【東交民巷と南池子】2007年12月9日 昨日に引き続いて風がない。最高気温が5度だと言うが、もう少し暖かい感じ。2日続けて散歩に出ることに。今回は軽い散歩にしようと思ったが、以前より気になっていた東交民巷に行って見たくなり、実行した。 1. 東交民巷
当時新僑飯店には日本人駐在員が多く住んでいた。今では考えられないことだが、上海には日本料理屋がなかったので、態々北京まで汽車で17時間をかけて食べに来た、その締め括りが北京駅近くの新僑飯店のラーメン。味は良く覚えていないので美味しくはなかったかもしれないが、物はあるかないか、が大事であり、あることに満足する物である。 そこで思いがけず大学の同級生A君に遭遇したことも忘れ難い。彼も私も共に中国語を捨てて別の道を歩んだはずであった。その彼が北京にいた。人生とは何と皮肉なことか??自分で嫌がった人ほど、そちらに引き寄せられる、とも言われている。そのA君とは先日場所も同じ北京で21年ぶりに再会を果たした。北京は約束の地??である。
今日ホテルの横にはパン屋があった。人で賑わっている。思わず中へ入る。勿論20年前とは比べられない綺麗さがあった。2つほど買って食べて見た。今の北京では標準的な味。これが20年間の味かどうか分からないが、とても懐かしい気分になり、道を歩きながら立ち食いした。 (2)東交民巷
明清代には五部六府の官庁街になり、また王府も多く存在したが、義和団事件後の1901年から各国大使館専用地として実質租界への道を歩む。当時は清朝崩壊等もあり、周囲は騒然としており、武器を持った兵隊が守る場所であった。 今歩いてみても特に何ということはない斜めの道であるが、所々に洋館が残っている。本当に短い道。あっと言う間に大きな通りに出た。 (3)天主堂と外国大使館街
教会の向かいに洋館が見える。紫山賓館との表示があったので中へ入ろうとすると警備員に止められる。ここは特定の人専用のホテルらしい。確かに上海辺りにある洋館ホテルの雰囲気がある。仕方なく外から写真だけ撮る。
1900年の義和団事件でこの辺り一体は焼け野原になった。義和団は山東省より『殺せ!殺せ!』と叫びながら入城してきたとあるから、恐ろしい。英国大使館に皆逃げ込んだらしい。何とか持ち応えている間に8カ国連合軍が救援に来て、結局義和団は崩壊、西太后も西安に逃げ出した。
2.正義路
1901年以降ここ大使館街は外国人居留地、実質的な租界。1910年に日本人建築家妻木頼黄の設計により地上2階、地下1階の建造。南の端の天辺は半球形となっており、少しロシア風。そこから北へ細長い建物となっている。尚中に入ることは出来なかった。 (2)旧日本大使館
旧日本大使館の大門である。中薗英助著『北京飯店旧館にて』には『ロココ風の彫刻のある門の中央上部、かつての菊の紋章のあった場所には赤い生地に五星をあしらった中国の国章が打ち付けてあった。』とある。また『侵略の出先機関が首都の行政機関とは大変な優遇振り』とある。その通りかもしれない。
この大使館の中で1915年袁世凱大統領が対華21か条の要求に対して署名した。中国では売国奴と言われる所以となっている。1919年の五四運動では学生達が最初に目指した場所はここであったわけだ。 頼みの綱の人民政府来訪接待室も日曜日で扉が閉まっており、中を窺う事は適わなかった。次回再チャレンジしよう! 3.南池子
皇城とは何か??明清代の北京は内城と外城に分けられる。内城の中心は紫禁城、この外側に工房や倉庫などの朝廷の生活を支援する部分、中南海のようなリゾート施設が構成され、これを囲む壁が皇城である。現在はその殆どが取り壊されて見る事は出来ない。
100年前のこの辺りの写真を見ると木々は殆ど見えず、かなりスッキリと空が見える。アーチがやけに大きく感じられる。満州八旗の子孫という方はここで生まれ、育った。当然周りは貴族ばかりが住んでいた。今はその面影も無い。 (2)皇史?
現在の建物は南北6m、東西3mの巨大な切り石を積み上げており、木材が全く使われていないことは完璧な防火、防虫を目指してのことであろう。室内には永楽大典の他、清朝皇帝の記録などが収められていると言うが勿論見ることはできない。正面に5箇所アーチ型の入り口があるが、どれも硬く閉ざされている。
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