静岡、三重、奈良茶旅2021(6)山添村と月ヶ瀬の茶

10月21日(木)山添村と月ヶ瀬

朝ご飯の後、早々にチェックアウトして、荷物を持って下に降りた。今日はYさん夫妻、そして台湾で会って以来、ご無沙汰のKさんと待ち合わせて、山添村へ向かう。有難いことに奈良駅前集合なので、さっと移動できた。Yさん運転の車で1時間もかからずに、山添村に入った。思っていたより近いし、それほど山の中とも思われなかった。

村役場に行く。最近建てられたのかとても立派だった。中では山添村(旧波多野村)の茶業史に詳しいHさんが待っていてくれた。早々に戦後の森永紅茶について色々と伺う。こちらは亀山よりも先に森永が進出していたが、茶業を推進したのは、あの亀山の川戸勉氏だった。

実際山添村は奈良市からもそれほど離れてはいないが、生活圏(スーパーや病院など)は三重県方面にあるといい、現在であれば高速道もあり、亀山から山添は車で1時間だという。また戦前台湾三井で川戸氏の部下、共に紅茶を作っていた高原正一さんがこちらの茶業に関わっていたというのも興味深い。やはり戦前の台湾人脈がここでも紅茶を作っていた。ただ高原さんに関する情報は途絶えており、分からなかったのが残念だった。

お話を伺った後、60年前に森永に茶葉を供給していたという茶園を見学した。非常な急斜面に茶樹が植わっていた。この風景は昔の写真にも残っており、そこには森永の文字も見えている。紅茶作りは50年前に一度終焉し、その後は緑茶を作っていたが、最近また紅茶づくりが復活しているという。

最近はイベントで紅茶作り体験を行う他、針インターに隣接する道の駅、針テラスなどでも紅茶の販売を行っていると聞いた。そういえば数年前、こちらに就業した茶農家さんと針テラスで会ったのを思い出したが、彼はどうしているだろうか。

Hさんとはそこでお別れして、車は奈良方面に少し戻った。山添の茶工場の前、1950年頃に作られた田原工場の跡地が、道路沿いにあるというので行ってみるも、残念ながらここも全く痕跡はなかった。近くに山添村歴史民俗資料館があり、昔の小学校の校舎を見る思いで、立ち寄ってみる。何だか映画のセットにいるような気分になるほど、いい雰囲気の建物で、中には茶関連の資料も少しあった。

午後月ヶ瀬の茶農家に伺う前に、ランチを頂く。如何にも田舎の食堂という雰囲気がとても良い。おばさんも愛想よくて気持ちが良い、山菜、お揚げ、卵の入ったうどんを食する。更にぜんざいまでデザートとして食べてしまった。何だか幸せな満腹。

月ヶ瀬のIさん夫妻とはもう6年も前、下田で一度会っている。その時『今度是非伺います』と言ってから、これだけの月日が流れている。私は全国で『今度行きます詐欺』を働いている。今回は同行したKさんが『Iさんと話していたら、お父様が森永紅茶の原料を作っていた』との情報をくれたので、Yさんにお願いして寄せて頂いた。

Iさんは20年ほど前に故郷に戻り、家業を継いだ。だが従来の緑茶だけでは将来は難しいと考え、極めて独創的な茶業を展開していた。土壌などの茶園管理に気を配り、品種についても非常にこだわりを持ち、品種の実生から新たなものを生み出そうとしていた。これはすぐに結果を得られるものではなく、かなり先の将来まで見据えた戦略だといえる。あちこちにまだ育ち始めの茶の木がかわいらしい姿をしている畑を見ていると、先の楽しみを思う。

『紅茶については、自分は父親が作っていたとは知らなかった。自分が紅茶作りを始めるに当たり、近所の先輩に聞いたところ、森永紅茶の話が出てきた』と言っておられた。国産紅茶の歴史は50年前に一度完全に断絶し、その後の空白期にほとんどのことが忘れ去られていた。『悲しい日本紅茶の歴史』はどこにでもある。

