東北、北海道を行く2021(3)バスで大間へ

さすがに歩き疲れた。ちょうどバス停があり、バスが来るらしいので待ってみる。原野、という感じのところに、なぜか日の光が差してきた。ミニバスがやってきたので乗り込む。町まで戻るだけだったが、何と運転手が運賃が分からないというので困る。このコミュニティーバス、近隣の人しか乗らないので、彼らは勝手に料金を放り込んでいくようだ。

そこから別のバスに乗り換えて、宿の近くを通り過ぎていく。今度の目的地は柴五郎旧居跡。むつ運動公園近くの林の中、クマ注意と書かれた看板の先にそれはあった。これだけを見ても、150年前会津から来た柴家がどんな環境にあったかは推して知るべしだ。その苦難の様子は『ある明治人の記録』に詳しく書かれている。

ここには柴五郎顕彰碑が建てられている。苦労を重ねた柴五郎は、1900年の義和団事件の際、各国公使館と連携して居留民保護を行い、各国に称賛された英雄。その後に締結された日英同盟の陰の立役者とも言われており、会津初の陸軍大将に上り詰めた。彼については、興味深い人生が満載であり、今後も調べていきたいと思っている。

歩いて宿に戻ろうとしたが、途中でエネルギー切れを起こす。ちょうどすき屋があったので思わず入る。午後3時、こんな時間にご飯が食べられるところは他にない。温かい物が欲しくて、牛すき鍋定食を注文。生卵が2個もついていて、感激。なんだかとても美味しく頂く。

また雨が降り出し、急いで宿へ駆け込む。チェックインすると、何と温かい肉まん1個が渡される。こんなサービスは初めだ。今思いっきり食べたばかりだが、冷めてはいけないので、部屋で腹に押し込んだ。疲れて果てて寝込むと夜になっており、腹は相変わらず満腹で、風呂だけ入り、また寝てしまった。

11月15日(月)大湊へ

今朝は天気も回復している。当然早起きして、朝ご飯に挑む。和洋折衷を思いっきり食べた。今日は大間までバスに乗るのだが、出発まで時間があるので、隣駅の大湊まで歩いてみることにした(昨日電車に乗れば乗り放題切符で無料だったのに)。20分ほど歩くと、『斗南藩士 上陸記念の地』という表示が出て来る。会津からこの地にある者は陸路で、ある者は新潟から船でここへやってきた。

線路が続いている。そこを横切り港の方へ。小さな港、その横に記念碑が隠れるように置かれていた。その先にJRの終点、大湊駅があった。ここまで来ると、突き抜けた感じになる。会津から来た人々が見た風景、不安は如何ほどだっただろうか。帰りがけに立派な体育館や公園を見た。公共事業だけが盛んなのはどこの地方も一緒か。

バスで大間まで

宿まで戻り、荷物を取って駅前のバス停に向かう。念のため大間に行くバスを確認すると案内所の女性は『バス停のところに書いてあるでしょ』と素っ気ない。だがそこには終点の佐井行とは書かれているが、大間を通るとは書かれていない。なぜこんな対応を取るのかと訝しく思ったが、最近の傾向として『そんなのは検索すれば、分かるでしょう』なのであろう。でもそれなら『案内所なんかいらないでしょう』と言いたい。でも人がいないよりいた方が安心感はある。

バスに乗り込むと他に乗客は1人しかいない。本当に大間に行くのか運転手に聞いてみると、ちゃんと頷く。料金は高額でしかも現金のみだから予め両替した。バスが走り始めると何と私が昨日歩いた道をなぞっていく。実はこのバス路線、Googleでは出てこない。だから不安だったのだが、乗客も徐々に乗ってきて順調に進む。

バスは軽い山越えを経て、太平洋へ出た。何だか急に視界が開けた。1時間弱で大畑という営業所でバスは停車して休息した。私はトイレを探してまごつき、乗り遅れそうになる。ここは元々鉄道路線があったところのようで、線路が見えた。この付近でも結構人が乗ってくる。彼はどこへ行くのだろうか。

更に海岸線を北上すると下風呂温泉郷なる所で、おじさんが降りた。鄙びた温泉宿にでも泊まるのだろうか。非常に率直な感想を言えば、『こんな場所にも人は住んでいるんだな。温泉もあるんだな』。会津の人も下北でそう思ったのかもしれない。海岸線には漁に出る船も見られ、また漁師小屋もあった。

大間と言えばマグロが有名だが、こんなところにあるとは思っても見なかった。ちょっとした街に出たが、フェリーターミナルはまだ先だという。そして街はずれ、本州最北端の地という表示を見た後、ついにターミナルが見え、バスを降りた。乗車時間は約2時間、料金は2500円を超えていた。

東北、北海道を行く2021(2)下北 会津の惨状を知る

4時過ぎに駅前まで戻ってきたら、腹が減った。そうだ、今日はほぼ何も食べていないことにそこでようやく気が付いた。ここの名物料理はいかめしとせんべい汁と聞いたので、是非食べたいと思い、店を検索するも、駅周辺にはほとんどなかった。ただ宿の下の階の店はやっており、何とか食べられたのは幸いだった。せんべい汁は予想外においしく、もう一杯食べたいぐらいだった。ただ料金は観光客向けだったのだろう、少し高く感じられた。

