ラオス鉄道旅2022(4)メコンを見ながらルアンパバーンを歩く

自分の宿の前で降りる。部屋は1階で広い。プール前で椅子もある。何となくリラックス出来そうな宿だった。スタッフの男性も実に柔らかい対応。取り敢えず腹が減ったので近所の夜市に行ってみる。まだ陽は高く、夜市は準備中だった。それでも一部が食べ物を提供していていたので、麺を食べた。

夜市には地元民が多いように感じた。タイ人などもいたと思うが、区別はつかない。白人、そして日本人も見かけたが多くはない。Tシャツを忘れたので買ったが、安いのか高いのかの感覚がない。ただ一番大きなサイズを買っても洗えばちじむ。美味しそうなチョコクロワッサンが出ていたので、思わず買う。ラオスに来たら、パンを食べないと。

ラオスはコロナ禍でずっと鎖国していたが5月に突然開国したと聞く。観光客は少なく(一番の原因は中国人が来ないことか)、まだ周知されていないのだろうか。部屋でTVを点けるとバドミントンの世界選手権で、山口茜とアンセヨンが戦っていた。茜ちゃん、強すぎるよ。

8月28日(日)ルアンパバーン散策

朝からとてもいい天気だった。朝食はオムレツとフルーツ。気持ちよく頂く。あまり暑くならないうちにと、フラフラ歩きだす。昨日の夜市の近くの径に入ると、朝市が開かれている。こちらは地元民用だろうか。そこを突き抜けると、観光客とバスが集まっていた。入ろうとする警備員に正面に回るように促される。

ここは博物館だった。ただGoogleでは今日は休みとの表示が出ていたので何ともラッキー。荷物を預けるところへ行くと横は劇場。そうか、8年前にこの劇場に来た記憶が蘇る。日曜日で思ったより観光客が多く、ゆっくり見学できなかった。王宮だったここにはそれなりの歴史が積み重なっていたが、それもラオスの社会主義化で消えて行ったらしい。敷地内には素晴らしい庭と、大きなお堂、そして王様の像もある。

隣の寺を眺めてから、また先の径に入る。そこにはヘリテージセンターがあり、伝統家屋が見えた。中では民族衣装を借りて写真を撮る観光客の女性が多く、ここもゆっくり見ないで退散した。その細い道を突き抜けると、雄大なメコンが現れた。まあ今回もこの景色が見られれば満足だった。

ちょうど向こう岸に渡る船が出る場所。私も8年前は向こうまで行った記憶がある。そこから少し行き、川べりでコーラを頼み、ゆっくりと川を眺めた。風がそよそよと気持ちよい。かなり長い時間座っていたが、何とか立ち上がり、雑貨店で飲み物を買い込み、宿近くの雰囲気の良い寺を見て、宿へ引き揚げた。

宿でまたテレビを点けると、バドミントンが始まっていたが、なぜか途中から映らなくなり、スタッフに来てもらっててんやわんや。スタッフの活躍で何とか回復し、無事茜ちゃんの優勝を見た。外は相当に暑く、目の前のプールに入ろうか悩んだが、子供連れがいたので遠慮した。

その後また腹が減ってきたので、暑い中を川べりまで歩き、チャーハンを食べた。ここは鍋のいい音がしていたので、間違いないと思ってが、やはり正解だった。付いてきたスープも美味しい。観光客用とは思えないクオリティーだった。帰りにタイで庶民の味方とも言われるカフェアマゾン(ドリンクが安い)があったので入ろうかと思ったが、止めておいた。

代わりに昨晩買ったクロワッサンを屋台ではなく、そのお店で買ったら、値段がだいぶん安かった。屋台は出店料がかかるのだろうか。これが夕飯替わりとなり、その後は宿でダラダラと過ごした。結局目の前のプールには入らずに終わる。

8月29日(月)ルアンパバーン散策2

今朝はバナナパンケーキで一日を始めた。まあまあの出だしだ。それからシャワーを浴びたり、原稿を書いたりして午前中を過ごす。今日は列車が夕方なので、チェックアウト後の過ごし方が難しかった。取り敢えずふらふら歩いていると暑さが堪える。近くに鉄道の切符売場があったので聞いてみると、ここでは現金は受取らず、ラオスのキャッシュレス決済か銀聯カードのみが使えると説明された。これまでの3か所、全て支払い方法が異なるのは何とも困る。

