《北京歴史散歩2008》(8)積水潭付近

【積水潭付近】2008年2月16日

旧正月が明けた。まだまだ寒いが、日中零度を超えるようになった。この頃天気が極めてよい。やはり青空は気持ちが良い。オリンピックイヤーだからだろうか??健康診断を受けた感じでは、体調管理が求められることになりそう。散歩の再開が不可欠となる。また最近中薗英助の『北京飯店旧館にて』を読み、老舎への関心も高まる。老舎の生家近く地下鉄積水潭駅へ向かう。

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1. 太平湖

老舎は1966年8月に文化大革命の犠牲となり、紅衛兵から暴力を受け、その後太平湖西岸に死体が上がった。未だに他殺か自殺か、真相は不明ながら文革の犠牲になったことは間違いない。今回読んだ中薗英助の『北京飯店旧館にて』では、老舎のような老北京人は自分から城外へ出て自殺することは考えられないとして、太平湖で死んだのであれば他殺であろうとしている。(一方『北京歴史散歩』ではこの死には抗議の意味があり、覚悟の自殺ではなかったかとしている)

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太平湖とは一体どこにあるのか??この湖は以前積水潭にあった城壁に沿った西にあったようだ。しかし老舎の死を隠すかのように1972年、地下鉄工事の影響で埋められてしまったらしい。いやよく調べてみると北京の地下鉄は何と1969年10月に2号線が開通している。資金の一部は例の日本のODAである。工事期間4年、文革中によくも工事が出来たものだと思う。それにしても40年も前に地下鉄があったことは意外である。そして何でこの2環路を回る線が2号線なのか??分からない。

今回積水潭駅で下車し、地上へ出ると、西側の護岸河は凍結していた。かなり長い河を端まで行ったが、その先は団地になっており、行き止まり。しかし近所の地図を見ると何と『太平湖』という文字が見える。そこまで足を伸ばすと『北京市地鉄運営公司』の敷地が見えてきた。中に入るとかなり古い建物もあり、ここが1972年に埋め立てられた所ではないか、と思われる。奥には線路の引込み線も見え、この辺りが湖であったのでは??何一つ往時を偲ぶ物はないが、何となくそんな気がした。

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そうか、地下鉄工事で埋め立てられたのではなく、地下鉄の会社の用地として使われたのだ。それにしても当時の北京、土地は幾らでもあったであろうに??不思議な気分はすっきりしない。長閑な休日の午前中、昔からここに住んでいると思われる人々が楽しそうに談笑していたりする。文革は今や昔の出来ことなのである。

2.西直門内大街

徳勝門西大街を渡り、高層ビルの建設現場の横を通り抜ける。道が工事によって複雑に蛇行している。その裏は昔ながらの団地、そこを抜けるといきなり西直門内大街に出た。そして目の前に教会が。

天主教西堂、北京には東西南北の名の付いた教会がある。その中では最も名前を聞かないのが西堂。4つの中で最後に出来た教会である。1723年創建。その後1811年、1900年(8カ国連合軍)に破壊され、現在の建物は1912年建造。

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土曜日のせいか、教会の門には鍵が掛けられていた。そして少し改修している様子が見える。この建物、一般の教会のようにシャープな印象は無く、どちらかと言うと公会堂のような横長。ちょっと不思議である。(てっぺんの尖塔系の鐘楼は既に取り壊されている)横の小門を潜るが何となく入ってはいけない雰囲気。教会は一般的に開放されているはずだから、きっと何かあるのであろう。

教会から東へ。明最後の皇帝、崇禎帝時代に宦官のトップ、太監に就任し、権力を欲しいままにした曹化淳が建てた曹老公観の跡があるはずであった。曹老公観とは巨万の富を築いた曹化淳自らを祭る廟である(正式名称は崇元観)。その権力が窺い知れた。曹化淳は明が滅ぶと李自成に(李自成に城門を開いたのは曹化淳)、李が倒れそうになると清朝に付くという稀代の身のこなしを見せた人物。

1769年に修復された後は衰退したが、ここの廟会は大規模なものであったらしい。民国時代には見る影も無く、1931年には国民党の陸軍大学となり、その後張学良の東北大学が瀋陽より移転してきて、その校舎として使われたという。因みに東北大学は当時の先進的な大学で男女共学、欧州留学制度など、近代化と愛国を理念とした。

 

歩いて行って見たが、通りに面した場所には何も無い。奥に入ってみるとそこには児童図書館と映画館の入ったビルがあったが、往時を偲ぶ物は何一つ無かった。やはり悪徳宦官のイメージが強いのであろうか??

3.老舎生家

新街口を南へ行く。一筋一筋丹念に道を確認していく。ない??地図にも載っていないこの胡同を探す。途中バックパッカーのためのゲストハウスなどもあり、この辺りにまで外国人が出入りしていることに驚く。

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小楊家胡同、あれっと言うほど小さい入り口にびっくり。表示が無ければ通り過ぎていただろう。鍵型に曲がるとそこにじいさんとばあさんが日向ぼっこしていた。老舎の生家を探したが、またまた通り過ぎる。住所表示がないのである。

辛うじてこの入り口に違いないと思えるところに当たる。写真を撮っていると後ろからじいさんがじっと覗く。ここに間違いない。箒がさかさまに立て掛けられている。何となく長閑な光景である。

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老舎、満州族。北京市井の作家。1899年生まれ。翌年義和団事件が起こり、父親は八カ国連合軍の攻撃から正陽門を守って戦死。母親は苦労しながら老舎を育てた。

学生時代に読んだ『茶館』は今のお茶好きの原点であろうか??日本軍政下の北京を描いた『四世同堂』、もう一度読み返そう。そんな気にさせる何気ない胡同であった。小楊家胡同は旧名を小羊圏胡同といい、昔は羊を飼っていたらしい(また入り口が小さく中が大きいことから羊の腸に似ているとの意味?)。生家の壁を越えて見える大木がその様子を見ていたのだろう。

 

4.梅蘭芳

新街口から護国寺街へ。寺はないらしい。しかし門前に小さなレストラン、商店が並ぶ。徳勝門内大街との交差点に梅蘭芳記念館と書かれた(鄧小平揮毫)立派な門を発見。門を潜ると梅蘭芳の胸像がある。

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梅蘭芳は祖父、父共に京劇役者。幼くして両親を無くしたが、胡琴の名手であった叔父に育てられ、11歳で初舞台、20台で既に名声を博し、1922年の溥儀の結婚式では清朝最後の余光を飾った。

日本も訪問している。1918年に帝国劇場で公演。歌舞伎役者との交流も展示されている。1930年代は拠点を上海に移し、愛国主義的な活動を展開。日本侵略主義に断固反対の態度をとる。チャップリンやバーナーショウなど多くの著名外国人との交流もあり、国際的な評価を得ていた。

解放後周恩来の要請もあり北京に戻り、故居に居住。自ら作品を作るなど精力的に活動した。晩年10年を過ごした四合院の旧居をそのまま展示室にしている。正面奥にはベット、机など生前使用していた家具がそのまま展示されていた。

尚徳勝門外大街の道を挟んで反対側には慶王府があった。ここは清末の愛親覚羅亦?の邸宅。現在は一般住居なのか非公開。

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1900年の義和団事件では李鴻章と共に連合軍と辛丑条約を締結。その後外務大臣、軍機大臣を経て、総理大臣も勤めた。但し彼は才能も品性も無く、賄賂を受け取っていた。東交民巷のHSBCに多額の資産を預金していたと言う。

 

 

 

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