新疆南路を行く2012(4)アクス ラマダン明け キジル千仏洞を見る

4.アクス  (1)  アクスで

街中のホテルに入る。アクスの街は正直大きくはない。発展から取り残されていると言ってもいいかもしれない。それでもホテルのロビーにある旅行社の宣伝には「チャーター機で韓国へ行こう」などと書かれている。一体誰が行くのだろうか。

夜はJ教授の知り合いが集まり、きれいなレストランで夕食を取る。そして夜市へ案内される。ホータンといい、アクスといい、残念ながら主要な産業に恵まれない地域は取り残されていく、という印象を持つ。でも、発展すればよいというものではないから、何とも言えないが。

8月17日(金)  (2)   夜の大宴会

翌朝は郊外の農業関係の施設を訪問した。果物に特化して成功しているケースを見た。そして何よりも元々日本の技術が山東に導入され、その技術が更にこちらに入れられて作られていたリンゴがここで開花していた。一部は以下のコラムに書いた。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5260

ここで成功した農家が近隣に建てられた別荘のような家を買っているという。銀行から住宅ローンも出るらしい。まさに小さな都市化の表れであろう。

夕方J教授の実家へお邪魔した。J教授のお父さんはやはり大学教授。しかもアクスでは有名な教育者でアクスにある大学の校長も務めていた人物。実家はその大学の敷地内にある。如何にも中国的。小さいが実に雰囲気の良い前庭があり、竈もあった。N教授が理想とする家がそこにある。

本日はラマダン明けということで、家には親戚が詰めかけ、ご馳走が作られ、我々を待っていた。羊肉をナイフで丁寧に切り分け、ポーラの上に載せて食べる。汁麺も出てくる。フルーツもふんだんにある。何だか凄いパーティに紛れ込んだ気分。

8月18日(土)  (3)   アクス郊外

翌朝はクチャに向けて出発。J教授の妹さん一家がアクスからウルムチへ引っ越すこととなっており、その家財道具の一部を積み、またJ教授のお父さん及び妹さんの息子も車に乗り込む。更に面白い旅になりそうだ。

先ずはアクス郊外の遺跡を目指す。ここは数百年前の街のようだが、今は廃墟になっており、砂に埋まっている感じだ。シルクロードの遺跡、という雰囲気が漂う。全く整備されておらず、何が何だか分からないがかなり広い街がそこにあったように思われる。そして周辺の開発は進んでいる。もしやすると開発の過程でこの遺跡が出て来たのかもしれない。保護されるのかどうか、なかなか難しい現実がありそうだ。

(4  )   美味い昼飯

車はクチャを目指すと思ったが、直接クチャへは行かず、A教授の希望で(私の希望でもある)キジル千仏洞へ向かう。普通に行けば高速道路を通り、味気ない景色が流れていくのだが、今回の道は三蔵法師も通ったかと思うほど、新疆南路に相応しい古びた道。

途中でランチを取る。道路沿いの街の何の変哲もないレストラン。ラマダン明けで朝から営業している。いい湯気が立っている。ケバブを焼くいい煙も立っている。餃子も作られている。ラグメンとケバブそして熱々餃子を口に含むと、あまりの絶品に口も驚く。

庶民が食べる何気ない食堂。そこには低価格で美味い物がある。そして一杯のお茶を啜れば、もうそれで満足。J教授のお父さんを見ていると、本当にそう思う。人間には限度がある、各人には分がある、ということを今の資本主義社会は忘れている。

(4)   キジル石窟

高原の何もない味気ない道を行く。拝城県と言う街を通過する。既にかなりの距離を走っているはずだが。ボーっと外を眺めていると、下り坂の向こうに川が見えた。と思っていると何やら門がある。だが追い返される。どこへ来たんだ。バスは来た道をわずかに戻り、また別の門へ。こちらがキジル千仏洞の入り口だった。

J教授が入場券を買い、中へ入る。ところが千仏洞を見学するのはN教授、A教授と私の3人の日本人のみ。最近整備された一つの窟を見学するのに一人800元も取ると言っていたので、そのせいかと思いきや、どうも違うらしい。我々に渡されたチケットは教員割引で35元。

ちょっと躊躇うも、既に目の前の山壁に千仏洞が見えている。これは上るしかない。また目の前には北魏に捉えられた名僧、クマーラージュの像もある。これは行かねばなるまい。恐らくJ教授ほかは皆ウイグル族。ここは仏教遺跡で宗教が異なること、また更に慮れば、この遺跡を破壊したのはイスラム教徒であり、その姿を見るには躊躇いがあるかと思う。

キジル千仏洞、30年前のNHKシルクロードでは「敦煌莫高窟についで、シルクロードに咲いた仏教美術の名花」と表現されている。キジルには236窟あるが、現在その殆どが空の状態だとか。3世紀に始まり、11世紀ごろまで造営された窟は20世紀初頭、ドイツのルコックとヘディンにより、ほぼ重要部分が持ち去られた。窟内の表示にも「この部分はルコックに持ち去られた」と書かれている。大谷探検隊もここへ来たはずだが、泥棒扱いはない。

上に登る階段は急であり、息が上がる。何故か先導には日本語が出来る女性がいる。彼女について最初の窟に入る。かなりコンパクトな部屋だ。正面に安置されていた仏像は破壊されている。壁の壁画も殆どが変色、または剥ぎ取られており、僅かに足の部分が見えたりしている。奥に進むと裏に回る道がある。正面の裏には涅槃物が安置されていたらしい。これも今では想像するしかない。ここに作られた窟には2種類あるという。仏を安置した祈りの場所。ここは僧が閉じこもり、一心に修行する所だっただろう。もう一つは僧が宿泊する場所。こちらは煮炊きする簡単な竈まであったが、煙突は作れず、煙は窓から出していたとか。更にいえば、階段などない時代、上るだけでも大変だったのに、どうやって水など運んだのだろうか。興味深い謎である。ただ外は暑いが、ここに居ると涼しく感じられる。いい風も入ってくる。意外と快適だったかと思う。

最大の見物は第8窟だという。中に入るとガイドが天井を見ろという。見上げるとそこに伎楽天画がきれいに残っていた。ふくよかな女性が五弦琵琶を奏でている図だ。五弦琵琶は中国にはないが、日本の正倉院にはあるという。これが何を意味するのか、古代のロマンを一気に掻き立てられる。

外に出ると、実に見事な風景が目の前に広がる。河があり、山がある。しかしこの風景をカメラに収めることは出来ない。千仏洞はカメラ持ち込み禁止。下の入り口で荷物は全て預けさせられる。これはルコップなどに持ち去られたトラウマだろうか。ルコップが持ち去った品々は今ベルリンに保管され、研究が進んでいるという。世紀の発見か、ただの泥棒か。

尚我々の前後にはほぼ老人の日本人の団体観光客、後ろからは大勢の中国人観光客がどっと押し寄せてきた。ゆっくり眺める暇はない。特に中国人ガイドの解説は窟内に響き渡り、我々の耳を塞いでしまった。それでも土産物屋のおじさんによれば、ここ10年はそれ以前より客が少ない。特にウルムチ暴動以降は減っている。今年も思ったほどは来ていない、と言い、「半額にするから何か買ってよ」と迫ってきた。




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