みちのく一人旅1997(4)平泉から多賀城へ

5. 平泉
(1)平泉へ
昼ごはんを食べていないことに気が付いたが、バスが出るというので慌てて乗り込む。慌てなくてもよいのだが、この辺に日頃の癖が出てしまう。どんなにリラックスした、計画の無い旅をしていてもこれである。情けない気分である。バスは1時間ほどで盛岡に到着。確かに速い。冬の東北を高速道路であっと言う間に通り抜けた。電車の場合、途中の駅で停まるので、その場所の歴史や名所を探してみたりするが、バスは何にも引っかかることなく過ぎて行ってしまう。ちょっと残念。

盛岡駅からは普通電車で平泉までゆっくり行くことにする。電車の時間までに駅構内でうどんを食べる。盛岡に来たのだから、冷麺でも食べればよいのだが、私にはご当地の自慢料理を食べる習慣が無い。電車はバスと違って本当にゆっくり走った。一駅一駅丁寧に停まり、そして丁寧に出発する。ローカル線の旅はなかなかいいものである。まあ乗ってくるのも地元の高校生ぐらいなもので、乗客も少ない。ゆっくりと景色を眺める。と言っても冬枯れた平野か刈り取られた田んぼかであるが。

(2)平泉の宿
1時間20分で平泉駅に到着。日は西に傾いていた。流石に観光地だけあって案内所などが駅前にあった。が私は今日の宿を自分のガイドブックから選ぼうとしていた。それは初日にガイドブックから選んで良い宿が取れたことによる。見ると平泉にも温泉宿があるという。ところが電話しても誰も出ない。しつこく3回ほど電話してみたところ、やっと人が出た。しかし『この宿は先日倒産しました。』というもの。ちょっとビックリした。景気が悪いのであろうか?何か変な投資でもしてしまったのか?さあ、どうする??

ガイドにもう一つ国民宿舎というのがある。これは2食付で6400円程度と安い。しかし簡単に泊めてもらえるものであろうか?先日房総の方に家族旅行しようとして国民宿舎を申し込んでみたが、2カ月前にはがきで申し込むなど面倒であった。ところが電話すると問題無く泊まれるという。バスで10分ということで行って見た。尚バスは1時間に一本しか無いが、幸いにも直ぐに来た。5分ほど町並みがあり、あとは畑。到着してびっくり。何だかお城みたいなところである。こんな立派な国民宿舎があるのか?正直驚きである。規模もかなり大きい。全部で72部屋あるそうだ。棟も2つに分かれている。展望風呂がある。平泉の町が見下ろせる。これは極楽だ。夕飯も大食堂で食べる。本日の夜も泊り客はそれなりにいて、風呂も食堂も結構込み合っていた。

名前も衣川荘といい、衣川資料館もある。NHKの大河ドラマ『炎立つ』で見たとおり、ここ平泉には中尊寺を中心にした藤原文化がある。同時に安部氏の歴史もある。そして芭蕉の句でも有名である。確かに歴史的には面白い。

(3)毛越寺
既に午後3時を過ぎている。しかしこのまま宿に居るのも勿体無い。バスは来ないので歩いて散歩に出る。歩いて20分ぐらいで駅の近くに戻る。何故か毛越寺に行って見ようと思う。毛越寺は850年頃に慈覚大師が東北巡業の折、この地に小さな堂を建てたのが始まり。藤原二代基衡が造営した。往時は全山で40の堂を持ち、中尊寺を凌ぐ勢いであったが、度重なる火災で大半を焼失。現在は平成に建てられた本堂と大泉が池を中心とした浄土庭園がある。

浄土庭園は平安時代の貴族の遊び『曲水の宴』を再現。庭園の鑓水に杯を浮かべて流れに合わせて和歌を読むもので優雅な遊びである。ここに藤原氏一族が遊び、義経も遊んだかもしれない。冬の夕暮れが迫っていたが、何だかすがすがしい気分になる。そしてこの何倍もの敷地を造営した藤原氏の壮大な夢を思う。俘囚の地と朝廷から蔑まれたこの奥州に楽土を築く、その栄華は長くは続かなかったが。

毛越寺を出ると掲示板に付属寺院であった無量光院跡が示されていた。ここは三代秀衡が造営。毛越寺より一回り大きかったと言うから相当の規模である。ところが藤原氏滅亡と共にこの寺も消えてしまう。行って見るとそこは広大な田んぼ。稲刈りも終わった何も無い田んぼ。中にポツンと掲示板がある。無量光院跡の説明があるが、ここを訪れる人はいるのであろうか??奥州藤原氏は確かに800年前に滅んでいる。そう思わせる遺跡である。

