《北京歴史散歩2007》(6)日壇公園・東嶽廟付近

【日壇公園・東嶽廟付近】2007年12月22日

いよいよ今年も終わりに近づいている。今日は冬至。中国では餃子を食べる習慣があるそうだが、旧正月も食べて冬至も食べるのか??

天気はさほど良くないが、風も無く歩き出す。ちょっと肌寒いが、気候温暖化のせいか例年の寒さはない。ただ空が暗い。自宅内の街路樹は全て枝を切られ、寒々としている。家の直ぐ近くの日壇公園を目指した。

1. 日壇公園
家の周りは大使館街。アメリカ大使館の前には自動小銃を持った警備員が。日本大使館の前も二重の柵が巡らされ、昨今の国内情勢を反映している。ゆっくり歩くこと10分、公園南門に到着。この門の並びにはいくつかレストランがある。日壇会館は立派な建物で、中庭が素晴らしい。ここで食事を取ると気分が高揚する。但し今は冬、人は誰もいない。

その隣の中国芸院は広東料理。かなり香港に近い味で広東語も飛び交う。大使館勤務の西洋人の姿も多い。飲茶が手軽。更に行くと和平茶苑。ここは中国茶を飲むスペース、食事も可能。お茶を飲みながら、公園を眺めるのも一興。家具は骨董。地下には骨董品が多数展示されており、オーナーの趣味が分かる。

公園の門の前には自転車が多数。老人が乗ってくるのだろう。日壇公園は1530年建造。明・清両時代の皇帝が春分の日の朝、太陽神を拝むために作られた。当時の名称は『朝日壇』。太陽神を拝むことで五穀豊穣を祈願したのだろう。一般庶民には無縁の場所だったのだが(当然当時は街の外で人もまばらだったのでは)。

国共内戦で公園は荒れ果てたと聞く。1950年代に改修し現在の名称になり、庶民の公園となる。70年には周恩来首相の指示によりここに日中友好の大山桜??が植えられた。どこにあるのだろうか。

中に入る(無料)と目の前に旗を揚げる台がある。真っ直ぐ進むと皇帝が参拝した様子を描いた鮮やかな壁画がある。左に曲がって進めば、池が凍っている。その上を人々が散策??している。冬の北京である。池の周りには東屋が配置され、風景を眺めながらゆっくり出来る。

公園中央に祈りを捧げる場所がある。四角く区切られた真ん中に拝台がある。しかし特に何もない。祭壇と思しき四方の台が10段ほどの階段に上げられて中央にあるだけ。ここでどのような儀式が行われたのか??思いをはせるものは何もない。やはり破壊は恐ろしい。

 

隅っこの方で数人のおばさん(中にはおじさんも)が何かを話し合っている。こんな所で会議でもあるまいし、と思ってみていると、一人が何か紙を取り出す。また一人は写真のようなものを取り出した。一体なんだ??

どうやらこれが噂の親による息子、娘の結婚相手探しらしい。結構皆真剣である。昔は皇帝の祭式で使われた神聖な場所?で相手を探す。ご利益があるのかも知れない。それにしても寒いのにご苦労さんなことだ。

東側には神庫が残っており、祭器等が収納されているのかもしれないが、今はそれを知るすべもない。北門の近くには小王府という私のお気に入りのレストランの2号店が綺麗な概観を見せている。

 

 

2.東嶽廟

公園東北の角から北京八景の1つ『金台夕照』を探すが全く分からない。著者によれば八景のうちその場所が全く分からないのは『金台夕照』だけらしい。ところが08年に入って、東三環路に新しく開通する地下鉄10号線の駅の1つに何と『金台夕照駅』が出来る。どういうことだろうか??

北に向かい朝陽門外大街に出る。小雨がぱらつく。道の南側に『永延帝祚』と書かれた楼牌が見えた。これは新しいものであろう。その南側は既に開発が進んでいるようで、広い道になっている。

その楼牌の正面に東嶽廟の正門がある。東嶽廟は1319年道士張留孫の創建と伝えられる。華北地区最大の道教廟。清の康熙帝時代に火災にあって再建。歴代皇帝が東陵に墓参に行く際、ここで昼食を取ったらしい。

中に入ると正面大斎殿には五嶽大帝が祭られている。周囲の伽藍には76の塑像が新たに作られ、収められている。とっても一つ一つ見ることは出来ないが、自分の気に入ったところで皆立ち止まり、拝んでいる。お金に関係ある神さまに人気があるらしい。一番霊験あらたかなのは南宋の岳飛を祭ったものであるらしい。

 

寿槐という樹齢800年以上の古木もある。冬枯れの木々であるが、それはそれで趣がある。乾隆帝、康熙帝などの碑もあり、なかなか面白い。また日本で言うところの絵馬がある。赤い札であるが、沢山括り付けられている。ここには学問の神様文昌帝も祭られているようで、合格祈願が中心。清代は科挙の試験場が近いこともあり、試験の時には賑わったとか。

毎月1日と15日、3月の15日から半月はご開帳があって賑わったと言う。現在もあるのであろうか??

3.日本人墓地

東嶽廟を東へ行く。東大橋路の先で道が二つに分かれている。朝陽北路を行く。核桃園という所を入る。ここに戦前日本人墓地があったらしい。現在はかなり古いアパートが立ち並び、墓地の面影など全く感じられない。

 

著者によれば、ここに中江兆民の子、中江丑吉の墓もあった。彼は30年余り北京に住み、中国古代思想史の研究に没頭稀有な人。五四運動時に焼き討ちされた旧知の曹汝霖を助けに来て、たまたま当時の駐日公使、章宗祥を助けるなど、その行動は極めてユニークであった。それにしても戦前一体どれほどの日本人が北京には住んでいたのだろう??

今では考えられないほど、日本と中国は緊密であり、人的往来も激しかった。満州浪人のような一旗挙げるための人も大勢いただろうし、駐在員も居ただろう。そしてこの地で亡くなった人も多かったはず。我々はもっと彼らのことを知る必要がある気がする。

 

アパートは一部取り壊されたのか、道に面した一角が公園になっていた。そこになにやらモニュメントがあったが、ハングル語で書かれていてよくわからない。もしかするとこれが墓と関係あるかもしれないが、これ以上墓を暴かないで、と言われているような気がして、早々に立ち去った。

 

 

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