あっという間に時間は過ぎ、茶畑に日が落ちていく。山の日没は早い。暗くなったところで、茶工場も見せてもらうと、台湾製の製茶機械などもあった。色々と研究を重ねているようだ。次回は天気の良い日に、半日この茶園をゆっくり散歩してみたいと思う。帰りもまたYさんの車で奈良駅まで送ってもらった。名残惜しい奈良だったが、そのままJRで京都へ向かった。

静岡、三重、奈良茶旅2021(5)奈良を歩く

10月20日(水)奈良へ

今朝は晴れていた。そして今日は奈良へ移動する。移動ルートはいくつかあるようだったが、あまり考えずに来た電車に乗り込む。まずは近鉄で松阪方面へ向かい、伊勢中川という駅で大阪方面の電車に乗り換える。そこから桜井駅まで乗って、JRに乗り換える。JR駅までは少し距離があり、またなぜかホームは寒かったが、何とか電車に拾われて、奈良駅まで辿り着いた。これが一番料金が安いルートだったらしい。電車が奈良県に入ると、歴史的地名、遺跡の案内などもあり、何度か降りたい衝動にかられたが、荷物が重いので残念ながら控えた。

奈良駅前の某チェーンホテルを予約していたので、荷物を置きに行って驚いた。通路にずらっと荷物が野ざらし?に置かれており、これでは誰かが盗んでいっても全く分からない。思わずそれを指摘すると、フロントの女性は『いやなら、駅のコインロッカーに預けて』というではないか。さすがにすぐにマネージャーが出てきて、特別にフロント内で預かるという。見れば外の荷物は修学旅行の学生のものだった。コロナ禍でも何とか修学旅行に来られたのはよかったなと思うが、荷物はちょっとかわいそうな気がした。

チェックインまでかなり時間もあるので、取り敢えず駅前の観光案内所に立ち寄る。そこで地図をもらい、県立図書館の位置を確認するが地図に載っていない。街中とは正反対の方向で、しかも意外と遠い。バスも頻繁にはないらしい。まあ天気が良いので今日は歩いていくことにする。ただ折角の奈良なのに、住宅街を歩いているだけなんてつまらないなと思いながら歩く。

30分ほどして、図書館に到着した。今や日本の図書館はどこもきれいで立派だ。ここで昨日と同様、奈良の茶業関係資料を探しまくり、見付けるとコピーしていく。残念ながら目指していた奈良紅茶の歴史やそれにかかわった人物については、ほとんど資料は出てこなかった。奈良も歴史事案が多過ぎて、茶業などは当然のように埋もれてしまったのかもしれない。

朝ご飯はたくさん食べていたものの、さすがに腹が減った。帰り道にあったチェーン店のうどん屋に思わず入る。そして目に留まったかつ丼セットを注文。かつ丼意外とうまい。そして関西風うどんはいい味だしている。なんだかちょっと嬉しくなる。食後は元気になり、何となくその勢いで、街中に突入した。

ふらふらと歩いていると、突然茶道発祥の地、という文字が目に入る。近くには『茶礼祖 村田珠光』の文字も見える。称名寺というお寺は村田珠光がいたところだった。茶道関係者なら一度は訪れる場所かもしれないが、私はちょっと拝見するだけだった。それから奈良時代の聖武天皇の御陵(佐保山南陵)を通った。隣の佐保山東陵には光明皇后が埋葬されていた。やはり奈良を歩くと一気に1000数百年の時を超える。

東大寺の横も通る。狭い道を修学旅行の中学生が歩いてきて、思わず車道を歩く羽目になり、すれ違う際車に轢かれそうになる。奈良の人はきっとこんな光景には慣れているのだろう。旅行会社のガイドさんもさほど気にしている様子もない。何だか疲れてしまい、宿に戻ってチェックイン。すぐに大浴場へ向かったが、浴場の場所がフロントに近くて、お客さんと沢山鉢合わせ。ちょっと落ち着かない。

