【東単付近】2007年12月8日
『北京ひまつぶし』というブログを持っているS氏。そのブログでご自分の通勤経路を紹介していた。それに何故か非常に興味を引かれ、歩いて見ることにした。 1.北極閣三条 冬枯れた葉の無い木が良い風情で立っている。よく見るとその家の前には落ち葉を集めて瓦で重石をした壷がいくつも置かれていたりする。実に何ともいえない佇まいである。 その反対側には結構立派な古めかしい門があり、その木戸を潜ると、朽ち果てた洋館があったりする。もしやすると昔は劇場だったのだろうか??ガラスも割れて手入れもされていないが、そんな気がする天井の高い平屋がある。
その向こうには2階建ての洋館が。2階にはちゃんと洗濯物が干されており、現役として住まわれていた。中を覗き込もうとするとおじいさんが怪訝そうにこちらを見たので、曖昧に笑みを浮かべて立ち去った。 (2)協和医院住宅
協和医院とは、1921年にアメリカロックフェラー財団により設立された北京屈指の病院であり、党幹部も多く治療を受けるという大病院である。この医院で思い出すのは、やはり北京原人の骨。元々ここに保管されていたが、日本軍の真珠湾攻撃で保管場所を移すことになり、その後忽然と消えて現在に至る20世紀のミステリーの舞台でもある。 また最近ではSARSの際、外国人患者を収容したことでも名前が出てきていた。今でも一流病院として東単北街に立派な建物が聳え立っている。今目の前にあるのは恐らくはアメリカから派遣されてきた医師やその家族、看護師などが住んでいた場所であろう。いや現在も住んでいるのであろう。 (3)四合院ホテル
その隣にこれまた小さな四合院が。中に入ると可愛い庭があり、女性が出てきた。『泊まるの?』と聞かれて、ここがホテルであることが分かる。部屋は全部僅か3つ。一番大きな部屋でもベットとソファーがあるだけ。それでも清潔そうであり、欧米人が喜びそうな造りであった。
2.新開路 『”新”と言っても相対的に新しいだけで、清の時代からの胡同。』とブログに書かれていたが、その通り。特に目新しい物はない、と思っていたら、洋館が一軒。なかなかお洒落な建物であったが、門は硬く閉ざされていた。
そう考えると新開路という名前が俄かに新鮮味を帯びてくる。不思議な物である。
3.西総部胡同 西総部胡同は全体的にお洒落な雰囲気があった。何故ならば壁に福の字が入った飾り窓のような物がどこにでも付いていたから。その飾りが一際目立つ建物があった。何気なく近づくと端にプレートが嵌っている。『李鴻章の家祠』と書かれている。そうか、ここは李鴻章が亡くなった後に作られた祠があった場所だったのか?? 李鴻章と言えば、安徽省の出身で科挙に合格した文人であったが、太平天国の乱に際して、故郷が危機に晒されたことから義勇軍である淮軍を組織。その頃から外国人との交渉に慣れていた。日清戦争では暴漢に襲われながらも下関条約に調印。外国と対等以上に交渉できる唯一の人物として『東洋のビスマルク』とも呼ばれた。李鴻章に関しては、現在でも様々なことが言われている。英雄、売国奴、策士。これだけ色々な顔を持つ男とは一体??今は辛うじて壁だけが残る祠。彼はどんなことを考えているだろうか?? (2)宝善堂薬局跡
1938年に開設されたこの薬局は、どうやら一世を風靡したらしい。打ち身や風邪に効く薬を販売し、ロシアにも輸出していたとある。 2階の壁の部分に『張氏追風丸 万霊筋骨膏』と言う文字が目立つように書かれているのが、何とも微笑ましい。しかしこの店も共産党時代になり、1954年には政府機関傘下の企業に衣替えしたようだ。
翌年夫人をがんで亡くすと、意気消沈。その面倒を見たのが、復興病院の看護士、胡友松。彼女の献身的な対応は話題になったようだ。彼女の母親は30-40年代のスター、胡蝶。 4.外交部街
