《北京歴史散歩2007》(3)国子監付近

【国子監付近】2007年5月27日

昨日の北京は37度、とうとう夏がやってきた。北京の夏は40度を越える猛暑。日中に散歩するなどはもっての外。朝起きると同時に家を出た。8時前で既に陽が燦々と降り注いでいた。地下鉄2号線で安定門下車。

 

1.京師図書館跡

安定門を二環路の内側へ歩く。日差しは強いが木々の陰を行くと爽やかな風が吹く。北京の乾いた夏の朝である。この雰囲気は嫌いでない。直ぐに永康胡同という名前に反応する。家内の大好きな香港歌手の名前である。早速写真を撮り、帰宅後直ぐにメールで送っておいた。

更に歩いて行くと『国子監』と書かれた石碑が壁に嵌っている。その道には大きな門が出来ていて『成賢街』となっている。牌楼と呼ばれるこの門は北京で唯一残されている。ここが天下の秀才が歩いた国の最高学府。

その南方家胡同に京師図書館があったはずだ。清の時代には蔵書楼の1つとしてここに南学があった。四庫全書など貴重な本が納められていた。清朝崩壊後、北洋軍閥が貴重な蔵書を引き継いだが、当時の蔵書楼、広化寺は湿気がひどく利用者が少なかったと言う。

そこで移転先として国子監南学が選ばれた。1917年の事である。その際移転計画に奔走したのがあの魯迅であったのは興味深い。しかしその後1931年までに全てが再移転され、その役割は終了した。

方家胡同は今もあり、地図では図書館のあった場所には小学校があるはずである。ところが胡同を歩いてみても、小学校の入り口が無い。どうやら廃校になったらしい。再度国子監街を歩いていると方家胡同小学と言う学校があった。恐らくはここに吸収されたのであろう。

 

因みに方家胡同には1918年毛沢東、蔡和森などが組織したフランス派遣留学生の連絡事務所があったとされているが、今は確認のしようも無い。毛沢東と魯迅が同じ道ですれ違った場面があったのでは??

2.国子監と孔子廟

国子監街は両側を木々に囲まれ、閑静な住宅街を思わせる。しかしこの辺りにも開発の波は容赦なく押し寄せており、通りの何軒かは改修中であった。以前の胡同、四合院などが次々と綺麗な建物に変わっていく。それは時の流れではあるが、少し物悲しい。

国子監の前に来ると何とここも改修中で、正門から入ることは出来なかった。仕方なく隣の孔子廟へ。入り口でおばさんが『全部改修中、何にも見れなけど入るかい??』と聞いてくる。10元払って中へ。

いきなり正面に孔子の像。その前に女子高校生ぐらいの3人組がなにやら真剣に祈りを捧げている。もう直ぐ受験シーズン。やはり合格祈願か?かなり長い時間頭を垂れたままである。

その両側には石碑の林が。科挙で都に上り、進士に合格した人々の碑である。元、明、清と揃っている。歴史上有名な人の碑の横には説明書の小さな碑が添えられている。私には知っている人はいなかったが、中国人は熱心にその説明を読んでいる。科挙の難度を考えると、ここに碑が残されている人々は如何にすごい人たちであるか。

孔子廟は元の時代、1302年の創建(完工は1306年)。1916年に現在の規模(2万㎡)・様式(三進式)となる。奥に入ると各地の孔子廟の写真が展示されている。中国だけではなく、ベトナム等にも広がる。そういえば、ハノイ旅行に行った時に旧正月の混雑の中を歩いた記憶が蘇る。子供達に亀の像の頭を撫でさせたのだが、ご利益はあったのだろうか??