更にドリンクが無料で提供されているのだが、その食堂へ行くのに、フロントを通るので困る。よく見たら反対側から行けることが分かり一安心。実は翌朝朝食を食べようと浴衣で出かけたら、何と朝は反対側の通路は通行禁止で着替える羽目に。昨日まで3泊した宿があまりにも良くできていたので、その差が歴然とし過ぎていて怖い。いくらファシリティーがあっても、使い勝手が考慮されていない、それを補うべき人材に問題があれば、ただの猿真似ではないだろうか。

静岡、三重、奈良茶旅2021(4)亀山へ

10月19日(火)亀山へ

翌日も宿で朝食を食べてから出掛けた。駅へ行くと大勢の人が集まっている。衆議院選挙なんだな、と思っていると、何と田村厚生労働大臣が現れ、演説を始めるところだった。そうか彼の選挙区は三重だったか。厚労大臣と言えば今や時の人だから、地元としても力が入っている。

私は今日も切符を買い、JRに乗り込んだ。昨日とは反対方向、亀山に向かう。僅か20分ほどで到着する。駅を出るとNさんが待っていてくれた。Nさんとは、Facebook上で知り合いになった。彼の投稿に茶の歴史関連が多く、三重茶の歴史にも詳しそうだったので、いきなりメッセージしてみたところ、快く迎え入れてくれたのだ。

だが彼がどんな仕事をしている人なのか、全く知らなかった。この辺が茶旅の面白いとこであり、恐ろしいところでもある。車に乗り込んですぐに『私が誰だから分からずに連絡してきましたね』とNさんに言われ、ドキッとした。そしてその車はどこへ進むのかも分からなかった。

到着した場所、それは試験場だった。茶業研究室、それがNさんの職場。何と茶の歴史好きというだけではなく、茶の専門家だったのだ。早々に三重県の茶業史などについて、色々と教えを乞う。私が今興味を持っているのは、明治初期の駒田作五郎、大正期の伊達民三郎、そして戦後紅茶史に輝く川戸勉、全て三重出身の茶業者だ。駒田、伊達については、地元有志で研究が進められているという。

そこへ川戸勉氏の息子さんが登場した。今回一番会いたかった人をNさんがわざわざアレンジしてくれていた。感謝しかない。ここからは戦後の紅茶史、特に川戸紅茶と森永紅茶に関して、かなり具体的なお話を聞いた。そして戦後の国産紅茶が、戦前の台湾から脈々と繋がるものであり、三井の日東紅茶を作った人々の歴史でもあることを確信した。

川戸さんが紅茶作りで使ったべにほまれは、その後の国産紅茶終焉でほぼなくなってしまったが、最近地元有志が復活を目指して活動しているという。今回は試験場に植えられたべにほまれの前で写真を撮らせて頂き、お別れした。

お昼時となったので、Nさんの案内で、イタリアンレストランへ行く。なぜイタリアンかというと、ここで亀山紅茶が飲めるからだという。最近の和紅茶ブームもあり、日本各地で国産紅茶が飲めるのは嬉しい。それから以前紅茶工場があったあたりに行ってみたが、全く痕跡はなかった。

最後に先ほどの川戸さんのご自宅に立ち寄り、何と川戸さんが経営していた有名な喫茶店のカップ(モーレツ紅茶の名称入り)を頂戴した。すでに数年前に閉店しているこのお店のカップ、プレミア商品だ。更にお自宅の裏に残る茶工場、そして製茶機械を拝見した。確かにここに紅茶作りがあったことを確認した。Nさんに駅まで送ってもらい、駅前のお店で亀山紅茶を買って、電車に乗り込んだ。

博物館と図書館

津駅まで戻ると雨が降っていた。一度宿に戻ろうかとも考えたが、先ほどNさんから県立博物館へ行ってみたら、と言われていたので、バスを探してみた。すると今まさに出ようとしていたので思わず乗り込んでしまう。雨の中、15分ぐらいでバスは博物館の近くに止まった。