切符売場の横には床屋があり、昭和感溢れる?風情が見られた。それを見て、今日もまたメコン川を眺めることにしたのだが、何だか日陰を探してずっと歩いてしまい、クタクタになる。最後はほぼ端っこのワットシェントーンまで行ってしまい、どうかしていた。まあ川風に吹かれるのは悪くはない。折り返して反対側を歩いて帰る。こちらも川なのでゆっくり眺めながら歩く。

ラオス鉄道旅2022(3)大雨のビエンチャンとラオス鉄道の旅

長い時間話していたが、お客が混んできたので外へ出た。Mさんはさっさと歩き出す。向かったのは、何と不発弾処理展示室だった。これは先日宇和島で劇的な再会をしたTさんがカンボジアで行っている活動に通じていた。ラオスにも同じ問題があり、多くの人が苦しんだ様子が展示されている。ただここは午後4時閉館で滞在時間は10分程度だった。公務員の終業は4時で、帰宅が始まるという。昔の中国を思い出す。

Mさんは更に歩いて行く。ちょっと横丁に入ったところにある日本人M女史が経営するラオスコーヒーの店へ。M女史はコロナで日本に帰国中だったが、幸いお店は開いており、雰囲気の良い店内でコーヒーを頂くことが出来た。コーヒーはパークソンより取り寄せているという。パークソンといえば茶葉もあり、店内では茶も売られていた。今度機会があればM女史に色々と聞いてみたい。

店を出たら突然雨に降られる。かなり激しく降り、傘もないのでずぶぬれになるが、乗り物もいない。10分ほど歩いてMさん行きつけの老舗ステーキ屋へ何とか逃げ込んだ。そこでステーキとスープを食べて温まっていると、Mさんの奥さんと義弟が心配して迎えに来てくれた。食べ終わるとまだ雨が降っており、車で送ってもらう。義弟はパークソンの茶畑なども知っており、次回はお茶関係のところに連れて行ってもらいたいなと思う。

8月27日(土)ルアンパバーンへ

午前中は雨も降らず、また散歩に出た。昔泊まったホテルや行ったカフェなどがいくつもなくなっていた。やはりコロナ禍は観光業への打撃がすごい。ワットオントゥで中国系の供養塔を探してみると、その横に日本人の名前が入った供養塔を2つ発見した。この方々はラオスに貢献して亡くなったのだろう。

昼、チェックアウトして目の前のトゥクトゥクと交渉して鉄道駅へ向かう。料金交渉は意外と難航(場所も知らない)、若者ドライバーは行くのを嫌がる。最終的に2日前と同じ100kでお爺さんのトゥクに乗る。ただこのトゥク、かなりゆっくりで、途中客を拾うなど、30分以上かかる。それでもラオスは交渉価格通りに行くからまだよい。

切符売場の営業時間は決められており、ドアは閉まっている。その横のドアは開いていたので、2階に上がり、トイレに入る。トイレ脇には椅子もあり、数人が休息していたので、それに倣う。列車が一日3往復しかないと、待合室にも入れない。当然エアコンは効いていないが、外よりはマシか。

13時半に売場前に戻ってみると既に行列が出来ていた。ただラオスの行列は何となく緩い。人は先を急がない。10分後には売場窓口へ辿り着き、明後日のルアンパバーン‐バンビエン行の硬座、最後の1枚を何とか買うことが出来た。料金は86kとかなり安い。かなり窮屈だろうが、これも経験だ。

今度は荷物検査場が開いた。身分証チェックがない以外は中国式だ。すぐに中へ入ると、だだっ広いだけで何もない。売店もないので、飲み物すら買えない。ホームに停まっている車両を眺めると、中国高速鉄道と全く同じもの。20分前にならないとホームに入れないのもほぼ同じ。中国人はぎちぎちに行列するが、ラオス人にそれはないので楽ではある。

