『街道をゆく』を行く2005 深川

【本所・深川】2005年10月23日

日曜日の朝門前仲町で降りる。天気も上々で気温も爽やか。川が見たくなる。深川には縦横に堀が巡らされている。家康が入植する前は半分以上が湿地帯であり、堀を作って市街地化した。尚深川の地名の由来はここの開拓者、深川八郎右衛門から来ているらしい。どんな人かは分からない。

1.深川
(1)富岡八幡宮(P50-59)

大横川の巴橋に出る。川幅は狭いが緑もありなかなかよい眺めである。しかし反対側には橋の高さに水道管があり、興が削がれる。ここは観光地ではなく、生活の場であることが感じられる。

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 富岡八幡宮、江戸最大の八幡さま。境内の縁日は大変な人出であったであろう。本殿はかなり立派な造り。右奥には横綱力士の碑がある。江戸時代相撲は幕府公認の勧進相撲となり、1684年に最初の勧進相撲がここの境内で行われた。碑は明治33年の建立。如何にも横綱に相応しい堂々たる構えであり、周りには陣幕・不知火顕彰碑もあり、更に不動の陣容である。因みに正面付近には大関力士碑が1983年に建立されている。

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横道から正面に出ようとすると池がある。端に針塚があったりする。『木場』と大きな字で書かれた石碑が横たわっていたりする。何でもかんでもこの八幡さまに持ち込んでくるという感じがある。

『木場の角乗』というものがある。川並と呼ばれる筏師がまさに命懸けで、川に浮かぶ材木の上に乗る。これはもう芸術であった。1970年代以降木場はなくなっていき、そして角乗もなくなった。昔は夕暮れに角乗の稽古をする若者を大勢の見物客が見ていたそうだ。富岡八幡には保存会作成の石碑がある。(P33-40)

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因みに本文には落語『大山詣り』が出てくる。中に百万遍念仏が20世紀終わりの深川に残っているとある。人が亡くなった時に数珠を送りながら皆で念仏を唱える。たまに即興で唄が入る。落語では大山詣りの仲間に坊主にされた熊がそのカミサン連中を皆坊主頭にしてしまうもの。

正面横には伊能忠敬の像がある。伊能は50歳の時に江戸に出て来て現在の門前仲町に住んでいた。大きな測量の旅の出立の際は先ずここに参詣し、成功を祈願したという。確かにここから千住辺りに出るのは、極めて便利である。私も後で隅田川沿いを歩いてみたが、左程の距離はない。

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司馬遼太郎は本文中で何故か落語を幾つも引用している。深川の感覚を伝えるのには下手な文章より落語の方がよほど分かり易いと考えたに違いない。富岡八幡の境内では富くじが売られていたようだ。三代目小さんが大阪へ行き、『宿屋の富』を東京に持ち帰ったのが、『富久』である。因みに小さんは夏目漱石が絶賛した落語家である。(P57-59)

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落ちぶれた太鼓持ちが富くじを当てる話であるが、その抽選が境内で行われる。寺社はその修繕費を賄うため、幕府の許可を得て富くじを発行した。富くじといい、勧進相撲といい、富岡八幡は幕府の庇護が厚かったといえる。

(2)深川不動堂

富岡八幡と深川公園を挟んで西側には深川不動堂がある。入って右側には明治の歌舞伎界を引っ張った五世尾上菊五郎の碑がある。石造灯明台が見える。成田山から移された碑もある。市川団十郎の屋号は『成田屋』。関係があるのであろう。

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 本殿からは盛んに音楽が聞こえてくる。何であろうか? あまり厳かな雰囲気が無い。下町の気楽な感じであろうか?左側には深川龍神と書かれた出水がある。やはりここは海に近かったということか。

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北に向かい清澄通りを歩く。心行寺という寺がある。1633年に当地に移されてきた寺で深川七福神の1つ、福禄寿がある。心が行くという響きが何となく良い。

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更に北に向かい直ぐに右に折れると明治小学校がある。明治10年(1878年)当地に校舎が完成した極めて歴史のある学校である。また節目節目で皇族が訪れる由緒正しい学校でもある。2002年には皇太子と雅子様が開校130周年記念で訪れた記念碑が建っていた。

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明治小学校は『下町の学習院』と呼ばれ、この辺りでは唯一洋服を制服としていたとある。(P31-32)木場の旦那衆の子が来ていたというから、その頃の木場の財力がうかがわれる。

 仙台堀川を渡ろうとすると海辺橋の袂に小さな建物が見える。その前に人の像が座っている。『採茶庵跡』、芭蕉も門人で庇護者でもあった鯉屋杉風の像である。杉風は幕府の魚卸を請け負っており、かなりの財力があったようだ。芭蕉庵ももともと杉風の持ち家であったものを芭蕉に提供した。芭蕉にとって重要人物である。尚芭蕉の奥の細道の旅はここから出発したと言われている。川もすっきりしていて気持ちが良い。

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(3)清澄庭園

清澄庭園に到着。入園料150円を払おうとするが、小銭入れを忘れており1,000円札を出す。係りの老人が『こまかいのは無いの?』と聞いて、仕方ないといった様子でおつりを探す。元々おつり等は用意しておらず、その日の入場料の100円玉と50円玉で返してくれる。地元の人の憩いの場であることが良く分かる。

清澄庭園は下総関宿城主久世大和守の屋敷であった。明治に入り岩崎弥太郎が買い取り、回遊式庭園を造営。真ん中に大きな池を造り、涼亭という名の建物が涼やかに建っている。季節が良いこともあり、木々が池面に映える。池には沢山の鯉がおり、老人と孫娘が盛んに餌を撒いて喜んでいる。

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この敷地は江戸元禄時代の豪商紀伊国屋文左衛門の屋敷があったとも言われているが、確認できていないようだ。池を眺めていると文左衛門がここに立っていてもおかしくはないと思ってしまう。ここは歴史的には非常に重要な場所である。第二次大戦末期の昭和20年8月、総理大臣鈴木貫太郎は終戦の最終決断をここで下したと言われている。何故鈴木はこの大事な決断をこの場所で??それは彼が千葉県関宿の出身であったからではないか??実は私の義父は関宿の出身であり、義母の教師生活初任地が関宿であった。今も義父の墓がこの地にあり、寺の直ぐ近くには鈴木貫太郎記念館があったと記憶している。

庭園を歩いて行くと、奥に芭蕉の碑がある。『古池やかはつ飛こむ水の音』、芭蕉は1686年にこの句を芭蕉庵で詠んだ。この碑は昭和9年に宝井其角の門流により建てられたものであるが、芭蕉庵改修の際にここに移された。庭園とこの句には何の関連もないと掲示板に書かれているのが面白い。

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 庭内には各地から集められた奇岩が配されており、興味をそそる。また石仏群などもあり、広い敷地を歩いていても飽きることは無い。ここでは使用料を払えば、座敷を貸してくれる。一度皆を集めて庭を見ながらお茶会か、昼食会でもやって見たいものである。

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