『街道をゆく』を行く2005 神田本郷

【神田・本郷】2005年4月23日

6年ぶりに東京に戻った。香港で行っていた『香港歴史散歩』『マカオ歴史散歩』は何故かとても楽しかった。この勢いを続けたい、しかし東京散歩の本はあまりにも多い。一体何を手本に歩けばよいのか?

こういう時は自らの好きなものを選べばよい。自分は何が好きなのか?自問自答の結果が、司馬遼太郎である。私は国内外を歩く際、必ず『街道をゆく』を参照している。あの独特の切り口と深い調査内容、そして情緒のある語り口。東京については深川・神田・本郷・赤坂の4箇所が残されている。アットランダムに歩いてみたい。

1.神田①
(1) 千葉道場

時代劇で神田と言えば、神田明神下の銭形平次か於玉ヶ池の千葉周作(1794-1855)であろうか。先ずこの散歩の最初に千葉道場跡を訪れた。場所は都営新宿線岩本町駅を降りてすぐ。

玄武館というのが道場の名前である。流派は北辰一刀流。千葉は古来秘伝とされた技法を洗い直し、体育理論的な合理主義を持ち込み、万人が参加できる流儀を編み出した。例えば相撲の稽古を見て、稽古前には食事を軽めに取ることなどを提唱した。イメージでは激しい稽古をしていただけのように思っていたが、細やかな配慮がなされているのには驚いた。

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司馬遼太郎が訪ねた1990年前後には道場の跡は千桜小学校であったが、現在は廃校となっている。建物は残っているが、正門の校名は無残に剥ぎ取られていた。その狭い旧正門をはいると右側に『右文尚武』と書かれた石碑は残っていた。文を尊び、武を尊ぶと言う意味らしい。隣には儒者東條一堂が塾を開いており、文武の関係となっていた。千葉道場の門人には周作の死後、坂本龍馬、清河八郎(新撰組の前身を結成)、有村次左衛門(桜田門外の変で死亡)など歴史に残る人物を排出している。単なる剣術道場ではこれらの人々は出てこなかったと司馬は言う。

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因みに石碑の入り口に面する通りは『一八通り』と言う名前である。これは一八稲荷で1日と8日に縁日が開かれたことによるが、今はその面影はない。15年前に司馬が訪れた際、この辺りは中小企業のオフィスがひしめいていたようだが、今は整然と整備された町並みになっている。

(2) お玉稲荷神社

お玉ヶ池の名の由来は江戸時代のはじめ茶店で働くお玉と言う女性が池に飛び込んで亡くなったことからついたという。元は桜が池と呼ばれており、徐々に埋め立てられた。千葉周作がこの地に道場を開いた頃は既に池はなかったという。

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お玉稲荷神社は千葉道場跡のすぐ近くの路地にひっそりと建っている。非常に小さな堂があるだけであるから、そこを目指していかない限り気が付くことは無いだろう。僅かな説明板と『繁栄お玉稲荷大明神』という幟がお玉ヶ池の存在を示している。

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(3)佐久間町

神田川に架かる和泉橋を渡る。鯉幟がはためく。川べりにはオフィスビルと倉庫が立ち並ぶ。JR秋葉原駅の東側のごく小さい地域、佐久間町の名前は江戸時代初期の材木商佐久間平八から取られたと言う。江戸城築城の際に材木を供給したのもここ佐久間町であった。

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火事とけんかは江戸の華、などと言われるが、本当に江戸は火事が多かった。特に神田は多く、その中でも佐久間町が多かったと言われている。1829年と1834年の僅か5年の間に2度江戸中を焼く尽くした火事の火元となっている。

神田川を利用した材木の荷揚げ拠点であったことと駿河台の南西に位置し、冬の北風がここで巻き上げられることから、火の勢いを強くしたと言う説が有力だそうだ。司馬の調査によれば、そんな佐久間町が関東大震災の時は火事を出さなかった。佐久間町の人々はこれまでの汚名を返上しようと逃げるよりも一斉に踏みとどまり、あらゆる手段で火を消しにかかったとある。

