ウランバートル探訪記2009(2)

3月9日(月) 
(3)ナラハ開発 

翌朝8時にホテルの食堂で朝食。入っていっても店員は誰も来ないし、チェックもない。勝手にビュッフェを取り始める。食堂内にいる客は全て日本人。それもほんの数人。冬のモンゴルに来る人が如何に少ないかが分かる。

ウエイトレスは厨房でコックたちと話し込んでおり、皆楽しそう。しかしこの光景も20年ぐらい前に中国で見られたもの。懐かしいと言うか、何と言うか?

ホテル付近に水を買いに行く。小さな店があったので入る。ホテルの数分の一の値段で水が買えた。面白かったのは、この店に湖南省で生産された團茶が売っていた事。

司馬遼太郎の『草原の記』には近代モンゴルが如何にして中国に取り込まれ、ロシアに牛耳られたかが、書かれている。元々は清朝時代にロシアの冒険商人がモンゴルに入り込み、清と交易を始める。茶も主要産品となり、中国側は大いに儲かる。

モンゴルもチベット仏教の影響で茶の風習が僅かにあったが、これが一気に広まる。ビタミンCが欠乏しているモンゴル人は茶なしでは生きられなくなる。『清国商人は茶をモンゴル人に売ることによって、遊牧民を貨幣経済に注入した』とある。茶を買うために羊を質に入れ、多くの遊牧民が財産を失った。これが社会主義に傾倒した一因ではなかろうか。

9時半にホテルを出発。Uさんが朝から元気に皆を迎える。外は寒いが快晴。実は事前情報で先発隊のN先生より『気候は北京並み。特別の防寒具は不要。』と聞いていたが、実際は相当に異なる。何しろ頭が寒い。息子から借りた薄い帽子を被ると途端に暖かくなる。やはり必需品であった。

日産のRV車に乗り込み、UB東南の郊外へ。一体これから何が始まるのか??約30km走るとナラハ区というUBの衛星都市に至る。ここは1922年に炭鉱が開かれ、それまで遊牧中心であったモンゴル人に初めて労働者という概念を植えた場所だそうだ。

最盛期には相当数の炭鉱労働者が住み、まさに炭鉱の街として栄えたが、1991年大事故の発生もあり閉山、社会主義から脱却したモンゴルの中で新しい生き方を模索しているようだ。人口は2.8万人。

ウランバートルの肥大化、一極集中に歯止めを掛けるため、近年ナラハは注目を集めており、韓国系企業による大規模開発に期待が掛かっている。そう話してくれたのは、同区の副区長。昨年の選挙で区の幹部が一斉に交替し、我々が副区長を訪ねた初めての外国人だったそうだ。

それにしても行き成り訪問して副区長が会ってくれる、これはUさんの力でもあり、モンゴルのよさでもある。昔の中国もそんなことがあったなあ。

更に副区長自らの案内で隣のビルに入っている韓国企業へ。韓国人の常駐者はいないようで、モンゴル人の代表が会ってくれた。モンゴルには6年前に進出、ナラハには3年前からいるようだ。インダストリアルパークと住宅5000戸の建設を計画中。

本国は今経済危機、話には出なかったが、当然資金繰りは厳しいだろう。計画も進むかどうかわからない。それでも韓国企業のたくましさは伝わる。韓国政府も海外進出する企業を積極的にサポートしている。日本とは大違いだ。

そして副区長を筆頭に建設予定現場へ。既に時間は午後1時、誰も昼を食べるとは言わない。中国では許されない??状況だ。車が郊外へ出る。ゲルが沢山見える。仕事があれば移り住んでくるのだと言う。一本道に羊の群れが見える。

大草原と言うわけには行かないが、モンゴルに来たら草原が見たいと思っていた。のどかな風景ではあるが、冬のせいか、やや厳しさが感じられる。薄っすら雪が被っているからかもしれない。

住宅のモデルルームのある建物は冬の間使われていないらしく、中は凍り付いていた。50-60㎡の極めてコンパクトな造り。しかし誰が買うのだろうか?Uさんによれば、最近は遊牧民もゲルではなく、資産として子供に住宅を残したいと考える人が増えているとか。

ナラハの人々とはここで別れた。とうとう昼食はなかった。我々は次のアポ先を目指して、車の中でUさんの買ったビスケットをかじった。これが意外に旨かった。腹が減っていたからだろうか??