宿は駅直結だからエレベーターで上に行き、荷物を持って部屋へ行く。夕方5時には暗くなり、周囲に何もないので、駅で明日の下北行電車の時間を確認した。するとガチガチ青森弁の年配駅員さんが『明日はこれだよ』と言って、一日乗り放題切符のパンフを指さす。更に切符はここでは買えないよ、とも言い、驚いていると、若い女性駅員が、何とJRの緑の窓口まで案内してくれた。

窓口で再度確認すると、先ほどの窓口は青い森鉄道(東北新幹線の延長で、JR在来線が第三セクターに移行)で、下北駅へ行くには野辺地から先がJRなので、ここで買うことになっているという。また一日乗り放題と八戸~下北の運賃は、乗り放題の方が10円安いという。あまりに複雑でよくわからないが、そのまま購入し、部屋に戻ってゆっくり休養した。

11月14日(日)下北へ

翌朝は早く起きた。窓から外を見ると、まだ明けたばかり朝だが、既に電車は動いている。鉄オタさんにはいい環境なのだろうか。腹が減ったので朝食へ。宿の朝食を食べる場所はなんと昨日のせんべい汁の店だった。昨日美味しかったせんべい汁が出ればいいなと思ったが、普通の味噌汁だった。

出発までに時間があったので駅周辺を歩いてみたが、やはり特に見るべきものはない。宿泊しようかと検討していた近所のホテルは休業になっており、本当に人が来ないのだろうなと思えた。9時過ぎに昨日の駅改札に行く。購入済みの切符で簡単に通過できた。

やはり一両列車だった。『JR大湊線 下北方面』と表示されており、この電車が野辺地で乗り換える必要がない直通だとわかる。思ったより多くの乗客を乗せて出発。途中に三沢駅があり、何となく三沢高校を思い出した。野辺地では『サッカー柴崎岳選手の出身地』との横断幕を見た。

JRに入ると、海岸線が出てきて、なんとなく雰囲気が良い。しかし途中に大きな風力発電を見て、急にむつ原子力発電関連の事業に思いが至る。1時間半で下北駅に到着する。『本州最北端の駅』という表記が目に入る。終点は次の大湊だが、緯度では下北の方が北であるらしい。

下北で

駅前の観光案内所で情報収集する。地図をもらって会津藩関連の場所を聞いていると、バスがちょうど出ていく。よく聞くとあのバスに乗ると便利だったらしい。しかも次のバスは3時間後と言われ、愕然としたが仕方がない。安全策で宿は駅前に取ってあったので、まずは荷物を置きに行く。

今日の宿、昔は町一番のホテルでした、という感じ。広いロビー、結婚式なども行われたのだろう。荷物を預けて傘を借りて出発。雨が降りしきる中、田名部川沿いに歩いていく。途中にあった『水道、どうでしょう』という何とも言えないCMが忘れられない。30分ほど歩いて、下北の町に至る。

今回はお茶の旅から少し離れ、昨年行った会津に関連して、斗南藩について学ぶ。まずは会津藩ゆかりの寺、渋い円通寺に向かう。会津戦争に敗れた会津藩は、その後斗南藩となり、1871年に円通寺に仮の藩庁と藩主の居館が設けられ、その後藩校日新館もここに移された。境内には戊辰戦争三十三回忌の1900年に招魂碑(松平容大の揮毫)が建立されている。

すぐ近くにある徳玄寺もゆかりの場所だった。円通寺は曹洞宗で戒律も厳しく、食事では獣肉や魚介類の禁止、静寂を常とした為、若年の容大が生活するには無理があり、比較的戒律がゆるい徳玄寺が食事を摂り、大声をあげ、走り回れる遊び場だったという。又徳玄寺の境内では斗南藩の家臣達の会議場となっていたというから、将来の斗南藩の行く末について熱く議論された場でもあった。現在は特にそれを窺わせるものは何も残ってはいない。

雨が止んだ。そうなると歩くしかない。30分ほど郊外に出て行く。新しい縦貫道路が作られていた。その先に斗南が丘市街地跡がある。ここが斗南藩の生き残りをかけた夢の開拓地だった。しかしあまりに過酷な環境で成功には至らず、現在では当時の様子を伺うことはできない。

敷地の奥に大きな石碑があった。1936年秩父宮と勢津子妃がこの地を訪れたことが分かる。なぜここに碑があるのかといえば、それは勢津子妃が、会津松平家に繋がる人であり、この婚礼により、逆賊朝敵の汚名を拭い去ることとなったからだった。最北端に追いやられた会津の人々のことを思うと、思わず目頭が熱くなる。

東北、北海道を行く2021(1)八戸 根城、是川縄文館を歩く

《東北、北海道を行く2021》  2021年11月13-22日

10月の大遠征で味をしめてしまい、1か月に1度は旅行に出ようと考えた。今月は久しぶりに北海道へ行くことにしていたが、単に飛行機で行くのはもったいないので、普段はいけない(茶畑ないし)下北半島から船で函館に渡るという絶妙な計画を立ててみた。果たしてどんなことになるのだろうか。

11月13日(土)八戸へ

東北は私にとって鬼門なのだ。失意の18歳の思い出が強烈過ぎて、その後ほとんど足を向けたことがない。唯一一度だけ25年ほど前に『みちのく一人旅』を敢行するも、やはり困難の連続だった記憶しかない。今日は大宮から新幹線で八戸まで行くのだが、25年前は東北新幹線の電気系統の故障で、東京から盛岡まで7時間かかったという苦い思い出の再現がないことを願うばかりだ。