現在往時を偲ぶものは見つけることが出来ない。僅かに総武線のガード下と『美術印刷 文唱堂倉庫』と書かれた建物が見つけられるだけであった。

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2.本郷①
(1)旧岩崎邸

JR御徒町駅から春日通りを行き、右に曲がると不忍池。直ぐ近くに旧岩崎邸庭園がある。司馬遼太郎が訪ねた15年前は国の保有であり、最高裁判所司法研修所として使われていたが、その後文化庁から東京都が引き継ぎ、2001年一般公開された。司馬は手続きを経て中を見学したが、今日我々は入場料400円を支払えば中に入ることが出来る。

旧岩崎邸はその名の通り、三菱財閥を創設した土佐出身の岩崎弥太郎の住居であった。江戸時代は越後高田藩の江戸屋敷、明治に入り牧野弼成の屋敷などを経て岩崎家の本宅となる。越後高田藩とは徳川の四天王の一人と言われた榊原康政(他の3人は井伊直政、酒井忠次、本田忠勝)を祖とする有力譜代である。また牧野家は旧舞鶴藩知事でありこの土地が由緒正しい場所であることを物語っている。但し何故かほんの一時期、桐野利明が住んでいる。人切り半次郎と恐れられ、西郷隆盛と共に西南戦争で死んだあの中村半次郎である。

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この屋敷に実際に住んだのは弥太郎の嫡男、久弥であった。『我輩は猫である』にも登場する当時有名なお屋敷であった。最盛期この敷地は1万5千坪あまり、20もの建物が建っていた。第2次大戦後財産税が課され、国に物納された。

この建物を1896年に建てたのはジョサイア・コンドルというイギリス人。鹿鳴館や御茶ノ水のニコライ堂を設計している。また弟子に東京駅を設計した辰野金吾、赤坂離宮を設計した片山東熊などがおり、近代日本の建築をリードした人物である。日本人女性を妻として、日本画を学ぶなど生涯日本びいきであった。1920年に日本で亡くなっている。(墓所は護国寺で奥さんと共に葬られている)。

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現存する3棟の内2棟は明治期を代表する西洋木造建築。客室天井に見事なペルシャ刺繍があったり、ベランダはイスラム風、庭はアメリカ風の広い芝生である。気持ちの良い庭では多くの人が椅子に腰掛け寛いでいた。隣はビリヤード場。スイスの山小屋風なのが珍しい。洋館から地下道でつながっているそうだ。反対側には和館があり、書院造を基調としている。外では抹茶に和菓子を振舞っており、枯山水の庭を眺めている。正門から建物のある場所までは鬱蒼とした林が続く。司馬が訪れた時は、十分に手入れがされていなかったようで、かなり雑然としていたが、今は花も咲いており実にゆったりとして空間。偶にはこんな場所で本でも読みたいものである。心のゆとりが生まれそうである。

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(2)湯島天神

春日通りに戻ると緩やかな坂道。左側には受験の神様、湯島天神がある。458年雄略天皇の命により創建され、1355年に郷民が菅公の威徳を崇めて勧請。1478年に太田道灌が再興。何故道灌は湯島天神を再興したのか?司馬はここが江戸城の鬼門を鎮める為ではないかとしている。また神社自身が城の跡ではないかとも言っている。実に良く見ている。本殿は1995年に総檜造で再建されている。司馬が訪れたときには1886年に建造された古い本殿であった。

湯島天神と言えば『湯島の白梅』と『絵馬』であろうか。湯島の白梅の碑もあるが、ガス灯が目立っている。新派の名作、泉鏡花の『婦系図』の中にガス灯が出てくることから都内唯一のガス灯(外灯)が飾られている。また新派と書かれた石碑も見える。更に1917年に里見弴等によって建てられた泉鏡花の筆塚もある。

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 勿論梅の木も多く見られる。天神の境内に梅を植えるのは京都の典型である。絵馬は相変わらず、合格祈願である。庭園には藤棚もあり、きれいに花が咲いていた。

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(3)啄木歌碑

切通坂を少し上ると石川啄木の歌碑がある。『二晩おきに 夜の一時ごろ 切通の坂を上りしも 勤めなればかな』という句が刻まれている。決して明るい句ではない。当時啄木は東京朝日新聞社の校正係の職についており、本郷の寄宿舎から夜勤に通っていた。

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啄木は26年の短い生涯の間、常に貧窮に苦しめられており、本郷に住んだ1910年のこの時期は、前年に家出した妻を何とか呼び寄せて、生活を送っていたはずである。市電の終電は上野広小路までしかなく、本郷まではこの切通坂を上って家路についていた。因みにこの2年後には短い生涯を閉じている。