(4)UBの建設 
午後2時半、日系建設会社を訪問。同社は数年前日系建設会社としては初めてモンゴルに進出。市内中心部に高級アパートを建設し、販売。その理念はモンゴルのお役に立つこと。

UBの大型ビルの建設は近年殆どが中国企業の請負。彼らは中国から資材を運び、労働者を連れてきて、一環建設を行う。これではモンゴル人に仕事が回ってこず、モンゴルのためにはならない。この会社では900人のモンゴル人を採用。残念ながらモンゴル人は中国人より効率は劣る。中国企業は中国人労働者のパスポートも取り上げ、賃金も工事完成後にしか払わない。この方法で労働者をこき使う。

中国人一部労働者はこのような待遇に耐え切れず、工事現場を抜け出し、市の中心スフバートル広場で鬱憤晴らしに糞尿したこともあるらしい。これにはモンゴル人が怒り、中国人排斥運動も起こった。元々モンゴル人の対中感情は歴史的背景か、極めて悪い。市内を歩いていても、漢字の看板を見ることは殆どない。

現在のモンゴルでは残念ながら外資の参入は難しい。法整備がなされておらず、法があったとしても政府幹部などが簡単に覆してしまう。何を信じて仕事をすればよいのか、と嘆く。国の為に良かれと思って、進出したこの会社としては、忸怩たる思いがあるようだ。

建設自体も冬の間は工事が出来ない(零下7度以下になるとコンクリートは使えない)。風も強く、外壁工事も出来ない。街作りの計画は沢山あるが、いずれも幹部などの利権者に利益をもたらすだけ。

この数年間でUBのマンション価格はかなり値上がりした。しかし昨年後半の金融危機はモンゴル経済も直撃、鉱山資産家の資産も目減りし、マンション需要にも陰りが見える。あまり明るい話題がない面談となった。それがモンゴルの現実であろうか。

(5)商社のつぶやき 
続いて日系大手商社の駐在員事務所を訪ねる。こちらはモンゴル初の携帯電話会社に出資するなど、事業活動は活発。携帯会社は毎年増収増益、確かにUBではかなりの人が携帯を保有。これは中国と同じで固定電話が普及する前に携帯の時代を向かえた、そして大草原に固定電話は似合わない。

ところがこの会社が配当やベンダー向け支払いを行うと、地元紙で一斉に叩かれた。外貨が殆ど底を付いたこの国で、多額の外貨送金を行ったと言う言い掛かりだ。外貨準備が5億ドルを切るというから、実質的には殆どデフォルト状態。ところが外貨借り入れがないので、国際的に支払い不能になると言う問題が起こり難い。勿論貿易決済が出来ないので、IMFからの支援を取り付けた。4月には動き始めるらしい。また人民元決済なども一つの解決方法なのだろう。

資源関係の入札、落札後の契約、税制優遇策など、全て突然変更される。利権が絡むと政治になってしまう。商売は極めて遣り難い。中国との関係も嫌っているが、中国依存度はどんどん高まってきている。ロシア、韓国、日本を織り交ぜて、上手く外交を行う、これがモンゴルの生きる道。

日本人会は登録者数450人、名簿上では200社以上が進出しているが、実態のない会社、駐在員のいない会社も多い。集まるとモンゴルでの商売の遣りにくさなどを嘆きあうことも多い。

(6)国営工場の今 

その後、皮革協会会長のオフィスへ。オフィスはアパートの1室。中国の国営企業のアパートまたはロシアのアパートを思わせる造り。

中に入るとバチャガ会長が待っていてくれた。ここは作業場。所狭しと革ジャンとミシンが置かれている。一同お話もせずにいきなり革ジャン選定に入る。デザインがなかなか良い。皮も素晴らしい(柔らかい)。