11月20日
(4)中尊寺
翌朝は早く起きて宿の周りを散歩した。この宿は城のような造りになっている。散歩は城から出て城下へ行くような気分である。しかし藤原氏の時代は江戸時代のような城は無く、この辺りは柵と呼ばれる囲いがあっただけだろう。兎に角周囲は田んぼで、この宿が周囲の目印になっていることには違いが無い。

朝食後チェックアウトして、駅へ向かう。コインロッカーに荷物を入れるために。それから中尊寺へ向かう。宿と駅の間に中尊寺が存在する。何故こんな面倒なことをしたかというと、それは疲れである。そして里心が付いたというか、家に戻りたくなったのだ。

中尊寺、それは藤原文化、平泉文化の象徴である。毛越寺同様、慈覚大師が建立。その後前九年の役(朝廷と安部氏の争い)、後三年の役(清原氏と清衡の争い)を経て奥州を平定した初代清衡が再興。長年の戦で戦没した兵士の供養が目的。清衡は藤原氏に繋がる藤原経清と安倍貞任の妹との間に生まれた。前九年の役では自分の目の前で父親が鋸引きで殺され、母親と共に捕らえられる。母親は安倍氏を裏切った清原氏に嫁いだ。そして清原氏の子として育つが、弟家衡と争い、その際妻子を見殺しにしている。最後には源義家の助けを借りて弟を破り、東北を平定していく。後三年の役である。

これだけの体験をしている清衡であるから、平和を願う気持ちが伝わってくる。朝早く中尊寺に入る。実にすがすがしい。月見坂を登る。両側の木立が静けさを誘う。非常に荘厳な印象受ける。本堂過ぎて、金色堂が見える。金色堂は歴史の教科書で写真を見たことはあるが、現物を見るのは初めて。東北の中心として建てられた中尊寺の中心に相応しい佇まい。黄金が殆ど剥げ落ちてしまった外壁という感じであるが、かえって落ち着きがある。

堂内には中央の須弥壇に清衡、左の壇に基衡、右の壇には秀衡の遺体と泰衡の首級が収められている。阿弥陀如来、観音菩薩、六地蔵が鈍い金色を放っている。もしこの堂が伝わっていなければ奥州の地にこれほどの財力と文化が出現したことを誰も信じないであろう。奥の細道の中に芭蕉の句として『五月雨の降のこしてや光堂』というのがある。金色堂の脇に1746年に建立された記念碑が建っている。しかし芭蕉が訪れた頃は財宝も散逸し、堂も朽ち果てていたようである。尚平泉は本当に観光地である。中尊寺の拝観料が800円、毛越寺が500円。これまで青森・秋田が何となく安かったので、非常に物価が高くなったのを感じる。

(5)高館
中尊寺で気分が落ち着く。ゆっくり寺をあとにする。踏切を渡る。小山があり、下に湧き水がある。近所の人が水筒に水を汲んでいる。『卯の花清水』。ここで弁慶が水を飲んだらしい??花が生けられていたりする。『卯の花や兼房見ゆる白髪かな』という曽良の句碑がある。兼房とは義経夫人と若君を泣きながら刺し殺したと言われている守人である。

高館は義経の館があった所と聞いていたが、それにしてはかなり急な石段を登る。太い幹の杉木立が素晴らしい。本当にこんなところに館があったのであろうか?高館、源頼朝に追い詰めたれた義経はここで自刃する。弁慶も立ち往生の逸話を残して死ぬ。義経堂は1683年に義経を偲んで建てられた。ここからは北上川が良く見える。蛇行している様子もはっきり見える。西行が見事な桜を詠んだ束稲山もきれいに見える。衣川ではかつて前九年、後三年の役が繰り広げられた。私にとってはすごくいい風景であるが、ここで最後を向かえた義経はどんな風景を眺めたのであろうか?

もっとも義経北方伝説がある。高館では死なずに、八戸から青森を経て、十三湊に逃れた。十三湊は安倍氏の末裔が治めていた。義経を襲った泰衡が本当は逃がしていたと言うのがその根拠である。泰衡は蝦夷ではないが、蝦夷との繋がりを大切にしていた。それで十三湊である。そこからモンゴルに渡ってチンギスハンになったというのは大げさ過ぎるが、北へ逃れた可能性は大いにある。

芭蕉がここを訪れたのは義経堂が建てられて直ぐ。平泉に来て最初にここに登っている。『夏草や兵どもが夢の跡』、有名な句で教科書にも必ず登場する。金鶏山を借景とした広大な庭を有した秀衡の館跡は田んぼになっていた。確かにここ平泉は樂土の夢の跡なのかもしれない。

