《北京歴史散歩2007》(2)寛街

【寛街付近】2007年11月3日

11月初旬、最低気温は氷点下に下がり、既に季節は冬。今年の歴史散歩も時期が過ぎたと諦めかけていたが、何と今日は一日時間が取れ、しかも日中暖かい絶好のお散歩日和。この日を置いてはない。北京で一番のお気に入り、寛街を目指した。

 

寛街は行き難い場所。いつもはタクシーで行くのだが、今回は地下鉄で。建国門から一駅歩き、東単に。10月にオープンした地下鉄5号線の駅がある。何と入り口も新しくなっている。新地下鉄はこれまでの4線と異なり、ホームに二重ドアが設置されている。転落防止だが、シンガポールやバンコックで見た物と同じだと思う。この5号線により朝晩の交通渋滞が多少緩和されたらしい。

(1)北洋軍閥政府

地下鉄の新駅、張自忠駅で下りる。地上に出てくると正面に北洋軍閥政府の国務院があった洋館が見える。かなり古ぼけているが、現在も使っているのだろうか??

北洋軍閥とは元々袁世凱が清朝末期に北洋大臣に任命され、その後軍を纏めて清朝を倒し、最後は中華民国総統を目指すまでになる。しかし1916年袁世凱が亡くなると分裂を繰り返す。孫文が北京にやって来た時期は丁度段祺瑞が臨時執政として政権を担当していた頃だ。

 この重厚な建物は当時異彩を放っていたことだろう。特に清朝滅亡後も溥儀は紫禁城に留まっており、古い体制を打破する建物であっただろう。

 

 

この建物には孫文も来訪したらしい。孫文はそこで何を見ていたのか??『革命未だならず』の有名な言葉を残して北京で亡くなったのだが、その胸の内はどうだったであろうか??若い妻宋慶齢の事が心配だったか??(この夫婦は英語で会話していたらしい??)

 

孫文の遺体は当時の中央公園に安置された。今の中山公園は孫文の名前から取られ、改名されたものである。

現在この建物は国務院が使用しており、参観できない。残念。そしてその門の脇には小さな石碑が。『3・18事件』、1926年この地で軍閥政府に対して反日の抗議に立ち上がった学生、市民など47名が殺され、160名が負傷する惨事が発生。魯迅は『民国以来最も暗黒の日』と呼んだ事件である。その後1928年に張作霖が奉天で爆殺され、北洋軍閥は終わりを告げた。

(2)欧陽予倩故居

旧顧維釣邸から西へすぐ、低いがお洒落な建物(お店)が連なっている。その中心に『欧陽予倩故居』と書かれている。欧陽予倩とは誰であろうか??恥ずかしい話だが初めて聞く。本によれば『南欧北梅』とある。北の梅とは京劇の名優梅蘭芳のこと、すると南の??

彼は湖南省の出身、1949年に北京にやって来て中央戯劇学院の校長となった。彼は京劇の名優であったと同時に京劇、話劇の指導者であり、この分野の貢献は梅蘭芳をしのぐと言う事である。

15歳で日本に留学。日本時代に春柳社という話劇の団体に参加、これは中国人で最も早く話劇に参加したことになる。帰国後も上海で話劇『新劇同士会』を結成。この家には1949年から亡くなった1962年まで滞在。郭沫若、田漢、老舎など著名人が集ったという。日本の松山バレー団もやって来たらしい。

 立派な門構えの下の扉が開いていた。つい中に入る。瀟洒な洋館が目に入る。その前で数人が談笑していた。玄関前に洗濯物が干してある。ここは一般人の住居である。入ってきては行けなかった。しかし彼らは私を一瞥したが、誰も咎めなかった。本によればここは戯劇学院の職員の宿舎らしい。

練炭が積まれている。かなりこじんまりしたこの空間は結構安らげる。特別な保存はしていないらしいが、そこがまた良い。

(3)和敬公主府

更にその隣に和敬公主府と書かれた入り口があったが、きつく閉じられていた。入れないのかな、と思ったが、隣に和敬府賓館と書かれた入り口が。中に入ると何故か『中信証券』の看板が??中信証券は中国有数の証券会社だが、何故ここにあるの??結局本日は休日でオフィスすら分からなかったが、どうやらここで投資信託を売っているらしい。和敬公主は清朝乾隆帝の第3皇女、その由緒ある王府の中でちょっと不謹慎では??