そして今回の新しい試み。駅ネットで新幹線を予約して、チケットレスで乗車することにした。これだと割引が得られる場合もあると、ようやく気が付いた。やはり国内旅に慣れておらず、しかもちゃんと検索などもしないと損をする。それが日本だ。ただ新幹線を予約していて、何かの不具合で改札が通れなかったら、全ての日程に影響が出るので、今回は相当余裕のあるものにしておいた。

大宮駅で無事に改札を通過し、新幹線に乗り込んだ。今日は週末ではあるが、さすがに車内は空いていた。私の席は二人掛けの通路側で、窓側に女性がいたので、反対側の3つとも空いている座席に移ろうと思い、念のため車掌に、『こちらに移ります』と告げると、彼は『指定席は現在絶賛発売中ですので』と、暗に予約した席に座るように宣う。

仙台を過ぎて更に乗客も減ったので、もういいかと思い、席を移動した。指定席とは何とも面倒だな。それにしてもネットで座席が指定出来るのなら、乗車後の席の変更にもネットで対応してほしいものだ。まあ日本では無理だろうな。それでも天気が良いから救われる。外をボーっと見ていると、盛岡も過ぎて、八戸に着いた。

今日の宿は駅に直結しているので、すぐにフロントに荷物を預けた。その下の階には観光案内所もあるという便利さ。ちょうど是川遺跡が世界遺産に登録されたらしく、そのプロモーションを行っていたが、私がいくつかをバスで回りたいと告げると、要領を得ない回答で困った。実はこれはよくあることで、係員は自動車通勤でバスなど乗らない人が多く、バス路線などにも不慣れなのだ。せっかく案内するのなら、ちゃんと研修しておいてほしい。

根城から縄文館まで

とにかく面倒なので、バスを使わず歩き出す。駅付近に食堂などでもあればランチでもと思ったが、ほぼ何もない。八戸駅は市の中心からかなり離れていたのだ。30分以上歩いて、最初の目的地、根城に着いた。ここは南部藩の城、『根城にする』などの用語はここから生まれたと聞いている。

かなり広い外周を間違って一周してから入口に辿り着く。何だか広々とした公園のようにも見える。入場料を払って中へ入ろうとすると、今日は無料だという。前の老人だけかと思っていたが、とても得した気分となる。再現された屋敷、その中の展示を見ていると、南北朝の時代、北畠顕家の指示で南部氏が城を作ったらしい。そして1592年、秀吉の天下が定まった後、蒲生氏郷の奥州再仕置きにより、この城も破却となったと書かれている。

実に天気が良く、秋の雲が高い。そして木々も色づいており、日本の晩秋を感じる風景がここにあった。気分がすごく良いのでそのまま歩き続けることにした。根城から直ぐのところに、八戸市博物館があった。館の前には南部師行の像がある。ここ八戸には、江戸時代中期の思想家、安藤昌益が町医者をしていたとある。八戸は歴史的に見て、意外に面白い場所ではないかと思い始める。

そこから約1時間トボトボと歩いて、是川縄文館に到着した。何と先ほどの博物館で無料招待券をもらい、タダで見学する。さすがに土曜日で家族連れなども見に来ており、多少は人がいる、という感じであった。館内には様々な土偶が展示されており、実に興味深い。昔興味を持った遮光器土偶、青森博物館で見たことがあるが、ここにもあるんだ。そして国宝の合掌土偶も、一人で独占してずっと眺めていられた。

さすがに疲れたので、バスで戻ることにした。直接駅まで行くバスがあるので、それを待っているともう一台、市内中心街へ行くバスが来たので、何も考えずにそれに乗ってしまった。中心街をフラフラしようかと思ったが、バスの接続が悪く、降りたらすぐに駅行バスに乗り換えたので、中心街はバスの窓から見ただけだったが、確かに駅の周辺よりは賑やかだった。

三島日帰り茶旅2021

《三島日帰り茶旅2021》  2021年11月10日

先日三重の亀山で森永紅茶の歴史を調べている中で、『確かに荒茶は三重で作ったが、仕上げは三島工場だった』と聞いたので、気になっていた。森永の方に聞いてみると、紅茶を作っていた三島工場はもうないが、その所在地らしき場所は分かるというので、取り敢えず出掛けてみることにした。

11月10日(水)水がきれいな三島

先月静岡へ向かった際は、成城学園までバスに乗ったが、電車が事故で遅延したので、今回はバスで千歳船橋へ行き、そこから小田急を利用したが、何事も起きずに小田原まで行けた。有難い。ここでJRに乗り換え、熱海を経由して三島へ向かう。やはり三島までだと静岡へ行くといってもかなり近い。

初めて三島駅で降りた。ご飯を食べようかと思ったが、駅前にあまりお店がないので、取り敢えず図書館の方へ向かったが、食堂などは見付からない。代わりにきれいな水が流れる小川があり、ちょっと和む。そのまま図書館に入り、資料を探す。三島工場はもうないので、在りし日の姿など、写真でもないかと探すが、意外と見つからない。むしろ戦中の三島工場は薬品工場で、日本で初めてペニシリンを作った場所だと書かれていた。森永関連の資料は、ここでもほぼ見付からなかった。更に静岡県は茶処ではあるが、三島で茶業が行われた様子もあまり見られない。

またトボトボと歩く。途中にきれいな池がある公園を見た。結局駅前に戻り、そこにあったすし屋に入った。何となく静岡に来れば寿司かな、と思ってしまう。マグロ尽くしという立派な寿司を頂く。そして今度は先ほどと反対方向へ歩いていく。

