ダージリンお茶散歩2011(1)マカイバリ ホームステイで停電

【ダージリンお茶散歩】 2011年10月9-17日

1. バグドグラ空港からマカイバリまで
空港は撮影禁止

結局コルカタ空港を出たジェットエアーは何事もなく、4時半にバグドグラ空港に到着した。元々の予定からは3時間遅れたことになる。空港は小さく、タラップを降りるとそのまま歩いてターミナルへ。これは格安航空会社だからではなく、全てがそのようだ。

記念に飛行機とターミナルをカメラに収めていると、三方から「撮るな」と声が掛かる。どこにも撮影禁止の表示が無いので気が付かなかった。特に写真の消去を求められたりはしなかったが、オフィサーらしい男性が近づいてきて「ここは国境に近く、軍事上撮影禁止だ」と穏やかな口調で述べる。それはどこかラグビーの試合で反則を犯した選手にレフリーが諭すような態度。ここはやはり英国領だったところだ。

ターミナルに入った所で私の名前を持った男性が待っていた。インドでは旅行会社には特権があるようだ。これも一つのビジネスであり、イギリスの影響があり、金持ちには荷物を担ぐサーバントがいるのは当然なのかもしれない。私は金持ちには見えない服装と荷物だったが、彼は当然のようにターンテーブルから出て来る私の荷物を持ち、車に誘導した。

途中両替があったので、立ち寄る。米ドル、ユーロをはじめ、主要通貨、特にヨーロッパの通貨が表示されているのに、日本円はなかった。少なくともここに来る日本人が多くないことはこれで分かる。勿論両替は出来たが。

小さな空港の出口を出ると大きな太陽が待っていた。暮れかかる太陽、実に美しい、というか迫力がある。そして駐車場には若者が待っていた。彼は我々と同じ顔をしていた。直ぐに打ち解ける。ドライバー歴10年、英語は運転しながら覚えたと言う。サッカーは韓国代表のサポーターだという所が面白い。

人生は夜の山道を行くような

車は平地を走る。太陽がゆっくりと大きくなりながら、落ちていく。道路の脇には既に紅茶畑が広がる。その内山道に入ると日も暮れて、暗い。運転手は本道ではなく、脇道からマカイバリを目指そうとしたが、狭いその道には瓦礫が散乱しており、上るのを断念した。

先月あった地震はダージリン地方では左程大きなものではなく、運転手も運転中で全く気が付かなかったと言う。顔も似ているし、地震地域であることも似ている。益々親近感が出る。被害が大きかったのはシッキム。一時は道も塞がっていたが、今は問題が無いようだ。

本道の上り口、シリグリと言う街との分岐点で車が渋滞を起こしていた。山道が狭いため、一度に沢山の車が上ることは出来ない。それにしても実に多くの車がこの道を目指している。ダージリンにも通じる道であろうか。それから数十分は運転手の独壇場であった。狭い道を上下で譲り合いながら進む。山道で切り返しも多く、夜道でもあり慣れていないと溝にはまる。かなり怖い思いもする。

それでも開けた窓から新鮮で少し冷たい空気が入ってきており、気持ちはよい。このままスーッと暗闇の茶畑に吸い込まれてもよいと思えるほど、気分はよかった。生きて行くとはこのような夜の山道を行くようなものだ。一寸先は闇。

2.マカイバリ ホームステイ初日は停電

6時半過ぎ、空港を出てから2時間弱。とうとうマカイバリに到着。工場前に車は停まったが、門は閉まっている。周囲は既に真っ暗。運転手が人を探してきた。人が2人上がってきて、「ウエルカム」というのを聞き、取り敢えず何とかなると思えた。

彼らは私の荷物を持って、今来た道を下に降りはじめた。運転手はこれからまた2時間掛けてダージリンの家に帰る。そこで別れた。道には車が溢れており、そこを縫って進む。ある所で脇道を降りる。暗くてよく見えなかったが、すぐに家に着く。木造の小さに家に入り、ここがホームステイ先だと告げる。

家の主人は出掛けており、1時間で戻るらしい。この家にはお婆さんとお嫁さん、子供が二人いた。言葉は通じるのだろうかと思っていると何のことはない、8歳の男の子、ショーナムが英語で話し掛けてくる。英語の学校に行っているらしい。ドルガプージャ祭りで学校は1週間休みだったとか。日本についても「ツナミ」などを知っており、結構驚く。

更に3歳の女の子と間違うほどかわいいリーデンとショーナムは兄弟ではなく、従弟同士だった。リーデンのお母さん(お嫁さん)は家にいたが、お父さんはコルカタ付近で仕事をしているらしい。この家を預かるパサンは弟で、ショーナムのお父さん。この関係だけで見ても、今の日本にはあり得ない家族構成だ。

家は極めて質素。5つの小さな部屋に分かれており、私もその一つに入れてもらった。仏教徒のようで、祭壇にはブッダ像があり、お婆さんが線香を上げていた。しかしその横にはTVがあり、ショーナムは「クレヨンしんちゃんを見ると怒られる」などと言いながら、四六時中カートンネットワークを見ている。その横にはPCもあった。台所兼食堂は別棟、更にトイレは外。典型的な家らしい。

ショーナムとTVを見ていると、お決まりのように停電となる。ラダックでの体験もありそれほど気にはならないが、やはり真っ暗なのは不便である。直ぐにお婆さんがろうそくに火を点ける。慣れている様子から停電が多いことが分かる。この日は1時間以上回復しなかったが、普段は数分から30分程度で復旧する。「電気が足りないのではなく、管理に問題があるのだ」との声を聞いたが、そうなのだろう。

お蔭で台所脇のテーブルでろうそくの明かりで夕食を取った。スープ麺はちょっとスパイスが効いていて、美味しい。麺はちじれ麺。お嫁さんが作ってくれた。彼女は英語を流ちょうに話す。ご主人はレプチュー、彼女はタマン族の出身で、ここから車で3-4時間離れた村から嫁に来たと言う。シリグリの大学にも行ったと言うから才媛である。

食事が終わる頃、私の世話役であるパサンが戻ってきた。彼はショーナムの父親、奥さんはネパール人で今はカ
トマンドゥに帰っており不在。カトマンドゥでシェルパのトレーニングを受け、エベレストのベースキャンプ(5,000m)まで行った男だと言う。今は故郷に戻り、トレッキングガイドなどをする傍ら、村のボランティア活動なども担っている。ホームステイプログラムにも積極的に関与しているようだ。

その夜、何事もなく寝たのだが、夜中にトイレに起きる。ところがこの家のトイレは外にあり、周囲は真っ暗で電気のスイッチの場所すら聞いていない。それでも尿意には勝てず、暗い中家を出る。家からトイレまで途中に段差があり、危うく、転びそうになる。今や日本には漆黒の闇などはないが、ここでは夜目も効かない私には漆黒としか思えない。

ようやくトイレに行き、何とか用を済ませたが、部屋に戻る所で思い切り肩をぶつける。かなり痛い。文明社会に慣れきって、何でもスイッチ一つで事足りると油断した報いが来た。




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