懐かしのミャンマーを行く2012(2)新しいヤンゴンを見る

(5)スートラベル

朝食が終わるとTTMが迎えに来た。歩いて数分で彼らの家に着く。以前のオフィスとはそう離れていないらしいが、ここが何処か結局わからない。全てはTTM主導で進む。今度の家(オフィス)も一軒家。車が停められる庭もあり、家の中も広い。

SSが眠そうにPCに向かっている。最初に会った時は確か19歳、では今は「25歳」といきなり答える。何だか計算が合わないが、永遠の25歳ということにしよう。このオフィスには何とWIFIが設置されていた。勿論信号が弱い時は繋がらないが、私のPCでやってみても繋がった。今やTTMとSSの仕事、旅行業、ガイド業はネットなしでは始まらない。時代は変わった。

携帯電話も頻繁に使う。以前はオフィスの電話兼Faxで何でもやっていたのに、隔世の感がある。ヤンゴンの人はみんな携帯を持っていると錯覚するほど、普及しているように見える。

私が彼らと連絡を取らなかった間、随分と色々なことがあった。リーマンショック、国内暴動、スーチーさんの復帰。国内暴動で日本人が打たれて亡くなった後、日本人だけが企業も個人も誰も来なくなった。日本語で商売しているミャンマー人にとっては致命的な打撃だっただろう。かなり苦労したようだが、その辺は敢えて語らない。

(5)ヤンゴン現地事情

ホテルへ戻り、着替えてから出掛ける。これまでは全てTTMかSSが付いてきて、何でもしてくれたが、これからは一人で行動しないといけない、と思い、敢えてアテンドを断る。だがヤンゴンの交通手段はバスかタクシー。バスに乗れるほどの知識はなく、先ずはタクシーに乗ってみる。初めての体験。ドキドキ。

ホテルの前のタクシーに声を掛け、「さくらタワー」と言うと「2000チャット」といわれて乗り込む。実に呆気ない。タクシーの旧式のトヨタ。きれいとは言えないが、悪くはない。ホテルからさくらタワーまで30分近く掛かった。結構遠いのだな、と初めて実感。そしてさくらタワーの周囲の車の多さにこれまた実感。ヤンゴンは実に車が増えた。


   

旅行会社の日本人Oさんを訪ねた。15年前からヤンゴンに住み、旅行業をやっているが、今年に入ってからの異常なまでの出張者の多さ、ホテルの異常な値上がり、これまでには考えられない。向かいにあるトレーダーズホテル、以前は1泊50ドルだったが、今では250ドルとか。流石に泊まる人が減ったので空いているらしいが、ホテル側は強気だ。

これまでのミャンマー旅行と言えば、戦争中にこの地で亡くなった日本兵を偲ぶ家族の慰問だとか、戦争でミャンマーに世話になった人々が恩返しに訪れるなどが主流だったが、最近はその人々が高齢化し、観光客は減っていた。今年のこの騒動で、観光客は更に激減した。ヤンゴンのホテルは不相応に高く、国内線の料金も国際線並みに高い。他のアジア諸国へのパッケージ旅行と比べて、全く見劣りするらしい。

ランチには近くのカフェでミャンマー人と結婚したIさんも参加してくれた。Iさんのご主人一家はミャンマーでは上流階級に属するようで、色々と面白い話が出て来た。中でも親族にスーチーさんの熱狂的支持者の女の子がおり、皆で止めても辞めないなど、今のミャンマーの現実そのものだ。スーチーさん、以前は人気が無かったが、昨今の西側との融和はスーチーさんが作り出し、国内改革もスーチーさんがやっていると信じる若者が出て来ている。これは初めて聞く衝撃的な事実だ。この盲目的な支援者が次の火種になりかねない、そういうことだろう。

その他、最近はやはり寿司を一家で食べに行くとか、カフェが流行っているとか、本当に現地情報を得ることが出来た。勿論現地に住む人々にとってミャンマーが良くなることを願ってはいるが、世の中そう簡単ではないことぐらい、十分承知といった雰囲気があり、だからこそ、日本の訳の分からないミャンマーブームなるものが一過性で終わることを危惧している。

(6)買い物

Oさん達と別れて、トレーダーズホテルの裏を歩く。新聞スタンドを何気なく見ると、ズラッと並んだ新聞の一面はどれもスーチーさんだった。7年前、「スーチー」という名前を囁くことさえ、公には憚れ、「あのおばさん」などと呼んでいたあの人が、今や堂々と新聞の一面だ。またちょうど彼女はヨーロッパ外遊中。24年ぶりにイギリスを訪れた所だったので、話題性は高かった。それにしてもミャンマーのマスコミは如何に変わったのか。以前は20年以上前の中国と同じく、リアルタイムの報道などなく、偉い人がどこかの国の大統領と会ったなどと言う内容を延々とやっていた。

