《北京歴史散歩2007》(5)東交民巷と南池子

【東交民巷と南池子】2007年12月9日

昨日に引き続いて風がない。最高気温が5度だと言うが、もう少し暖かい感じ。2日続けて散歩に出ることに。今回は軽い散歩にしようと思ったが、以前より気になっていた東交民巷に行って見たくなり、実行した。

1. 東交民巷
(1)新僑飯店 

地下鉄で崇文門へ行く。地上に上がると立派なホテルがある。見ると『ノボテル新僑飯店』とある。思い出すことがある。私が始めて北京に来た1986年10月、上海に帰る直前に新僑飯店に立ち寄った。目的はラーメンを食べることである。

当時新僑飯店には日本人駐在員が多く住んでいた。今では考えられないことだが、上海には日本料理屋がなかったので、態々北京まで汽車で17時間をかけて食べに来た、その締め括りが北京駅近くの新僑飯店のラーメン。味は良く覚えていないので美味しくはなかったかもしれないが、物はあるかないか、が大事であり、あることに満足する物である。

そこで思いがけず大学の同級生A君に遭遇したことも忘れ難い。彼も私も共に中国語を捨てて別の道を歩んだはずであった。その彼が北京にいた。人生とは何と皮肉なことか??自分で嫌がった人ほど、そちらに引き寄せられる、とも言われている。そのA君とは先日場所も同じ北京で21年ぶりに再会を果たした。北京は約束の地??である。

そしてもう一つ思い出すのが、ドイツベーカリー。A君が『ここのパンは食えるよ』と教えてくれたので行って見ると、何とクリームパンやジャムパンが並んでいる。上海では考えられなかった。上海で食べられるパンを見付けたときにはケース毎買うのが鉄則。それに習い、クリームパンとジャムパンをケース毎買い、汽車の中で食べ、上海の日本人へのお土産にした。

今日ホテルの横にはパン屋があった。人で賑わっている。思わず中へ入る。勿論20年前とは比べられない綺麗さがあった。2つほど買って食べて見た。今の北京では標準的な味。これが20年間の味かどうか分からないが、とても懐かしい気分になり、道を歩きながら立ち食いした。

(2)東交民巷

ホテルの裏手に同仁医院がある。そこからが東交民巷である。元代には『江米巷』と呼ばれた米の集散地である。永楽帝時代に、外国から朝貢に訪れる人々をもてなす場所となり、様々な民族衣装に人々が行き交う場所と言う意味で東交民巷と呼ばれるようになる。

明清代には五部六府の官庁街になり、また王府も多く存在したが、義和団事件後の1901年から各国大使館専用地として実質租界への道を歩む。当時は清朝崩壊等もあり、周囲は騒然としており、武器を持った兵隊が守る場所であった。

今歩いてみても特に何ということはない斜めの道であるが、所々に洋館が残っている。本当に短い道。あっと言う間に大きな通りに出た。

(3)天主堂と外国大使館街 
その角に突然教会が見えた。かなりがっしりした天主堂。『東交民巷天主堂』とあるが、別名を『聖米厄弥天主堂』とある。聖ミゲル教会??中はシンプル。1901年に出来たとあるようだ。辛中条約の成立後に建てられた大使館員用の教会だったのだろうか??2棟の塔が突き出したゴシック式建築。こちらも中国語、英語などでミサが行われる。

 

教会の向かいに洋館が見える。紫山賓館との表示があったので中へ入ろうとすると警備員に止められる。ここは特定の人専用のホテルらしい。確かに上海辺りにある洋館ホテルの雰囲気がある。仕方なく外から写真だけ撮る。

道の横から見ると中はかなり広い。いくつもの建物が見える。崇文門西大街まで出るとその理由が分かる。ベルギー大使館跡との表示がある入り口に武装警察が立っている。そうか、ここは大使館だったのか??但し現在は改修中、いや建て直し中。

1900年の義和団事件でこの辺り一体は焼け野原になった。義和団は山東省より『殺せ!殺せ!』と叫びながら入城してきたとあるから、恐ろしい。英国大使館に皆逃げ込んだらしい。何とか持ち応えている間に8カ国連合軍が救援に来て、結局義和団は崩壊、西太后も西安に逃げ出した。

そこから連合軍の略奪が始まる。いつの時代も被害者は庶民である。義和団が来ようと連合軍が来ようといいことは無い。

 

 

 