外交部街という名前を見ただけでここがその後どうなったかが分かる。700mほどの道の中間辺りに迎賓館がある。説明書きによれば『1908年建造。袁世凱がここで政治を行い、孫文もここに滞在した』とある。しかし何故迎賓館??ドイツの皇太子が来訪した際、アメリカ人の設計を依頼し、当時の北京で最も豪華な建物を建てたのである。 清国滅亡後、袁世凱の臨時内閣がここにあった。1912年8月に孫文が北京にやってきた時、ここに宿泊し、袁世凱と13回も会談したと言う。1912年から1928年まで北洋政府の外交部であり、胡同の名称も変更となった。1949年に中華人民共和国建国時も外交部はここ。初代は総理兼務の周恩来、その後陳毅が外相を勤め、ここで執務した。1966年に現在の朝陽門外に移転、今は立派な門だけが残っており、後ろはマンション群。歴史を感じさせる。 (2)協和医院住居群
20世紀20年代のアメリカの農村別荘型住宅とのことで、各戸に煙突が付いているのが、如何にも時代を感じさせる。また入り口から中には入れてもらえないが、丸いドームを潜ると中国から離れる感覚がある。 東単北大街の向かい側、医院の並びには中華径経会旧址とある建物が。今は北京市キリスト教務委員会が使っている。どうみてもアメリカがやってきた時に、宗教もやってきたのだろう。病院と宗教は一体のはずである。 5.東堂子胡同
京師同文館跡があるという。京師同文館は1860年のアロー号事件で英仏が北京を侵略した後、外国語を学ぶ必要性が生じ、洋務派グループの恭親王が提案。1862年に先ずは英語科が開かれ、翌年にはロシア語とフランス語を追加。学生は当初満州八旗の師弟のみであった。 卒業生は皇帝の外国語教師の他、外交官、通訳等の業務についたという。語学以外も教えられ、1902年に北京大学の前身である京師大学堂に編入された。尚日本語は1899年にようやく設置されたと言う。日本の国力と中国の日本に対する見方が良く分かる。
場所は総理衛門の隣にあったということだが、今やどこにあったのかは分からない。一体は住宅、アパートになっている。
(2)総理衛門 この周りは取り分け古い建物が多く、瓦屋根に落ち葉が載っていて雰囲気が良い。冬の日にくる場所であるような気がする。またこの道には洋館がまだ残されており、現在も使われている。往時を偲ばせる何ともいえない味わいがある。
6.王府井 西に向かうと金魚胡同。何だか風情のある名前で屋台でも出ていそうだが、ここもペニンシュラーホテルなどが立ち並び、風情を味わいながら歩く環境にはない。 王府井に到着。角には大きなイベント会場が設置されている。オリンピックバレーチームの写真を頂いたゲートを潜る。この道の至る所にオリンピック関連の広告宣伝がある。横には新東安市場、しかし市場とは名ばかりの巨大ビルが改修中である。前には香港企業が設置した巨大クリスマスツリーもあり、子供たちが楽しそうに周りを走り回る。中国にクリスマスの習慣などあっただろうか??
王府井の名前の由来は明代の永楽帝に遡る。親族から帝位を奪って北京に遷都した永楽帝は兄弟をこの辺りに住まわせた。王府とは皇帝の親族の住まいである。清代には八旗の練兵場となり、清末には大使館街(東交民巷)に近いことから、高級品を売る市が立ち、また同時に東安市場等庶民の市も立ったことから、北京の市場として栄えることになった。
それにしても以前の王府井は人が多過ぎて歩くのが大変であった。それが現在ではおのぼりさんが来るところとなり、人数もそれ程ではない。熱気もあまり感じられない。庶民の味方であった東安市場もただのデパートとなり、北京人が来るところではなくなっている。
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