滋賀中心の関西茶旅2022(6)比叡山、義仲寺、瀬田の唐橋

Yさんはどうしても比叡山で茶の木を探したいという。唯一昨日言われたのが、信長の叡山焼き討ちで焼けなかった瑠璃堂付近にあるらしいという不確かな情報のみ。仕方なく比叡山スカイラインを車で登って行ったが、何と料金が2400円もして驚く。道理で車が少ないわけだ。

上までいき、目印の駐車場で車を降りたが、瑠璃堂は見付からない。山中ではGoogleも当てにならない。かなり迷って山道を右往左往した後、何とか到着。そこには古びたいい感じのお堂があり、その向こうに確かにほんの少し茶樹があった。ただお坊さんに聞いたところ、が30年前に植えたやぶきただという。そして『比叡山に茶はない』とダメを押される。

折角高いお金を払って来たので展望台まで行ってみた。なぜかこんなところに植物園もある。ここだと琵琶湖や大津だけでなく、大阪や京都の町が見える。山頂は更に上にあったが、もう行かなくてよいだろうと下り出す。そのまま下まで降りていき、唐崎神社を目指す。

ここは琵琶湖畔にあった。午前中に行った梵釈寺跡、嵯峨天皇は唐崎に行幸したのだから、当然この神社に立ち寄っただろう。そして今は枯れたように曲がっているが、大きな松を見ただろう。何とも非常に景色の良い琵琶湖だった。ここでYさんとお別れして、一人歩き出す。

この付近には戦国末期、あの明智光秀が坂本城を造営した。今は公園になっており、なぜか光秀像に近寄ると光秀を歌った演歌が流れて驚く。琵琶湖のほとりで、ここも風景が良く、サクラもきれいだ。本能寺の変後、坂本城は炎上し、城は大津へ移っていく。近所には明智塚もあった。明智は四国で生きていた、などの説もあるが、明智一族はどうなったのだろうか。

京阪電車に乗って宿まで戻る。疲れたが、この宿には大浴場が無いのが悔やまれる。腹も減ったので、晩御飯にカレーを食べに行った。肉カレーという名前だが、歳の私には死ぬほど多いステーキ?が入っており、完食するのにかなりの労力が必要だった。帰りは腹ごなしにかなり散歩してから戻る。

4月9日(土)義仲寺と芭蕉

今日も天気が良い。早々に歩き始める。宿の近くに大津事件の裁判が行われた大津別院跡があるはずだったが、なぜか見付からない。旧大津公会堂はレンガ造りのいい感じの建物。そこから市立図書館へ回ったが、何と10時開館と書かれており、閉まっていたのには驚いた。コロナのせいだろうか。

待っている時間が無駄なので、京阪大津から電車に乗り、京阪膳所駅へ移動。そこから歩いて義仲寺を目指す。ここは昨晩散歩中に偶然発見した場所で、木曽義仲ゆかりの寺だと思い、見学した。義仲寺は小さな空間だったが、中身は濃かった。まずは巴御前の供養塔を見る。そこに書かれていたのは、巴は生き残り、和田義盛の妻になったとある。初めて知った。

その奥に義仲の墓がある。更にその横には何と、松尾芭蕉の墓があるではないか。なぜこんなところに芭蕉が出て来るのか。聞けば木曽義仲を好んでいた芭蕉の遺言だそうだ。大阪で亡くなった芭蕉の遺体を、弟子たちが船に乗せてここまで運んだというから、さぞや大変だったことだろう。芭蕉の句碑は至る所にある。そして奥の池の向こうに見える翁堂。天井は何と伊藤若冲が描いている。この辺の人間関係は面白そうだ。

義仲寺の帰り、大津教会の建物を見た。和風の瓦屋根の上に十字架が載っている。それからまた図書館まで戻ってきた。『滋賀茶の歴史』というテーマで資料を探してもらい、取り敢えず1時間で効率的な作業を行い、朝宮茶、政所茶、紅茶などのコピーを取った。

宿で荷物を引き取り、それを引っ張って京阪で次のホテルへ移動した。そこでまた荷物を預けて、歩いて瀬田の唐橋へ向かう。2日前に橋を通り掛かった時は満開だった桜は既に散りかけていた。この唐橋は古代の壬申の乱、源平合戦、承久の乱など、何度も争いのキーポイントになっている、まさに歴史的な場所。今はきれいになっておりその雰囲気はない。

そこから川沿いをゆっくり歩いて石山寺へ。花吹雪が何とも心地よい。ここは寺がテーマパーク化しており、かなり広い敷地、山沿いには芭蕉と紫式部の像などがあり、散策コースになっている。かなりの起伏や階段を歩き、膝が痛くなってしまった。それもあり、寺から歩いて県立図書館に向かうつもりが、断念。高速道路の端を歩いて渡れるのかも良く分からなかった。

バスで駅前へ戻り、特に期待もせずに観光案内所で歴史的な場所を聞くと、『今井兼平の墓は歩いて行けます』という。10分ほど歩くと、思っていたよりかなり立派なお墓があって驚く。この近くが兼平最後の地。兼平は理想の武士だったのだろうか。巴御前とは兄弟だったのだろうか。

芭蕉の幻住庵にも行ってみた。かなり近かったが、中に入ることはできなかった。トボトボ帰る途中、東レ、日本電子硝子、ロームなど大企業の工場が並んでいた。宿へ行き、チェックイン。駅前で簡単に夕ご飯を済ますと、湖畔を散歩する。粟津と書かれている。風が気持ちよい夕暮れ。

滋賀中心の関西茶旅2022(5)三井寺、梵釈寺跡、日吉茶園

突然の訪問だったので、簡単な質問をしただけですぐに大津に向かった。ここから琵琶湖は思った以上に近い。今日は取り敢えず三井寺へ行くことにしたが、途中瀬田の唐橋などを通り過ぎ、何だか歴史的な場所が多そうだと予感する。園城寺とも呼ばれた三井寺は意外と広いが、既に午後4時近くで、5時には閉まるというので慌てる。

私の目的地は石碑だったが、境内のサクラがあまりにも美しく、しばしば見とれてしまい、時間をロスした。三井寺には1300本の桜の木があるという。今晩はNHKがここからのサクラを生中継すべく、入念な打ち合わせが行われていた。何と我々は最高の日に、不死鳥の寺、三井寺に来てしまったのだ。

