《北京歴史散歩2007》(7)后海付近

【后海付近】2007年9月9日

実に久しぶりに歴史散歩に出た。元々の予定は今日から出張だったが、一日伸びた為時間が取れた。こんな日は良い事がある、と思い地下鉄で鼓楼へ。

 

(1)   竹園賓館

駅から旧鼓楼大街を南へ。右手に小石橋胡同がある。胡同の入り口に新しい牌楼があり、『竹園』と書かれている。何となく不思議。歩いて行くと通り過ぎそうな家並みの中に看板があり、竹園賓館が分かる。

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ここは四合院ホテルとして紹介されているが、それにしては大きい。かなり立派な人の屋敷だったはず。入り口正面の大木がそれを物語っている。古くは西太后お気に入りの大監(宦官の親玉)李英蓮、その後清末の大臣盛宣懐の屋敷だったと言われている。文革中はあの悪の大立者中央宣伝部長の康生が住んだと言われている。

 

服務台のある建物も少し物々しい。お姐さんは流暢な英語を話していた。日本語の解説もあるようだ。どう見ても外国人が泊まるところ。庭と庭の繋ぎは朱塗りの回廊。横には建物があり、レストランになっている。西洋人がゆっくりと粥をすすっていたりする。私も食べたくなったが、何となく場に合わない感じがして止めた??

 

回廊の奥左手に竹林がある。小道になっていて素晴らしい散歩道である。このホテルの名前がここから付いたことが分かる。更に行くが聴松楼。建物の前に松の大木があり、松の音を聞いて寝る、という風雅な名前である。

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素晴らしい庭園ホテルだが、宿泊代は780元、880元と高い。外国人料金だろうか。警備はかなりしっかりしていた。竹の林が美しい。海棠、石榴など木々に埋もれている。一度は泊まってみるか。

 

(2)   鐘楼と鼓楼

鐘楼に到着。急な階段が何とか上がり上へ。息が切れた。上には大きな釣鐘が置かれている。この鐘が朝夕北京に鳴り響き、城門の開閉を告げていたのだ。元の時代、鐘楼は大都の中心であった。万寧寺の中心閣があった場所である。

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1420年明の永楽帝の時代に創建され、1745年清の乾隆帝の時に改修された。北京の時計として日に108回鳴っていたというが、1924年に民国政府が溥儀を紫禁城より追い出し、鐘の音も聞こえなくなったという。

 

この鐘には伝説がある。永楽帝は鐘楼完成後、大きな銅の鐘の作成を命じたが、いくらやっても上手く出来ず、期限の最後の一日に親方の様子を見に来た娘が炉に飛び込むと、鋳上がったというもの。『鋳鐘娘々廟』が近くに建てられ、娘を祭っていたが、今ではその廟も見当たらない。

 

楼の下には何故か茶芸館がある。こんな所でお茶を飲む人がいるのだろうか??不思議な感じ。その南に鼓楼がある。大量の太鼓が展示されている。何故こんなに太鼓が必要だったのだろうか??外が良く見える。周辺の胡同が破壊されていく様子がよく見える。非常に残念な光景ではあるが、都市の発展とどちらが大切なのか、永遠に分からない謎なのだろう。

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1272年元代の創建。1420年鐘楼の建造と共に改修される。その後1900年の義和団事件に際しては日本軍の略奪に遭い、大太鼓が軍刀で切り裂かれたと言う。1924年に日本軍の略奪行為を展示した際には、悲憤の青年が飛び降り自殺したとのこと。当時の日本軍の侵略は北京にも大きな爪あとを残している。

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以前景山公園の頂上から見た風景を思い出す。故宮と反対側、北側を見ると故宮から真っ直ぐ北に一本の線が伸びている。その線上の中心に鼓楼と鐘楼が位置していることがよくわかる。都市計画とはこのようなものであろう。

 

