《昔の旅1986年‐激闘中国大陸編》南京ー金陵飯店とバスの故障

〈4回目の旅-1986年12月南京〉
―金陵飯店とバスの故障

1. 南京
(1)南京まで
上海も冬になり肌寒くなった12月、良いホテルに泊まり湯船にゆっくり浸かりたいという日本的な理由で南京に行くことになった。何しろ南京には金陵飯店がある。当時としてはレベルの高いホテルと聞いていたので、早速電話すると250元で予約が取れた。ホテルの予約を電話でできるとはその当時非常に稀なことであり、かなり期待できるホテルであることが分かった。

今回は同室のAさんと2人で旅。と思ったら、同窓で1年先輩のMさんと華東師範で日本語の先生の女性2人も同行することになった。彼らは南京大学の知り合いに会いに行くところだった。

以前無錫に行くとき乗った列車に乗り、今回は終点の南京まで約5時間の旅である。前回は10月で気候の良い時であったから、非常に爽やかな秋の風景であったが、今回は畑も一面刈り取られ何も無い非常に寂しい冬景色だった。

(2)南京の夜
駅に着くと直ぐに金陵飯店へ。部屋はまあきれいな方であったが、湯船はそれ程大きくなかった。それでもホテルのチェックインで何時間も交渉することを考えれば満足、満足。

それから4人で南京大学へ行き、留学生と会う。南京大学は金陵飯店の直ぐ北にあり、町の中心にあるこじんまりした大学。金融機関から派遣された留学生も何人かいたが、今回は学生で留学している人々と会う。大学の先輩、後輩もいた。かれらは月に1度は上海に来ると言う。我々にとっては物の無い上海でも、南京から見ると憧れの町であるらしい。学生らしく書籍を購入しに来る人も居る。我々が実は恵まれていることがこの時分かる。留学生宿舎も我が復旦大学の方が整っている。お湯のシャワーが24時間出る、暖房(暖気)も24時間出ているのは全国の大学でも復旦だけ。南京大学ではそんな贅沢は無いと言う。

夜は近所のレストランで食事を取る。何時も旅行中はホテルでばかり食事をしている我々にとって、地元レストランは結構新鮮。かなり薄暗い中、料理も美味しかった気がする。ちょっと塩辛かったけれど。

ホテルに戻り今回の目的である風呂に入る。今でも海外生活では湯船に湯をたっぷり張ってゆっくりと浸かりたい願望はある。ましてやこの当時、上海の宿舎では泥の混ざったような茶色いシャワーを浴びていたのである。その切実さは計り知れない。湯船に体を沈めれば、何ともいえない心地であった。

(3)南京観光
2日目。南京観光。先ずは中山陵へ。孫文の遺体が安置されている場所で革命の聖地と言った感じ。台湾旅行で行った中正記念堂の蒋介石像は南京の中山陵の方を向いていると教えられた。何時か大陸に戻るという願望の表れだ。

階段がかなり沢山あり、上るのに難儀したのを覚えている。その横を日本の高校生が修学旅行で訪れており、ぞろぞろと同じ服(学生服)を着て詰まらなそうに歩いているのが印象的だった。私は常々日本の学生にこそこの物の無い生活を体験させたいと考えていたが、見た感じとても耐えられそうに無い。日本の将来が思いやられた。

雨花台烈士陵園にも行った。紀元前に越王が城を築いたと言うから歴史はかなり古い。しかし雨花台といえば、何と言っても国民党の処刑場として使われ、多くの人間が殺された場所である。今は静かな公園になっている。

午後南京長江大橋に行く。1968年に完成された中国最大の橋。当初はソ連の技術を導入したが、中ソの仲が悪くなり最後は自力で完成させたと誇らしげな解説が見える。確かに長江は大きい、広い。河の向こう側は煙ってよく見えない。日本にはこんなに広い川幅は見ることが出来ないと思う。しかも橋は2段になっており、下は鉄道が通っている。

橋の近くに南京虐殺記念館があったと思う。今地図を見ると大橋からは少し離れているが。ここは文字通り1937年の南京大虐殺関連の資料が展示されている。一歩中に踏み込むと言い知れぬ重圧がある。先ず映像室に案内され、ビデオを見るのだが、これが虐殺シーンの連続で見ている最中後ろから切り付けられるような気分になる。ビデオを見終わって外に出ると流石に誰も日本語を話そうとしない。無言で展示物に目をやる。殺された30万人の内訳などが詳細に記入されており、日本などの『虐殺は無かった、でっち上げ。』などの意見に真っ向から反対している。