6.多賀城
(1)多賀城へ
高館に立っていると突然多賀城へ行って見たくなる。何故なら芭蕉が歩いた壺の碑と蝦夷を苦しめ続けた政府軍の居城跡を見たかったから。駅に行くと東北本線は1時間に1本しかない。丁度10時台の1本が来る。乗り込む。ローカル線である。一ノ関を過ぎ、小牛田駅だったか、駅の前に日本ケミコンという会社の工場がある。この会社は実業団の女子駅伝で有名なので知っている。特に高橋千恵美選手は力強い走りで目を引いていた。

と思っているとジャージ姿の女性が一人でスーと乗ってきた。見ると何と高橋千恵美さんである。これには本当に驚いた。そして動揺してしまった。周りを見渡すと、何と1車両に私と彼女の2人しか乗っていなかったのである。彼女を知っているわけでもなく、彼女はアイドルでもなく、何と話しかけてよいか分からない。しかも2人きりだから、彼女を驚かせてしまう可能性もある。ここは黙って見送ることにした。心の中で頑張って欲しいと願う。そして彼女は途中駅で静かに下りていった。

私が願ったからではないが、その後彼女はシドニーオリンピックの1万メートル代表となり、日の丸をつけて世界の舞台を走った。それをテレビで見て、感動してしまった。結果は15位だったが。98年のバンコックアジア大会の1万メートルでは3位に入っている。翌年の世界陸上でも5位。しかし同じ高橋でも尚子選手は98年日本最高記録でマラソン優勝、2000年は金メダル。千恵美選手はどうしても地味な存在ではあるが。その後腰痛で引退し、母校の教員をしているが、2005年にフルマラソンに挑戦して復活を遂げている。嬉しい。現在彼女は29歳である。まだまだこれから。私が見かけて時は21歳で最盛期であったのだが、これから更なる活躍を期待したい。

(2)多賀城
今時刻表で見ると多賀城駅というのは2つある。国府多賀城駅と多賀城駅だ。しかし国府多賀城駅は2001年に地元の要請で新たに作られている。私が行った1997年には松島で乗り換え仙石線の多賀城駅に到着した。(現在多賀城は国府多賀城駅の北側にあり歩いて直ぐ。)駅前には何もなかった。方向だけを確かめて歩き出す。曇り空で肌寒いが、既に青森・秋田で訓練を積んでおり、楽に歩ける。2kmぐらい歩くと、東北歴史資料館という建物が見えてくる。

1975年に開館したこの資料館は多賀城から発掘された文物を展示するだけでなく、古代東北の歴史を多角的に解説している。非常に貴重な資料館である。これまで脈絡無く辿って来た私の旅も、ここで一気に纏めに入る。しかし冬の平日ということか、入館する人は殆どいない。やはり東北の歴史に関心のある人は多くないのであろうか?残念な気分である。また2時から解説員が1時間を掛けて史跡を案内するとのことであったが、誰も参加者がなく行われなかった。

更に1km以上歩く。ようやく小高い場所が見えてくる。多賀城跡である。表示が無ければ通り過ぎたかもしれない。古代東北への関心がここにも表れる。但しここ多賀城はそれでも史跡が保護されている方であるという。奈良時代以前の全国の国府などの史跡は、殆ど保護されず、今は残っていない。それでも歴史の教科書では必ず習う多賀城である。坂上田村麻呂とセットであるかもしれないが。

この当時の城は全くの平城である。蝦夷を抑えるために720年前後に建造されたこの城は780年の伊治呰麻呂の乱で焼失。その後再建されるも坂上田村麻呂は鎮守府を新設した胆沢城に移した。869年には大地震があり、その後城が再建されたかどうか不明である。有名な多賀城ではあるが、実はその歴史は短く、そして謎も深い。

現在は整地されたきれいな場所となっており、ここで合戦があったことや蝦夷が苦しんでいたことを偲ぶものなどは何も無い。作家高橋克彦氏はその小説、『風の陣』の中で蝦夷と多賀城、朝廷軍との関係、民の苦しみ、物部氏の関わりなどについて、克明に書いている。三内丸山遺跡を見てきたこともあり、もっと古代東北の歴史を勉強しようと強く思う。

(3)壺の碑(多賀城碑)
ところで公園のようになっている一角を緩やかに登っていくと瓦葺四面格子の古い堂が見える。1660年頃に掘り出された『壺の碑』が中に安置されている。かつて都の歌人達に陸奥の歌枕として認められていた壺の碑と混同され、有名になった。これは多賀城碑と呼ぶべきものである。芭蕉も1689年にここを訪れている。水戸光圀が伊達家に保護するようアドバイスして、覆堂が作られた。

田辺聖子は『おくのほそ道を旅しよう』の中で、格子戸に顔を押し付けてうかがうと、碑面の字はよく見えた、としているが、当日は曇り空でかなり薄暗く、私にはよく見えなかった。

