【香港ルート5北角】2004年10月3日 北角は香港島北東部に突き出た岬で開港前はかなり辺鄙な所であった。土地も痩せており農作物も取れない。開港初期は倉庫として使われていた。戦後国民党が内戦に敗れると多くの上海人がこの地区に移民し、『小上海』とも呼ばれていた。 (1) 油街政府宿舎 油街12号。クォリーベイのMTR駅を出て英皇道を渡り、電気道と油街の角に政府宿舎がある。(対面は麗東酒店)とても政府宿舎には見えないお洒落なレンガ造り。20世紀初頭にヨットクラブのクラブハウスとして使われた。その後1946年にクラブハウスが移転、政府はここに官舎と資材庫を建てた。
現在はかなり古くなっており、実際に使われているかは窺い知れないが、もしここが資材倉庫だけに使われているとしたら、かなりの無駄というほど立地は良い。この一角だけ時間が止まって見えるのは私だけであろうか? (2) 北角発電所 1919年建造。当時湾仔に発電所があったが、電力不足となりここに発電所が建設される1941年12月に日本軍上陸で発電所は破壊され、一時供給はストップ。1968年に北角の人口増加により発電所は移転し、閉鎖された。 その後大規模な住宅開発が行われた。現在の城市花園である。城市花園から見て、発電所がかなりの規模のものであったことが想像される。
(3) 月園 その後政府の住宅建設計画に乗り、この一帯に住居が建てられ、横丁は道も月園街と名付けられた。現在この地には古びたビルが立ち並び、入り口に1952年と書かれた所もある。突き当たりにはビルの入り口があり、入ると電気部品等を売る小さな店が数軒。その先には明るい出口があり、英皇道に繋がっていた。
(4) 北角砲台 保塁街。1880年に政府により大砲4門が置かれる。当時既に九龍はイギリスの植民地であったが、新界は未だに清朝の領土であったため、香港島の守備にあたった。しかし20世紀に入ると北角は発展していき、保塁は不要となり大砲も廃棄された。 その後住宅建設が行われ、住宅街となっているが、今日歩いてみるとこの道には茶芸館などもあり、意外に小奇麗な場所であった。20世紀初頭まではこの下の英皇道の先は海であったが、埋め立てが行われていき、今では海は全く望めない。
(5) 北角倉庫区 和富街。地下鉄北角駅で降り、糖水道を海に向かう。この辺りは1920年代に埋め立てられるまで海であった。和富街との交差点、古びた倉庫が見える。North Point Wharf Ltd.とかすれた横文字が壁に見える。 昔はこの一帯に倉庫が立ち並んでいたが、今では住宅街に変貌を遂げており、倉庫は1つしか見えない。70年代に倉庫街は九龍サイドに移転したという。住宅も開発して30年ほど経っているものもあり、かなり古くなっている。
(6) 四十間 春秧街。和富街を歩き、北角道を山側に戻るとトラムとぶつかる。ここはかなり伝統的な香港のにおいがする。春秧街、南洋の砂糖王、郭春秧がこの辺り一帯を買い取り、一列に並んだ建物を建てていた。元々この四十間という名は、さらに山側の琴行街あたりに建てられたのが始まりというが、今でも風情を残しているのは春秧街辺りである。通りの両側には肉や魚、乾物屋などが並ぶが、更に道にはみ出して多くの屋台が軒を連ねている。
上を見上げると、両側のビルはかなり古く、小さな窓から物干し竿が突き出ている。国慶節ということで五星紅旗を靡かせていたりする。昔の香港がそこにある。 (7) 賽西湖貯水塘 私は香港勤務が2回目であるが、1回目の時はここ賽西湖に5年ほど住んでいた。住んでいて一番問題になったのは湿気が異常に多いということ。理由は沼地を埋め立てたから、聞いていた。兎に角除湿機は半日以内に一杯なるなど湿気対策が重要であったことを良く覚えている。 ここは沼地ではなく、貯水池。1884年に英系のスワイヤーが付近の工場に水を供給する為、独自に作ったもので、その美しい風景が中国杭州の西湖を連想させ、賽西湖と名付けられたと言う。 1970年代後半に埋め立てられ、初期の大規模住宅開発が行われた。現在25階建ての住宅が25棟建っており、その敷地内が広いことでは香港島内で他に例を見ない。小さな子供を遊ばせる所が少ない香港では実に貴重なマンションであった。環境が良いことから付近には学校が多く、日本人中学校も少し上にある。現在中学生の長男は昔を懐かしんで時折この辺りを散策しているようだ。
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