観音堂を探すとかなりの上り階段だった。その更に上に、石碑がいくつかあった。一番初めに目に付いた石碑の裏に回ると多田元吉他、明治初期に紅茶で貢献した人々の名がずらっと並んでおり、これが三谷重孝の石碑だと分かった。三谷は滋賀の紅茶製造に大いに貢献した人物であることが石碑から読み取れるが、残念ながらその後歴史から消えてしまい、今は知る人もほとんどいない。

観音堂から下を見ると見事な風景が広がっている。それから急いで境内を一周する。三重塔をはじめ、見るべき建物も沢山あったが、陽がどんどん傾いていき、終了が告げられていく。やむなく門を出て帰路につく。今晩の宿は寺からほど近い場所、Uさんに送ってもらい、チェックイン。因みにUさんは夜ライトアップされた三井寺をもう一度見に行ったらしい。

このチェーンホテルには大浴場があって、ドリンクバーもあるので、いくつかの都市で宿泊済だったが、何とこの街の宿は、大浴場もドリンクバーもなかった。場所によってサービスが違うなんてどういうこと。チェーンホテルの良いところはサービスが均一的なところではなかったの?と言ってみても仕方がない。あとで見たら先ほど三井寺の中継に携わっていたNHKクルーの宿泊場所にもなっていた。

何だかなあ、と思っていると腹が減るのだ。大津駅の方へ少し登って行ったが、駅前も繁華街という雰囲気はない。ちょうどあった蕎麦屋で夕飯を掻き込む。駅前には商店街があったが、何となくシャッター通りという雰囲気だ。帰りにちょっと散歩すると、ニコライ皇太子遭難の碑を発見した。1891年大津事件はここで起こった。首謀者の巡査は死んだはずの西郷がロシアで生きていて、ニコライと一緒に戻ってくると思っていた、との話は興味深い。

4月8日(金)永忠と最澄

朝NHKを見ると、三井寺のサクラをキレイに映していた。その技術はさすがだが、やはりこの目で見る方がさらに良い。Uさんが朝迎えに来てくれた。比叡山方面へ向かう。まずは崇福寺跡へ行く。琵琶湖からかなり上った山の中にその遺構はある。その先は土砂災害で通行止めになっていたが、京都の方に通じているらしい。

崇福寺というか、その近くにあったとされる梵釈寺。平安初期唐から戻った永忠が両寺を兼務し、唐崎に行幸した嵯峨天皇は京都から山越えでここまでやってきたのだろう。なぜ梵釈寺で茶を、という疑問は何となく解けた。ただ現在は豪雨被害で細い道は通行禁止。平安時代は安全だったのだろうか。

湖まで下りて行く途中、茶樹の垣根があるのを発見した。そこには「日本茶の栽培発祥の地」として、永忠に関する説明書きがあった。やはり最澄や空海も重要だが永忠も唐に30年滞在した僧だから、もっと理解して顕彰すべきだろう。その先を曲がると古墳のある寺があった。ここのサクラもきれいだったが、湖を一望できるのもまた素晴らしかった。嵯峨天皇もこの風景を見ながら茶を飲んだのかもしれない。

日吉神社へ行く。駐車場の前で栗を売るおばさんが呼びこんでいる。駐車場代は無料だが、帰りに栗を買う必要がある。湖の方へ下っていくと、駅のまん前に日吉茶園がある。小さな茶園で、看板は出ているが、これが日本最古の茶園、と言われると違和感はある。実際には最澄が持ち帰った茶の種をまいた場所、という意味合いだろうが、その最澄が持ち帰ったという史実も怪しいらしい。女性が一人、黙々と草取りをしていた。

茶園のはす向かいに生源寺がある。ここは最澄生誕の地。説明書きを見ると何と最澄は渡来人の子らしい。当時は実はそれほど珍しいわけではなかったかもしれない。新しい雰囲気の境内では花まつりの準備が進んでいる。花まつりと言えば子供の頃は苦手な甘酒を飲む日と記憶しているが、こちらはどうだろうか。その後桜の咲く道を戻り、日吉神社を少し見学する。入学式後の親子が写真を撮っている。

滋賀中心の関西茶旅2022(4)政所から朝宮へ

お昼は道の駅へ行く。ここはダムカレー(近くに永源寺ダムがある)が名物と言われたが、残念ながら今日はなかった。というよりも昨日からどう考えても食べ過ぎで、腹は全く減っていない。取り敢えずうどんを食べて、後はお店の商品を眺める。地元の人も来てランチを食べている。ダムに沈んだ村があることを思う。

午後は君が畑の木地師ミニ展示館へ向かう。こちらでも展示物を見学して、説明を受け、更にお茶を頂く。君が畑と政所茶などの説明版もあり、また昔の粗揉機も展示されていた。ただやはり木地師と茶の繋がりについては出てこなかった。むしろ管理している方の個人的な歴史に大いに興味を惹かれ、その話がメインになっていく。

更に黄和田という集落へ行く。そこに95歳で非常に元気なお婆さんがいると聞いて会いに行く。確かに95には見えない話ぶりに驚く。そしていまでも現役で農作業をしており、明日の打ち合わせをしていた。家の前には茶畑が広がり、その奥に大きな桜の木が植わっているのが遠目に見えた。何とも幻想的な風景に生きている。

最後に車を飛ばして永源寺図書館へ行き、資料を探した。残念ながら木地師と茶を直接結びつけるものはなかったが、これまでに聞いた様々な話を整理するのに良い資料が見つかり、コピーした。松下先生の寄稿に『木地師と茶は関連があると思うので、木地師研究の中で是非明らかにしてほしい』とあったが、それはなかなか難しいようだ。

宿へ帰ると、またイワナ中心の美味しい料理が目に前に出て来る。食べ過ぎは良くないと分かっていても、出てきてしまえば、腹の中に納めなければならない。一品一品それを繰り返していくと、いつしかデザートまで行き着いてしまい、今日も重たい腹を抱えて寝ることになる。

