台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(4)凍頂山と特等茶

4月22日(金)
11. 凍頂山を登る

翌朝は早く目覚めた。昨晩の蛍の興奮であろうか、または教会に戻ってから聞いたU君の台湾茶への道の話のせいであろうか。本日は当初U君が茶作りの入る可能性があって、同行するつもりだったが、延期となりすることはない。

先ずは朝飯。小雨の中、バイクに跨り、U君行きつけの食堂へ。ここでチキンバーガーと豆乳を取る。このチキンバーガーがまたなかなかイケていた。店の夫婦はU君に「帰ってきたのか」と喜ばしそうに声を掛けていた。U君は地元に受け入れられている。

そして雨も上がったので、凍頂山を登ってみることにした。バイクで行けばすぐだと言われたが、折角なので歩いて登る。標高は800mないとのことで、高を括っていたが、以外ときつい上りもある。陽も高くなり、暑さがじわじわやって来た。周囲はビンロウ樹が高く聳えており、茶畑は見えない。歩くこと40分、ようやく頂上付近に出る。村があり、茶畑が見える。それにしても広くはない。凍頂烏龍茶は大いに出回っているのに、一体茶葉はどこから来るのだろうか。Uさんがバイクで迎えに来た。

老樹はあるのだろうかとの私に質問にUさんはいとも簡単に「その辺で聞いてみましょう」という。すぐにバイクを走らせ、ある農家のビニールハウスを覗く。おじさんが作業中、そこへ声を掛け、何と案内を乞う。おじさんもすぐに対応してくれ、歩いて茶畑の中へ。「ここだ」と言われたその場所には、読めなくなった看板があり、切り株のある老樹が根を張っていた。しかし言われなければこれが100年前の木とは思わない。

そして向こうを眺めると、ちょうど茶摘みが行われていた。興味深くそちらに向かう。おじさんがお婆さんに声を掛ける。何と80歳で茶を摘んでいる。しかもその手のスピードの速いこと。少し習ったぐらいではとても出来ない。と思っているとおじさんもやり始めた。これまた手馴れている。「この辺の人間は子供の頃、好きでも嫌いでも茶摘みをやったもんだ」と懐かしそうにしている。

実はこのおじさん、農家が嫌で都市の銀行に勤めていたらしい。ところが数年前、都市生活に疲れて、地元に戻り農家に復帰した。そう思うと、先程の茶摘みはとても感慨深いものがある。人間は収入を求めて都会へ出るが、いつか自然に帰りたくなるもの。是非写真に納めたいとカメラを向けるとなぜか電池切れとなり、貴重な写真を撮りそこなった。

12. 特等茶の店
凍頂山からの帰りは、Uさんのバイクで楽々帰還。そのまま観光案内所に向かう。鹿谷での活動はあまりないので、次を考え始める。どこへ行くべきか、どうやって行くのか。観光案内所で時刻表付き地図を貰えば考えも涌くと思ったが、既に案内本はなくなっていた。

そこへ向こうからUさんに声が掛かる。茶を飲んで行けと言う。聞けば、観光関係の会社の人らしい。Uさんはどこにでも顔が効く。春茶はまだ出来ていないようで、冬茶が登場。最近の観光業は中国大陸頼み。ここ鹿谷にもやって来るが、金持ちのお茶好きが『来年の凍頂烏龍茶を全部予約する』といった話が横行し、大陸恐怖症になっている者もいると言う。札束で横っ面を張り倒すようなやり方は好まれるものではない。

午後は茶業文化館へ。ここには鹿谷のお茶の歴史などが展示されていて面白い。入るとまず目に飛び込むのが昨日お目に掛かった林光演さんの写真と説明書き。そうか、こんなに偉い人だったのかと再認識。

そして雨が降り、することもなく、Uさん行きつけの茶荘へ。玉春茶坊と言うそのお店、凍頂茶王と書かれた入り口には、特等賞の看板がずらりと並ぶ。品評会で高い評価を得ているようだ。中に入るとお茶の香りがぷーんとする。