楽寿園という実に立派な歴史公園に入った。ちょうど落ち葉がすごい季節で、係の人が数人で葉っぱを掃いていた。葉っぱを踏みしめながら中の方に踏み込むと、楽寿館という建物が見えた。なんだろうと説明をのぞき込むと、『これから説明があります』と声を掛けられ、館内へ入った。決められた時間に無料で館内説明ツアーをしているらしい。10人ぐらいがツアーを待っていた。

館内は木造の立派な造り。小松宮家の別邸として明治に建てられたらしい。大きな池に面して建っており、座敷からの景色が良い。飾られた絵画なども素晴らしい。更に洋室もあり、ここには朝鮮併合で王族となった朝鮮の王子李垠が住んでいたことと関連している。

園内には三島市郷土資料館もあり、見学する。東海道で最も賑わった宿場の一つと言われた三島宿の様子、交易などが展示されていたが、茶に繋がるものは見付からなかった。更に園内を散策すると、非常に落ち着いた、木々の多い公園で大いに和む。

森永紅茶の仕上げ工場跡地は

そこから三島駅へは戻らず、南下していくと、伊豆国分寺跡がある。奈良時代、聖武天皇の命で作られた国分寺だが、今はきれいに再建され、国分寺跡の碑が建っている。これは全国にあるので、地図で見付けたら、なぜか行ってしまうスポットだ。そのまま伊豆箱根鉄道の三島広小路駅へ行き、そこから電車に乗る。スイカなどは使えないので現金で切符を買う。

狭いホームに電車がやってくる。何だかちょっと路面電車のようだと思ったが、すぐに郊外に出て、民家の代わりに畑が広がっていく。いくつもの企業の工場も見え、その中には森永製菓のものもあった。私は3つ目の大場(だいば)という駅で下車した。森永紅茶の仕上げ工場があった場所はここだという。

工場の住所は駅のすぐ横だったが、反対側に降りてしまい、遠回りして向かう。だが地図が示した場所には団地があるだけで、工場を思わせるものは何もなかった。あとで調べると茶工場は、紅茶生産が終焉した50年前、すぐに土地が売却され、その跡地には住宅が建ったとあるから、それがここなのだろう。

回っていくと、駅に出る。昔の僅かな写真によれば、駅から工場が直結していたから、その位置関係はそのままである。勿論現在この付近で、ここの工場があったことを知る人はほとんどいないだろう。50年とはそれほどに長い年月なのだということは、紅茶の調査で痛いほど分かっていたが、それでも寂しい。

また切符を買って電車に乗る。終点まで切符を買ったのに、なぜか二駅で降りてしまった。それは三島田町駅が三島大社前、とも書かれていたからだ。せっかくだから三島大社へ行こうと思ったのだが、地図上ではどう見ても、駅から大社は近いとは言えない。大社前とはなぜ付いたのだろうか。

結局15分歩いて、何とか三島大社へ。なかなか古めかしい神社で雰囲気は良い。頼朝と政子の腰掛石などとあり、ここが源頼朝ゆかりの地であることが分かる。来年の大河ドラマを考えると、ここへの参拝者は増えるだろう。さすがに疲れてしまい、ふと見ると和菓子屋があったので入ってみる。お菓子とお茶で200円というので頼んでみると、これがこしあんの草餅で意外においしい。縁起餅とも書かれており、お土産に1箱買った。そしてまたトボトボと三島駅まで歩いていき、今日の活動は終了となった。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(5)城崎温泉にて

10月25日(月)城崎温泉へ

満腹の腹を抱えてゆっくりと睡眠をとった。今回の旅に出てから10日近くが経ち、さすがに疲れが出てきていたので、何とも良いタイミングでリラックスできた。宿を後にして、豊岡市に向かった。まずは豊岡の図書館へ行く。但馬の国の歴史に関する展示があり、山名氏と茶の関連を窺わせるものもあった。そしてNさんのお知り合いが丁寧に説明してくれたので、てっきりここの学芸員さんだと思っていたら、違うらしい。

お昼に出石そばを食べに行って正直驚いた。さほど大きいとは思えない出石の町には、何と43軒もの蕎麦屋が並んでいた。そして小雨の平日にもかかわらず、多くの人が車でそばを食べてきており、その人気も実感した。なぜこの街にそばがあるのか。江戸時代信州上田の藩主が国替えでこちらに来た折、そば職人を連れてきたのが始まりとか。

そのそばの出し方も独特。『割り子そばの形態をとっており、この形式となったのは幕末の頃で、屋台で出す時に持ち運びが便利な手塩皿(てしょうざら)に蕎麦を盛って提供したことに始まった』という。五枚一組を一人前と言われ、テーブルの上はそばの小皿で埋め尽くされていく。

食後の散策。この街には沢庵和尚がいたお寺もある。大河ドラマ『八重の桜』でみた山本八重の最初の夫、川崎尚之助の出身地でもあった。川崎は八重の兄、覚馬と同門の秀才。そしてなんとあの中嶋神社まであった。この神社は菓祖と呼ばれ、お菓子の神様なのだが、実は先日佐賀の伊万里に行った時もこの神社に出会っている。田道間守が垂仁天皇の命で常世の国に渡り、橘を持ち帰り、これが菓子の始まりという話も全く同じで驚いた。なぜここにもあるのだろうか?