4月7日(木)政所から朝宮へ

今朝も美味しい朝ご飯を頂き、名残惜しい宿を去る。今日はYさんの案内で、政所の茶畑を見学する。何と言ってもYさんが10年近く心血を注いで守り育てた茶園。川を挟んで、実にいい感じで谷に向かって茶樹がある。畝ではなく株である。話を聞いて風景を眺めるだけで、ちょっと涙が出る。樹齢300年という茶樹が無造作に目の前に現れる。政所茶の歴史が窺われる。

『この地域の人たちは、家が朽ちる前に自分で更地にして出て行く』と言う。放棄茶園が増加する中、いくつも更地になった茶畑に遭遇した。Yさんたちが考えた『一坪茶園主構想』も地元の方々の土地への愛着からとん挫した。潔いが保守的な土地柄。一方この自然環境を愛して移住者は少しずつ増えている。週末畑を管理するグループも増えている。これから政所茶はどうなるのか。

ここでYさんと別れて、我々は永源寺に向かった。入口が分からず裏口に行ってしまう。何とか正門へ回るとそこには階段があり、登れるか不安だったが、段数は少ないというので登っていく。ここは江戸時代彦根藩の領地。井伊家の霊廟がある。門も古風で立派。だが入場料は自販機で買う現代システムだった。

観光客など全くおらず、全体的に非常に静かなお寺だが、お掃除している僧たちに頭を下げても何の反応もなく(禅寺の修行だからか)、何だか殺風景?な気分が漂い、とてもお茶の歴史の話を聞くような雰囲気はない。境内を見渡しても残念ながら茶はなかった。

最後に政所茶を購入しようと道の駅に向かう。何とその場所を完全に勘違いしており、宿の先に道の駅があった。それでもお茶をゲットできたので満足して、政所を去る。ところがこの時また道を間違えてしまい、朝宮まで大回りする。おまけに途中になぜか渋滞まであり、なかなか到着しない。

街道から少し山へ入ったところに茶畑があった。畝の形状が少し変な恰好?その先に仙禅寺と書かれた表示を見つけた。 大きな朝宮茶発祥地の石碑もある。残念ながら観音堂は改修中で、中はよく見られなかったが、非常に静かな山の中で、何とも癒さる雰囲気がある。

朝宮茶は平安初期の最澄に繋がると言われているが、栽培が盛んになるのはもう少し後のことだろう。明治には紅茶も作られたと聞き、その辺を知りたくて、近所のお茶屋さんを訪ねてみた。だが何と定休日。道の向かいにはべにふうきの茶畑があり、和紅茶が作られていることは分かった。

特に宛もなかったので、朝宮を離れて、大津に向かうことにしたところ、運転していたUさんが道路脇の看板を発見。片木古香園と書かれており、何と数年前、無農薬栽培の抹茶を探して訪ねたことがあるというので、いきなり行ってみる。ちょうど店主のKさんがおられたので、朝宮茶について、色々と教えて頂く。

何と言っても朝宮茶の特徴はその独特な味と香り。琵琶湖畔のこの地域独特の気候、寒暖の差に起因するといい、取引価格も他より高いらしい。歴史的に有名な朝宮茶だが、かなりの茶が宇治へ送られ、宇治茶となっているとも聞く。ここのお茶は5月頃作られるが、実は飲み頃は11月だと聞き、何だかミャンマー茶の話を思い出す。

滋賀中心の関西茶旅2022(3)木地師について学ぶ

食後、蛭谷にある木地師資料館へ行く。管理をしている方に開けて頂き、説明も受ける。これにより木地師とはどんな人々かについての知識が初めて入ってくる。轆轤とはどんなものか、実物を見て触ることもできた。ここに展示されているもの、能面など今は実物だが、今後は複製展示に切り替わるらしい。木地師と茶については特に何も出てこなかった。木地師が朝日町に移住したかについても不明だった。氏子狩り帳でも、石川と富山は空白になっている。

白洲正子に『かくれ里』という文章がある。その中に『木地師の村』という表題で、50年以上前にこの地域を訪ねた様子が書かれている。蛭谷から君が畑まで、当時は歩いて1時間ほどかかったらしい。正子は能面に興味があり、その取材が主であったようだが、『木地師に轆轤を教えたのは秦氏(渡来人)』の可能性を示唆しているのは興味深い。

それから惟喬親王御陵へ行く。立派な惟喬親王像がある。親王は文徳天皇の第一皇子だったが、第四皇子が藤原氏のバックアップで天皇となり(武門の棟梁清和源氏の祖、清和天皇)、その影響もあり、出家して隠棲した。その隠棲先の一つとしてここ蛭谷及び君が畑の地があり、惟喬親王が木地師の祖と呼ばれていることは先ほど勉強した。

そこから君が畑に行く。惟喬親王を祭る大皇器地祖神社がある。その横にあるお寺には、やはり惟喬親王の御陵がある。そして木地師発祥の地との説明も見える。どうやら蛭谷と君が畑は、惟喬親王と木地師に関して共に伝承があるようで、ちょっとびっくりした。元茶工場が川の横にあったのも意外だった。ここにドリンクの自販機があった。Nさんは喜んで、ドリンクを買う。私もつられて買う。都会から来た彼にとって、コンビニはおろか自販機さえほとんどないこの場所はちょっと辛いのかなとも思う。

本日の訪問は終了し、お宿へ向かった。雰囲気のある古民家、部屋には囲炉裏がある。ゆったりと寛ぎながら、美味しいご飯を頂く。こちらでもイワナを養殖しており、イワナ中心。特に目の前で焼かれた魚は何とも美味。息子さんがイタリアンで修行していたとかで、洋風の料理も登場し、満足。またこの地域の様々なお話も聞けて勉強にもなる。食後、ゆったり風呂に入り、疲れたので早々に休む。

4月6日(水)蛭谷と君が畑

翌朝は暖かい日差しが差し込み早起き。夜は少し寒いぐらいだったが、陽が出れば違う。そして朝ご飯もまた温かい。旅館の朝食というより、田舎風のいい感じ。ご飯が沢山あり、ついお替りしてしまう。温かいお茶を飲むと気分はなぜか高揚する。部屋から外を見ると、以前茶畑だったと思われる土地から茶樹が抜かれ、草が生えている。

今朝の仕事は、何と給油。一番近いガソリンスタンドを聞くと何と『三重県側』と言われ、一瞬愕然となる。ところが『車で15分』と言われ、また驚く。ここは三重にそんなに近いのか、それなら是非行ってみたいと出掛ける。少し行くとトンネルがあり、そこを抜けるともう三重県だった。昔はトンネルが無く、山越えして大変な道のりを茶摘み女性たちが来たという。