博物館の受付で『お茶に関する展示が見たい』と言ってみると、何とわざわざご担当者が出てこられて、『お茶関連の展示は殆どないのですが』と恐縮している。ちょっと話していると、駒田作五郎関連の品などがご子孫から提供されているらしいが、まだ公開には至っていないという。三重のお茶の歴史は、実はこれからなのではないか。

博物館の展示を見学すると、確かに茶業関連のプレートはちょっとあるだけだった。そこにはあの大茶商、大谷嘉兵衛と並んで駒田の名前もあった。三重は松阪商人などが名を馳せており、商業に関する展示は多かった。そう、あのエカテリーナの茶会で紅茶を飲んだ(日本紅茶の日の由来)と言われる大黒屋光太夫も伊勢の船乗りだった。

そしてこの博物館は総合博物館と書かれており、古代の恐竜から現代まで、相当力の入った展示が行われている。今後茶業の展示が増えることに期待したい。3階に資料室があるというので行ってみたが、資料があるのかもよく分からず、コピー不可と言われてすごすごと立ち去る。

まだ雨は降っていたが、すぐ横に図書館があったので、そちらへ移動する。こちらでは色々と資料の検索をしてもらい、茶業関係の資料のコピーもできてよかった。三重の茶業、江戸時代、明治時代から現代までかなり興味深い。まあ今でも日本で3番目の生産量があるのだから、もっと注目される存在だろう。ただ三重茶業史の歴史上の人物が分かってくるのはまさにこれからだろう。帰りもバスに乗ろうと思ったが、雨も止んだので、ゆっくり歩いて帰った。夜は疲れたので外出はせず、夜泣きラーメンを食べて寝る。

静岡、三重、奈良茶旅2021(3)松阪と蒲生氏郷

観光案内所なら何とかしてくれるかも、との淡い期待。すると『今日は月曜日だから、どこもみんな閉まっているんです』とのつれない答え。これは困ったと周囲を見渡し、パンフレットなどからヒントを探る。今回の目的は蒲生氏郷だからそれを伝えてみると、『郷土史に詳しい人は今出掛けている』というので、取り敢えずお城見学に出掛けることにした。

駅からまっすぐ行くと、日野町と書かれた交差点がある。この付近に滋賀の日野、蒲生氏郷の生まれ故郷が見えてくる。氏郷が日野からここに来た時、大勢の日野商人、職人を呼び寄せたらしい。そこを曲がっていくと、松坂牛の幟がある。松阪牛、美味しそうだが、その店も今日はお休み。路上には江戸時代の国学者、本居宣長の像がなぜかボックスに入れられてある。そうか本居宣長もここの出身だったのか。お城脇に旧宅も残されていたが、月曜日はやはり入れなかった。

老舗のお菓子屋もあり、創業天正3年とあるから、まだ信長の時代である。信長が好む菓子を作らせたとの話もあった。やはり茶道関連である。そして三井家御用達ともある。そうか、ここ松阪は三井家発祥の地でもあったのだ。三井と茶の歴史、三井家は勿論、鈍翁や日東紅茶など、とても興味がある。三越のシンボルであるライオン像もあった。三井家のお屋敷は今もこの地にあったが、門は固く閉ざされていた。この付近には松阪商人の商家がいくつも残されていた。

松阪城跡に辿り着いた。『蒲生氏郷と松阪城』という打って付けの展示が、歴史民俗資料館で行われていたが、ここも月曜日で休みだった。ここは建物自体が歴史的でよい。本丸も天守閣も何も残っていない城跡を上っていき、ただただ眺めた。氏郷がこの城をどうように作ったのか、を知ることはもうできない。それから古い街を歩き回って駅に戻った。

