台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(3)鹿谷 凍頂烏龍茶の歴史

8. 鹿谷へ 一日一往復のバスに乗る

黄さんと別れ、少し早目の昼食へ。台湾に来たら弁当を食べる、これは鉄則である。ゲストハウスの裏にはいくつものの弁当屋があったが、まだ時間が早い。それでも入って来る客を拒みはしない。自助餐という形式でおかずが並んでおり、好きな物を指すとおばさんが取ってくれ、ご飯を盛ってくれる。スープは自由に取る。あー、これは幸せだ。僅か60元、ちょっと油っぽいが何だかうまい。

今日はこれから未知の場所、鹿谷へ。一体どうやっていくのか。Kさんの秘密兵器、鹿谷で就業する日本人、Uさんからは『鹿谷直行のバスを予約しておきます』と言われていた。一日一往復しかないこのバス、昨日連絡を入れたが、『当日また電話して。待ち合わせ場所と時間を決めるから。』との返事。これは面白い。

食事後恐る恐る電話すると『運転手から電話させる』と。あれ、誰が運転しているんだ?そして運転手から『新光三越の前で待ってて』と言われ、待ったがなかなか来ない。すると一台のタクシーがスーッと前に止まり、私の荷物を運ぼうとする。タクシーなの?訳は分からないが、助手席に乗り込む。運転手に鹿谷の話など向けてみるがイマイチ反応が鈍い。まあいいや、これで寝ていれば鹿谷到着だと高を括って、本当に寝入る。いつの間にかタクシーは板橋(台北郊外の地名)の路地裏で女性を乗せ、また道路わきで老夫婦を乗せていた。乗合タクシーだと思っていると、急に起こされ、『乗り換え』を告げられる。

そしてそこには若者が一人、9人乗りのワゴンと共に待っていた。そう、タクシーで人を集め、集合してから出発する形態だったのだ。車にはなぜか10人乗っていたが、気にしない。比較的老人が多い。中には老人一人での帰郷という感じで、若夫婦が運転手に何度も世話を頼んでいるケースもあった。車内は全て台湾語である。

高速で2時間ほど南下、ドライブインでトイレ休憩。その後ちょっとして最初の乗客が降りた。それから30分ほどして、道が登り始め、山の中へ入っていく感じが出て来た。かなり上った段階で人が降り始めた。一人ずつ目的地まで運んでいく。自宅から車の迎えが来ている人もある。近所の人と再会のあいさつを交わす人もいる。何だか懐かしい光景が目に入る。

さて、私は降りる場所は『教会』となっている。どこにあるのかと見ていると運転手の若者が携帯で私の到着を告げている。教会の前で降りるとそこにはUさんが立っていた。何とも便利なシステムである。これは地元の人々の利便のため、若者が始めた事業らしい。こんな起業は皆に喜ばれて小さな成功を収めるはずである。

9. 凍頂烏龍茶の父 登場

Uさんに先導されて教会へ赴く。曇り空ではあるが、空気はよい。教会はこの町の大通りに沿ってひっそりと建てられている。1階は教会で2階から4階は居住スペース。牧師さんの家族が住み、Uさんも住んでいる2階の一室を与えられる。『教会に入る泥棒はいません』ということで、部屋のカギは渡されない。

部屋は入り口から一段上がっており、そこに布団が敷かれている。広さは広い。トイレとシャワーもあり、十分。4階まで行けば、無線でネットも使える。これで1泊300元。有難い値段である。勿論キリスト教徒でもない私は、Uさんの友人ということで特別に泊めてもらっているのである。Uさんが『取り敢えず行きましょう』と言う。どこだか分からないが行こうと言われれば行く。彼は階下でバイクの後ろを指し、乗れと言う。バイクの二人乗り、久しぶりだ。と言っても狭い町のこと、すぐに目的地に着く。そこは通り沿いの一軒の家。