1つ目のスタンドは開いていなかったが、2つ目でガソリンをゲット出来てホッとした。帰りに茶畑を見つけて少し立ち寄る。『だいあん茶』と書かれた、大安町のちょっと不思議な茶畑。こんなに広い茶畑があるとはさすが三重県。そして蛭谷の茶も三重(伊勢)との繋がりを考える必要がありそうだ。

急いで政所のY家に行く。今日は木地師研究の専門家、T先生がわざわざこちらに寄って頂き、木地師の歴史をご教示頂くことになっていた。古民家のY家に上がり込み、早々講義を聞く。T先生もこの付近、既に廃村になった村の出身だった。若い時に村を出て、今は愛知に住んでいるという。松下先生などとも繋がりがあり、『お茶は素人』と言いながら、実は大変詳しい方だった。

木地師の歴史は思った以上に複雑であり、また全国に散ったルートも簡単には分からない。朝日町蛭谷へ木地師が行ったことはほぼ間違いないが、そのルートは単純ではなく、茶がその過程で持ち込まれたかどうかも不明らしい。更に政所茶の歴史などについても、柳田国男の書いたものを鵜呑みにはできないといい、木地師の末裔が茶栽培を行ったかどうかにも疑問を呈していた。

T先生のお話はどんどん広がり、木地師より御師ではないかとか、日野商人の関りとか、私が普段気にしているところをどんどん突いてきて、面白くて仕方がない。時間はあっと言う間に過ぎてしまい、続きは次回となってしまった。今回事前に提出していた質問にも丁寧な回答を頂き、大変参考になったが、しかし私が今調べている核心にはなかなか近づけずにいた。

滋賀中心の関西茶旅2022(2)幻の安土城へ

そこからヴォーリズ学園まで歩く。前回ヴォーリズ建築のハイド記念館は閉まっていたが、今回は展示会があり開いていた。と思ったが先生らしき人が『ああ、4時で閉まりました』という。今回もまた見学できなかったが、これもまたご縁。園内の一柳満喜子ヴォーリズ夫人(学園創設者)の像を拝見して立ち去る。

歩いて駅まで戻る。途中平和堂があったので寄ってみる。平和堂は中国にも進出しており、ちょうど10年前の反日暴動の際は、湖南省長沙の店舗が焼き討ちにあったのを見たことを思い出す。駅の反対側には巨大なイオンが出来ており、経営は大変そうだ。と言ってもイオンの方も巨大なだけに、お客の少なさが目に付く。ベトナムやカンボジアで見たイオンを思い出す。県民はPCR検査無料だとある。夕飯は何と前回も食べたラーメンとチャーハンとなる。他にも食べるものあるだろうと、自ら突っこむ意外な展開。

4月5日(火)安土を歩く

翌朝宿の朝食が意外とよくて気分が良い。午前中は暇なので幻の安土城を見に行く。歩いて行っても良かったのだが、一駅電車に乗る。安土駅で降りると、織田信長の像が控えている。ここは信長の町なのだ。ほぼ人がいない道を歩いていく。朝鮮人街道があり、旧家が見られる。雰囲気が良い。

安土城跡に到着する。その周囲を歩くと、サクラが満開で何とものどかだ。お散歩しているお爺さんに挨拶すると、にこやかに返事がある。その先では工事を一時中断して花見に興じるおじさんたちがいる。まさかこんないいお天気でサクラが咲いていて、仕事なんかできないよな、という雰囲気の笑顔で挨拶を交わす。この桜の下で笑顔にならない人はいないということだ。それが桜の力であり、古来日本の力だったように思う。

こんもりした丘のような安土城の入り口まで来ると、石垣跡などが見えてきてテンション上がるが、城は既にない。天守閣跡などへ行くには、何とここも頂上まで急激な404段の階段があるというので、昨日に続いて断念した。膝が痛くなるのは困る。これからの旅を考えて無念ながら自重する。

少し散歩した。セミナリヨ跡という公園があった。信長はキリシタンを認めていたが、もしずっと生きていたらどうしただろうか、とふと思う。信長流のやり方で禁令を出さずに交易を進めただろうか。遠くを眺めると線路の向こうに何やら建物が見える。安土考古博物館他、比較的新しい建物が並んでいる。その中に古い建物もいくつか移築されており、見応えがある。とにかくここもサクラがきれいだった。

そこから歩いて安土駅まで戻る。いい天気の中、畑の中を歩いていくのは気分爽快だった。何だか生きているって感じがした。最後に旧伊庭家住宅に立ち寄る。ここもヴォーリズ住宅だ。洋風木造建築で、雰囲気が実に良い。残念ながら閉館日で中を見ることはなかったが、何となく楽しく写真を撮る。

政所へ

近江八幡駅へ戻り、宿で連絡を待っていたが、なかなか来なかった。Uさんの車が到着したのは、予定より30分遅かった。聞けば『桜があまりにきれいで土手から車が転落する事故があって渋滞した』というのだが、その転落する気持ちはよくわかった。急ぎ東近江政所へ向かう。

約1時間、途中までは昨年訪ねた日野へ行く道を行き、最後に少しずつ上っていく。待ち合わせ場所は養魚場。何とか辿り着くと、そこにはYさんと昨年結婚したNさん、そして生まれたばかりのRちゃんが待っていてくれた。ここはイワナを養殖しており、お昼から和室にイワナ料理が並ぶ。これは美味いと、バクバク食べた。

Yさんは政所茶の継続を目指して10年頑張っている人。1月にZoom会議で私の活動をお知らせし、3月の報告会にもゲスト参加(2月に出産)してもらい、ようやくの訪問となった。今回は政所茶の歴史というよりは、『木地師と茶』『蛭谷と富山のびるだん』の関係などについて知りたくて訪問した。ご主人のNさんは、歴史方面に興味がかなりあるようで、有用なアドバイスを貰えてよかった。生まれたばかりの赤ちゃんがいる中、対応して頂き、本当に感謝しかない。