ホームに行ってもどこが何号車かの表示はない。全て係員の誘導に従う。係員はマスクの上にフェイスガードもしている。各車両に乗務員がいて、チケットをチェックするのも同じだ。一等車の向こう、先頭にビジネスクラスがあるのだが、そこへは行かせてもらえず、写真も撮れない。乗車しても高速鉄道と同じなのでワクワク感があまりない。 

どうやらタイ人観光客が多い。中国人はほんの少し、後は白人さん。日本人は見かけない。ラオス人も多くはない。きっと二等に乗っているのだろう。スピードは150㎞程度で早くはない。最初の1時間は平地を走っている感じだったが、後の1時間はトンネルが多い。工事は大変だっただろう。停車した駅は帰りに寄る予定のバンビエンだけだった。ところどころに貨物車が停まっているのが目に付く。単線なので、すれ違いで10分近く停車していた。

ちょうど2時間で終点、ルアンパバーン駅に到着した。これまではバスで10時間かかっていたのを考えると画期的だ。この駅の形はビエンチャンと一緒。駅の脇から出ると、駅前には本当に何もない。1段下がったところにミニバンが沢山待機しており、送迎バンがシステマティックに行われているのはとても良い。1人、35k。20分ほどで街中へ行く。ラオス人も同乗しており、途中で降りていく。

ラオス鉄道旅2022(2)ビエンチャンの変化

取り敢えず泊る所を考えなければならない。検索するとガーデンホテルという文字から10年前に泊まった宿だと思いそこへ行くと記憶間違いだった。だが面倒なのでそこで料金交渉してみる。タイバーツの現金で払うと言ったら、予約サイトより安い料金でよいという。まあ庭にプールもあり、いい感じだったのでここにした。

しかしパスポートを渡したら投げ返された。どういうこと?因みに後で知人が言うには『予約サイトを通さなければマージンを取られないので安い』という説の他、『従業員が代金を懐に入れた』などの説も登場。いずれにしても不可解な対応だった。

腹ごしらえが必要で外へ出た。ちょっと行くと以前何度か泊った中心エリアに出た。だが昔の常宿は既に廃業していた。最後に泊まった2020年3月、あまり元気はなかったので想像できた結末だった。メイン通りも閑散としており、欧米人など観光客の姿もほとんど見られなかった。常宿の裏に麺屋があるのを思い出して行ってみると、まだやっていた。カオソイがうまい。値段は20kから25kに値上がりしていた。昨今ラオスでは物価が高騰していると聞いているので、この値上げは十分に理解できた。お客が来て嬉しそうなお婆さんには同情する。

ふらふら歩いているとセブンイレブンなどのコンビニはないものの、BigCミニなどコンビニ系の店舗が明らかに増えている。商品もタイなどからの輸入ものが多いだろうから、為替安、物価高はこういう店にどのような影響をもたらしているのだろうか。値段がタイと変わらなければ、ラオス人にとっては割高だろう。

何となく涼しいので、空港の方に向かって歩いてみる。クラウンプラザやサマセットなどの高級ホテルが出来ており、中国人需要が取り込まれたのだろうか。更に行くと中国市場である三江市場が見えてきた。数年前はちょっと大きな市場程度の認識だったが、後方が巨大化しており、明らかに1つの街になっていた。鉄道の開通のための物流拠点として整備されてきたのだろうか。中国語、しかも方言が飛び交っている。

夜はナイトマーケットにも行ってみた。思ったより地元人が降り、観光客もちらほら見える。食べ物の屋台は以前より少なくなっている。川沿いの遊園地はライトアップされていてとてもきれいだった。何となくビエンチャンにも明るい兆しがあるように見えた。

夕飯はサンドイッチをきれいな店で注文してテイクアウトしたが、もう一人の客が注文したハムチーズが見事に私の袋に入っていた。まあ残念というより、これもまた旨し、だ。バゲットは非常に大きく、とても食べ切れない量だった。夜10時頃、部屋の脇でお掃除の若い子たちが女子会でおしゃべり、結構うるさい。そしてようやく寝付いた夜中2時には、あほな酔っ払い白人が大声で話していてとても眠れない。