先ずはヤンゴンの地図を手に入れることにした。だが本屋さんでもミャンマー語しかないと言う。もう1軒訪ねると、何とか英語版が見付かった。まだまだこの国は個人観光客の受け入れ態勢が無いような気がした。

そしてどうしてもミャンマー滞在中必要な物、それはサンダルだ。基本的にミャンマーでは靴を履かずにサンダルを履く。お寺へ行ったら必ず靴を脱ぐので、サンダルが便利だ。飛行機に乗る時もサンダル履きで乗る人がいる。私も以前やってみたが、案外気持ちが良い。そこそこいいサンダルを履かないと足ずれが起きて痛いので、探すがなかなか良いのが無い。ようやく3000チャットでいいのがあった。もう少し値切ればよかったと後悔したが、そのサンダルはかなり長持ちで今でも履いている。

ホテル前に戻ると雨が急に降りだす。どうしようかと思っているとタクシーが前を通りかかったので、乗り込む。この運転手は英語が出来た。それでも住所だけでは我がホテルは分からない。SSが書いてくれた地図を渡すとOKと言って走り出す。料金は2000チャットで前と同じ。

このタクシーは中国製。奇瑞のQQという小型車だ。何でも6000台ぐらい中国から入って来たらしい。運転手は日本車を買いたいが高い。先ずは中国製で儲けから考えるとのこと。ここヤンゴンではトヨタの中古車が圧倒的と思えるシェアを持っているが、最近は新興国の車が入り込んでいる。現代は既に相当数ある。タタも狙っている。

(7)ミャンマーの教育は

ホテルへ戻り、またスートラベルへ。TTMが是非会わせたい人がいると言うので出掛ける。Tさん、建設関係のお仕事をしており、既に定年退職。現在はヤンゴンに住み、ヤンゴン情報を発信すると同時に、学生支援のボランティアなどをしている。

昨今の日本でのミャンマー報道にはほとほと呆れていると言う。スーチーばかりを取り上げ、工業団地ばかりを取り上げる。何か違うだろうと、訪ねてくる記者にもいうのだが、一向に改まらない。ミャンマーを過大評価したり、改革はスーチーがやっていると言う間違った報道を平気でするマスコミに嫌気。毎日何種類ものミャンマー地元紙を読み、また実際の現地の人々と話し、その動静の細かい所を探り、真のミャンマーの動きを伝えている。

大学生の就学支援をしているが、最近大学を辞めてしまう子が増えている。折角奨学金を出したのにと、調べてみるとミャンマーの教育の荒廃が目に余る。先生が学校で物を教えない。勉強したい人は先生の私塾へ行く。この構造は先生の給与が少ない他の東南アジアでも聞いていたが、まさか大学まで。単位が取れず卒業できないため、専門学校などへ流れるらしい。

「豊富で安価、優秀な労働力」を謳い文句にするミャンマーの現実、本当に勉強したい人でお金があれば海外へ出ると言う。一般人の教育レベル低下が懸念される。同時に就学支援などの仕方も変えていかなければならない。この国はまだまだ問題山積だ。

(8)日本企業のミャンマー対応

夜は大学の後輩を紹介されていたので、会いに行く。インヤーレイクの湖畔に立つ瀟洒なレストラン、「オペラ」。ここは元々日本の大手商社の支店長宅だったとも聞く。こんな所へ来てしまってよいのかという雰囲気。中へ入るとキャンデルの火が鮮やかで、シックな感じ。ただ予約は見付からず、一番奥で待つ。約束の時間を過ぎても来ないのでおかしいと思っていると、あちらは別の場所で待っていた。後輩一人だと思っていたが、その上司も一緒だった。

その上司は以前上海勤務の経験があった。昨今のミャンマーブームで急に増員になり、ミャンマーへやって来て1か月。この組織では駐在員は従来後輩Mさん一人だったが、何でも今年3人を増員したとか。そんな急に増員するほど仕事はあるのか。

「毎日数組の日本からの視察を受けている」、今年に入ってからずっとそのような状態だそうだ。しかも日本から来る人々は殆どがミャンマー訪問初めてで、当然日本のマスコミ報道の情報しか持っていない。「聞いてきた話と違う」、ミャンマーの実情を話すと多くの視察者が同じことを言う。あなたは一体何を聞いて、何のために来たのか、と聞きたいぐらいだと言う。

日本企業はおかしいのでは、とある欧米企業社員に言われたことがある。その国に進出する場合、普通はその地に精通している人を雇い、現地事情を十分把握し、事業の可否を見極めるのだが、日本では「その国に始めて来るような人に調査をやらせる」「有り得ない」という。その通りだろう。あれだけ中国リスクを語る人々がいて、素人がミャンマー調査をして、事業企画を練る、あり得ない話だ。

オペラ、でスパゲッティを食べ、ピザを頬張りながら、そんな話をした。日本の不思議さ、は今や世界の常識だろう。日本が出てきたら、マーケットはピークアウト、だから日本のエアラインが直行便を飛ばした頃がミャンマーブームのピークアウトではないだろうか。






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