尚1950年には青森で『日本中央』と書かれた自然石が発見されて、伝説の壺の碑ではないかと話題となった。こちらが歌枕として詠まれた碑であろう。因みに高橋克彦氏はこの『日本』をヒノモトと読み、須佐之男命が降り立った出雲の肥の川のこと、肥(ヒ)のモトであるといっている。出雲を追われた一族は東北で繁栄していた。つまりは独立国家を築いており、朝廷も一目置いていたという。日本中央は『ヒノモトの中央』という意味で東北の中心に置かれてと言う説である。なかなか興味深い。

その後この多賀城碑は偽物であるとの説が流れていたが、現在では本物と認定されている。堂の中は薄暗く、文字は読み取れない。資料によれば、多賀城は神亀元(724年)年に大野東人が建造し、天平6(762年)年に藤原朝獦が改修した、とある。ということは朝獦がこの碑の製作者であろう。

藤原朝獦はあの道鏡と争った藤原仲麻呂(恵美押勝)の息子である。ということは奈良朝廷の中枢にいた人間の息子がここ陸奥にいた。何故であろうか?それは黄金の力であろう。朝獦はこの年、参議に列せられており、絶頂期であった。2年後には父親が失脚するのであるが・・??大野東人は一族が壬申の乱に敗れた側に属していた。それで陸奥へ志願したとも言われている。朝廷の陸奥経営に大きな役割を果たしたと思われる。司馬遼太郎は『人の記憶から忘れたれた東人を顕彰してくれたことがありがたい』と言っている。

奈良時代の東大寺の大仏建立に際して、聖武天皇は全国より金を集めたが、陸奥から黄金が献上される。749年のことである。この黄金を持って東大寺の大仏は完成する。日本では取れないといわれていた黄金が産出される場所として、一躍脚光を浴びる。恵美押勝は時の権力者として当然黄金を求め、息子を派遣したのであろう。そしてこの争いは結局780年の伊治呰麻呂の乱、坂上田村麻呂とアテルイの戦いに発展。陸奥に平穏が訪れることは無かった。

また碑には『多賀城から京まで1500里、蝦夷120里、靺鞨まで3000里』などと各場所との距離を示している。陸奥の中央として多賀城があったことが分かる。蝦夷とは衣川辺りからであろうか?先程私が辿ってきた道はまさに蝦夷への道であったのだ。また靺鞨とは当時のツングース系の渤海国。727年に日本に使いが着ており、朝廷としても渤海までを意識していたことが分かる。

芭蕉も奥の細道の中で『疑いなき千歳の記念』として、この碑を見たことを非常に喜んでいる。長生きしてよかったといった感じである。尚その頃は掘り出されて直ぐであり、現在のように堂に中に仕舞われてはおらず、この碑の圧迫感は相当のものがあっただろう。芭蕉にとってこの壺の碑は前半のハイライト、後で訪れた野田の玉川・沖の石、末の松山などの歌枕は多賀城碑と比べれば『こしらえもの』という感じだ、と田辺聖子は言っている。私も同じ印象を受けた。

(4)仙台
午後3時頃に仙台へ向かう。元来た道を引き返す。昼飯も抜いていた。何だか疲れが出て来た。そろそろ東京へ帰ろうという気分になる。電車は1時間に3本あり、直ぐに乗れる。僅か15分ぐらいで大都会へ出る。昨日同様駅でうどんを食べる。本来なら牛タンぐらいは食べないといけない所だが、お土産に買っておく。また本来なら仙台付近を散策すべきであるが、直ぐに新幹線に乗って帰ることにする。実は仙台にはいい思い出が無い。

18歳の時、ここに受験に来たことがある。何故か滑り止めとしていた大学まで含めて受験した全ての私立大学を落ちていた。かなり落ち込んだ状態でここにやって来た。受験の日一日だけいたのであれば、あまり印象も無いと思うが、確か3日ぐらい泊まったのである。当時高校では受験生を纏めて1つの宿に泊めて、OBが面倒を見るシステムを取っていた。

同級生は修学旅行生並みにはしゃいでいた。OBの大学生は大学の何たるかを教えるべく、色々と言ってきた。しかし私はこの大学を落ちれば大学に行く可能性はなくなる。そういう状態であった。精神的に更に追い込まれてしまい、結局受験に失敗した。希望学部は文学部、やりたかったことは史学。今30代半ばにして18歳の時を取り戻す気にはなれなかった。仙台は鬼門である。

帰りの新幹線は物凄く速かった。東京を出てきた時が嘘のように快調に走った。私のこれからの人生も快調に走るのであろうか?古代東北への思い、これは私の胸にかなり重く圧し掛かってきた。高校生以来の生涯のテーマではないかとの予感がした。

 (完)

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