8月26日(金)ビエンチャン散策

よく眠れぬまま起きて、朝食を食べた。正直美味しくない。ビエンチャンならフランス系の美味しいパンと卵料理があればよいのだが、何とも中国式のお仕着せメニュー。食えるのはバナナぐらいか。コーヒーもインスタントを入れた方が良い。まあこれだから宿泊費が安いわけだ。ちょっと散歩でもしようと部屋から出たら激しい雨が降り出し、慌てて引っ込む。まあ部屋は快適なので午前中はこもる。

昼頃雨が上がり、散歩に出た。歩いて行き、タラートサオでウドンタニー方面のバスを確認。1日5本程度あるのでちょっと安心。その横のビエンチャンセンターには鉄道のチケット売場があるというので見に行く。ちょうど昼休みで係員はいない。やはり現金は受け付けず。ただ銀聯もOKのように書かれているが果たして使えるのだろうか。因みにこのショッピングモール、上の階には食堂もあるが、料理教室、テコンドーやフィットネス、そしてシネマなどの施設もあり、かなり詰め込まれ感が強い。

そこへMさんが登場。既に連絡してあったが、予定が早く終わったとのことで、ここで合流する。奥さんとも久しぶりに会う。彼女は客家であり、標準語も通じる。奥さんは先に帰り、2人でカフェアマゾンに入って、現在のラオスの様子から共通の知人の近況まで、色々と話し込む。因みにアマゾンカフェは、タイでは庶民の味方だが、ラオスでは高級カフェになっているようだ。

ラオス鉄道旅2022(1)切符が買えない?

《ラオス鉄道旅2022》  2022年8月25日₋31日

バンコク生活も半月が過ぎた。するとまた旅心が疼く。お知り合いが既にラオス初の鉄道(中国支援で建設)に乗ったと話すので、私もチャレンジすることにする。だが前途に暗雲が立ち込めていた。どうなるのだろうか。

8月25日(木)ビエンチャンの鉄道駅まで

2年半前、バンコク生活最後の出国先がビエンチャンだった。ある意味で私の東南アジア旅はまたここから繋がるように思えた。しかし今朝は雨模様。雨期とはいえ、何だか最近のバンコクは雨が多い。しかも雷まで鳴り出すと結構恐ろしい。朝早いフライトではなかったが、取り敢えず早めに宿を出た。幸いにもバイタクがいて、MRT駅までは快調に運んでくれだ。雨は少し降りだしていた。

MRTに乗ってチャドチャック駅まで行く。聞けば最近ドムアン空港へ行く鉄道が開通したらしいが、良く分からない路線に乗ってイライラするのは嫌だったので、慣れ親しんだA1バスで行くことを選択した。ところがバスの停車位置が書かれていたのに、バスは全然来ない。そして雨が強くなる。どうするんだ、と思っているとA2がやってきたので、飛び乗る。この辺が分かっていると楽でよい。

ドムアン空港まで30b、15分ぐらいで着いた。空港内、人は多くないが、数か月前よりは少し戻ってきているのだろう。ノックエアやエアアジアのカウンターには多少人がいたが、私が今回乗るタイライオンエアにはほぼ人はいない。Webチェックインしたのに、メールで搭乗券くれない?仕方なくここで再度チェックインして、紙を貰う。

空港の端から端まで歩いてみたが、ラオスでローミングできるカードは売っていなかった。そもそも買うのは外国人ぐらいで、その外国人がいなかったのだからこれまた仕方がない。それでも荷物検査場にはそれなりに人がいたので安心する。検査場の向こうの店は開いているが小物や服などはディスカウントの表示が目立つ。カフェは全開、一風堂もちゃんとやっている。

ウドンタニー行のフライトは搭乗者70%程度。1時間で到着する。空港では国境行ロットゥのチケットを買う。2年半前と同じ200b。すぐに乗車すると、人が集まってきて、すぐに出発。前回は確か4人ぐらいしか集まらず、定刻発車だったが、コロナ後少しは動きがあるようだ。

なめらかな道を1時間で国境に着く。出国手続きは簡単で、バスで橋を越える。バス代30bは15bから値上げか。バスは懐かしい京都市営バス。ラオス入国手続きも簡単で手数料 20bも同じ。ここまでは呆気ないほど同じで、コロナのコの字もなく、ワクチン接種証明など誰一人気にしていない。

