【香港ルート6】2004年3月6日 (1) 天后古廟 家の前の英皇道を渡り、少し道を登ると直ぐに天后古廟がある。建築年代は定かではないが、1800年代と思われる。香港には40程の天后廟があると言われているがその1つ。 清朝初期にここに兵営が置かれていたとの話がある。兵士は自らの安全を祈願して廟の横に兵営を建てることを好んだという。天后廟道を登った山は当時『紅香炉山』と呼ばれ軍事上の拠点であった。香炉がある日海から引き上げられ、それが天后から送られたものとして祀られたと考えられている。
入り口には天后古廟公園と書かれているが、猫の額ほどの公園である。元は個人が建立し毎日草取りをしていたと言う。廟は一段高い一枚岩の上に建てられているが、今は丁度改修工事中で中に入ることは出来なかった。廟の前に臨時に祭壇が設置され、人々は相変わらず熱心に祈りを捧げている。
廟は本来海に面して建てられていたはずであるが、ここもご多分に漏れず、埋め立てが進み、現在では海を眺めることは出来ない。 (2)皇仁書院 この学校を調べると何と創立は1818年、場所はマレーシアのマラッカであった。イギリス人モリソンが中国と西洋の文化交流のため、そして何よりキリスト教布教のため、英華書院という名の学校が建てられた。因みにモリソンは中国でのプロテスタント伝道の開拓者で、1807年にマカオに渡り、漢英辞典や漢訳聖書の作成を行った人である。その後1843年に香港に移され、中央書院と改名された。校舎は中環にあったが、運動場は現在の場所にあり、その後校舎は日本軍の香港侵攻中に破壊され、1950年に新校舎が建てられた。 高士威道に面している入り口脇には小さな公園があり、何と英国社が製造した大砲が無造作に置かれている。裏に回るとこの地区としては大きな校庭があり、校舎も何となく古めかしいが気品が感じられる。更にその後ろ側には書院OB会の建物があり、老人が椅子に座って寛いでいたりする。やはり由緒正しい学校のようだ。 (3)蓮花宮
宮の入り口にはおじいさんとおばあさんが陣取り、目を光らせていた?我々が写真を撮っているとおじいさんがじっとこちらを見ていた。前回モンコックで廟内の写真を撮り怒られたことを思い出し、中に入るのを止めた。実際これらの宮は地元の人々の信仰の場であり、部外者がズカズカ入り込むこと自体に問題あると思われる。 宮の前にお線香や花を売る店があった。見てみると風車のような飾り物があり、面白そうであった。次男は干支のお守りを買うと言い出し、長男の分と合わせて購入した。おばさんが利是に使う赤い袋にそれを入れてくれた。何だがご利益が有りそうな気がした。 (4)大杭 そもそも水杭は1884年に水害防止のために作られたもので、由緒あるものだったが現在ではその役目はほぼ終わっており、建物と運動場を繋ぐ仕切りのようにしか見えない。ただそこに木があり花が咲くので、中には好んでここを歩く人が居るようである。 又以前8月の終わりの夜にここを通ったおり、人々が紙か何かを燃やしている場面に遭遇したことがある。その時は日本軍が降伏した日を記念して死者を弔っていると聞かされていたが、あるいは疫病退治の火龍踊りの夜であったのかもしれない。1880年に台風があり、疫病が流行ったようで、天后が現れモグサや除草菊を3日に渡って燃やすよう告げ、疫病が治まったとの言い伝えがあるという。 (5)聖約翰救傷隊香港分区本部 建物の前には救急車が2台。日本では救急車といえば消防署にあるものと思っていたが、ここは消防署とは別になっているようだ。逆に言えば消防と救急が一緒である必要は何処にあるのか?江戸は非常に火事が多かったので、その名残か? 近くにセントポール病院があるので、そこに運び込むことが多いのだろうか?そう言えば香港で救急車を呼ぶと勝手に病院を決められて、連れて行かれるので救急車に乗ったら先ず病院名を言え、と教わったが。土曜日の午後で入り口も閉まっており、ひっそりとした感じ。 (6)タイガーバームガーデン
シンガポール華僑の胡文虎兄弟が建てたもの。タイガーバーム(萬金油)は日本で言えばメンソレータム。非常にポピュラーな塗り薬である。胡兄弟はこのタイガーバームで財を成し、シンガポールに移住。シンガポールにも同名の庭園があったはずだが、今ではどちらも無くなってしまった。 タイガーバームガーデンは香港の象徴。華僑の夢を具現化した場所。ここが無残に再開発される姿は香港の将来を暗示してはいないだろうか?ふと、不安になる。
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