 中は三進式の四合院造り。真ん中は清末の建築でその風格を残している。また至る所に獅子や龍の像が置かれている。一番後ろは和敬府賓館というホテルになっている。このホテルへの道が銀杏並木、丁度葉が色付いており、紅葉を見ることが出来た。

 

(4)文天祥祠

張自忠路を西に歩き、北に折れることが出来る道で曲がる。そこは昔の中国の路地。胡同には曲がって伸びた木が道を塞ぎ、少し歩けば道の両脇で野菜や果物を売っている。以前夜ここを歩いたことがあるが、あの暗さはまるで80年代の中国を再現したセットのような雰囲気があった。

 

 府学胡同、府学とは順天府学のこと。元々元代には寺があったそうだが、明代に学校へ。現在も府学胡同小学校と書かれており、学校である(現在入ることは出来ない。横には南宋民衆の英雄、文天祥の祠(記念館)がある。

 

中に入るとこじんまりした庭が。壁には有名な『正気の歌』が彫られており、正面には碑が。丁度の庭の柿木の柿が色付いている。1つ貰いたいような、美味しそうな柿であった。門の裏には『浩然の気』と書かれた額もある。孟子の言葉だそうだ。

 

 文天祥は優れた官僚だったが、元との戦いに参戦。囚われの身となり拷問も受けるが、彼の才を惜しむクビライハンの誘いを断り、最後まで帰順せず、柴市で処刑された人物。その気概は凄まじいものがあったようで、大石内蔵助が愛唱したとも言われている。

奥の庭には、文天祥自らが植えたとされる棗の木が枝を大きく広げて伸びている。ここは文天祥幽閉の地とされている。この木は文天祥の代わりに今も生きていることになる。

尚芥川龍之介は『北京日記抄』の中で文天祥祠を訪れたと書いており、『英雄の死も一度は可なり。二度目の死は気の毒過ぎて到底詩興などは起こらぬもと知るべし』としている。

(5)都江園

交道口という道がある。ここにはトロリーバスも走っており、木々もかなり枝を伸ばして、80年代の北京の風景を演出している。このあたり寛街は胡同も昔のまま保存されており、私の好きな場所の一つである。

本日このあたりを歩くと至る所で地面が掘り返されている。オリンピックに備えて補修工事をしているのだろうか??この辺りは西洋人観光客が多い場所であるからありえるかもしれない。

都江園は私が北京に来てから最も多く通ったレストランである。半年で20回以上??このレストランは四合院造りを改造しており、胡同の中にあること、及びメニューがコースのみで注文する手間が省ける上、何よりも料理が美味いことから、北京を知る上で是非とも連れて来たい場所である。

都江園は四川省の世界遺産である水利施設『都江堰』(成都の西北60キロの都江堰市の西に位置)より名を取った。都江堰が作られる前、岷江はしばしば氾濫して災難を引き起こしていたが、今から約2250年前の秦の昭王の時代に、李氷とその息子が先人の治水の経験を生かし、地元住民を率いて水利工事に着手。その主要な工程は、「魚嘴」という堤防を川の真中に建造し、川の流れを真中で分けたことで、激しく沸き立つ岷江を外江と内江に仕切り、外江で余分な水を排し、内江で水を引いて灌漑に利用した。これらの水利施設以来、成都平原の肥沃で広大な平野は、豊かな土地となり、四川省の経済、文化の発展に大きな貢献を果たしたといわれている。

という訳でここは四川料理屋であるが、夜のライトアップが美しく、また閑静な場所にあることから西洋人の利用客が多く、頼めば辛くない四川料理が出て来る。しかもこれが美味しい。更には極めつけのタンタン麺はスープ麺で、肉味噌とピーナッツで味付けしたスープにソーメンのような柔らかい麺が絶妙。

昼間もオープンしているがお客は殆どいないので、顔馴染みの店員に建物の由来を聞くと『100年以上前の建築。清末の将軍が住んでいた。その将軍はモンゴルと戦ったと聞いている。』とのこと。アンティークな家具が配置され、何ともいえない優雅な雰囲気の中で今日は特別にタンタン麺だけを作って貰った。その美味さに思わずスープも飲み干し、後で痛い目にあってしまったが??