それから車で1時間、城崎温泉に入った。志賀直哉の小説、中学生の頃に読んだだが、名前しか覚えていない。ずっと気にはなっていたが、とうとうここに辿り着いたという感覚だった。如何にも温泉街という雰囲気の一軒に入る。何とも老舗旅館だったが、これもNさんのお知り合いということで泊めて頂く。

なんと幕末禁門の変に敗れた桂小五郎が隠れていた宿の後継だという。内部には多くの展示があり、かなりの興味をそそる。私は一人で立派なお部屋に案内され、大満足。この部屋は内庭を眺められ、そして文机が置かれており、まさに小説が書けそうだった。

お風呂は内湯もあるが、外に七つの温泉があり、やっていればどこでも入れるという。取り敢えず雨だったので、内湯に浸かり、夕飯はNさんたちのお部屋で、但馬牛やカニなどごちそうを頂く。特にお願いしたわけではないが、2日続けてこんな贅沢な旅、いいんでしょうか?いいんです!

10月26日(火)城崎を回る

翌朝は早めに目覚めた。小雨の温泉地、浴衣で出掛けた。宿の向かいには立派な宿があった。城崎温泉の風情、素晴らしい。周囲を散策した。小川を挟んだ写真映えのする風景。志賀直哉もそんな気分だったのだろうか。小学生が学校に行くのに出会う。彼らは毎日こんな温泉客を見て育つのだろう。

朝ご飯を頂く。これまた立派。こんなに食べて小説など書けるのだろうか?私ならこれで温泉に浸かれば一日ボーっとしておしまいだ。数分歩いて外湯の一つに入る。朝から結構お客がいる。広々とした湯船に浸かると極楽気分になれる。ゆっくり風呂から出て、更に周囲を散策した。

宿に戻るとNさんたちはご主人から展示品の説明を受けていた。桂小五郎、志賀直哉など様々な資料や写真が展示されている。よく見ると、お茶を淹れる道具も揃っている。老舗旅館には色々と見るべきところがあるものだ。Nさんとご主人に感謝。

宿を出て、城崎温泉元湯を見る。薬師源泉と書かれており、薬効があるのだろう。それから薬師堂へ行く。そこから歩いて温泉寺に向かう。普通はロープウエイで行くのだろうが、運動すべきと歩いていく。かなり急な坂道で驚く。ようやくたどり着くと、そこには立派な本堂があった。

我々がここに来た理由、それはご本尊が33年ぶりにご開帳、しかもあと数日でお目に掛かれなくなるからだった。ここもNさんのお知り合いであり、丁寧にご案内頂いた。このお寺は聖武天皇の命名で、十一面観世音菩薩像もその時代の作だという。1300年の時を超えて、ご対面できるとはなんと幸せなことだろうか。お寺から眼下の街を眺めるのも良い。

急な坂を転げ降り、城崎文芸館に行ってみた。ここは現代的な施設で、先ほどの空間との対比がすごい。文芸館、取り敢えず志賀直哉中心の展示かと思ったが、城崎温泉ゆかりの作家を多数登場させていた。志賀直哉がこの温泉に来たのは東京で山手線にはねられ、重傷を負った、その療養だと知る。

帰る時刻となった。私はここから京都まで行き、新幹線に乗り換えて、東京へ戻る。Kさんと京都まで同行して、そこで別れることにした。城崎温泉初の特急、平日の昼下がり、かつコロナ禍だから、ガラガラだろうと自由席を買うと、この車両だけかなり込み合っていた。何と自由席は一両しかないらしい。皆考えることは同じだ。

特急城崎18号は2時間半で京都駅に着いた。各駅停車を乗り継ぐより、1時間程速い到着だった。新幹線に乗る前に駅弁を買い込む。ここから品川までは2時間しかかからない。新幹線はやはり早いがつまらない、と思ってしまう。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(4)但馬 朝来へ

というわけで、朝の8時に近江八幡を出て京都から園部、福知山を経て、普通電車で4時間弱かけて和田山駅に着いた。今日はその昔名古屋で知り合ったNさんと待ち合わせ。車で和田山の街中へ。そこに古風な雰囲気のカフェがあった。『町家cafe伍右衛門』という名前で古民家を改装している。

店主は私と同年代で昨年外資系企業を早期退職したM氏。こだわりの強い方で、コーヒーは勿論、文化面にも明るい。突然訪ねたのに、話が色々と方面で盛り上がり、様々な情報を教えてくれた。この近くにある竹田城を含め、山城の熱烈なファンというのも面白い。こんなカフェが近所にあれば毎週でも通うだろう。その間にNさんはもう一度駅へ行き、名古屋から到着するKさんをピックアップしに行く。

Kさん、Nさん共に会うのは数年ぶりで、最近はご無沙汰ばかりであったが、これもお茶のご縁。まずは朝来茶の産地、さのう高原に行き、茶畑を見学する。ここには八代茶園の記念碑が建っており、1970年代緑茶生産のために入植したことが書かれている。朝来みどりというブランドで知られている。思ったより茶畑が広く、標高も350m程度で環境もよさそうだった。

そこから車で45分ほど行くと、生野銀山がある。実は今回ここに来た理由は、半年ほど前、大分へ行った際、明治初期の紅茶伝習所の一つである木浦に行った。そこは鉱山で有名であり、山茶もかなりあったらしい。この木浦の近くに竹田という街があり、ここに老舗和菓子屋但馬屋がある。これをFBで見たNさんが『但馬屋ならうちの付近の出身のはず』と言い、調べると正に但馬から移ってきたということが分かった。更には朝来には竹田城という城まである(大分竹田の城は岡城といい、あの滝廉太郎の歌で有名)。

