『街道をゆく』を行く2005 神田本郷2

【神田・本郷】2005年10月10日

先日本郷を歩いている時に文京区ふるさと歴史館に行った。すると『文京の歴史物語』という本を買うことが出来た。非常に便利である。ならば千代田区にもあるだろうと市ヶ谷の四番町歴史民族資料館を訪ねた。場所は東郷元帥の屋敷のあった東郷坂にある。ここで資料を購入して、いざ神田へ。

1.神田②
(1)錦華小学校

神保町駅を出て駿河台下に向かう。ところが直前で錦華通りへ。直ぐに夏目漱石の碑を見付ける。『吾輩は猫である』の冒頭文を引用し、更に『明治11年夏目漱石 錦華に学ぶ』を書かれている。錦華小学校は明治6年(1873年)に開校後、現在の場所より少し西に位置していたので、漱石はこの場所で学んだ訳ではない。

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錦華小学校に通うということはかなりステータスであった。しかし明治44年にこの小学校に入学した永井龍雄氏は学校の校舎で勉強できなかったという不幸を味わう。既に校舎は老朽化し前年より近所の小川小学校に間借りして二部授業を行っていたとある。しかも新校舎は大正2年に落成後僅か3ヶ月で焼失した。またもや一ツ橋高等小学校に間借りして二部授業である。名門学校に通ったという胸を張る瞬間があったのだろうか?

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因みに錦華小学校は平成5年にお茶の水小学校と改名されている。近くには錦華公園もあり、また錦華坂にも名を留めている。裏は山の上ホテルである。『Hill Top Hotel』の文字が何となく不思議。小説家が缶詰となるホテルとして知られているが、何となくこの場所が良いことが分かる。

(2)文化学院と御茶ノ水

そこから歩いていくと文化学院がある。1921年に建造されたその建物にはツタが充分に絡まり、歴史を感じさせる。紀州の資産家西村伊作は娘に相応しい教育を受けさせるために1921年に学校を作ったというのだから明治は凄い。しかもその教授陣には与謝野鉄幹、晶子夫妻などがおり、後には有島武郎、堀口大学、芥川龍之介、菊池寛、佐藤春夫、川端康成など錚々たるメンバーがいた。校舎は落成と同時に関東大震災にあい焼失したが、その後再建。現在は美術・芸術関係で講義が行われている。

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更に歩き御茶ノ水駅へ。お茶の水橋脇には『お茶の水』の石碑がある。お茶の水の由来は2代将軍秀忠に高林寺(神田川北岸)から湧き出ている水を使ってお茶を入れたところ気に入られ、その後毎日水を献上したこと。

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神田川北岸は現在でも切り立っており、明治の文人達は三国志になぞらえて小赤壁と呼んだり、茗渓と呼んで愛でられた。茗渓通りは御茶の水駅の南岸、駅の幅分の通りの名となっている。

(3)ニコライ堂

そして聖橋を橋と反対の方角へ降りるとニコライ堂がはっきり見えてくる。聖橋とは2つの聖堂から名付けられた。橋を渡れば湯島聖堂、そしてこちらにはキリスト教のニコライ堂である。聖橋から下った道の反対側でスケッチをしている人、カメラを構えている人がいる。そのどっしりとした、そして優雅な建物は人々を惹き付けるものがある。

江戸時代は定火消し屋敷であったこの地は明治後ロシア公使館の付属地となっていた。来日したニコライ大主教が大聖堂建造を計画、岩崎邸などの設計も手掛けたイギリス人ジョサイアコンドルの設計で1891年に完成。様式は中央にドームがある中東のビザンチン式で非常に優美な建物であった。しかし関東大震災で鐘楼、ドームが倒壊するなど大被害を受けた。現在の建物は最初の姿をかなり残して1929年に再建。

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因みにニコライ堂の前には明治14年開業の井上眼科病院がある。夏目漱石が24歳の時に井上眼科の背が高く色白の娘を見初めて、結婚まで望んだという逸話がある。現在の井上眼科は子孫が勤勉であったのか、20年以上前に大きなビルを建て、眼科も繁盛しているようであった。

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『日本ハリストス正教会教団復活大聖堂』これがニコライ堂の正式名称である。1861年ロシア人聖ニコライが函館のロシア領事館付きの司祭として来日し、正教の布教を開始。当時はキリシタン禁制。明治維新の混乱、日露戦争で敵国となった日本に留まったニコライはどんな生涯を送ったのであろうか?実に興味深い。

(4)駿河台下

本郷通りを下る。神田駿河台下で明治37年に生まれた永井龍雄『わが切抜帖より 昔の東京』という短編集を読むと永井の家は龍名館(http://www.ryumeikan.co.jp/index.htm)支店の横を入るとある。現在は現代的なビルになっている本店が本郷通り沿いにあり、支店は八重洲にある。明治32年創業というから古い。永井は明治37年生まれ、既にあったわけだ。明治大正期は多くの文化人がここに宿を取ったようだ。何しろ本屋に近いし、学校にも近い。

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龍名館の裏には観音坂があり、小さな堂『聖観世音』がある。江戸初期から中期にこの場所に『茅浦観音寺』があり、観音坂の名が付いた。更に行くと江戸時代のお屋敷かと思わせるような家がある。この辺りは少しだけ昔の雰囲気を残している。

永井龍雄氏の家はこの近くにあった。彼の回想は非常に興味深い。『当時の神田という土地は全く火事早かった。冬の夜など半鐘を聞かなかった日の方が少なかった気がする。北風の強い晩には火災保険の証書その他、お袋は大切な書類と位牌を枕元に揃えて床についた。』とある。

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また私の履歴書を纏めた『東京の横丁』には横丁に物売りが引っ切り無しに出入りしていたとある。中には人足風の押し売りがいたが、主婦の中にこれを撃退して重宝がられた人も居たと。しかし一番厄介なのは廃兵院と孤児院の一団。追い返すことは出来るが、何となく後ろめたい。私は何年か前に台湾の台南市の屋台街で車椅子の少女に会ったことがある。彼女は一生懸命ティッシュなどを買って貰おうとしていたが、誰一人相手にしなかった。私の所にも来たが、手を振って断ってしまった。後で帰りがけに彼女が物陰で泣いているのに出くわした。その後ろめたさである。

(5)杏雲堂

明大通りと雁木坂の角に杏雲堂病院はある。雁木坂は現在殆ど傾斜がなく坂には見えないが、江戸時代には材木を梯子状にして登り易くした程、急な坂であったという。

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杏雲堂であるが、1881年に佐々木東洋によって設立された歴史のある病院。また佐々木研究所を基礎・臨床研究の場として設け、医学の発展に貢献している。玄関前には初代の佐々木東洋と3代目の佐々木隆興の銅像がある。尚杏雲の意味は昔中国に董奉字という医師がおり、医療代を取らずに診療した。患者が直ると杏の木を1本ずつ植えた。数年で10数万本となり、杏が雲の如く林を形成した。初代東洋はその精神に何とも言えぬ雅趣があるとして名付けたという。

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少し下ると日本大学カザルスホールという建物がある。日本初の室内楽専用ホールとして1987年に建造される。建物の内、A館は大正末期に米国人ヴォーリズが設計した主婦の友社旧社屋を復元したもの。なかなか重厚でおしゃれな造りである。

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駿河台下まで歩いていく。以前は古本屋が並んでいた印象があるが、今はきれいな食べ物屋が多い。今の学生は本を読まないのだろうか?読むにしても新しい本しか読まないのだろうか?

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