(6)南鑼鼓巷

都江園から西に歩くと直ぐに四合院ホテルとして有名な侶松園賓館がある。ここは僧王府と言われたモンゴル親王、僧格林泌の邸宅の一部を改造したもの。ここのお客さんは殆どが欧米人。日本人はあまり見たことはないが、ガイドブックには必ず載っている。中庭に実に気持ちよい空間が存在し、夏の夜などはキャンドルライトでビール等を飲む姿がチラホラ。欧米人は旅の楽しみを知っていると思う瞬間である。

更に西に行くと流行のスポット南鑼鼓巷。ここには欧米人が好きそうなバーが立ち並び、それに釣られてちょっと粋を自称する中国人の若者が集まる。しかしこの週末の昼下がり、開いている店も少なく、人影もまばら。

先日出張者を案内して夜あるバーに入ると『2階へどうぞ』と言われる。あれ、2階なんかあったけ??と思って階段を登ると何とそこは屋上。薄暗い中に数々の家具が雑然と置かれ、ソファーに腰を落ち着けたが、何とも落ち着かない。月明かりもなく、暗闇バーとなっていたが、東京から来た人間には新鮮だった様だ。

南鑼鼓巷を北に上る。東西の道はどこもかしこも道路工事中。若干興ざめするものの、歩く。そういえば南鑼鼓巷は別名をムカデ街と呼ぶそうな。理由はこの道を中心に両側に沢山の胡同が展開されているから。そして最後に目指す後円恩寺胡同へ。小さな入り口に『茅盾故居』とある。

(7)茅盾故居

茅盾、この革命作家については良く知らない。恥ずかしい話だが、作品を読んだこともない。『子午』『蝕』『林家鋪子』など有名な作品がいくつもあるのに、一度も手を出さなかった。何故だろうか??

茅盾の故郷は浙江省桐郷県烏鎮。太湖の南岸に位置する水の豊かな田舎町。その風情が展示室に写真で飾られており、興味を引く。共産党結党と共に入党したが、その後日本にも亡命。文革の嵐の後、息を引き取る直前に共産党党員資格を回復する等数奇な運命を辿っている。

 故居には晩年孫と遊んだ小さな庭があり、胸像が配されている。奥には住居があり、入ることは適わないが、書斎、客間、居間が全て生前のまま保存されている様子が見える。戸外には奥さんが買ってきたと言う旧式の冷蔵庫が大切に??放置されている。

 

心地よい午後の日差しを浴びて、この殆ど人影のない庭で欠伸をすると、北京も満更ではないな、と思えてくるか不思議である。

(8)友好賓館
茅盾故居の横に立派な洋館が建っていた。その名を見てビックリ。友好賓館、しかもその看板には日本料理割烹白雲の字が。

白雲と言えば、1986年初めて北京に来た際、寿司をご馳走になった場所。上海に日本料理屋が無かった時代、北京まで食べに来たのだ。創価学会系ということで特別に認められ、大連から新鮮な魚を輸入しているとのことで、その夜は大満足だったことを記憶している。

1984年に北京には既に3つの日本料理屋があったと知人が言う。北京飯店の五人百姓、建国飯店の中鉢とこの白雲。私はこの全てを1986年に体験していたが、場所が分からなかったのは、この白雲だけ。

その薄暗い胡同はどこにあったのか??前回の駐在の際も思い出してみるものの結局探さなかったその場所に居間偶然辿りつたのだ。歴史散歩の面白いところである。80年代に北京に住んでいた日本人なら誰でも知っていたレストランであるが、時代は流れた。

本日中に入ろうとしても門は硬く閉ざされていて入れない。既にレストランだけでなく、ホテル自体が閉鎖された物と思われる。門から中を覗くと柳がしな垂れ、その後ろに洋館が見える。しかしプレートには四合院の文字がある。西側が見事な四合院だそうで、東側には円明園から運んできた築山もあると言う。見られないのが残念である。

因みにここは1875年にイタリア人により設計され、乾隆帝のひ孫が住んだらしい。ところがこのお坊ちゃんは博打好きで借金のカタに屋敷を手放し、その後持ち主が転々、蒋介石が別邸として使っていたことでも有名。歴史的な場所がまた一つ役割を終えた。

 

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