さん熱心に交流されていた。真田幸村を主人公にした大河ドラマの制作をNHKに働きかけている、との話まであった。街はただ歩いて見ているだけでは分からない。その夜は馬刺しとそばを頂き、大満足。夜の方が人通りがある場所もあった。上田も奥が深い。

6月19日

2.   長野

 

 

翌朝、長野に向かった。元々は白馬で1泊を予定していたがキャンセルになり、それならば、と長野に1泊。昼頃電車で長野駅へ。駅前の実に古いビジネスホテルに飛び込む。ここでもチェックインは3時からと言われたが、大雨でもあり、フロントのおじさんは『1部屋空いているから使って』と言ってくれた。この辺がチェーン店との違い。その場に応じて対応できる。それにしても階段が複雑で、部屋も狭い。おまけにタバコ臭い。何もよいことはないのだが、料金は安い。駅前にあり、その昔は活躍したホテルなのだろう。

 

腹が減ったので昼ご飯を探す。善光寺方面に歩いていくと、アーケード街にパン屋さんがあった。パンでもよいかと思ったが、何とそこに『カツカレー500円』の表示が。思わず入ってみる。簡単な飲食コーナーがある。カツカレーに味噌汁とサラダも付いていた。これはパン屋さんの具材を活用しており、面白い。コーヒーまで飲めた。何でこれで500円なのだろうか。サービス?それとも地方はこんなもの??

 

善光寺

長野の善光寺には一度は行ってみたいと思っていたが、なかなか機会がなかった。立川志の輔の落語に『お戒壇めぐり』というのがあり、どうしても体験してみたいと思っていた。ランチ後そのまま歩いて行く。雨で人通りは多くないが、その後雨上がる。

 

門前町を歩いて行く。緩やかな登り。善光寺には宗派がない。誰でもがお参りする。寺の前、両側には宿坊もあるようだ。勿論土産物屋は多い。山門を潜ると、背後に山を頂いた本堂がそびえていた。

 

本堂に入ると500円を払い、お戒壇めぐりへ。地下へ入ると本当に真っ暗で驚く。暗いと思ってはいたが、全く灯りがないとは思いもよらず、閉所恐怖症の私はちょっとパニックに。案内も何もないので、壁つたいに歩を進める。あまりにゆっくり歩いたので後ろの人に体を障られ、抜かれる。普通こんなことはないのだが、今はどうしようもない。観念した。一時は出られないのではと思うほど、道も真っ直ぐではなく、恐ろしい。

 

それでも暗闇を歩いていると色々と考えることがある。この暗さは一体何なんだ、なぜここを歩くのか、など。完全に暗闇ショックに襲われた。全く違う感覚(生まれ変わる?)も生じる。僅かな時間だったはずだが、すごく長く感じられた。外へ出ると光がまぶしい。うーん、と呆然としていると、係のおじさんが『生まれ変わった自分の姿を鏡で見て』と促す。これは正直余計なお世話だと言わざるを得ない。生まれ変わるのは姿ではなく、心ではないか。

 

それから展示館を見る。ダライラマの来訪記念に作られた曼荼羅。堂内に吊り下げて拝む掛け仏、など、見るべきものが沢山あった。ここも日本の原点の一つ、と感じられる。その後善光寺の周囲を歩く。六地蔵、絵馬、千人塚、色々とある。修学旅行生はお戒壇めぐりをしたのだろうか。みんな楽しそうだ。

 

そして街歩き。川が流れていた。水量が非常に多い。最近の集中豪雨の影響だろうか。気象が異常なのが分かる。雨は上がっているが、雲の動きが激しい。

 

6月20日

お朝事(数珠頂戴)

翌朝は5時に起き、再度善光寺へ向かう。お朝事に参加する。この行事は長野に泊まった人だけが参加できる(電車だと間に合わない)と聞き、わざわざ1泊したのだ。朝から参拝する地元の人が多い。健康のために歩いているという老人もいた。おばさんに『こっちだよ』と言われ、お寺に上がる。皆思い思いにストレッチなどをしている。毎日顔を合わせ、何となく知り合いになっている人々。この緩い連帯、なかなか良い。

 

少しずつ観光客も集まり始める。皆どうしてよいか分からない。お坊さんが行き来を始める。何かが始まる気配はある。すると誰かが本堂に沿って並び始める。向こうの山門の方から人が来る気配がある。いつの間にか、人が一列になっている。そこへ後ろに傘持ちを従えた偉いお坊さんがスタスタと歩いてくる。皆膝をつき、頭を差し出すと、そこへ数珠がポーンと触る。相当に早い動きだ。確かに数十人の頭を敲いていくのだから、のんびりはしていられない。

 

この儀式、お坊さんが出仕する朝の儀式の前後に行われる有難い行いで、明治末期までは本堂で一夜を明かした信者が受けるものだったという。今でも365日、一日も欠かさず行われている。昨日のお戒壇めぐりといい、特に何かをした、という感じはないが、ちょっと何かを考えるきっけにはなる。善光寺は不思議なところだ。

 

