《北京歴史散歩2008》(11)西単付近

【西単付近】2008年7月6日

夏がやって来た。6月まではオリンピックの為に雨を降らせており??例年になく雨が多い、そして涼しい夏だったが、7月からはオリンピックムードを盛り上げる必要もあり??快晴、そして暑い。といっても先週出張した香港に比べれば気温が高くても湿度が低い。木陰に入れば何となく爽やかな風が吹き、何とか散歩が継続できる。これぞ、北京。

 1.西単双塔

地下鉄で西単へ。7月からは手荷物検査が導入されたと聞いていたが、建国門も西単も検査は全くなかった。心配ない場所なのだろうか??兎に角全部を検査していては大混乱必定。駅を出る。目の前に文化広場があるはず、だったが、何と全て覆いが掛けられており、前が見えない。これもオリンピック用の改装だろうか??

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実はこの広場の辺りにはかつて九層と七層の2つの塔があった。金代に元刑場だったこの場所から夜な夜なうめき声が聞こえる、との話から鎮魂のために寺を創建。元の大都築城の際はこの塔を避けて城が築かれたと言われている。

 

残念ながら解放後長安街拡張のため、2つの塔は取り壊されて、今はその面影を偲ぶものも無い。西単は元々庶民で賑わう街。特に近年は若者が多く集まり、東京で言えば原宿のような雰囲気を持つ。原宿には明治神宮があり、西単には双塔があった。何かの偶然だろうか??

 2.都城隍廟

西単を北へ向かおうとしたが、暑さボケか西に歩き出す。民族文化宮の前には『西蔵今昔』と書かれた看板が出ており、大チベット展が開かれている。4月末からとあるから、どうみても政府が自らの政策を正当化するためのものであろう。あまり見る気が起こらない。

 

民族飯店、工商銀行本店の前を過ぎ、復興門内大街から太平橋大街を北へ。直ぐに左に曲がると成方街がある。ここは人民銀行本店の裏手になり、北側は比較的古いアパートが並んでいる。都城隍廟はこの辺りにあったであろうことが想像される。城隍神とは城の堀や壁の神である。唐の時代あたりから全国の城で城隍神が祭られた。但し祭っている神は場所によりマチマチ。城内で悪いことをした人間はあの世でもこの神に裁かれると恐れられていた。

 

木々がせり出した道を歩くが城隍廟に関連しているものは全く見当たらない。その内に最近新しく形成された金融街に出る。ここは政府主導で中国系金融機関が集められている。7-8年前突然にビルが建ち始めた。そしてあっと言う間にビルが群生した。

 

その中に都城隍廟後殿を発見。しかしどう見ても最近再建されたもの。しかも建物が一つあるのみで中にも入れない。北京市の文物保護単位を表示するプレートだけが古びており、1984年に指定されたことを示していた。

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ここは1260-70年代に創建、その後数度の再建が行われたが、民国時代の邪教禁止政策で荒れ果てたようだ。元々は山門、鼓楼などがあったようだが、だいぶ前に後殿だけになっていたようだ。荒れ果てた廟を再建したのは、金融街の発展を願う政府の思惑なのだろうか??ビル群の合間には所々庭園があったりする。

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その後金融街を北上し、太平橋大街へ再度出た。立派なしっかりした建物が目に入る。古びているがどっしりしており、風格がある。見ると全国政治協商会議礼堂とある。1949年の建国後建てられたものであろう。久しぶりに社会主義的な建物と出会った。

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3.白塔寺

太平橋大街と阜成門内大街の交差点付近に白塔寺はあった。最近は建物が立ち並び交差点からでは白塔を見ることは出来ない。交差点西側に白塔寺の門がある。妙応寺と書かれている朱塗りの門。

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寺の内部には両側に四天王を従えて弥勒菩薩が安置されている天王殿。多数の精銅の小さな仏像もケースに入って飾られている。これはミャンマーなどで見る奉納された仏像だろうか??釈迦無二、阿弥陀、薬師の三像が収められた大覚宝殿や七仏宝殿などがある。

 

そしてその奥に白塔。1096年に建立された仏舎利塔。その後破壊されていたが、1271年に元のフビライがチベット式に改装させた。1279年再建。中国最古のラマ塔。この塔の作成にはネパールの有名な職工アグニが招かれている。現在白塔の前にアグニの像が立っていることからもその功績の大きさが分かる。尚像から見るとアグニはかなりスマートな好青年と言った印象。

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塔は約30メートルの高さがあるが、現在は改修中で登って見ることが出来ない。釈迦の仏舎利塔は世界に84000あるが、その中の重要なものは8基あり、白塔はその一つ。尚フビライの頃この塔は赤かったと言う。その後明の永楽帝の時代に白くなったそうだ。清代には北京一有名な廟会が開かれていたとか。また1976年の唐山大地震では塔の一部が傾き、修理中に乾隆帝直筆の箱書きが出てきたらしい。

 

白塔寺から東に少し行くと交差点の向こう側にクラシックな建物が出て来た。見ると北京大学人民医院。どんな歴史があるのだろうか??