まずは銀行のATMでラオキープを引き出してみようと思ったが、両替所が目に入る。なぜかトゥクトゥクおじさんが寄ってきて、シムカードはこっちだという。と言っても言葉が通じず、銀行員に通訳してもらう。50kで1週間のシムが手に入る。彼は私の行き先が鉄道駅だと知り、300bで行くという。しかしキープでも相場が300k(バーツの2倍)と聞いていたので、きっと間違いだろうと思いながら、何となく彼の車に乗ることにした。

鉄道駅へはビエンチャン市内とは別方向に約20㎞、20分で着いた。バーツを渡すと喜んで受け取った。やはりキープの下落でバーツが好まれるのか、それともお客がいなかったのだろうか。それにしても全くの農村風景に巨大駅が出現して驚く。しかも全てが中国様式。駅の表記も中国語とラオ語しかない。中国丸抱えの鉄道だと分かる。

まっすぐ切符売場に向かうとドアは開いている。人はほとんどいなかった。だが今日のチケットは全くなかった(ネット情報で分かってはいたが)。そして明日もビジネス720kがたった1枚残っているだけだという。因みにこの鉄道は二等、一等(ファースト)の上にビジネスクラスがあるのでややこしい。結局明後日午後の1等、これもたった1枚残っていたチケットを384kで買った。

それにしても殺風景な駅だった。駅前に僅かに露天商が飲み物などを売り、ATMが1台あるだけだった。タクシーなども見当たらない。さてどうしたものかと思っていると、仕切り屋のおじさんから声が掛かる。市内まで100kで行くという。仕方ない。結構なスピードで飛ばしていたが30分はかかった。やはり駅は極めて遠い。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(11)なぜか屋島へ

なぜか屋島に行ってみたくなった。源平合戦、先日壇ノ浦に行ったことも理由だろうか。琴電屋島で降りる。実は屋島は島と書いて山だった?!小さな駅で降りてどうするのかと思っていると、ちゃんとバスが来て山頂まで連れて行ってくれた。しかも100円で。登るにつれて、眼下に海が見えてくる。

源平屋島合戦場との看板が迎えてくれたが、やはり山の上ではピンとこない。その向こうには四国88か所の一つ、屋島寺があったので、まずはそこを見学。源平合戦の遺物を展示した宝物館があるとあったが、スルーした。太子堂や千躰堂などが並び、蓑山大明神のたぬきの置物がかわいらしい。本堂も年季が入っている。

更に展望台?にも行ってみた。ここからなら屋島地域が一望でき、屋島の合戦の舞台を上から見ることが出来る。きれいに作られた施設もあるが、人は殆どいない。天気が悪いからだろうか。今日は小雨で気温も23度と肌寒いと言ってもよく、歩くにはいい気温ではある。

そこから更に歩き、屋島城という古代の遺跡を見た。663年の白村江の戦いに敗れた後、中大兄皇子がここに防御の城を築いたらしい。他にも瑠璃宝の池(血の池)など源平ゆかりの場所もあるが、那須与一や義経の故事はやはり下へ行かないと出てこないらしい。帰るバスが来たので乗り込んだが、駅まで行く前で一人だけ降りた。

バスから洋館が見えたからだ。神戸の異人館から移築され、今はカフェになっていた。その横にはテーマパークのようなきれいな施設があったが、これまたスルーした。その向こうを登ると屋島神社がある。高松藩初代は水戸家初代徳川頼房の次男で、ここに家康を祭った。讃岐東照宮という文字も見える。階段がきつい。神社の門は固く閉ざされていた。ここからは街が良く見えた。

琴電で元に戻り、瓦町駅から歩く。商店街のモールの下をずっと歩いて行くと、高松のB級グルメ、かしわバター丼を出す店に辿り着き、遅いランチを食べる。それにしてもこの店のボリュームはすごい。ご飯は茶わん3杯ぐらい。鶏肉をふんだんに焼いて乗っけてくれる。更には何とご飯が余れば、無料でカレーを掛けて食べられる。これで800円、ありえない。午後3時でも若者が何人も来ていたのは頷けるが、この量、私にはもう無理かな。