硯水湖、と書かれた井戸がある。かつての文人たちがここの水で墨を磨ったと言われている。水を飲むと頭が良くなると言われており、多くの受験生が訪れるようになった。どれほどの御利益があるかは不明だが、孔廟文物管理所では硯水湖の水は生水なので飲まないように呼びかけているそうだ。

 

改修中なので早々に国子監へ。国子監も『集賢門』と呼ばれる正門が改修中。横から入るとすぐに鮮やかな瑠璃色の楼牌がある。その裏が主堂、周の天子の学舎を真似た建築。周りは円形の池『月の河』である。

更に奥には大学図書館であるい倫堂。歴史的には魯迅が歴史博物館の展示場とする準備を進めたことがあるが実現しなかった場所である。

国子監は1306年にモンゴル族の子弟に漢語を、漢族の子弟にモンゴル語を教える目的で建てられた。中国最古の大学。その後朝鮮、ベトナム、ビルマ、タイからも留学生がやってきてここで学んだ。この敷地内には琉球の留学生が学んだ記録もある。ここは国際色豊かな、賢者の集会場であったのだ。

3.留賢館

孔子廟の向かい側に古びた建物がある。茶芸館、留賢館。中に入ると実に緩やかな時間が流れている。ゆったりとして空間、落ち着いた家具。さすが孔子廟の前にあるだけはある??

名前の通り賢者を留める館である。一番奥の窓際に座り、鉄観音を頼む。50元程度で十分飲める。ここではお姐さんが茶芸を披露してくれる。一人で来ても話し相手がいてよい。香港時代の知り合いYさんにこのお店出身で最近お茶屋を始めた女性を紹介された。それが我が家のお茶会の先生となる張さんだ。

ここではお茶を飲むだけでなく、茶芸を教えてくれる。それも日本語で??張さんなき後日本語での講座は中止されているらしい。こんな環境でお茶を習うのは気持ちがよさそうだが。簡単な食事も出来る。日がな一日、ボーっとここに座っているのも良いかもしれない。窓から孔子廟が見える。

4.擁和宮

擁和宮は北京最大のラマ教寺院。この地は明代宦官の住居、清代は5代雍正帝が親王時代の住居であった。雍正帝は綱紀粛正に極めて熱心で帝位に付いた後、この地に秘密警察を設置、厳しく取り締まった。雍正帝が死去した際、葬儀の後、1年余りここに遺体が安置されたと言う。

 

1744年乾隆帝の代に雍正帝時代の弾圧に対する宥和政策及びチベット、モンゴル族の不満解消のために寺院が建造された。現在寺院周りには仏具や線香を売る店が立ち並び、北京の中でも独特な雰囲気を持っている。

瑠璃牌門を潜ると参道の両側に木々が生い茂り、良い風が吹いてくる。天王殿、雍和宮、万福閣共に黄色い屋根瓦、皇帝の色である。本殿の当たる雍和宮には過去・現世・未来を現す3体の仏像が安置されている。万福閣には高さ26m、チベットから運ばれたと言う白檀の一本木による弥勒仏が安置されている。聳え立つこの仏像を見ていると、ラマ教の厳しさを感じる。

中野江漢に連れられてここを芥川龍之介が訪れている。彼はラマ教等には何の興味も無く、寧ろ嫌いであるが、北京の名所で紀行文を書く必要上、已む無く出かけたと書いている。行って見ると歓喜仏が4体あり、金を渡して見ている。なかなか凄い物だったようだが、共産中国以降このような快楽に関係する物は公にされていない。芥川によれば、それは決してエロチックではなかったというが。

思い出すのは20年前、チベットのラサに行った時の事。ポタラ宮に登ると、建物の壁画に何故か一部紙が貼ってある。そしてその紙は捲って見ることが出来るようになっていた。まさに密画と呼ばれた男女混合図などであった。首都北京では公開不可であろう。

 

またダライラマは1954年北京にやってきてここに滞在した。『ダライラマ自伝』によれば毛沢東や周恩来とも親しく交流し、教えも受けたという。しかしその後のチベット暴動、インドへの亡命となる。

そもそもラマ教とは何だろうか??ラマと言う言葉はチベット語で優者を表し、仏の上に位置する。7世紀にインドから伝わった仏教とチベット在来宗教が混在したものらしい。14世紀には宗教革命があり、戒律の厳しい現在の黄教が主となる。ダライラマの属する派である。

 

1987年留学中に訪れたチベットのラサは衝撃だった。これ以上ない青い空、青い水、それに引き換え黙々と五体投地を続ける信者、その横で貧しい姿で物売りをするその妻と物乞いする子供。宗教とは何か、考えさせられた。そんなことを思い出していると、若いラマ僧がスーッと横を通り過ぎた。まるで何事も無かったように。

 

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