話の中に政所茶とか、蛭谷とか、色々と地名が出てきてかなり混乱する。地図を頭に入れてから来ないからだと怒られそうだ。この付近は『六が畑』といい、そこには君が畑、蛭谷、箕川、政所、黄和田、九居瀬の6つの集落からなっているらしい。その中で蛭谷と君が畑に木地師発祥の伝説が残されているようだ。

滋賀中心の関西茶旅2022(1)眼鏡を失くして大パニック

《滋賀中心の関西茶旅2022》  2022年4月4₋14日

富山県のバタバタ茶の謎を追っている。追ってはいるが、謎は解けないだろうな、という気分ではある。そんな中、ちょっと気になる情報が入ってきた。今回は滋賀県政所茶を軸に、滋賀中心に旅を展開してみたい。

4月4日(月)名古屋で焦る

珍しく雨のスタートとなった。といっても、10分ほど行けば駅があり、そこからは濡れることもない。今日の目的地は滋賀の近江八幡。ここは昨年10月に2泊し、12月にも通り過ぎている。今回は変わった行き方をしようかと考えたが、結局頭がまとまらず、当日新宿駅で新幹線の切符を買うという、あまりにもべたな展開となってしまった。

近江八幡に行くのは新幹線で京都まで行き、戻るのが早いが、料金は割高なので、米原まで新幹線を使うこととした。するとこだまかひかりしか乗れない。待ち時間も長い。取り敢えずのぞみで名古屋まで行き、そこで乗り換えることとした。何と言っても名古屋の新幹線ホームには、駅そば、きしめんの住吉があるので、楽しみだった(実は在来線ホームにもあるらしい)。

新幹線の自由席はガラガラ。雨は静岡に入ると止み、晴れ間も出てきた。いいぞ、と思い、名古屋で降りて住吉へ行くと、昼時だというのに、いつもよりお客が少ないので拍子抜け。次のひかりまで30分あるのに、5分で食い終わってしまう。仕方なく一度ホーム階から下へ降り、ドリンクを買い、トイレに入ってから、またホームへ戻った。

そこで突然気が付いた。なんと私は眼鏡をかけていないことに。慌ててバッグの中などを探したがない。ホームの駅員に聞くと改札へ行け、という。まずは念のため、使ったトイレとドリンクを買った場所を探してみたがない。もう一度住吉にも戻り、食べた場所を確認したがなかった。

そこで改札にすっ飛んでいく。改札では、それは遺失物係の担当だといい、改札の外にある、その場所を教えてくれた。またすっ飛んでいく。かなりパニックになっている。遺失物係は私が乗った新幹線を特定して、その列車に電話を掛けてくれた。だが『もし車内にあった場合、その列車の最終駅に取りに行くか、後日着払いで郵送となる』と説明されたので、今日中に博多まで行って帰ってこられるだろうか、と頭がぐるぐるする。

もう一人の係員が声を掛けてくれたので、何気なく『名古屋駅で失くしたものは、皆ここに集まりますか?』と聞くと、『さあ、警察に持っていく人もいるし』と素っ気ない。『因みに眼鏡なので、無いと本当に困ります』と涙目で訴えると、『え、眼鏡!今掃除のおばさんが持ってきましたよ』というではないか。

掃除のおばさんがどこでこれを見つけたのかは不明だが、是非ともお礼を言いたい。恐らくはトイレにあったのだろう。しかしもし眼鏡がなかったら、どうすることになったのだろうか。金があっても眼鏡の替えは簡単には作れない。やはりスペアを持ち歩く必要がある。というか、掛けていないのを自覚できないほど、眼鏡の度数が合っていないということも言える。帰ったらまずは眼医者へ行こう。

この大ボケにより、30分ロスした。1台電車に乗り遅れただけで済んだのは奇跡だと感謝するべきだろう。米原まで2駅、それから京都方面へ行く在来線に乗り換え、2時前に近江八幡駅へ着いた。すぐに前回同様観光案内所へ入り、地図をもらう。と同時に思わず『琵琶湖へ行きたい』という言葉が口をついて出た。なぜ琵琶湖が見たくなったのか、理由は分からないが言われた通りのバスに乗る。先ほどの眼鏡騒動のショックからだろうか。

長命寺行バスは、近江八幡の観光街を抜け、ヴォーリス学園の先を曲がり、どんどん郊外へ出て行く。20分ぐらい行くと、ついに琵琶湖が見えてきて終点となる。途中でバスは空になり、最後まで乗っていたのは私一人だった。長命寺の前には桜が見事に咲いていたが、その下にバイクを停めて、人の撮影を邪魔しているライダーがいた?

長命寺に行こうとしたが、何と上まで登るのに808段の階段があるというので断念した。その横を見ると聖徳太子という文字が見える。ここは聖徳太子ゆかりの寺らしい。琵琶湖の方を見ると、船乗り場があった。そこから少し行くと、また素晴らしい桜の木が見える。名所松ヶ崎とある。琵琶湖に咲くさくら、ある意味でこれは日本の原風景かもしれない。

ずっと湖沿いを歩いていく。句碑などが続く。天気は良く、水面はきれいだが、風が非常に強く、歩くのは大変だった。恐らくゆっくりと琵琶湖を見るのは初めてだが、なぜこの湖に惹かれるのかが何となくわかる。しばし呆然と見つめる。今回はここに来ただけでよかったと思えた。帰りもまたバスに乗る。途中ヴォーリス病院があったのでそこで降りてみた。少し歩くと次にラコリーナという新しい観光地がある。その先は伝統的な川に船を浮かべて花見というのも良い。

茶旅 静岡を歩く2022(6)藤かおり、そして島田で

食後また急坂を降りていき、駅まで戻った。Tさんが車で迎えに来てくれた。牧之原の茶農家であるTさんとはほんの2週間前に、東京の朝市で知り合い、ご縁で今回の訪問となった。きっかけは『藤かおり』であり、『森薗市二氏』であった。私が台湾の関係で昨年雑誌に書いた森薗さんの話しを読んでいてくれた。そしてTさんのお父さんが藤かおりの育成者である森薗さんと親しく、藤かおりを直接分けてもらったというのが興味深かった。

Tさんの茶工場兼自宅は、県試験場のすぐ近くにあった。ご自宅でお父さんも交えてお話を聞く。お父さんは森薗さんにとても可愛がられており、茶作りを教えられ、毎朝晩試験場に出退勤する森薗さんに声を掛けられていたらしい。晩年はよく藤枝の自宅に遊びにも行ったという。