松代 象山地下壕

今日は夕方バタバタ茶のある富山県朝日町に移動する予定だが、それまで時間がある。さて、どこへ行こうかと考えたが、気になっていた松代へ行ってみる。長野駅で聞くと、バスで30分と言われる。あれ、電車はないのかな。ローカルバスに乗り込む。すぐに田舎のきれいな国道を走る。日本は本当に田舎の道がきれいだ。途中川中島というバス停があり、川中島の合戦の公園があった。降りてみたかったが、それだと間に合わないため、断念。聞けば、合戦の場所は特定できていないが、古戦場と思われる場所は少し離れているようだった。

 

松代に到着。何とレトロな駅舎の前でバスを降りる。なんだ、電車もあったのか、と思ったが、既に廃線になっていた。残念。そのまま街を歩き出す。ここ松代は真田家が江戸時代に入封された場所であり、宝物館などがあった。街の一角は映画のロケセットのような雰囲気。

 

しかし私のお目当てはここにはなかった。象山地下壕、街の外れまで歩いて行くと、丘の端、小川沿いにあった。この地下壕は第2次世界大戦末期、天皇と大本営、政府機関をここに移し、本土決戦を行うために掘られた壮大な地下壕だ。浅田次郎の小説でも取り上げられており、一度見てみたいと思っていた。

 

入口でヘルメットを借り、中へ。かなりしっかりした枠組みで地下道が支えられている。灯りがあるのでどんどん中へ進む。進んでも進んでも、まだ道がある。これは本当に大きな地下だ。途中、説明書きがいくつかあるがよく読めないものもある。この地下壕、昭和19年に掘り始め、75%が完成していたとの話もある。各場所の配置も決まっていたのだろう。

 

豪内には見学者がいたが、殆どが修学旅行か社会科見学の高校生だった。おじいさん、おばあさんのガイドさんが付き、一生懸命に説明している。『本当にここに大本営が移され、本土決戦があったら・・』『多くの朝鮮人労働者が動員され、命を落とし・・・』この豪の中でそのような話を聞けば、色々と考えることもあるだろう。だが高校生には実感はないのではないか。かなりの非日常空間なのだから。

 

この地下壕は何のために開放されているのだろうか。反戦?『このような悲惨な歴史を忘れてはならない』と言われても、実際に使われなかった施設を見て、実感が湧くだろうか。歴史的なミステリーならワクワクするがどうだろうか。

 

帰りに佐久間象山を祭る象山神社へ行く。幕末を生きた象山はここの出身。象山はここで29年間、藩の青年たちに学問を教えていたという。だが京都で暗殺されると、佐久間家はとりつぶし、家屋敷も壊された今も残っているのは井戸だけ、というのが何とも悲しい。

 

各駅停車で泊まで

バスで長野駅へ戻る。今日は試験の日なのだろうか、午前中なのに学生が大勢乗っている。長野駅で直江津行の電車に乗ろうとしたが、何とスイカが使えなかった。本日の目的地、泊まで切符を買おうとしたが、料金も分からない。するとちゃんと駅員が一人、自販機の前に立っており、『どこまで行くのか』と聞き、料金を調べ、切符を買ってあげている。これは助かる、とは思うものの、釈然としない。自販機の前で人が処理?何かが変。

日本人でもよくわからない電車の料金。外国人が来たらさぞや困るだろうな。しかも日本語ができなかったりしたら、ひと騒動だ。スイカが使えれば取り敢えず乗り込めるのだが、『当分使えるという話はないし、ここの駅で使えても富山の田舎の駅で出られないでしょう』と言われると、日本は先進国なのか、と思ってしまう。

そしてもっと驚いたのは、直江津までの電車が妙高3号という特急仕様の車両。ところが各停なのだ。各停だけど、指定席は有る。これは凄い。日本のローカル線、なめたらいけません。

そして1時間半、妙高3号は見事にすべての駅に停まった。途中スイッチバックするところなどもあり、鉄道マニアがカメラを構えていた。上杉謙信の居城だった春日山城も通過した。元々特急だった彼?が今では各停。でも何だか胸を張って走っているように見えたのは私だけだろうか。

直江津からは急行なども出ていたが、妙高3号で気を良くして敢えて各停に乗る。直江津は 佐渡へ渡るフェリーが出ている。佐渡へも一度は行ってみたいが今日はお預けだ。厚い雲が覆う直江津、日本海側は太平洋側とは違うんだぞ、と言われているように感じる。

直江津を出た富山行各停はゆっくり走る。途中トンネルに入り、電車が停まる。あれ、故障か、大変だ、と思っていると、何とそこは駅だった。筒石という名。日本では珍しいトンネル駅だそうだ。駅の入り口はかなり上の方にあり、上り下りは大変だとか。こんな駅に出会うのも各停ならでは。

青海(おうう)、能生(のう)といった読めない駅名もあった。恐らくは由緒正しい、または何かの当て字なのだろうが、結構風情を感じる。風情と言えば、親不知、市振など、松尾芭蕉の奥の細道やその他歌人が歌を詠んだ場所として知られている。電車も親不知付近ではかなり海に接近。海の上に道路が掛かっている。

市振は越中と越後の国境。ここから越後へ入るという意味で『一から振り出し』。芭蕉の 「一つ家に 遊女も寝たり 萩と月」はとてもいい句だと思っている。一度下りてみたいが、今回はやめておく。ようやく泊の駅に着いたのは1時間後。この旅もまた面白かった。気が付くと1車両に1-2人しか乗っていない。泊の駅で降りたのは私だけだった。さて、どうなることやら。

 

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