そんなこんなで、『鉱山と茶』には何か関連があるのではないか、という話になり、せっかくなので訪ねたのである。だから生野銀山は今回のメインなのである。ここは戦国の世には織田信長の所領で、堺の豪商にして茶人の今井宗久が管理を任されていたことは、その昔の大河ドラマ『黄金の日々』に出てきたが、どうだろうか。また秀吉がここの水で茶を点てたなどとも伝わっている。

既に夕方になっていたが、何とか中へ入り、まずは展示を見ながら生野銀山の歴史を知る。江戸時代は佐渡金山と並び幕府の天領となり、その財政を支えた。明治になると「お雇い外国人第1号」のフランス人技師が来て、近代化を図ったとある。その後三菱に払い下げられ、1973年に閉山するまで長い歴史を有している。施設内にはお雇いフランス人、ジャン・フランソワ・コアニエの像などもあり、彼の功績は大きかったようだ。

坑内に入ると、ほぼ平坦だが長い坑道があった。途中に太閤水と書かれた場所があり、秀吉がここの水のうまさを激賞し、茶を点てたと書かれている。更に奥まで歩いていくが、どこまで行っても行き止まりがない。これは相当に深い。結局往復で小1時間を要してしまい、外へ出るどんどん暗くなっていた。

最後に生野紅茶の生産者さんの家を訪ねて、ヒアリングしたが、残念ながら暗くて写真も撮ることができなかった。生野付近では明治時代に紅茶が作られていたと記録にはあるが、と質問するも、そういう話はあるかもしれないが、今や知る人はいない様子。現在の紅茶生産は20年ほど前、緑茶生産をどうするか検討する中で、紅茶製造法を教えてくれる人がいたので、やってみたとのこと。

完全に暗くなってしまった。車はどこを走っているのかわからない。突然止まると、そこが宿だった。黒川温泉のやまびこ山荘という名前。コロナ禍で完全予約制とのこと、本日のお客は我々三人だけだった。まずは1階のお部屋でお茶とお菓子を頂く。それから2階の部屋に荷物を置き、夕飯前にひとっ風呂浴びることに。何とも風情のある浴室で、いいお湯に浸かる。なんだかとても久しぶりという感覚に浸る。

1階のお部屋には、夕飯の用意が出来ている。ここはぼたん鍋が有名だといい、早々に鍋が作られる。それにしてもいい色した肉だなと思ってみていると、奥さんが『実は主人が間違えて特上の肉を用意してしまったので食べて』というではないか。解説は難しいが、これは正直信じられないほど美味しかった。他に付近で取れた山菜などなども出てきて大満足。本当に久しぶりに温泉宿に泊まった気分を味わえた。アレンジしてくれたNさんには感謝しかない。いつも一人で食べているご飯を3人で食べるとさらにおいしい。もう一泊したいと思う宿。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(3)近江八幡を歩く

近江八幡

来た時と同じバスに乗り、また近江八幡まで戻る。既に結構歩いたので疲れてはいたが、天気も良かったので、そのまま近江八幡の街を歩いてみることにした。『近江商人発祥の地』の碑がある駅前から歩くと30分ほどのところに、歴史的風景地区があった。ここは江戸時代朝鮮通信使の通り道でもあったようで、朝鮮人街道という名前も見られた。

昔の図書館風の建物、資料館というのがあったので入ってみた。近江商人と茶について、何か展示はないかと探したが、特に見当たらない。一生懸命資料を見ていたら、話しかけてくる人物がいたので、茶について聞いてみると、『茶の歴史の観点で見る人がいないんですよ。大きな商家には必ず茶室があったのですが、誰も管理しないから昭和の中頃までにどんどん朽ちていきました』と説明してくれた。この方がここの館長さんだった。

木造家屋が立ち並ぶ一角は非常にきれいで、時代劇の撮影に使えそうだった。更に行くとメンタームと書かれたビルがある。ああ、近江兄弟社だ。資料館があるようだったが、コロナで閉まっていた。その前には、後に京都などでも多くの西洋建築を手がけたヴォーリズの像がある。

彼は英語教師として来日してここで生活を始めたと書かれている。終戦直後マッカーサーと近衛文麿との仲介工作をしたともいわれるヴォーリズという人物は実に多彩で、興味深い。機会があれば、もう少し調べてみよう。尚私が子供の頃から慣れ親しんだメンソレータムは今やロート製薬の商標になっているという。

景色の良い川を渡ると日牟禮八幡宮があった。何となく人がそちらに歩いていくので、吸い寄せられるように入っていく。何となく御利益がありそうに感じられる。その八幡宮の向かいには、白雲館という洋風の建物が建っていた。今は観光施設として使われているようだ。更に歩いていくと、ヴォーリズ学園があり、ヴォーリズ記念館もあるとのことだったが、残念ながら閉まっており、見学はできなかった。

さすがに歩き疲れた。そして腹も減った(今日もランチは食べていない)。歩きで駅前まで辛うじて戻るとエネルギー不足が顕著となるが、時刻はまだ4時半。こんな時間に食べられるところといえばラーメン屋ぐらいしかなかった。ラーメンだけでなく、ミニ丼までオーダーして、本当に腹いっぱいになるまで食べる。そしてまだ明るかったが部屋に戻り、あまりの疲労から倒れこむ。まあこんな日もある。