中に入ると、2人がお茶を飲んでいた。客席に座っていたのは、阿里山から来ていた茶師の青年。これから埔里に茶作りに行くと言う。今年は例年より冷え込みが強く、どこも茶の芽の出が遅い。作業は大幅に遅れている。そして品質も?という感じであろうか。茶師というのは、お茶作りの重要なポイントである発酵や焙煎を行う人。台湾では各地で茶畑が造成されたが、この茶師は需要に追い付いていない。もう一人は何と日本に3年滞在していたというL君。日本語で挨拶する。私以外の3人はいわばプロ。皆飲み方からして違う。阿里山の高山茶新茶を飲むと、うーんと首を傾げていた。この家の跡取り息子だという。Uさんとは大の仲良し。

茶師が出発すると言うので外へ出る。そこへ向こうからおじさんが一人歩いてきた。Uさんが『光演さんだ』と言いながら、呼び止め、家の中に導く。誰なのか、この人は。この方は、この町の町長もやり、その前は農協の組合長だったという林光演氏。この方が実は凍頂烏龍茶をスーパーブランドにした仕掛け人であると聞き、驚く。

林さんは突然の質問にも丁寧に応えてくれた。凍頂烏龍茶の歴史は長く、「1855年に林鳳池が科挙の試験に合格し、その記念に福建省より持ち帰った36本の烏龍茶の苗木の内、12本を凍頂山に植えたのは我が家の祖先です」。林さんは林鳳池の親戚の末裔に当たり、凍頂烏龍茶を世に知らしめた農会の組合長であった1976年に茶の品評会を実施、一大ブームを演出した。

そこら辺に居る普通のおじさんに見える飾らない林さん。いきなりの展開に驚くものの、台湾茶の歴史を訪ねる旅に相応しい出だしとなる。

10. 夜市と蛍

夕食はL君の車で隣町竹山へ。鹿谷より大きい町とのことで、今日は週2回の夜市が立つ。行って見ると何とも懐かしい感じの夜市。80年代、台北市内でも見られた屋台が並ぶ伝統的な雰囲気。ステーキの屋台が郷愁をそそる。

先ずはオアジェ(台湾牡蠣オムレツ)を食する。これが普通のものと違って、ソースが掛かっており、中がかなり柔らかい。思わずうまいと唸る。35元、安い。次に鳥の手羽先。フライドチキンとは一味違う美味しさ。鶏肉がウマいからだろうか。そしてスイカジュースを飲みながら、焼きトウモロコシへ。これが何とのり付。恐る恐る食べるとなかなかイケル。もう何年も前からここで海苔味のトウモロコシを売っているとのこと。ふーん。

それから車を回して、渓頭へ向かった。実はL君の一族は地元の名士。昔はこの山一帯の持ち主だったというから凄い。おじいさんの記念碑があるというホテルに向かう。ここは大型施設で、別荘風の建物もあり、避暑地の装い。一度泊まってみたいようなホテルだ。ただ当日は中学生の団体が走り回っており、雰囲気に浸る状況ではなかったが。

松林町と書かれた提灯、おじいさんの日本名は松林さんだった。面白いのはこのホテルの中にパン屋があったり、コンビニは併設されていたりする。近くに商店街がこと、山登りに必要であること、そして小中学生に人気があることから、ここの売り上げは半端ではい額だそうだ。

ホテルを後にして、戻る道すがら、突然脇道に入る。何をするのだろうか。すると車のライト以外灯りがない、真っ暗な林から小さな光がぽつぽつと見えてきた。「ここは蛍の名所だ」と言われ、目を凝らすと無数の蛍が強い光を放ち始めた。少し場所を移動するとどうやらそこは沼地らしく、本当にイルミネーションにように光が蠢く。こんな光景はこれまで見たことがなかった。見ているのは我々僅か3人。何と贅沢な空間だろうか。時刻は夜10時を過ぎていた。

 

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