森薗さんがなぜ宮崎の試験場から静岡へ転勤となったのか。それが何となくわかる資料にも出くわした。やはり話を聞かないと真実は分からない。庭には森薗さんにもらったという木が植えられており、茶工場にはなぜか数年前、高林式釜炒り機がやってきたといい、茶畑には藤かおりが今も育っている。帰りに茶業研究センターに寄ってもらい、森薗さんを思いながら、入り口だけを見た。それから金谷駅に送ってもらった。

再び菊川駅で降りた。午前中報恩寺のお母さんから聞き、また先ほどTさん宅でも聞いたカフェが気になっていたからだ。駅からすぐのところにSan Gramsという名のカフェを見つけた。広い敷地にモダンな平屋。元々松下幸作が製茶機械を作った松下工場の跡地だという。1899年に生産が始まり高林式製茶機械が作られ、高林謙三自身もここに住み、終焉の地となった。あまりにおしゃれなカフェで入るのは遠慮した。

3月18日(金)島田で

今朝は天気が悪い。雨の予報も出ているため、雨のないうちに外での活動を終えることにした。3日間お世話になった掛川を離れ、島田へ向かう。駅のコインロッカーに荷物を入れて、大井川を目指して歩き出す。途中で予想より早く小雨が降り始める。

40分ぐらい歩いて川まで辿り着いたが、なんと木造の橋が架かっていた。『世界一長い木造歩道橋』でギネス認定されたという蓬莱橋を渡る!渡るのに100円取られる賃取橋!長さ約900m、それほど高さもなく、川に水も少ないのだが、風に煽られると傘が飛ばされそうで怖い。1879年牧之原台地の茶園開墾のため架けられた農業用橋というから、単なる観光橋ではない。

橋を渡ると神社などがあり、山に分け入る雰囲気となる。台地を登り切ると、茶畑が見えてくる!茶畑の間を更に上ると、高台に大きな像が見える。中条景昭、幕臣で牧之原開拓に尽力し、多大な貢献をしたとある。先日の丸尾文六より早く入植し、相当な困難を乗り越えて、今日の牧之原を築いた人物だった。像はその貢献の大きさに比例しているのだろうか。1896年彼がここに没した時、葬儀委員長は勝海舟だったという。

近くの法林寺に立ち寄る。ここには幕臣伊左新次郎岑満の墓と書碑がある。伊佐は晩年牧之原に移住して中條景昭を支えた人物。私塾を開き、後進の指導に当たった。実は幕末の三舟(高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟)の書の師であり、下田奉行所組頭時代、アメリカ初代領事ハリスに「唐人お吉」を紹介したとも言われている。境内にはお吉の像が置かれていたが、この話は本当だろうか。

雨はこれから強く降るだろうと予想して、急いで島田駅へ戻る。木造橋を避け、トラックが通る頑丈な方にしたが、渡っている途中、強風と雨に襲われ、傘もさせず、ずぶ濡れとなる。昨日まで天気が良かっただけに最後に旅の洗礼を受けた。それでも駅まで戻る間にまた雨は止み、何とか図書館に辿り着く。

このきれいな図書館で牧之原関連の資料を探していると、予想以上に色々なものが出てきて、コピーを取り終わるまでに相当の時間が経過した。ここの係員は非常に丁寧で好感が持てた。今回の静岡でもいくつかの図書館のお世話になったが、これほどサービスに差がある県は珍しいのではないか。

図書館から駅まではすぐだった。おまけに雨も止んでいた。駅でコインロッカーから荷物を取り出し帰路に就いた。帰りもJR在来線でゆっくりと過ごした。熱海で乗り換える際、時間があったので、Suicaを一度切り替えようとしたが、改札から出られず、駅員に『小田原で精算してください』と言われる。小田原での精算はスムーズで嫌な感じはなかったので、今後は到着地精算に切り替えよう。

今回静岡の茶歴史関連の場所を多く訪ね、やはり静岡、歴史が多くて深いと感じた。だが思いの外、その歴史が大切にされておらず、意外と知られていないとも感じる。自分が静岡に住んでいればな、と思う一方で、県外の人間が余計なことをするべきではないとも感じる。日本一の茶処は難しい。

茶旅 静岡を歩く2022(5)掛川城から菊川へ

菊川駅前まで歩いていくと、関口隆吉像を発見した。あの浅間神社にもあった名前だ。関口は幕臣で初代静岡県知事。牧之原開拓にも尽力したとのことで、現在でも顕彰されているが、一般的に知られていないのは残念だ。ここから東海道線で掛川に戻った。夕飯は掛川駅から少し歩いた食堂で取った。独特のレバニラ炒め、具沢山の味噌汁など、特色ある定食が良い。腹一杯なのに、夜また宿の夜泣きラーメンまで食べてしまった。今日は相当歩いたので、体が欲していたのだろう。さすがに疲れて寝入る。

3月17日(木)掛川で

翌朝は元気に起き上がる。天気も良い。折角掛川に泊まったので、お城周辺を散歩した。桜が咲き始め、これから花見が始まりそうだ。立派なお城を眺めながら堀の脇を歩いていくとお城の脇に2つの石碑が見えた。実は昨年千葉県佐倉に行った際、掛川城に佐倉に関する石碑があると聞いていたので、興味を持って見てみたが、文字が良く読めない。

読める文字の中に、『山田治郎蔵』とある。この人の石碑だと分かったが、それと佐倉は関連があるのだろうか。それが知りたくてすぐ近くにあった図書館へ向かうが、何と9時の開館前だった。よく見ると横には立派な建物がある。確かテレビでも見た報徳社だった。二宮尊徳の報徳思想、これは静岡の人々に受け継がれ、茶業にも関わっているので興味があったが、まずは開館した図書館へ行く。

図書館で石碑について尋ねると『お城の脇なら、お城に聞いたら』と言われ、今度はお城に向かう。入場料を払う受付で聞いてもらったら、『石碑があるのは知っているが、茶業に関しては専門外なのでコメントできない。観光協会に行くように』と言われ、駅にある観光協会へ向かう。ところが観光協会では『その石碑の所在自体が分からないから、まずその場所へ行ってみて何かわかったら連絡する』と言われる。静岡って、歴史が多すぎて、なかなか分からないことが多いらしい。