林さん親子が経営している。息子は品評会用の茶作りの真っ最中。茶葉3gを正確に測り、浸す時間もきちんと計る。茶碗に入れて、レンゲですくって飲む。色、香り、味と試していく。とても忙しい時に来てしまったようだ。それでも一緒になって、品茶を行い、味を確かめたりした。それも真剣そのもの。商売上では品評会で評価が得られるかどうかが、鍵だと言う。顧客も入賞したお茶を求めるのだから、仕方がないのだろう。

お父さんは学校の先生もしていた人格者。息子が後を継ぐと言うので手伝っている。雨が止まない中、2時間もここでお茶を頂く。冬茶を濃く焙煎したお茶はなかなか美味しい。ここでは阿里山、杉林渓など、各地からお茶を集めて、加工する。店にいる間にも春茶の原料が運び込まれる。何だかお茶作りの関わっているようで、気分が出る。

そしてお母さんから夕食を食べていくように言われる。Uさんも家族の一員のように食べていく。非常に溶け込んだ様子が嬉しい。一番忙しい時でもこのようにして貰えるのは日頃の彼の成果であろう。

4月23日(土)
13. 埔里へ行く

翌朝Uさんは7時前に茶作り小屋の整備の仕事で出掛けてしまった。取り敢えず今日は日月潭方面に向かう。それは台北の黄さんが「魚池へ行け」と言っていたからだが、正直その魚池がどの辺なのか分からない。何となく日月潭あたりという情報のみ。

日月潭に行くには一端台中まで戻り、そこから出直すのが良いとのこと。ところがその台中行きのバスが、何と10時半までないのである。仕方なく、ブラブラしながらバス停を確認。ちょうどのその前でビニールを張った小さなお店が出ていたので覗く。割包という食べ物が目に入る。食べてみる。マントウを割いて中に豚の角煮他を入れている。なかなかイケル。

若い女性が一人でやっていたので聞いてみると半年前まで台中で銀行に勤めていたが、結婚により旦那の実家がある鹿谷に越してきたという。ところが旦那は依然台中で仕事をしており、3日に一度しか戻らない。日本なら勿論彼女も台中で銀行勤めを続けただろう。ところが「台湾の田舎はそうはいかない。結婚というものは妻が旦那の実家に入るもの。」と言い、その寂しさからお店を始めたらしい。何とも昔風な話であるが、それが鹿谷にはよく似合う。

バスには数人しか乗っておらず、危うく私の待つ停留所を通り過ぎようとした。それ程人が乗らないと言うこと。バスはあっと言う間に山を下り、1時間で台中の高速鉄道駅に到着。ここで知り合いから紹介された日月潭の紅茶屋さんに電話を入れる。すると「日月潭ではなく、埔里行でよい。しかも終点ではなく、交流場で降りろ。」と言う。分からないので切符販売所で聞くと「確かにある」との答え。運転手も頷いたのでバスに乗る。

40分ほどして、バスは高速道路を下りた。恐らくここが交流場であろうと運転手に行きと「そうだ」と言うので降り、電話で迎えを頼む。ところが待てど暮らせどやってこない。電話があり「どこにいるんだ」と聞かれたが返事のしようがない。懸命に周りの風景を伝えたがピンとこない。最後は近くに家の住居表示を伝え、何とか迎えが来た。

陳さんは非常に元気な人で、若く見える。食事を取っていないと言うと「餃子がウマいから食え」と買ってくれる。そしてなぜか車の助手席で食え、とも言う。箱に10個の蒸し餃子。陳さんが覗き込むようにウマいかと聞く。何と陳さんは「僕は肉を食べないからこれがウマいかどうかは知らない。でもみんながウマいと言うから勧めた。」と実に正直に話す。確かにこの餃子は肉汁も含めて実にウマかった。



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