アジア一の先進国 シンガポールを旅する2013(3)日本人墓地へ行く

3月3日(日)  日本人墓地

翌朝はスッキリ起きて、朝食を食べ、そして日本人墓地に向かった。先日香港で友人に誘われて行った日本人墓地。香港に9年も滞在しながら、殆ど何も知らなかった。シンガポールにもある聞き、行って見ることにしたのだ。だが、どこにあるのかは良く分からない。地球の歩き方にも「タクシーで行け」となっていた。そこでタクシーでの行くのはあまり意味がない。地下鉄に乗ってみた。

リトルインディアなどを通り、セランゴールへ向かう。方向はこれでよいようだが。駅で降り、何とか糸口はないかとバス停などを探したが、表示などは何もなく良く分からない。仕方なくここからタクシーに乗る。だがシンガポールはタクシースタンド以外でタクシーを停めることが出来ない。先ずはスタンドを探し、タクシーを待つ。日曜日で車は少ない。ようやくやって来たタクシーの運転手に「日本人墓地」と言ってみたが、全く分からないという顔をして行ってしまった。

こうなると地図もない私にはどうすることも出来ない。ここまでかと思ったが、次に来たタクシーは「多分あそこだ」と言って、乗せてくれた。10分ほど行った高級住宅街でタクシーは停まる。ここだ、と言われて見てみると、「日本人墓地公園」と書かれていた。運転手が「帰りは大きな通りまで出てタクシーを拾え」と親切に教えてくれた。

中に入ると実にきれいに整備されており、驚く。1890年頃に使われ出したこの墓地には当地で活躍した商売人やからゆきさん、戦犯処刑者も眠っていると書かれている。何故公園になっているのかは、シンガポールの政府の接収を逃れるため、苦肉の策として公園としたらしい。香港などのように外国人墓地の一角に墓があるのではなく、全て日本人の墓地という特徴がある。そして実にきれいに保存されている。

左側には御堂もある。そして左半分には戦争関係者の墓や碑が建てられている。香港には全くなかった戦争の影がここにはある。そして右側には一般の墓が相当数ある。中にはこの地で落命した二葉亭四迷の碑、からゆきさんの碑などもある。様々な事情でこの地に来て、そこで亡くなった日本人、このような形で墓地が残っているのはシンガポールとの関係が良いということなのだろうか。シンガポールでも多くの人々が日本軍のために犠牲になったと聞くので、つい思いを巡らせてしまう。

後方にはシンガポールで活躍した日本人の碑もあった。ここは公園の雰囲気を出していた。孫文を助けた梅谷庄吉の名前などもあり、感慨深いものがある。当時のシンガポールを含めたアジアは、我々が思っているより、実は日本と近い関係にあったのではないだろうか。周囲の高級住宅を見るにつけ、そんな思いに駆られる。シンガポールの若者が入ってきて、掲示板を熱心に読み、写真を撮り始めた。彼らは単なる歴史の1コマをカメラに収めているのか、それとも深くこの関係を理解しているのか、聞いてみたかったがやめた。

バスで爺さんと

墓地を後にして、広い通りに出た。タクシーで戻ろうかと思ったが詰まらないので、バスに乗ってみた。何台もバスは来たが、どれに乗ってよいか、遂にわからない。仕方なく来たバスの運転手に「MTR駅へ行くか」と英語で聞いたが、要領を得ない。もうどうでもよいと乗り込んでしまう。

すると、一人の爺さんが肩をたたき、「どこへ行きたいのか」と聞いてきた。どう見ても中華系だが英語が流暢なのでそのまま話し始めた。どうやらかなり先に駅があるようで、彼は何度も「もう少し待て」という。隣に座って話を聞く。

「シンガポールは狭いが便利さ」「既に定年になったが生活は出来るよ、小さいけれども家もあるし」「日本には行ってみたいが、旅行代金が高い。でもマレーシアやインドネシア、フィリピンぐらいなら、誰でも行けるよ」「時間が沢山あるから時々警備員の仕事をしている」などなど。

正直シンガポールの平均より下の生活水準の爺さんだと感じたが、それでも楽しそうに話す。この明るさが何処から来るのか、それは「小さいけれども家がある」ではないだろうか。シンガポール政府の定めたHDB制度、シンガポール人には住宅を供給するこの制度のお蔭でこの国の持ち家比率は83%と極めて高い。経済が発展し、不動産価格が上昇すると、一般庶民もそれなりの恩恵を被る仕組み。まるで株式投資で配当を貰うようなもの。まさにシンガポール人が経済の恩恵を受けており、家の無く家賃に苦しんでいる人が多い香港との決定的な差となって表れている。

