みちのく一人旅1997(2)驚きの三内丸山遺跡

11月18日
2.青森 (1)三内丸山遺跡
昨夜は暖かい布団でよく眠れた。朝起きると雪も止んでいた。仲居さんが朝食を運んできてくれた。典型的な旅館の朝食で嬉しい。特に汁が美味い。結局浅虫では何もしなかった。どこにも行かず、散歩もせずに9時には旅館を出てバンで駅に送ってもらう。

ローカル線で30分、青森駅に着く。何も分からないので遺跡に行く交通手段を探す。バスがあったので乗り込むと直ぐに発車する。何の情報もなく突き進む。30分以上乗っていたであろうか?少し高くなった場所にバス停があり、遺跡があることが分かる。何故なら復元された楼閣が見えたから。

入場料もなく、いきなり遺跡内へ。広い敷地に展示館が見え、真ん中に楼閣がある。所々に遺跡らしく穴が開いていたり、修復している場所があったりする。既に寒いので今年の作業は終了しているのかもしれない。

この遺跡は実は江戸時代には既にその存在を知られていた。近年有名になった江戸の放浪家?または民族学者の草分け菅江真澄の遊覧記にも以下の記述がある。『この辺りで有名な三内のさくらを見ようと・・・。縄形、布形の古い瓦(縄文土器)、あるいはかめのこわれたような形をしたものを発掘したという。』見学してもあまり深い内容は分からない。帰宅後調べた内容は以下の通り、驚くべき遺跡であった。

ここには5500-4000年ほど前に500人ぐらいが暮らす大集落があったという。世紀の大発見である。しかも狩猟が中心といわれてきた縄文時代にヒョウタン・ゴボウ・エゴマなどの植物を栽培していたことが判明している。又新潟のヒスイ、北海道の黒曜石、秋田のアスファルト、岩手のコハクなどが出土している。かなり広い範囲との交易があったと思われる。当時この台地の北側は海であった。ここから船を使ってかなり遠くまで行っていたと思われる。

6つの柱穴の跡も発見されている。現在は三層建ての櫓が復元されており、この遺跡のシンボルとなっている。これは何に使われていたのだろうか?船のための灯台だろうか?敵の襲来に備える物見櫓であろうか?または何らかの宗教的な建物であろうか?

子供の墓が多数発見されているのも興味深い。これらの墓は集落のはずれにあり、大人の墓よりかなり人の住まいに近い。これは子供を思う親の気持ちなのだろうか?そうだとすればはるか昔の縄文人が非常に身近な存在に見えてくる。

縄文時代は氷河期の後で気温が現在よりかなり高かったといわれている。魚も豊富に取れたらしい。ここが日本の中心であってもおかしくは無い。作物・魚が取れて、交通も便利ということであれば、大集落が出来る条件は整っている。トイレがあり、ゴミ捨て場もあったらしい。農作物の栽培も行われ、漁業も盛ん、交易まで行われていれば、これは当時の最先端であろう。4000年前ここは実に快適な生活の場所であったはずだ。

ではこの集落は何時衰退してしまったのか?3500年ぐらい前ではないかとの説がある。原因は気温の低下。更には大地震が来たという可能性もあるようだ。現在は地球温暖化の時代である。大地震や日本沈没などが起こらなければ、再び東北が日本の中心になる可能性もある。勿論100年やそこらでは難しいだろうが。

見学を終わる。1時間ほどいただろうか?バス停に戻りバスを待つ。熟年女性3人がお喋りしながら待っている。この遺跡を見て、何と考えたらよいのか、何と表現したら良いのか、頭の中が混乱していた。今まで歴史の時間に習ってきたことが全て否定されてしまった気分だ。何故東北のしかも北の外れにこんな凄い文明があったのか?こんな高度な生活空間が存在したのか?