10月24日(日)但馬へ

今日は兵庫県の日本海側まで行く。そのルートを色々と検討したのだが、和田山という駅に特急などを使わずに行くのは京都から嵯峨野線で園部、そこから山陰本線で福知山経由というルートが一般的らしい。ところが検索サイトではもう一つ全く同じ料金で、姫路へ出て、そこから播但線で行くルートも表示されている。

せっかく行くのだから、面白いルートの方が良いと思ったが、確か姫路まで行くとSuicaは使えないだろうと駅で確認を取る。するとなんと、姫路経由だと料金は2000円ぐらい余計にかかるというのだ。確かにかなり遠回りであるから料金が同じという検索サイトの表示は不思議であったが、駅員はそこには一切触れずに、『京都経由ならSuica使えます』とだけ説明する。

本件については和田山駅を降りる時になって、そのカラクリをようやく理解したが、ここでは敢えて書かない。それにしてもJRのシステムは、相変わらず面倒な事が多い。こちらの質問にちゃんと答えず、最後は駅員の方が不機嫌になる、という態度は止めてほしいものだ(もしかすると私を鉄オタと勘違いして、わざとクレームしていると思ったのかもしれないが??)。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(2)彦根の井伊直弼と日野の蒲生氏郷

彦根
そしてまた新快速に乗る。僅か14分で彦根に着いた。また駅に併設されている観光案内所に入る。日本はある程度の規模の駅なら、どこへ行っても観光案内所があり、何ともありがたい。尋ねたのは『井伊直弼とお茶に関して分かる所はどこ』であった。

駅前の像、井伊直政公、彦根藩初代、あの徳川四天王、井伊の赤備え、女城主直虎にも登場したな。ただよく見てみると、1602年彦根城築城途中に佐和山城で死去(42歳)、彦根藩になるのは彼の死後だった。それから200数十年、井伊家の所領は変わらず、そして幕末あの井伊直弼の代となる。

とにかく彦根城に向かう。その堀の前を曲がると、そこに埋木舎があった。ここは直弼が部屋住み時代に15年間暮らした場所だった。中を参観すると、大河ドラマ第1回直弼が主人公の『花の生涯』などの展示がある。今年の大河『青天を衝け』の岸谷五朗とは全然違う。ただ今回の大河で直弼が大老になった要因の一つとして、家定に茶菓子を献上した様子があったのは特筆される。

舎内は落ち着いた雰囲気があり、彼が詠んだ句も示されている。お茶室などもあって、やはり直弼と茶は大いに関連がある茶人だと感じる。座禅の間もあり、善と茶の関連も垣間見られる。部屋住みの暗い人生、と思われがちだが、意外と楽しんでいた可能性もある。

彦根城にも入ってみようかと思い、堀を渡ると、そこに宝物館があった。ここで直弼の茶道具などが見られるのではないかと期待したが、何と明日からの特別展のため模様替えで、入れてもらえなかった。明日は何が見られるのかと聞いても答えがなく、驚いて城も見ずに引き上げることとなった。

堀の周りを回り、楽々園へ行く。ここが直弼生誕の地だという。こちらは幸運にもたまたま一般公開(しかも無料)されており、その屋敷と庭を眺める機会を得た。しかし14男として生まれた男が藩主になり、しかも幕府の中枢に行く、というのは、余程の命運を持った人だったということだ。庭がなんとも美しい。この屋敷の近くには井伊直弼の立派な像も建っており、彦根はやはり井伊直弼中心かと思わせた。

図書館へ行き、井伊直弼関連、特に茶についての資料を漁った。職員も親切に対応してくれ、コピーも沢山出来た。まだ少し時間があったので街を歩くと、かなり古い建物なども一部に残されており、彦根がいい街であると知った。帰りに駅前で『ひこね丼』という幟を見たので、思わず食べてみた。近江牛のすじ肉を使った牛丼であろうか。最近こういうご当地グルメが多い。それからJRで近江八幡に戻り、夜は宿で休息する。

10月23日(土)日野

朝ご飯は宿で食べたが、ここの朝食は非常に簡易。最近立派な朝食ばかり食べてきたので、少し物足りない。ここはチェーンホテルだが、その中で格が一段落ちるステータスだった。名前だけで宿を選んではいけない。

今日は蒲生氏郷を追って日野へ行ってみる。とにかくバスに乗るしかないので近江八幡駅から出発。今日も何とも天気が良い。途中鉄道の日野駅もあったが、目的地まではここからでもバスに乗らないと相当遠いことが分かる。約50分かかって、何とかバスを降りた。日野川ダム入り口、というバス停からして、人家など無さそうだったが、意外や家が結構ある。

蒲生氏郷はここ、旧中野城で生まれた。石碑が建っており、近所に産湯を浸かったという井戸も残されている。日野川沿いには氏郷と冬姫の略歴の看板があった。ここではやはり冬姫も注目されている。城跡はちょっとした森になっており、小高い神社に登ると、昼間でも神秘的な感じがする。

バス通りに戻り、更に歩いていくと古い家屋が見られる。この付近は往時日野商人の屋敷が多くあったのだろうか。その1軒が公開されていたので見学する。日野商人は本宅を日野に置くが、商売する場所は日本各地に渡っており、基本的に本宅にいるのは奥さんだというのを初めて知る。北関東などにもかなり進出しているのは意外だった。ここ山中正吉邸の主は、静岡の富士宮で酒造業をしていたという。その内部には立派な部屋がいくつもあり、庭も美しく、往時の財力が窺われる。更には非常におしゃれな洋室があったりして、実に多彩だ。