腹ごなしに歩いて行くと、歴史資料館と図書館、そして菊池寛記念館が同じビルに入っていたので、寄ってみる。歴史資料館で香川の歴史を学び、図書館で香川茶業の歴史を探す。菊池寛は時間的にパスしたが、後で中央公園に像が建っているのを見て、地元では顕彰されていると感じる。この日は宿でゆっくりして、夕飯は抜き、夜泣きラーメンで一日を終える。

7月15日(金)高松で

朝ご飯を探して町に出る。商店街の2階にモーニングがあると聞いて出掛けてみると、何と300円のコーヒーを頼めばトーストが無料で付いてくるというものだった。かなりレトロな店内は満員で、ちょうど席が空いたので、取り敢えず注文してみた。正直コーヒーは?だったが、トーストは美味しく頂いた。

東京に戻る前に時間があったので、高松駅まで散歩して、高松城跡を見ることにした。横には琴電築港駅がある。この城は基本的に松平家。天守閣は石垣だけが残っており、披雲閣庭園は手入れが行き届いており、素晴らしい。盆栽なども沢山置かれている。月見櫓も残っている。今は玉藻公園という名称の方が一般的らしい。

宿近くまで戻り、早めのランチに行く。丸亀で行けなかったので、綿屋の肉ぶっかけを食べる。システムが良く分からなかったが、社員食堂のように流れていくらしい。早い時間でもどんどん人が入ってくる。確かにこの麺はコシがあり、肉汁のうまみも感じられ、美味い。

昼頃リムジンバス乗り場を探してバスに乗り込む。高松空港は以前一度降りたことはあるが、乗るのは初めて。というか、今回私が四国を目指した真の理由、それは香川県にこれまで1泊もしたことがなかったからだった。これで残すは埼玉県のみ。いつでも泊まれると思って残ってしまったが、果たしてどこで泊まるのが良いかを考えながら、フライトを終わる。折角讃岐うどんを食べたのに、帰りに新宿でまた立ち食いうどんを食べてしまったのはなぜだろうか。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(10)仁尾、塩飽本島から高松へ

仁尾

文化会館の中に図書館があったので入って、後発酵茶や茶粥について何か資料はないか、聞いてみる。対応は非常に親切で、かなりの資料をコピーさせてもらえた。それでも地元の人も、碁石茶がここに運ばれ、仁尾商人が売り捌いた歴史についてはほとんど知らないという。茶粥も食べてはいないとか。坂出あたりでは今も食べられているのだろうか?

古い町並みを歩いてみる。旧塩田忠左衛門邸という、見るからに立派な建物が保存されている。特定日には公開もされるらしい。この付近の旧家は米酢などの製造で栄えていたのかな。その先には文豪菊池寛母の出生地の碑が建っている。海寄りには江戸時代に造られた金毘羅灯篭があり、土佐藩主が参勤交代におりにこの港を使ったこと、そして土佐茶の販売権を仁尾商人が得ていたことが説明されていた。ようやく碁石茶と仁尾の接点を見つけたが、今回はこれまでだった。

更に覚城院という寺へ行く。ここは坂がかなり急であり、横から見ると石垣が積まれている感じだった。仁尾城跡と書かれていて、何となく納得した。最後に50年前は碁石茶を扱っていたと資料に書かれていた今屋という茶屋に行ってみる。店の建物自体はまだあり、茶缶などが置かれているのは見えたが、扉は固く閉じられており、これ以上仁尾茶についての調べは受け付けられないことを悟る。

塩飽本島

仁尾からバスで詫間へ戻り、JRで丸亀までやってきた。結構疲れたのでそのまま宿で休む手もあったが、明日の天気予報が雨だったので、思い切ってそのまま塩飽本島へ向かう。歩いて数分のところに港があり、往復1070円でフェリーに乗れた。30分で到着。高見島行よりかなり大きいフェリーで、島の規模を知る。 

本島は平たんで歩きやすい。すぐに天理教の大きな建物があったのは驚いた。10分ぐらいで塩飽勤番所跡の建物が見えたが、既に見学時間は終わっていた。そのすぐ近くの家には咸臨丸水夫生家跡の表示がある。確かにこの時代、アメリカまで行ける水夫を探すのは大変で、塩飽の漁民などが駆り出されたのだろうか。