帰ろうとするとアメリカ人が英語で『日本人は虐殺をどう考えているのか?』と質問してきた。これまで事実かどうかといった話はしたことがあったが、アメリカ人に英語で話すほどの回答を持ち合わせていない。こういう時に情けないなと思う。同時に日本の歴史教育とは何かと考えさせられてしまう。さっきの高校生なら『知らない、何それ。』などと平気で答えてしまうだろう。

夜は金陵飯店で中華を食う。旨かった。久しぶりに旨い中華を食った。夜遅くロビーに下りるとコーヒーショップがまだやっている。何と24時間営業。中国で24時間営業の場所を初めて見た。別にお腹はすいていなかったが思わず入ってしまう。ここで生まれて初めて『海南チキンライス』を食べる。鳥好きの私はこの後十数年海南チキンと付き合うことになる。今でも最も好きな料理である。コーヒーも飲んで大満足。

2.揚州へ
3日目。今日は南京を離れ、揚州に行くことにした。揚州まではバスで3時間。前日バスターミナルで日本製のバスであることを確認して予約した。南京大学の人々が口を揃えてバスが良く故障するので、気を付けろと言っていたからだ。

揚州と言えば、揚州チャーハン。勿論鑑真和上の大明寺もあるが、先ずは食い気である。意気揚々とバスに乗り込み、チャーハンのことを考えていた。きっとAさんも同じだったろう。バスは日本製。問題無し。

バスは快調に1時間ほど走っていたが、その辺りから雲行きが怪しくなる。まさかと思っていたが、日本製のバスのご利益も無く、何と故障。20分ぐらい停車し運転手は懸命に修理を試みていたようだが、最後にスパナをポンと放り投げる。それが合図なのか乗客が皆降りはじめ、何と思い思いにヒッチハイクを始める。そして手際よくバスを捕まえどんどん乗り込んで行く。我々2人の日本人は呆然と見つめるだけ。あっという間に取り残された。

やむを得ず運転手のところに行き、外国人の我々を何とかしろと迫る。必死の形相が功を奏したか、運転手がヒッチハイクを始めた。ところがなかなか来ない。そして何と反対側のバスを捕まえて何か話し込む。これに乗れという。我々ももうどうでも良くなっていたので、南京に引き返すそのバスの乗ってしまう。

乗っても席が無い。当時交通機関は何処でも満員なのだ。運転手が手招きし、運転台の後ろの空間に座れと言う。色々話しかけてくるが、この地域も訛りが強い。何を言っているか良く分からない。しかし最後に分かったことには、どうやら最初のバスの運転手が『この日本人は非常に急いでおり、南京駅から汽車に乗らなければならない』と嘘をついて乗せてくれていたことだ。

まさか嘘だとも言えず、頷いていると何と運転手は路線バスにもかかわらず、いの一番に南京駅の前にバスを付けてくれた。これには驚いた。本来は感謝すべきであるが、当方には南京駅に行く理由は無かったから、キチンと挨拶もせず降りてしまった。悪いことをしたと今でも反省している。

駅に着いてしまったからには、何とか今日の上海行きの切符をゲットしたいところ。しかし中国はそんなに甘くない。係員は全く取り合わない。やる気の無い姿勢でウンでもなければスンでもない。私はもうこんな状態には慣れていたので、粘り強く交渉しようと思っていた。ところが、普段温厚なAさんが突然キレた。あれは正にキレたのだ。最初は北京語で何故売らないんだと言っていたが、途中からは日本語で捲くし立てた。こんなAさんを初めて見たので、私の方が慌ててしまった。翌日の切符を?ぎ取るとAさんを外へ連れ出した。普段大人しい人が怒ると本当に怖いとその時知った。

兎に角泊まるところが無いので、金陵飯店に戻って事情を話したところ、快くもう1泊させてくれた。しかしもう観光もしてしまったので、行くところが無い。部屋でゆっくりしたのを覚えている。

4日目。上海に戻る。結局揚州チャーハンは次回の機会を待つことになった。

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