菊川で

菊川駅まで一駅電車に乗る。駅のすぐ横に報恩寺があることは分かっていたので安心して向かったのだが、ちょっと意外な展開に。ここの墓地内に高林謙三の記念碑があるということだったが、その墓地が見付からない。思い余ってお寺に訪ねると、何と墓苑は歩いて10分の場所にあることが判明。地図をくれたのでそれを頼りに探す。

駅の北側、少し小高くなったところ墓地があり、その一番奥に石碑が見えた。『高林謙三の墓』となっているが、これは本当のお墓が川越にあり、お墓参りが出来ないので、ビジネスパートナーの松下幸作がこの碑を作ったという。供養碑とでもいうべきだろうか。近くで作業していた墓石屋さんが『ちょっと前まで茶工場があって、茶を作っていたよね。最近茶はダメだから、どんどんなくなっていくよ』と寂しそうに語る。この墓地周辺にはまだ茶畑が残っていた。

そこから菊川公園を目指して、また線路を渡る。地図上では近いと思っていたが、何と急な上り坂が待っており、きつい。登りの途中には常葉菊川という野球の強い高校があり、その上に公園はあった。今日も天気が良いので、幼稚園園児が遊び回っている。松下幸作の記念碑があると聞いていたが、見付けた石碑は茶祖栄西禅師のものだった。だが下を見ると、菊川茶業先覚者と書かれており、その中に松下幸作と高林謙三(その他山田治郎蔵、内田三平)の名が見られた。横にもう一つ石碑があり、文字は読み取れなかったが、これが松下幸作顕彰碑であろう。松下は高林が特許を取得した製茶機械に対していち早く生産販売契約を結び、製茶機械の普及に努めている。

最後に駅に戻る途中、旧赤レンガ倉庫を外から見た(予約しないと見学はできないらしい)。1887年原崎原作らによって作られた富士製茶株式会社の倉庫だった。この製茶会社及び原崎原作について、子孫の方が資料を纏めており、その本を購入した記憶があるので、帰ったら見直してみようと思う。

金谷で

また東海道線に一駅だけ乗る。今度は金谷駅で降りた。まずはミュージアムの方へ登っていく。かなり急こう配の上り、そこに家々がある。そこを抜けると広い道路へ出て、更にいくと待ち合わせの食堂がある。食堂の駐車場から下を見ると、大井川と金谷宿方面が実によく見える。川越人足が失業して、その救済のための牧之原開拓という話は昨日読んだばかりだ。

今日はお知り合いとランチを食べることになっていた。この食堂、うなぎがメインらしいが、コロナ禍で予約していないと入れない。お客は我々以外に一組しかなかったが、後から来たお客は断っていた。ここの名物は眺望なのだろう。うなぎのたれはかなり甘めだ。お知り合いの退職祝いで、楽しく食事した。

茶旅 静岡を歩く2022(4)丸尾文六を追って丸尾原へ

バスで御前崎方面へ向かう。先ほどの丸尾家が御前崎の出身ということで、何か分かればと訪ねてみた。終点まで乗り、そこから図書館を目指す。この辺は浜岡、あの浜岡原発のある場所だった。図書館の人に『丸尾文六』と言ってみたが、誰ですかという顔をされたので驚いてしまった。そして資料もほとんどないので更に驚く。

図書館から2㎞ほどのところに、丸尾記念館があるというので行ってみた。ここは丸尾文六の弟の家系3代を記念している建物で、最近はずっと休館している。横にある高校の初代校長も務めた人物の記念のためにあるようだ。文六についてどれほどの展示があるのかわからない。

御前崎は空振り。それでもどうしても丸尾文六を追いたくなり、文六が開拓した牧之原丸尾原を訪ねたくなった。だが浜岡から丸尾原へ向かうちょうどよいバス路線はなかった。仕方なく菊川行バスに乗り、一番近そうなバス停で下車して、そこから歩くことにした。Googleで一生懸命見ながら、ここだという場所で降りた。小笠高校前だった。

ここから丸尾原を目指す。道は分かりやすい。何と途中、神尾辺りからほぼ茶畑だけが見える。こういう道、思いの外テンションが上がってしまう。ちょうど行き会った茶農家のおじさんとお話しすると『今日は急に暖かくなったが、雨が少ないから今年の茶はちょっと』という。こちらは雨がないと歩くのに助かるが、農業には雨が必要だ。そこから山登りが始まり、喘ぐように足を前に出して頑張った。昔のようには体が動かず、もどかしい。何とか登りきると、そこもまた両側茶畑。何と気持ちが良いことか。

バスが通りそうな道まで出て南下する。ちょうど車から降りた女性に『ここは丸尾原か?丸尾文六さんを調べに来た』と話しかけると、『うちも文六さんと一緒に入植した17人の一人がご先祖。川根の方から来た仲田』というではないか。そして彼女が教えてくれた『丸尾文六記念碑』を探しているとお墓が見えてきた。

近づくと、声を掛けられたので、丸尾文六について聞くと『うちは浜岡から文六さんと一緒に来た』という。ここでは浜岡から来た人、川越人足、元武士の3つの集団が混在しており、それは現在でも続いており、4-5代目で今も茶業を続けている人がいる。墓苑は丸尾家のものだったが、現在の当主は大学教授でこの地におらず、管理委員会に委託されているという。墓石を見ると、明治時代以降、この地の開拓に努め、茶を作った人々が葬られている。

丸尾原水神宮に行ってみると、そこには丸尾文六と仲田源蔵の石碑が並んでいた。ただ古いもので文字は良く読めない。今や丸尾原と名前が付く場所を探す場合、この水天宮が目印だろうか。丸尾文六に始まる茶園、茶作りが今に繋がれているのはさすが静岡だと思うし、ここへ来れば丸尾文六を偲ぶことができると感じられる。

ここまで歩いてきたのは良かったが、いったいどうやって帰ればよいのだろうか。まさかまた歩いて1時間半か。いや歩いて行ってもそこでバスに乗れる保証はない。検索してみると何と、この水天宮前からコミュニティーバスで菊川駅まで行けるという。本当だろうか。バス停を見ると1日に6本出ているが、最後の一本がもう少しすれば来ることになっていたので、それに賭けてみる。