この辺の道を歩いていると、ちょっと時代感覚がなくなる。更に行くと、日野商人館があり、先ほどと同じ山中姓の商人の更に広大な屋敷を見ることもできる。ここでは日野商人のネットワークや商法などを知ることもできたが、今後何かの機会にきちんと調べてみたい対象だった。近江商人と一括りにするのは少し違うのかもしれない。

途中の信楽院という寺は、蒲生家の菩提寺で、氏郷の遺髪供養塔もあった。更には雲雀野公園に、蒲生氏郷像を見ることができた。やはりここは蒲生発祥の地であり、当然ながら氏郷はその中心人物と位置付けられている。氏郷は武勇に優れただけの戦国大名でもなければ、ただの茶人大名でもなさそうだ。彼が持つ商人的な発想はきっとこの地で磨かれたものであろうし、それが秀吉を恐れさせたとすれば恐るべし、である。

京都、滋賀、兵庫茶旅2021(1)京都 百万遍から吉田山

《京都、滋賀、兵庫茶旅2021》  2021年10月22‐26日

夜奈良から京都に移動した。宿は京都駅前だったが、腹が減ってしまい、京都駅の地下の蕎麦屋でとり天うどんを食べた。意外においしく満足して宿に入り、大浴場に浸かって幸せに眠った。Gotoトラベルがなくても、駅前の宿なのにそれほど高くない。これもコロナ禍のお陰というべきだろうか。

今回京都は半日だけで、そこから滋賀、兵庫と転戦した。いつもは通り過ぎてしまう場所を訪ねたり、ゆっくりと温泉にも浸かり、一味違った茶旅となった。

10月22日(金)京都百万遍

宿の朝食会場はちょっと狭かったが、食事内容には満足した。ここはチェーン店で最近京都市内にいくつもホテルをオープンさせている。外国人観光客目当てだったのかもしれないが、そのあては今のところ外れてしまったが、私のような者にはありがたい場所であり、今後もご贔屓にしたい。

宿に荷物を預けて、早々街に出た。宿から一番近いバス停に行くと、高瀬川の川端だった。そこには記念碑が建ち。説明書きも見える。先日読んだ小説の主人公が、江戸初期にこの川を作った角倉了以であり、何となく親近感を覚える。宇治からの茶の輸送のこともあり、この川の意義は別途考えるべきだと感じる。

バスで百万遍を目指す。百万遍の交差点と言えば、陸上競技の高校駅伝や都道府県駅伝の実況で何度も聞いた場所ではあるが、ここで降りたのは初めてだろう。今日は知恩寺を訪ねるためにやってきた。因みに百万遍とは、1331年に疫病が流行った時、7日間百万遍念仏を唱えて撃退したことから付いたという。

このお寺に来た目的は1つ、織田信長の娘、冬姫のお墓を探すことだった。冬姫は戦国最強武将の一人で、千利休の一番弟子でもあった蒲生氏郷に嫁ぎ、氏郷亡き後も関ケ原の戦いから徳川時代初期を生きてきた人物である。残念ながらその詳細は分からない部分が多いが、恐らく氏郷にとって重要な人物であったはずである。しかし一般にはほぼ知られていない。茶の歴史にも何等かの関係があったであろうか。

お寺の奥に墓地があったが、結構広く冬姫の墓を探すのに苦戦する。だが最近はお墓探しも慣れてきたので、いくつかのヒントから何とか探し当てた。するとそこにはちゃんと『蒲生氏郷公室 冬姫之墓所』との表示が見付かった。400年前の墓だと文字が読めないなどで苦労するので大変有難い。

この近くに吉田神社があると知り、歩いて向かう。京大農学部前を通過すると、その先に竹村園というお茶屋さんがあった。確かFBで何度も見た名前だったので入ってみようかと思ったのだが、まだ早い時間だったので、通り過ぎた。その先北参道と書かれた表示を曲がったが、意外と遠くに感じられた。

この神社、吉田山大茶会というお茶イベントが毎年開かれており、まだ参加したことがなかったので今年こそはと思っていたが、残念ながら中止となっていた。取り敢えずどんなところか訪ねたわけだが、石段が多かった。ようやく神社に到着すると、何と幼稚園の運動会が開かれており、お参りもトイレに行くことも難しい状況で早々に退散となる。

そこから更に石段を上ると、かなりきつかった。やはりここは吉田山なのだ、と気付いた時はもう遅かった。山の頂上まで喘ぎながら登り、向こう側へ下るしかなかった。茶会は一体どこでやっているのだろう。予想外に面白い立地ではあるが、イベントをやるには厳しい環境に見えた。

その先に銀閣寺があるようだったので、哲学の道を歩いてみる。観光客は残念ながら戻っておらず、閑散としていた。適当にバスを探して、京都駅前に戻り、宿で荷物を引き取って、京都駅からJRに乗った。今回の京都滞在は短かったが、私が知らない京都はまだまだたくさんありそうだったので、また来ることとしよう。

京都を出た東海道線新快速は、琵琶湖の南岸を掠めて、わずか30分で近江八幡駅に滑り込んだ。この30分の間にも大津、石山、瀬田と行ってみたいところが目白押しだったが、今回は素通りした。駅ではまず観光案内所で地図をもらい、ついでに日野への行き方などを聞いた。今日の宿は線路沿いのチェーンホテル。荷物を置いてすぐに外へ出た。