(3)   広化寺

什刹海に出る。什刹海は西海、后海、前海からなる。元代は水路が繋がっており、物資がここまで運ばれてきていたため、商業の中心地であった。明代には水路が機能しなくなり、高官の邸宅が造られるようになった。名前の由来は什は十、刹は寺を指す事から、この辺りに10の寺があったらしい。

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しかし今寺はあまり見られない。后海の湖岸を歩いて行くと風は爽やか。柳も枝垂れかかり、気持ちのよい散歩となる。見ると獅子の像が2つ。寺があった。入れるのかなと覗くと入れた。こじんまりした造り。鐘楼と鼓楼あり。信者が熱心に祈っている姿が印象的。檀家以外は奥には入れない。

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広化寺は元代の創建。浄土宗。ある僧が一生かかって托鉢を行い、その喜捨で建てられたといわれる。仏教の教えを広めたと言う意味で名前が付けられた。現在は北京市仏教教会の本部になっている。

 

1908年に張之洞(洋務派官僚として重要な役割を果たし、曽国藩李鴻章左宗棠とならんで、「四大名臣」とも称された)がここに京師図書館を設立。清朝皇家蔵書、敦煌石室写経など10万冊の蔵書が集められたが、洋書は禁書となる。

 

(4)   宋慶齢故居

醇親王府がある。非公開、現在は衛生部が使用しているらしい。その庭園部分が宋慶齢故居になっている。醇親王は清末の混乱期に摂政を勤めた人物であり、あのラストエンペラー溥儀の父親である。

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溥儀はここで生まれ、皇帝となり、皇帝を退位し、故宮から退去した後、1924年一時的にここに戻ってきた。宋慶齢は1949年に建国以降、1981年に死去するまでずっと北京に住み続けた。この邸宅に住んだのは1963年から亡くなった1981年まで。慶齢は自らの住居を建てようとする共産党幹部に対して何度も断ったという。最後は1962年に周恩来が自ら場所を選定し、引越しを促した。

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厳しい門を潜ると兎に角広い。公園のようだ。庭が整備されており、綺麗。築山あり、池あり、水は后海から引いている。流石は国歌名誉主席の家に相応しい構えである。四合院造りの3棟の建物に展示物がある。宋家については言うまでも無いが、上海の財閥。3姉妹はいずれも歴史に大きな役割を果たした。特に慶齢は国父孫文の妻として、その役割は重要。好きだった鳩を沢山飼っていた彼女、平和への思いも深かっただろうか。

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展示室には彼女の歴史が表示されている。1949年の建国では天安門で毛沢東と並び、1954年にはダライラマと撮った写真もあった。しかし文革中の展示は何も無い。どうしていたんだろうか??主楼は慶齢が住むのに合わせて、あの変法維新のメンバー梁啓超の息子で著名建築家である梁思成が設計。外見は中国伝統建築、中に入れば洋風の内装。見事な折衷である。1981年5月に亡くなった時、私は大学に入学したばかり。台湾に渡った妹美齢(ニューヨーク在住)が中国の葬儀に出席するかが大きな注目を集めていた気がする。

 

(5)   高廟と李橋

后海南沿に回る前に西海に行ってみた。橋を渡ってすぐの所に高廟と呼ばれた明代の関帝廟があるはずだった。しかしいくら探しても見つからない。既に取り壊されたらしい。印刷工場になっているとの情報もあったが、見当たらない。付近は昔ながらの胡同の雰囲気が残っているのだが。

 

高廟は1860年のアロー号事件の際、イギリス人ハリー・パークスが幽閉された場所である。パークスは英仏連合軍の交渉役として北京にやってきたが、交渉が決裂。清朝軍に捕まってしまう。後に釈放されるが、英仏軍による円明園略奪などを引き起こした。

 

パークスはモリソン号事件で知られるモリソンから中国語を学び、中国侵略の尖兵となった人物。13歳で清にやってきて苦労を重ね、最後は駐日公使、駐華公使を歴任。立志伝中の人物と言える。

 