2.正義路
(1)旧横浜正金銀行
正義路に入る。角にはかなり昔風のホテル華風賓館がある。建物は共産政権後のような無機質の面白みのない物であるが、横にある飾り窓に租界地風の味がある。因みにこの正義路は以前川が流れていたが、今は暗渠となっており、風景はかなり異なっている。

北に歩いて行くとかなり重厚な建物が。金融集団の宣伝が出ている。近づいてみるとビックリ。横浜正金銀行跡、そうか、ここは植民地には必ずある日本の国策銀行があった場所なのである。ちょっとロシア風の三角形で上に丸い塔がある。それを見てこの付近が本当の植民地、租界地であると実感した。

1901年以降ここ大使館街は外国人居留地、実質的な租界。1910年に日本人建築家妻木頼黄の設計により地上2階、地下1階の建造。南の端の天辺は半球形となっており、少しロシア風。そこから北へ細長い建物となっている。尚中に入ることは出来なかった。

(2)旧日本大使館 
その北側に特徴のある門が見えてきた。あれは何だ??正面に立つとそこには北京市人民政府とある。国旗もはためく。ポケットに手を入れた瞬間、前に立つ武装警察が手を前に突き出し、駄目のマーク。写真を撮ることを想定してのこと。その動きの素早さに背筋が寒くなるが、笑顔で見返すと先方も『分かったか』と言う感じで笑顔になる。やれやれ。

 

旧日本大使館の大門である。中薗英助著『北京飯店旧館にて』には『ロココ風の彫刻のある門の中央上部、かつての菊の紋章のあった場所には赤い生地に五星をあしらった中国の国章が打ち付けてあった。』とある。また『侵略の出先機関が首都の行政機関とは大変な優遇振り』とある。その通りかもしれない。

結局人民政府の壁づたいに歩いて行くが壁が高く、殆ど何も見えない。この中に旧日本大使館の建物があるはずだが。清末に当時の著名建築家、真水英夫の設計。西洋バロック様式を主体とした堂々とした造りと聞くが見られずに残念。

この大使館の中で1915年袁世凱大統領が対華21か条の要求に対して署名した。中国では売国奴と言われる所以となっている。1919年の五四運動では学生達が最初に目指した場所はここであったわけだ。

頼みの綱の人民政府来訪接待室も日曜日で扉が閉まっており、中を窺う事は適わなかった。次回再チャレンジしよう!

3.南池子
(1) 皇城壁

長安街に出る。以前より気になっている南池子に行って見よう。道を渡ると綺麗に刈り取られた植木があり、その奥には落ち葉がこれも綺麗に集められている。細いアカシアの並木が赤い壁と色をなしている。

皇城とは何か??明清代の北京は内城と外城に分けられる。内城の中心は紫禁城、この外側に工房や倉庫などの朝廷の生活を支援する部分、中南海のようなリゾート施設が構成され、これを囲む壁が皇城である。現在はその殆どが取り壊されて見る事は出来ない。

『南池子』と書かれたアーチを潜ると菖蒲河として整備された堀が流れ、柳がしな垂れる。その風景は実に鮮やか。思わず写真に手が伸びる。その横には旧家を改造した『天地一家』というレストランがある。ここはなかなか格式が高い。

100年前のこの辺りの写真を見ると木々は殆ど見えず、かなりスッキリと空が見える。アーチがやけに大きく感じられる。満州八旗の子孫という方はここで生まれ、育った。当然周りは貴族ばかりが住んでいた。今はその面影も無い。

(2)皇史?

南池子大街を北上すると直ぐに朱色の壁が目に付く。中に重厚な建築物である皇史?がある。明の永楽帝が作成した膨大な永楽大典の副本(1562年作成)が保管された場所。本編は明末に焼失、この複製が清代に残ったが、義和団事件の際に散逸。柴五郎はその際永楽大典を目にしたと記している。あまりに分厚さに、大砲車を通すために道に敷いたとの話もあるとか??

現在の建物は南北6m、東西3mの巨大な切り石を積み上げており、木材が全く使われていないことは完璧な防火、防虫を目指してのことであろう。室内には永楽大典の他、清朝皇帝の記録などが収められていると言うが勿論見ることはできない。正面に5箇所アーチ型の入り口があるが、どれも硬く閉ざされている。

周りにはギャラリーがあり、絵画展などが行われている。この場所は静けさが漂い、喧騒を忘れさせてくれるが、何となく物足りない。何となく??

 

 

 

 

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