さっき訪ねた観光案内所に行くと、観光ガイドの方が戻っており、氏郷関連の歴史について、色々と話を聞いた。だがやはりこの街に残されているものは多くはないという。話の流れで、会津で氏郷の墓を見たと告げると『実は松阪にも墓がある』というではないか。そしてなんとその寺まで案内してくれた。

龍泉寺というそこは駅からそれほど遠くはなかった。立派な門を潜るが、氏郷の墓がどこにあるかは容易には分からない。やはり一緒にきてもらって正解だった。墓は大きくはなく、その前に写真が掲示されていなければ、全くわからないだろう。その写真は昭和10年に展墓祭というのが開かれた時のものだという。氏郷の本墓は京都大徳寺にあるというので、ここにある墓は亡くなった元城主を慰霊するものらしい。氏郷は後世でも松阪の日人に愛されていたのだろうか。今回松阪に来て一番の発見だったかもしれない。

津新町から歩く

急いで駅まで戻り、津に戻る電車に乗った。この駅でも当然ながらJRと近鉄が走っており、どちらに乗るかを考えなければならなかったが、面倒なのでSuicaを使い、近鉄にした。そして津駅より1つ前の津新町駅で降りて歩く。1㎞ぐらい歩くと、松菱百貨店がある。ある人が昨年、三重で商売するなら松菱の包装紙に包まれた土産を持参しなければ始まらない、と力説していたのを思い出し、どんなところかと訪ねてみたのだ。まあいかにも老舗ローカルデパートという感じ。お客が少ないのはコロナのせいだろうか。

そこからちょっと歩くと、津城跡があった。ここは公園になっており、藤堂高虎の像が建っていた。おじさんが『ここは何にもないね』と話しかけてきた。最近は城ブームで全国の城を回っている人も多いらしい。若い女性が一人で何枚も写真を撮っていたが、彼女も歴女なのだろうか。

津駅に近づくと、四天王寺というかなり立派な寺があった。四天王寺と言えば、聖徳太子の時代に大阪に建てられた寺だと記憶しているが、ここも太子ゆかりの寺だと書かれている。更にここには織田信長の母、土田御前や藤堂高虎の妻の墓があり、確かにこの辺りでは名刹なのであろう。一応お墓を探してお参りした。

結構な距離を歩いて宿まで戻ったが、腹が減ってしまい、すぐに外へ出た。駅の近くにはあまりよさそうな食堂がなかったので、ちょっと検索してまた1㎞以上歩いていく。自分でいうのもなんだが、とても元気だ。これはコロナ禍の引き籠り生活の反動だろうか。

夕方5時になるともう暗くなってきた。その食堂には海老天とカツを煮込んだ、天かつ丼というメニューがあり、注文した。これは甘めで非常に好みの味であり、値段も700円と満足できるものだった。因みに泊っている宿には夜9時半になると夜泣きラーメンがあるので、日の最後はそれを〆に食べてから寝るので、夕飯は早めが良い。

静岡、三重、奈良茶旅2021(2)袋井 松下コレクションで

10月17日(日)袋井 松下コレクションで

朝早めに起きて、宿で朝食を取り、すぐに出かけた。何しろ初めての浜松。お迎えが来る前に浜松城ぐらい見ておこうと考えたのだ。天気予報は雨だったが、空は曇り。ちょうどよい散歩日和だ。浜松の街は日曜日の朝からか閑散としていた。浜松城跡まで歩くと結構時間が掛かったが、朝の散歩は気持ちが良い。そして思いの外、立派なお城が目に前に現れる。

1572年徳川家康は三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗して、この城に逃げ帰った。後の天下人、家康にとっては、このこじんまりした城は色々な意味で思い出部会のではないだろうか。8時半に開城し、上まで登った。展示も三方ヶ原などが中心で面白い。今度大河ドラマでまた家康が取り上げられるらしい。その時はこの城も脚光を浴びるだろう。そこから市内を少し散策してホテルに戻る。

