西の果てカシュガルへ行く2012(4)カシュガル 少数民族の悲哀

2月13日(月)

(3)   3日目   カシュガルの小学校

月曜日の朝、ホテルの部屋から外を眺めると、隣の学校で雪の中、朝礼のような物が行われていた。ウイグル族の子が多く見えたが、先生の声は普通話。しかも朝から大声で何か怒鳴っているように聞こえる。

新疆では漢族の学校と少数民族の学校は分かれていると聞く。だが、例えばウイグル族が将来良い職に就くためには、漢族の学校で普通話に慣れて、大学入試試験をパスして、良い大学に行く必要がある。そのため、小学校から成績の良い子、親が将来を考える子は漢族学校へ行く。

最近ではウイグル族の子でもウイグル語が上手く話せない、お爺さんなどとコミュニケーションが取れなくなる子が出て来ているという。経済至上主義で考えればやむを得ないことかもしれないが、少なくとも新疆に住んでいるのに、自らの民族の言葉が不自由というのは、如何なものだろうか。前回の訪問でも聞いたいが、ウイグル族の学校で高校まで過ごした人が、内地の大学に行くには、1-2年の普通話教育を別途受ける必要があるほど、不便ではある。しかし何が幸せであるかは、人により違うのではないだろうか。

カシュガルの高校生

お昼はまた立派なウイグルレストランでたらふく、羊肉とポーラ(ウイグルチャーハン)、ラグメンを頂いた。相変わらず幸せな日々が続いている。人によっては飽きてしまうかもしれないが、私はいくら食べても飽きることが無い。かなり適合している、いや本当に美味い物は飽きないのでは。

この席にはJ教授の同窓生が参加していた。某局課長クラスなど、カシュガルではエリート層だろう。皆慎み深く、我々に配慮して、色々と世話を焼いてくれる。勿論内地では漢族も同じように面倒を見てくれることがあるが、新疆で見られるウイグル族の配慮には更に深い絆のような物が見え隠れする。

その席に何故かウイグルの女子高校生が一人座っていた某課長の娘さんだという。確かに昨日も一部我々に同行していた。彼女は仕切りに隣のA教授と英語で会話している。まるで英語のレッスンのようだな、と思っていると、課長が「娘は最近英語を習い始め、外国人と会う機会が殆どないので、今回同席させた」という。まさにレッスンだった。

彼女は高校卒業後、出来れば海外留学したいという。高校1年生で既にはっきりした意志を感じる。英語を習っているので行先はアメリカかイギリス、はたまた香港かなどと思っていると「行きたい所はフランス」とあっけらかんと答える。その表情が少し子供っぽく、ホッとする。日本の印象を聞いてみると「あまりよくは知らないが、印象は良い」と答えたが、日本への留学はどうかと聞くと、一言のもと、「全く考えられない」とバッサリ。日本の大学の先生達もこの一言にはちょっとショックだったのか、「これが今に日本の大学の現状ですね」としんみり。

故郷である新疆に止まることは、彼ら若者には少し苦痛なのかもしれない。それは今の置かれている現状を見れば、仕方がないことだろう。日本の若者は相当疲弊しているが、まだ余力のある日本と言う国に甘んじているが、もう10年もすれば全く別の行動が出て来るだろうか。

香妃の墓

午後も観光に出た。カシュガル郊外、イスラムスタイルの建築物を目の前にする。なかなか格好が良い建物だ。冬は観光客がいないのか、係員も探さないと出て来ない。アパク・ホージャ一族の墓、15世紀以降、この地を支配した一族の墓と聞き、ちょっと意外な感がある。

1640年、この地の王であったホージャーが創建。建物の外壁は継ぎはぎのように様々な色のレンガで組み立てられており、面白い。1族5代、70人以上が眠ると聞く。建物の入り口には精緻は模様が描かれており、栄華が忍ばれる。

このお墓が注目されるのは、何と言っても清朝の乾隆帝に見初められ、北京に連れて行かれた香妃の墓があるからであろう。香妃は伝説で満ちている。彼女は香水もつけないのに体から花の香が漂っていたので、「香妃」と呼ばれたとか。1760年、乾隆帝の妃に召されるも、皇帝の愛を拒んで自殺したとか、故郷を想うあまり病死したとか、また皇太后に殺されたとも伝えられている。遺体がカシュガルに送られ、この墓に葬られた。また全く別の話としては、香妃は皇帝の愛を受け入れ長く共に暮らし東陵に葬られ、後にカシュガルに移されたとも。真相は不明。

いずれにしても少数民族の悲哀が出ている墓である。現在でも香妃のような女性はいるのだろうか。想像していくとどんどん膨らんでしまうのは、昔の人と同じだろうか。

ハウス栽培農家

カシュガル郊外の村を訪ねた。この付近の村は先進的な取り組みをしているということで出掛けたのが、既にはが一本もない街路樹、冬の冷え冷えとした街道を走った先には思わぬものが待っていた。

雪が残る農地、その一角に不思議な建物があった。低いドーム型、土で固めた外壁、天井はビニールが何重にも巻いているように見える。この付近は風が強いのか、麻袋に土を詰め、重しとして天井から吊るしている。一体これはないんだろうか。村長さんが案内してくれ、中へ入る。何とそこには鮮やかな緑の野菜畑が出現。

この村では2005年から、政府方針である緑化政策に合わせて、野菜の室内栽培を始めた。それまでは冬は農閑期で仕事が無かったが、村長が決断し、政府の補助も受け、自らハウスを建設し、栽培を開始。その成功により、今は数十軒の農家が個々にハウス栽培をしているという。

ハウス内は零下10度の外からすると別世界。少し暑いぐらいの温度に保たれ、野菜が順調に育っている。作物は主に新疆内で消費されるようだが、各都市の消費が上がるにつれ、このような近郊作物栽培も増加していくだろう。





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