途中工業団地のような場所を通る。爺さんが「昔は日本企業の工場もたくさんあったよ」と懐かしそうに話す。結局30分以上もバスに乗り、ようやく着いた駅は私が思っていたのと全く違う場所であり、街中へ戻るにはかなりの時間が掛かってしまったが、爺さんと話したことはシンガポールを理解するうえで実に重要だったと思う。

マリーナベイサンズ

この地下鉄にそのまま乗って行くとマリーナベイと到着する。ここにはカジノがあると聞いたので、行って見ることにした。しかし電車は一向に着かない。しかも相当に混んでいる。30分も立っているとようやく終点に着いたが、何とマリーナベイサンズの下へ行くにはさらに乗換もう一駅進む。

マリーナベイサンズ、10年前はなかった建物。マーライオンの対岸に建てられた巨大コンプレックス。カジノが入っていることで有名になったが、ホテル、ショッピングモール、レストランなどあり、まるで迷路のように繋がっている。

先ずはカジノに行ってみた。何とシンガポール人は100S$の入場料を取られるが、外国人はパスポートを見せると無料で入れる。日曜日の昼下がりで客は多くはなかったが、何しろ施設が大きいため、どれぐらい人がいるのかわからない。中国人の団体観光客がスロットマシーンに興じ、もう少し慣れた人々はバカラやブラックジャックの席に着く。マカオでお馴染みの大小の台もたくさんある。ここは無料で飲み物も飲める。シンガポールの顧客サービス姿勢の一端を見る。

外へ出るとモール一帯にブランドショップが並ぶ。楽しそうに買い物に励む観光客の姿が多く見られた。ホテルのロビーに行くと団体観光客のチェックイン待ちの長い列が。やはりすごい人気らしい。非常にうまく作ったものだと感心する。建物の外へ出ると、向こう岸が見える。カジノを核にした開発と観光客誘致、人工都市シンガポールの面目躍如、というところか。

モール内で気になったのが、昨日も話に出たTWGというティーショップ。何とこの施設内に2店舗を持ち、しかも喫茶部分と購入部分の店が分かれているため、スペースとしては4店舗分ある感じ。買い物に疲れた人々がオシャレに休息し、ハイティーを楽しんでいる。料金は決して安くはないが、満員の盛況だ。このお店、益々知りたくなる。

リャンコートとオーチャード

歩いてチャイナタウンまで帰る。もう道には慣れていたが、さすがに遠い。ホテル付近まで戻ると如何にも昔の雰囲気を留めた場所がある。しかしそれとても人工的に保存されているわけで、だんだん疲れを覚えてくる。

ホテルで休息し、夕方再び出掛ける。久しぶりのオーチャードロード。またバスに乗り込む。オーチャードロードは私が初めてシンガポールに来た1987年に最初にやってきた場所だ。あの頃はホテルが安かった。今でも一流ホテルであるシャングリラが最高級ホテルでそのツインが15,000円だったのを覚えている。

バスが進むと、向こうにリャンコートの文字が見える。ここも懐かしい。昔大丸があったところだ。確かニューオータニのホテルもあったような。この辺にはよく来たわけだ。無性に降りたくなり、バスを飛び下りた。するとバスに乗車しようとする人の中に見覚えがある顔が。何とこれから会うはずのM先輩だった。向こうも驚いてバスから降りてきた。聞けばこのバス停の前に住んでいるとのこと。お互い突然の再会に驚く。

今やリャンコートに大丸は無く、明治屋が入っていた。それにしても日本食品の充実していることは大丸時代と変わりない。いや、今の方が高級なのだろう。ラーメン屋など、食べ物屋も色々とある。アジア一の先進国シンガポールへ出店する日本食屋は増えている。だが、家賃も高いし、競争も激しい。生き残るのは大変だろう。

そこから歩いてオーチャードロードへ。夕方は少し涼しいとはいえ、歩くとかなりの距離があり、暑くなる。オーチャードは相変わらず両側高い建物で囲まれていた。買い物客も多い。大戸屋へ入る。ここで元上司のTさんが待っていてくれた。Mさんと3人、昔話などをする。海外で元勤め先の人々と会うのは何となく楽しい。因みにオーチャードロードの大戸屋は「東京の銀座に店を出すような感覚」というほど家賃は高いらしい。





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