バスは確かにやってきた。いや実に立派な小型バスだったが、乗客はいなかった。しかも料金は100円だけ。このバスのルートは、何と私が歩いてきた道を戻っている。いや全く逆ルートであっという間に小笠高校前、そして菊川病院で停まった。何とここで10分休憩するからトイレに行っておいたら、と言われる。コミュニティーバスの利用者の中心はお年寄りであり、一番行く場所は病院なのだ(だから夕方は誰も乗っていない)。反対周りのバスもここで休息している。

そこから菊川駅を目指して走っていく。私は思い直して、駅の少し前、図書館で降りた。折角丸尾原まで行ったのだから、この歴史を調べておきたいと考えたのだ。古めかしい菊川市の図書館に入り、丸尾文六関連、牧之原開拓史などの資料を探してもらった。さすがにいくつもあり、閉館時間も近いのでコピーを取って持ち帰ることにした。

ところがここでトラブルが発生した。この図書館、コピーは自分で取ることが出来ず、お願いして職員に取ってもらうシステムだった。必要な部分が多くなってしまったのは申し訳けなかったが、お願いすると、半分ぐらい取ってきて『後は大体同じだから取らなくても良いのでは?』というので驚いた。確かに閉館時間が迫っており、また他に業務があるのも分かるが、まさかコピーを拒否されるとは思ってもみなかった。

仕方なく上司と思われる男性のところへ行き、『自分でコピーを取らせてほしい』と訴えると、彼は面倒くさそうに、私の方には何も言葉を発生せず、突然自らコピーを取り始めた。これまで全国で数十の図書館を訪問し、色々とお世話になってきたが、ここの図書館ほど、対応に問題がある例を見たことはない。正直驚いてしまい、言葉も出ない中、料金を払ってコピーを受け取り退散した。

茶旅 静岡を歩く2022(3 )高天神城と松本亀次郎

宿に戻って荷物を引き取り、駅へ向かう。駅前に餃子の自動販売機があったが、あれは美味しいのだろうか。そこから電車で掛川を目指す。45分ほどで掛川駅に着き、今日の宿まで歩く。そこは数年前に一度宿泊したことがあったので場所はすぐに分かった。元々天気予報は雨だったのに、陽が出ている。暑いぐらいだが、荷物を引いて駅から10分歩くとすれば、雨でないのは大変有難かった。

午後4時前にK先生がわざわざ宿に来てくださり、半年前の茶話の続きを伺った。色々と資料を探して頂き、コピーを頂戴した。森薗市二、有馬利治から讃井元など、今では語られなくなった茶業人の様々な昔話が飛び出し、話があちこちに乱れ飛び、収集はつかないながらも、非常に参考になった。気が付けば3時間近くも話し込んでいた。夜は風が吹き、少し寒さが感じられたので、何とも申しわけない思いだ。

夜7時になり、ランチすら食べていなかったので、急に腹が鳴る。風の中、急いで近所の定食屋へ行ってみる。狭い店内に常連さんと思われるお客が数人。何とか席を確保して、たれ焼きチキン定食を注文する。これが予想以上に美味で、マカロニサラダも付いて、コスパが良い。帰る時にはもう看板になっており、危うく食べそこなうところだった。地方都市の夜は早く、既に人通りもない。

3月16日(水)丸尾文六を追う

今朝も朝風呂からボリューム満点の朝食を取る。そしてすぐに宿を出て、バス停を探す。目指すは高天神城だ。バスは時間通りやってきて、駅の南側へ回り、どんどん進む。20分ぐらいで高天神城の表示が見え始めたが、Googleで検索したバス停はまだ出てこない。結局かなり通り過ぎたバス停で降りる。そこから歩いて2㎞と表示されたが、何とGoogleが示した道は山の中へ入っていき、行き止まりで引き返す羽目に。

何とか回り込んで城門跡に辿り着き、そこから登り始める。山城、何と坂がきついことか。ここを攻める軍勢は大変だっただろう。何とか本丸跡まで来た時には息絶え絶えの惨状だった。この城は戦国末期、武田勝頼に攻められ、激しい戦闘があったと書かれている。今回の目的地は、この戦闘で討死した本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清兄弟の墓を訪ねることにあった。

この兄弟がここで散ったことにより、丸尾家は浜岡の方へ逃げて身を隠し、その後帰農したとあり、江戸時代は庄屋にもなった家だった。その家から幕末に生まれ、あの牧之原開拓事業を行い、明治期の静岡茶業の功労者となった丸尾文六が出たという。丸尾の功績は相当大きかったはずだが、今はどれだけ知られているだろうか。

二の丸跡の後ろ側に、兄弟の墓所があった。きちんと表示もされており、向かい側には『天正二年戦死者の碑』もある。丸尾家などが関与して、歴史を後世に残しているのだろう。搦め手から城を下ると坂は更に急激だった。こちらからはとても攻められない。下には『赤堀磯平顕徳碑』が建っていた。戦前『小笠流手揉製茶法』を完成させた人物と書かれており、如何にも茶処らしい。

バスの時間を考えながら、先ほどのバス停より前の停留地を探していると、目の前に『松本亀次郎』の文字が目に入る。自然と足が松本生家の方へ向いた。戦前中国人留学生に日本語を教え、支援した有名人だった。教え子には周恩来、魯迅、秋瑾などがおり、中国では高く評価されている人だが、日本で知る人はほとんどいない。かく言う私も、日本の台湾統治初期の茶業組合の名簿に、同姓同名の人物の名があり、彼を調べるためにこの名に出会っただけだった。

中国風の吹き抜けの小さな六角堂が見える。中には松本の業績や中国人留学生について展示されていた。外には井上靖の石碑がある。『日中友好の架け橋』という言葉が躍る。彼は東京で、そして北京でも日本語を教えていたようだ。私も留学経験があるので何となくわかるが、厳しい環境の時に助けてもらえると、その恩は一生忘れないということだ。

一番近いバス停まで歩くとその直前に鷲山病院があった。そこに看板があり『吉岡弥生生家』と書かれていた。吉岡の旧姓は鷲山。さっきバスで『東京女子医大』を見かけて不思議に思っていたが、創設者の実家だから、ここにキャンパスがあったのだ。吉岡は津田梅子らと並ぶ日本女子教育の先駆者。そして松本の5歳年下で塾の後輩だった。