豊橋のJさんが車で迎えに来てくれた。本来は今日豊橋でM先生とお会いするというので、浜松の宿を取ったのだが、急遽場所が袋井に変更になり、戻る形になってしまった。ちょうどJさんも参加するというので、浜松で拾ってもらい、袋井に向かった。Jさんもお茶関係の人で、何度か会っていたので、お願いした。車中、探求心の強いJさんとお茶談義。

約1時間で袋井駅へ行き、東京から来た人々と合流した。何と意外にもMさんまでいた。しかも撮影機材を持っている。今日は一体何が始まるのだろうか。Jさんの車に皆が乗り込み、浅羽支所に向かった。バスだと30分に一本しかないので、とても助かる。入口まで来ると、支所の人が『今日は選挙の期日前投票ですから』と言って、我々を端に遠ざけた。あまり歓迎されていない様子が窺える。

3階のM先生コレクションは充実しているが、見学者はいない。先生はご高齢ながら大変お元気で、それから長い時間我々に話をしてくれた(詳細は色々あって割愛する)。コレクションの中には、昨日K先生から教えられた西郷昇三氏(対ロシア茶貿易への貢献者)直筆の『西郷文書』(戦前から戦後の静岡茶歴史の貴重な資料)も置かれていたが、残念ながらそれを気に掛ける人はいない。

更には日本国内で作られた磚茶が無造作に置かれているが、これは第二次大戦中、蒙古向けぬ作られたものだろうか。そうであれば実に貴重だ。書棚の書籍類も、先生が世界中で手に入れたものの一部らしいが、1日中読んでいても飽きないだろう(ここに数日通って読書三昧してみたい衝動に駆られる)。このコレクションの重要性は、地元ではなかなか理解されないのかもしれないが、是非とも展示が続いてほしいと思う。

結局弁当を食べながら、その後はお茶を飲みながら、更には場所を移して、ずっとM先生のお話を聞き続けた。それは非常に貴重な、幸せな時間だった。ついには新説まで飛び出してきて、驚きと感動と共にお開きとなった。帰りは豊橋までJさんの車に乗せてもらい、M先生とKさんも同乗した。次回は先生のお宅に伺い、更に話を聞き続けたいと思っているが、ご高齢の先生のこと、ご迷惑だろうか。

豊橋駅でJさんとも別れ、岐阜に帰省するKさんと共に新快速で名古屋へ向かった。1時間で名古屋に着き、近鉄に乗り換えて、三重方面へ。津へ行く電車、どれが一番早いのかと迷いながら松阪行きの急行に乗り込む。車内は意外に混んでおり、立っている人も多い。1時間後、電車は無事に津駅に到着した。

今晩から3泊は駅前のホテルに泊まることになっており、三重をゆっくり散策できそうだ。この宿の良いところは夜9時半から夜泣きラーメンが無料で食べられること。そして大浴場に浸かり、風呂上りにアイスを食べると何となく幸せ。館内はすべて浴衣で歩けるので、気を遣わずにリラックスできるので評判の宿だった。

10月18日(月)松阪へ

今日から三重を歩いてみる。過去三重に来たのは伊勢神宮と賢島ぐらいだった。まずは松坂へ向かう。津駅に行くと、JRではスイカが使えないと書かれている。では切符を買うのかと思い、一応窓口で聞いてみると、『近鉄はスイカで乗れますよ。でもJRの方が料金は安いです』との回答。え、松阪に行くのに、JRと近鉄があるの?同じ場所へ行くのに何で料金に差があるの?何で近鉄はスイカ使えるの??と疑問だらけで頭が固まる。しかしJRの電車がすぐに来るというので慌てて切符を買い、何とか乗り込む。

乗ってみてわかるのは、目的地が一緒でも途中の路線は別(当たり前か)。松阪駅に近づくと車内アナウンスが『次は「まつさか」』と言っている。「まつざか」ではないんだ。初めて知った。因みに地元では「まっさか」とも言っているらしい。天気は曇り、松阪については何も調べておらず、どうしたよいか悩みながら、観光案内所へ足が向く。