バスが来た。乗り込むと後ろの席に座った老人が話し掛けてきた。聞けば遺跡のボランティアガイドだそうだ。そんな人がいることすら知らなかった。この人に話を聞けばもっともっと判ったことがあっただろう。

(2)南部の老人
老人は『ガイドしてあげればよかった』と残念そうに言ってくれた。私が歴史好きだと分かると色々と話し始めた。しかしバスは青森駅に戻ってしまう。老人が青森県立郷土館に行こうと誘ってくれた。付いて行く。15分ほど歩いた。老人から貴重ないくつもの話を聞いた。

戦争中の青森にはあまり被害はなかったと思っていたが、そうではなかった。老人が中学生だった昭和20年7月28日、終戦の僅か20日前に大空襲が青森を襲う。市内は業火に包まれ、亡くなった人の数も不明。それは凄い空襲だったそうだ。翌朝眺めた八甲田山が目に焼きついていると言う。因みに寺山修二が母親と一緒に焼け出されたのがこの空襲であると後で知る。

老人は言う。この空襲は函館を攻撃する米軍が『行きがけの駄賃』のように仕掛けた空襲であり、必要なものではなかったと。そんなことで犠牲になった青森は本当に運が悪い。どうせ取り残されているならそのままにしていてくれればいいのに。新幹線も盛岡まで来ても青森には来ない。

木村守男知事の県政への批判も出る。新幹線が来ても県民の暮らしにはプラスは少ない。かえって税負担が重くなり、物価も上がると言われている。知事は独裁者である。何でも自分で決めてしまう。県民のことなど考えていない、と。(2003年木村知事は3選を果たすもののセクハラ疑惑で辞任した。但し長男は衆議院議員)老人は南部の出であるらしい。木村知事は津軽の人。青森という所は歴史的に非常に複雑である。明治初期新設された青森県は西半分が旧津軽、東半分が旧南部、更に下北半島の集合体。それぞれ歴史も習慣も違っている。県庁は津軽と南部のほぼ中間の青森市に置かれた。

南部は鎌倉時代に甲斐の南部三郎光行の奥州征伐に始まる。一方津軽は戦国末期、津軽為信が出て南部から分かれる。高橋克彦の『天を衝く』によれば、南部家は常に家内が割れており、纏め切れない内に秀吉の天下となる。九戸政実という稀代の武将が秀吉に楯突くが、それも一部地域の争いに終わる。小説では津軽為信は南部の生まれで、政実の知略を借りて石川城を奇襲し、津軽を打ち立てる。

明治維新から130年、戦後50年が過ぎたが、今だに一つになっていない青森の凄みを感じさせられた。そしてそれを物語として読むのではなく、老人から生の声として聞けたことは旅に出た一つの成果であっただろう。

(3)郷土館
郷土館の前に来ると老人は『元気で』と言って行ってしまった。もっと聞きたいことが沢山あったのに。残念であるが仕方がない。家族があるのであろうか?嫁さんが昼ご飯の用意をして待っていれば良いのだが??

郷土館、ここに来る予定は全くなかったので適当に見ようと思う。縄文晩期の遮光器土偶、サングラスを掛けているように見えることからこの名前が付いている。何とも不思議な形である。乳房があるので女性であろう。

作家高橋克彦氏はこの土偶を見て、古代日本には宇宙人がいた、と言っている。確かに言われて見れば、我々がイメージしている宇宙人の形に近いと言える。本当に宇宙人はいるのだろうか??いるとすれば古代栄えた青森にいたとしてもおかしくはない。

亀ヶ岡式土器も丸みを帯びてなかなか良い形をした縄文晩期の土器である。青森付近の文化の高さが分かる。どうしてこのような高度な文明を持った地域がその後中心から外れていったのか??

世界遺産に登録された白神山地の原生林も再現されている。ブナの天然林、4千年前、この付近には豊かな自然と恵みがあったのであろう。偉大なる東北文化をもう少し勉強してみよう。

(4)青森港
郷土館を出る。バスの出発まで少し時間があるので、時間を潰すために青森港を見に行く。昔は青函連絡船があったが、今はもうない。1988年3月に青函トンネルが開通し、連絡船は使命を終える。

本州と北海道の間は時間的にはかなり短くなってきている。精神的にも近くなってきているのであろうか??港を見てみると青森ベイブリッジがあり、青森のAを象ったアスパム(観光物産館)などがある。地上15階、高さ76mの正三角形のビル。近代化されているが、曇り空の寒い日の午後のこと、人通りも全くなく寂しい。

太宰治は小さい頃、弟と一緒にこの港の桟橋で遊んだようだ。この弟は幼くして亡くなったようで、その思い出を哀愁を込めて語っている。青森の港は寛永年間に外が浜に奉行が設置され、北海道をはじめ日本海岸各地と盛んに交易が行われていた。太宰が見た港も活況を呈していたようだ。今は只寂しい。

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