(6)   茶家傳

南沿に戻る。大好きな紹興レストラン、孔乙己の2号店(10年前に開店)がある。なかなか雰囲気のある店であるが、遠いので殆ど来ていない。后海を眺めながら、紹興酒を飲むのも乙なものか。

 

その横にお洒落な6角形の建物が見えてくる。茶家傳、有名な茶芸館である。中に入ると広々とした空間があり、九官鳥が迎えてくれる。木製のテーブル席あり、心地よさそうなソファーあり、個室も大小あって、顧客の嗜好に合わせている。ソファーに寝転んで本を読んでいる西洋人がうらやましい。お茶は種類が多く、質もそこそこよい。お茶を頼むとお茶菓子6種類が付いてくる。休日の午後、何も考えずにここで寝転がっていたい。お茶の香りに触れながら。

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尚店内には多くの骨董品が置かれている。店員に聞くと、『オーナーの趣味が骨董で、元々この店も骨董を置くための倉庫として建てた』とか。なるほど、商売でやっている雰囲気があまりないわけだ。

 

のんびりした後、裏へ歩いて行く。柳萌街、柳が風に揺れ、緑が多い。ここも気持ちがよい道であるが、何しろ人手が多い。そしてやたらに人力車もいる。何だこれは?柳萌街は1965年以前李広橋と呼ばれていた。李広とは漢代に匈奴と戦った将軍李広とは関係ない。李広とは明代孝帝の寵臣であり、太監となった人物。孝帝は幼少の頃不遇であったようで、その際李広の世話になったらしい。ところがこの人物、金の亡者であくどいことをかなりやっていた。後宮では有名であったが、皇帝は気が付かず、また気づいてもなかなか関係が改善できなかったとか。

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1498年、今の景山公園の頂上に李広の指示で亭が設けられたが、この時偶然皇帝の愛娘が亡くなり、これを李広の非として、彼は毒をあおって死んだ。死後家を調べた所、金銀財宝が山のように出て来たという。李広橋は1488年に作られたが、庶民はこの橋を渡るのに、料金を徴収されたと言う。これも悪徳李広の評判を悪くしている。

 

(7)   恭王府

中国の有名小説紅楼夢の舞台となった大観園のモデルと言われている庭園がある(紅楼夢の作者曹雪芹の死後庭園は出来たらしいが)。元は乾隆帝の寵臣として富と権力をほしいままにした和珅の邸宅。1777年建造。乾隆帝の死後(1799年)即位した嘉慶帝は即座に和珅を汚職の罪に問い、自殺。巨万の富が蓄積されていたと言う。邸宅は没収。清の道光帝の第六子恭親王、愛親覚羅亦訴に下賜され、改造されたもの。

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恭親王は清末に西太后と組んで、政治・外交に支配力を発揮した人物。この庭園も外国施設の接待用に中西混合の造りとなっている。正面の門を見ると石造りのアーチ型、ギリシャ風の円柱、唐草の装飾と言った感じ。

 

その後孫の溥偉が相続、清朝が倒れ、1921年に西什庫教堂から借金をした際、担保として差し出される。1932年にはローマ教会が買い取り、溥偉の借財を返済、カトリック教会主導の私立学校、輔仁大学の所有となった。因みにこの輔仁大学は戦後台湾に渡り、現在は台北にある。また北京時代の学校の跡は、恭王府の直ぐ南に重厚な建物が存在している。

 

入り口には中国各地からやって来た団体さんが屯している。入場券を持って列の後ろに付く。中に入ると正面を登る。独楽峰、孔の開いたぶつぶつの石が配置されている。この山を越えると池。純中国風。さすが中国最大の王府と言われるだけあり、内部は実に広い。山水がふんだんに配置され、花園もいくつもある。

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奥に福字祠と言う半地下洞があり、中には康熙帝直筆の『福』の字を刻んだ石碑がある。1962年周恩来の指示で改修した際、発見された。康熙帝の書は極めて少ない上に福の字は縁起がよいことから好まれているらしい。現在は洞の中に入り、滝のように流れる外を見ることが出来る。

 

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