(4)麟祥院

湯島天神の反対側の道を上りきった辺りに麟祥院という寺がある。江戸の昔から『からたち寺』と言われていた。枳殻の垣根があったことから名が付いた。因みに『唐のたちばな』から『からたち』という名前になったことは初耳である。

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麟祥院は3代将軍家光の乳母春日の局の菩提寺である。お福(後の春日の局)は明智光秀の重臣、斉藤利三の娘であった。彼女は逆臣の娘から何と最後は朝廷より従二位を賜るのである。恐らく日本史上でもこんな女性は他にいないのではないだろうか?家光が疱瘡にかかった際に治癒すれば今後一切薬を飲まないとの願を掛けて、その後終生薬を飲まなかった話は有名である。

彼女の権勢は凄まじい。生前に将軍じきじきにこの寺を賜り、麟祥院と称している。(元の名前は天沢寺)現在まで門前の道の名前は春日通りである。明治に入ってからは東洋大学の前身となり、発祥の地という碑がある。寺は禅宗であり、門にも厳しさが感じられる。入るのが一瞬躊躇われるが、それを乗り越えると爽やかな道が続いている。きれいに掃き清められている。3時以降は入ることが出来ない。芯がある寺である。

春日の局の墓はかなり奥にある。司馬が訪れた時は案内板があったようだが、現在は墓場の入り口に説明板があるのみ。その横を何気なく見ると2つに大きく割れた碑が建っている。関東大震災で命を落とした中国人留学生の名前が刻まれた碑である。1923年当時、日本は中国人が学びに来る手本の国であった。孫文も周恩来も魯迅も皆やって来ている。当時と今では一体何が違うのか?確かに日本に滞在する中国人は多いのだが、何かが違う。

局の墓は不思議な形をしている。卵型、しかも四方に穴が開いている。『黄泉の国からこの世を見通せる墓を作るように』との遺言を残したからだと言う。局は一体この国の何を見通そうとしたのだろうか?そして現在のこの国を見てどう思っているのだろうか?

(5)大聖寺藩上屋敷跡

東京大学、私には全く縁のない学校であり、人生の中で一度も踏み入れたことの無い場所であった。今回初めて訪れた。広いキャンパスである。公共バスが通っている。私の母校は同じ国立大学であるのに猫の額ほどの校庭であったから、軽い嫉妬を覚える。

日本で初めての国立大学。江戸のはじめ、ここには加賀前田家の上屋敷があった。大阪夏の陣が終わり、家光から貰ったのである。その後前田家3代利常の弟利治は大聖寺7万石を貰う。その上屋敷は今の医学部付属病院の場所である。碑が建っている。

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九谷焼はその利治が後藤才次郎に命じて九谷に窯を作らせて産出させた。才次郎は肥前に派遣され伊万里の秘法を盗んだとか、実在はしたが陶工ではなかったとか、伝説的な人物である。『古九谷』と言う。九谷焼といえば、江戸後期に本田貞吉という陶工が再興したものを言う。

司馬が訪れた時は1984年以来付属病院改修工事に伴う発掘調査が継続されていたと言う。当日工事などは見られず、付近にはベルツとスクリバという2人のお雇い教師の胸像があり、また秋桜子の句碑があった。

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(6)三四郎池

校内をどんどん歩いていくとやがて木々に覆われた場所がある。降りていくと池である。別世界に入り込む感じである。これがあの三四郎池。見るのは初めてであるが、漱石の三四郎に登場したことなどから子供の時より名は知っている。しかしここはとても大学の中とは思えない。

三四郎は池畔で美禰子を見掛ける。司馬は小学6年生が魚釣りをしているのに出会う。私はカップルと小学生、そして何かを撮影している若者達に出会う。藤棚の下で休む老人がいる。静かである。ここで本を読めばいくらでも読めそうである。しかし学生の姿は全く無い。この環境を活用しているのだろうかと疑問に思う。

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『街道をゆく』の三四郎池の項で、1つ驚いたことは、漱石の弟子、森田草平が平塚らいちょうと心中事件を起こしていたことである。女性解放運動の元祖、らいちょうの起源を見る思いがする。

 

 

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