中には警察の防寒用と思われる服装もある。軍からの注文は商売上重要なようだ。Xさんは早速試着。ロングコートだ。胸元のボタンがないと言うとその場で会長さんが付けてくれた。これは面白い。私も一着購入。僅か130ドル。この革ジャン、その場では分からなかったが、ものすごく暖かい。翌日以降基本的にこれを着れば、十分であった。

モンゴルは1921年いち早く、社会主義革命が起き、ソ連の枠組みで生きてきた。ソ連崩壊後の90年には人民革命党が一党独裁を放棄。混乱の時代に入る。国営企業も96年の民主連合政権により民営化が始まる。そして今?

会長の話では、皮革業も以前は全て国営で、皆国営工場で働いていた。ところが民営化で国営工場は軒並み倒産。職人たちは自ら自立を迫られた。現在もこの会長のように、自宅を仕事場として、数人を雇い、細々と経営を行っている人が多い。(因みにバチャガ会長は98年に独立)

オフィス内にはイタリア製や旧東欧製のミシンが多く見られ、日本のブラザーの骨董品もあった。自宅を職場としており家賃支払いがなく、何とかやっていけるが、業況は厳しいと言う。

会長の案内で別の工場に行く。夕暮れ時に見るからに国営工場の残骸が並んでいた。何とも侘しい光景。これが現在の現状なのだと分かる。その中の一つに入る。

女性がにこやかに迎えてくれた。チョインドンさん、きりっとした感じで若く見えるが、40代だろうか。こちらは革靴、ブーツなどを作っている。4階建ての建物は外見と異なり、かなりきれい。

2階には作業場があり、相当広い。イタリア、ドイツ、チェコなどのミシンが並んでいた。聞けば、こちらも97年に国営工場が倒産。職人も失業し、機械は全て売却されるはずであった。それを彼女とご主人が買収。個人企業として再スタート。その際当時の国営工場会長が機械の売却を阻止してくれたらしい。この辺は一編のドラマになりそう。

現在は軍や警察など政府関係が売り上げの70%を占める。ヤクの皮を使用した防寒ブーツはモンゴルでは必須。個人向けにはネット販売なども実施。顧客の足型を保存し、電話でも注文を受けている。従業員も40名に増え、個人企業の成功例と言える。

いずれにしても、市場経済への移行期には大変な苦労があったはず。技術はあるが、職がない人も多いのであろう。改革解放で中国も混乱したが、あの大きな国を纏めたという事実は鄧小平を英雄と呼ぶに相応しいかもしれない、ふと思った。

日が暮れた工場前に月が出ていた。その道をとぼとぼ歩く人影は何とも寂しい。 夕飯はモンゴル料理を食べたが、何かに気を取られてしまい、あまり記憶がない。

因みに夕飯後、ホテルに戻り、ホテル内のマッサージに挑戦した。N先生と一緒に行ったのだが、11時までと書いてあったにもかかわらず、9時半の時点で『30分だけ』と言われる。商売っ気はまるでない。

言葉は殆ど通じない。必要最低限の英語を話した。正直あまり上手いマッサージはなかった。面白かったのはN先生に付いた女性。15分ほどでどこかへ行ってしまった。そして何とそのまま戻ってこなかった。私の担当に『何処へ行ったか?』と聞いてみたが、最初はトイレと言い、後は分からない、と答えた。

勘定の段になり、マネージャーの女性は約束の料金を要求。事情を話したが、そんなことはない、と言う。するとその横を二人のマッサージ師がお先に、といった感じですり抜けた。見ると我々に付いた二人である。これこそ国営企業である。モンゴル人はあまり働かない、と言われていたが、成る程と頷く。確かに夜も遅くなり突然客が来たので、仕方がないと対応したが、帰りのバスの時間でもあるのだろう。遠い昔の中国を思い出した。

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