『インドで呼吸し、考える2011』(10)ラダック 犬と会話できないのは人間の問題

レイの街 現代は刺激があり過ぎる
午後はフリーなので、ゆっくりしてから、レイの街へ出掛けてみた。これまでの経験では空港道路まで出て、タクシーを拾うのだが、ちょっと道を間違えたところ、ちょうど村々を通り、レイに向かう道に遭遇したため、歩いて行くことにした。その道は村人が通る道であり、実に穏やかで風情があった。大木もあり、立派な家もあり、木の橋もあった。天気も良く、背後の青空もあり、写真映えがした。

上りということもあり、かなり歩いてようやく車が通るような広い道に出た。しかしそこは舗装工事中で歩きにくく、難儀した。自分が子供の頃、よく道の舗装が行われていたことを思い出す。経済成長期に見られる現象。あの独特のにおいすら懐かしく感じられる。

少し歩いて行くとようやくレイの街の端に到着。そこから道を上がると、ゲストハウスや土産物屋がどんどん出て来た。どうやら外国人観光客向けの通りに出たようだ。店の前に皆出ていて、盛んに声を掛けてくる。あー、俗世だ。と言っても先進国の大都会から見れば、鄙びた街なのであるが。

世俗に触れ、刺激を受けて、急に冷たい飲み物が飲みたくなる。無ければ我慢できるが、あるのに買わないと後に残ると考え、店に入る。冷蔵庫があり、中にコーラがあった。思わず手を伸ばして飲む。ウマい。25rpでこんなに感激するか。更に少し行くとパン屋があり、チョコクロワッサンが売っていた。これもご馳走と衝動的に買い、店の中庭で食べる。これも美味い。不思議なくらいうまいのである。やはり普段とかけ離れた食生活にはそれだけ負荷が掛かっているかもしれない。まだまだ修行が足りない。

今回の滞在で感じたことは「現代の人間はあまりにも心身に刺激を与え過ぎている」ということ。尼僧院生活の基本は「如何に刺激を与えないか」であろう。食べ物にスパイスを利かせない、飲み物はお茶でも緑茶などを避けている。しかしブッダもそうであったようだが、全く世俗から離れて山籠もりするのは仏教では意味がない。世俗と程よい距離に居て、初めて宗教に意味が見出せるのかもしれない。

オールドパレス 人と人の間
何だか目的を果たしたような気分になる。そして見上げるとオールドパレスが幽霊棟のように聳えているのが見える。一度登ってみるかと思い、道を探す。ようやく細い道に入り上り始めると向こうから降りてくる人が。また会ったね。昨日ストゥーパで急な階段を一緒に登った日本人、実は今朝もスピトクですれ違っていた。2日間で3度目の遭遇。これは偶然ではないかもしれない。彼もそう思ったのか、いきなり道端に腰を掛け、話を始める。

彼はこれまで彫刻の修行をしており、それを終え、独立して仕事を始める前の最後のバックパック旅行とのこと。約2か月間放浪するらしい。彫刻の仕事の足しにするかと思うが、仏像はやはり日本が一番美しいと感じている。ラダックなどチベット系では壁画に魅力があると言う。

昔は神社の修復、家の欄間の作成など、仕事は沢山あった。今は先ずお祭りの神輿の製作・修理とか。将来日本でどんな仕事をするのだろうか。実に爽やかで有為な若者、何だか楽しみである。

さて、再び上り始める。少し急な階段があったが、昨日のシャンティの経験があり、むしろ楽に感じられる。人間とは「人と人の間」という意味だが、実は人と自然の調和ではないかと思う。標高3500mの高地では、自然、環境に順応しないと生きていけない。現在の我々が言う人間社会はまさに人と人とが徐々に順応できなくなってきているような気がしてならない。

オールドパレス、というより王宮跡。建物は市内を一望できる場所にあるが、今や無人で何もない。ところがこんな場所でも外国人料金100rpを取ると言う。この辺りが街である。何層にもなっており、上へ上へ上るだけ。疲れて来る。しかも基本的に風景は同じ。

こんな急な場所で荷物を担いで登るおばさん達がいた。彼女達は建築中の新しい部分へ材料や水を運んでいた。さすがにきついらしく、はーはー息をしている。これだけの重労働をして一体いくらもらえるのだろうか。しかしインドへ来ると女性が重労働に従事している所によく出くわす。そういうものなのだろうか。

ここには寺院が2つあった。ツォモ寺院には僧は常駐していないとあったが、ちょうど一人の僧が中へ入り、太鼓をたたき始める。その様子を入り口から眺めていたら、僧も私に気が付いたが、何分一人。私への対応は出来そうもなかったので、離れる。

もう一つはソマ。こちらはこじんまりしていて、建物の2階、テラス部分に仏像が安置されていた。あまりに小さいので、入るのを躊躇っていると、右手をかなり怪我している少年が、チケットを出してきたので、思わず20rp支払う。中には小さいが壁画もあり、意外やよい感じであった。よく見ると建物の外側にも壁画が描かれていたので、これだけ見ればよかったようだ。

犬と会話できないのは人間の問題
降りて来てメインバザールを歩く。ここは一昨日も通っているので、帰り道に迷う恐れもない。電気屋があったので覗く。洗濯機や冷蔵庫は基本的にサムソンかLGの韓国製。テレビは東芝に液晶なども見られたが、やはり韓国勢が強い。携帯は普通の所ではインド製らしい。ちょっと良さそうな店へ行くとノキアなども置いている。兎に角街中にAirtelの広告がある。今や携帯は普及品であろうか。

そこからバスターミナルを通り、延々と歩いた。夕陽がきれいであり、かなりの写真を撮った。本当に美しい景色が何度も出現した。ただどこにも電線があり、少し興ざめするのだが。牛が道路を渡る様子など、ユニークであった。しかし下り坂なのに一向に到着しない。何と戻るのに1時間以上を要した。かなり疲れた。

疲れをとり、汚れを取ろうとシャワーを使おうとしたら、急に電気が落ちた。こうなれば諦めよう。そういうものだ。しかし暗くなって気が付くと、何と他の部屋には電気が来ていた。あれ、と思ったが、ここで皆に電気のことを聞く気にはなれなかった。無ければないでよいのだ。しかし尼僧たちもこの件には気が付いたようで、騒ぎ出し、結局ブレーカーが落ちていたのを直してくれた。それでもシャワーは浴びなかった。

夕飯にチーズのような、ヨーグルトのような物をパンに付けて食べる食べ物が出た。しかし私の前だけにはうどんが椀に入って出された。どうやらチーズやバターは苦手ということが伝わり、配慮があったようだ。有難い。

部屋に戻ると犬が鳴き出した。何か大きな車が入ってきたのだ。そうれは給水車であった。真っ暗な中で、何人かが作業を始め、水を貰っていた。水は本当に貴重な物なのだ。

因みにこの僧院には何匹かの犬がいる。その中でサンとムーンと言う2匹が可愛がられている。P師は私への講話の中で、「サンやムーンも我々とコミュニケートしようとしている。我々が彼らの言葉を理解できないのだ。」と言っていたが、確かにこの2匹は時々私の所へやって来て、異様なまでに絡み付いたり、手を舐めたりする。それは何故なのか、私には理解できないが何らかの合図である。




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