新疆北路を行く2011(4)トルファン ラマダンにさ迷い歩く

灼熱の交河城址

次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。

しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。

何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。

出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。

交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。

実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。

尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。

当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。

交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。

ラマダンに彷徨う
既に午後3時、昼食場所へ向かう。J氏の教え子と言う男性が現れ、先導してくれる。先生はいいな、どこにでも教え子がいる。しかし教え子とは言っても堂々とした人。市政府に務めているらしい。

少し郊外の雰囲気のよいレストランに到着。観光客も外で待っている。中に入るとぶどう棚、その下に桟敷?があり、とてもいいムードで食事が出来そうだ。ところがどっこい、追い出される。何とラマダン中で昼間店はクローズ。期待は大きく裏切られる。

ようやく街中のレストランに入ったのは午後4時。しかし新疆時間ではまだ昼ごはん時間だった。地下へ降りていくと数組が食事中。我々のテーブルには薬缶で茶碗にお茶が配られる。冷たい物が飲みたい気分だが、それは仕方がない。ところがもう一つ薬缶が出て来た。白湯かな、と思っていると、冷たい。そして色はお茶のそれだが、何故か泡が立っている。N先生の目が輝いた。外国人待遇が得られたようだ。

腹が減っていたことはあるだろうが、ここのラグメンは本当に美味しかった。ニンジン、ピーマン、キュウリ、インゲンなどの具が程よく上に乗り、麺も細いがしっかりしていて、味わいが深い。思わず、お替り、というか日本のラーメンでいう替え玉を頼む。具は残しておいて、麺を追加する。いくらでも食べられそうな。

火焔山

そして一行は火焔山へ向かった。火焔山と言えば、西遊記が思い出される。山とは言いながら、かなり広い範囲を指すらしい。我々は一路、ベゼクリク千仏洞を目指した。山が傾斜する砂漠に見える。その空が広がる渓谷に千仏洞はあった。

この千仏洞は6世紀の高昌国の時代に作り始められ、9世紀に最盛期を迎えた。13世紀のイスラム侵攻により破壊されたが、現在いくつかの石窟が残っている。しかしその内部は19世紀末にやって来た外国探検隊に殆どをはぎ取られている。正直見学できるいくつかの石窟に入っても、どこに壁画が描かれているのか分からない。係員が下の方を指さし、足の部分だけが辛うじて見えた、と言った状態。また僅かに全景が見える壁画が薄く残っているのみ。

千仏洞の入り口にウイグル人と思われる老人が一人で楽器を弾いていた。その音色がこの風景のマッチしておりなかなか良い。顔も日焼けして如何にもこの辺りの人。音楽好きで大バザールでタンバリンを購入したN先生、老人に近づき、その音楽に合わせてリズムを取り、タンバリンを忘れたことを悔やむ。老人にチップを渡すと、何と「昴」を演奏してくれた。お客の国籍をちゃんと把握している。

外に出ると「火焔山」と書かれた石碑の横に駱駝が待機している。観光客を乗せて、斜面を登るようだ。まるで月の砂漠を想起させる景色。そして火焔山の中心に。トルファンでも最も暑い所であり、50度を超えることもしばしばとか。火焔の由来は砂岩の浸食によりできた山肌の赤とその形状。

そしてウルムチへ。帰りの道路に検問があった。以前は全員の身分証を確認するなど厳しいチェックがあったようだが、今回は運転手だけがチェックされ、後ろのトランクを開けることすらなかった。中国政府はウルムチ市の治安に問題が既に無いことを確認しているようだ。

ネット騒動2

夜、ホテルの部屋を移動した。元々の予約は今日からであったので、予約した部屋に移った。昨夜の騒動もあり、これでネットも繋がるだろうと期待していたが、何と部屋にケーブルが無いばかりか、ケーブルを繋ぐジャックすら見当たらない。またフロントに電話を掛けると、困った声で「没法子」と言う。一体どうなっているのか?

部屋に若いマネージャーがやって来て事情を説明される。そしてやって分かった。このホテルには元々僅か10部屋にしかネット設備が無いのだと。今時中国でこんなホテル、あるのだろうか??昨日の部屋に戻せと言った所で、今日は全室満員で移りようもないとのこと。何でそれを昨日言ってくれないのだ。

マネージャーも困った顔をしていた。彼が悪いんじゃないのだ。自分にそう言い聞かせて寝ようかと思った瞬間、彼が「PCを持って下に来てくれませんか」と小声で言う。何故?よく分からないが、着いて行くことにした。彼は私を1階フロントに案内し、フロントで使用していたPCからケーブルを抜き、「これを使って下さい」と差し出した。呆気にとられたが、折角なのでPCに接続し、メールをチェック。こんな時に意外と大事なメールが入っており、助かった。夜中の人気のないロビーに背を向けてフロントに向き合い座る。何だかとても滑稽だが、ちょっと感動。

部屋に戻ろうと3階でエレベーターを降りると、何故かそこはカラオケ屋。受付の男女スタッフが私を見て「なんでそんな恰好でPC持っているんだ。PCよりカラオケだろう、この時間は」と笑いだす。私は初めて自分が短パンにTシャツの寝姿であることに気が付く。確かに真夜中にPCを持ってこの格好で歩く異邦人は滑稽以外の何物でもない。




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