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その少し向こうに歴代皇帝廟がある。1530年に建造され、明、清両代の皇帝が皇五帝をはじめ歴代皇帝、諸葛孔明などの名臣を祭っている。「三皇五帝」とは、神話時代の中国を治めたとされている伝説上の八人の帝王たちの総称(文献によって人物は異なる)で三皇五帝をまとめて祭っているのは中国内でここだけ。広大な敷地ではあるが歴史的な価値はあまり感じられない。1949年以降は学校として使用されていたためか。

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 4.広済寺

また東に歩くと古めかしい門が。中国仏教教会と書かれている。何だろうかと中を覗く。入場料も無いようなので中へ。丁度よい状態の木々が立ち込め、その奥に天王殿がある。更に行くと非常に静けさが漂う日本的な寺の姿があった。

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線香が立ち込め、皆木陰でお経を唱えたり、仏典を読んだりしている。これぞ寺、と言う感じである。横の伽藍には簾の掛かった庫裏が続く。ここに修行僧が宿泊しているのだろう。広済寺は金代の都中都の北の郊外に創建。元代に再建。明代の1457年に改修され、広済寺と名付けられる。清代には皇帝が立ち寄る場所として重視され、重要寺院に指定される。1934年の大火で所蔵の経典などを焼失。1935年には再建され、現在に至る。

 

鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄殿、円通殿、蔵経楼などがコンパクトな境内に並ぶ。極めて伝統的な寺院。この静けさは今の北京には重要。境内には日中韓の仏教友誼樹も植えられており、この地が北京、いや中国の仏教の中心であることがわかる。

 5.西什庫教堂

更に東に進んでいくと北海公園が近づく。その手前に西什庫教堂(北堂)がある。1703年康熙帝の寄付で西安門に創建。康熙帝がマラリアに罹り、フランス人神父フォンタネーがキニーネを献上し、治癒したことから建設が認められた。

 

但し場所が紫禁城に近いこともあり、1887年に西太后により現在の場所に移転された。1900年の義和団事件では、外国人がここ北堂に逃げ込み、義和団が包囲。今でもその銃弾の跡が残っているとか。

 

結局義和団は八カ国連合軍に撃退され、逆に連合軍が略奪の限りを尽くす。当時北堂の神父ファビエが大官僚立山の屋敷から大金を奪ったことは有名である。尚浅田次郎の『蒼穹の昴』の中に北堂とファビエ神父が登場する。小説ではファビエはベネチアンガラス細工を造り、孤児院で孤児を育てている。真実はよくわからないが、或いは単なる略奪ではなかったのかもしれない。

 

門を潜るとそこには『勅建』の文字が。これは西太后が公金を与え、建設されて事を指す。当時フランスは革命があり、中国の教会に援助することなど無くなっていた。中国で援助するものも無かったであろう。何故西太后が??

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現在の建物は1985年に改修されたもの。ゴシック建築の立派な建物。日曜日の昼時、礼拝堂に人影は無く、中に入る。静けさに包まれていた。疲れた体を休めた。目を瞑ると昔が見えるような気がした。

 6.礼親王府

ちょっと南に下ると礼親王府がある。門は硬く閉ざされ、中を窺うことは出来ない。礼親王は清朝の開祖ヌルハチの第二子代善に始まる名家。ヌルハチの長男が早くに亡くなったこともあり、実質代善が長男としてヌルハチを補佐。この代善、礼親王府の建設時には、ヌルハチの命令で各省の総督が皆資金を出したほど、一時は時期皇帝の最有力であったが、ヌルハチ最愛の女性アバガ(ゴルドンの母)と過ちを犯し、その地位を失ったという。

 

当時の満族の習慣では、皇帝が亡くなった場合、その妻は時期皇帝の妻になるので、二人は早まってしまったということか?因みにアバガは終生ヌルハチの愛を受け、ヌルハチの死に際しては、夫に従い殉死した。その後嘉慶年間に屋敷は焼失。嘉慶皇帝より資金を賜り、再建。1943年には一時満鉄の所有になったこともある。現在は国家機関と民家となっており、内部を窺うことは出来ない。

 7.万松老人塔

西四南大街に戻る。北京基督教会がある。ハングルが書かれており、チマチョゴリを着た女性が中に入って行く。ここは1922年洗礼を受けたばかりの青年、後の老舎が住んだと言う教会ではなかろうか?老舎は半年あまりこの教会の日曜学校の主任を勤め、日々磚塔胡同を散歩していた。その様子は著作『離婚』に描かれている。

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その北側に万松老人塔があるはずであった。ところが見ていくと建設現場があるのみ。よく見るとその道沿いに門だけがカバーを掛けられて頭を覗かせている。その頭にははっきりと『万松老人塔』と書かれている。

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これは塔ではないから、入り口の門と言うことか。とすれば後ろの建設現場の中に塔は埋もれてしまったのか。レンガ造りの九層の塔とあるのだが。建設者はこの門を残すことを条件に許可を得たのだろうか??

 

万松老人は金末元初の僧。仏教大師の称号を得る大物だが、北京郊外で修行を積んでいた。彼の弟子には有名な元の宰相耶律楚材もいた。僧の死後、弟子たちは郊外に塔を建てたが、明の永楽帝の遷都でこの場所が中心に近い繁華街になってしまう。これは老人にとって不幸だった。その後200年余り行方が知れなかったが、明末に僧が発見、清の乾隆帝時代の僧も、既に朽ち果てつつあったレンガが載った塔を危ぶんだ。

 

最近でもこの塔は粗末に扱われているようであったが、ついに取り壊されてしまったらしい。残念でならない。

 

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