その先をずっと歩いて行くと、専称寺という寺を見た。この寺の起源は、あの法然上人が四国へ配流になった際、ここに庵が建てられたことだという。横には島のまとめ役、年寄の墓も見られる。その先が笠島伝統的建造物群保存地区であり、古い建物などがきれいに整備されて残っていた。中には何でも探偵団に伊藤若冲の絵を出品して、高額の評価を得た家もあると書かれているが、歩いている人は一人もいない。

フェリーの時間があるので、ここまでとして帰り道を急ぐ。一つ気付いたのは、家の門のように、柱が二本経っている家が多い。あれは何の印だろうか。今度はもっと時間を掛けて島を巡りたい。今回は残念ながらお茶に関する歴史は何も出てこなかったが、色々と面白い発見がありそうだ。

フェリーで丸亀に戻ると、腹が減ったので商店街の店に入った。さしみの文字に釣られたのだが、何ともうないという。仕方なくかつ丼とうどんのセットにしてみたが、これが意外にイケる。何だかこういう店のかつ丼は、卵とじが上手いような気がする。店の人は刺身がないことを何度も謝ってくれたが、とんでもない、ご馳走様でした。

7月14日(木)雨の高松へ

今朝は予報通りの雨だった。高松へ移動することにしていたのだが、荷物もあるので困った。取り敢えずチェックアウト時間に外へ出て、商店街のアーケードで雨を避ける。昨日閉まっていたカフェがやっていたので、そこへ入る。何とこの店、和朝食、洋朝食各990円という本格的なメニューがありドキッとしたが、その横にモーニングセット510円があった。ほっとしてそれを頼んだが、それでも十分の量がやってきた。お店は広く、喫煙可でもその被害はなかった。

小雨の中を駅へ行き、高松行電車に乗る。途中国分寺のあった国分駅、そして鬼無(きなし)という駅名に驚く。ここも桃太郎関連だろうか。30分弱で高松に到着。駅の案内所で地図を貰い、バスに乗って今日の宿へ向かう。荷物を預けると雨が止んでいたので、すぐに行動を開始して、琴電瓦町駅まで歩く。琴電は先日金毘羅で始発駅を見て乗りたいと思っていたローカル線だ。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(9)高見島と丸亀城

高見島へ

観光案内所の女性が『茶粥は高見島』といったのが頭から離れず、とにかく高見島を目指すことになってしまった。案内によれば、高見島へ行くには、まずJRで2つ戻って多度津駅で下車。何とこの辺ではSuica使用可能。多度津駅前には少林寺拳法発祥の地の碑がある。駅でもらった地図を手掛かりに、古い町並みが保存されている地区を歩く。合田という一族が繫栄していたらしい。合田家の豪邸を見ても、多度津が江戸から明治にかけてかなり繫栄していたことは分かる。

駅から港までは徒歩15分。港で往復切符950円を買って乗り込む。小さなフェリーで乗客も数人だけ。老人に茶粥のことを聞きたかったが、このフェリーは他の島へも行くのでおいそれと話しかけられない。高見島に着いたが、飲み物を買うところもなく、自販機すらない。ひたすら歩くだけだ。

石垣の脇を登る。サンフランシスコへ移住した家があり、外からトマトが伝わったとある。実にいい感じの細い道が続き、鄙びた家々が連なり、そして青い海と空、石垣の集落。この世のものとも思えない風景、まるで寅さんの舞台だなと思っていると、やはり寅さんはここへ来ていた。『男はつらいよ 第46作 寅次郎の縁談』(マドンナ松坂慶子)にこの島は登場しているようだ。大聖寺という寺があり、その楼門は力士が柱を支えている。 

浦地区から浜地区へ移動してみた。島は大きくないので歩いて回る。途中お爺さんが家の前に座っていたので声を掛けると、まあ座って話そうと言ってくれた。茶粥については『茶粥なんて結婚してから食べたことない』とあっさり。更には『茶粥を食べなくなってから、島で胃が悪い人がいなくなったよ』という驚きの証言も飛び出す。基本的に番茶や麦茶を飲んで暮らしてきたという。茶粥は50年以上前に一般的には食べられなくなったと考えてよさそうだ。因みにこの島に食堂のようなものはなく、茶粥が食べられるのは島に一軒ある民宿だけらしい。

お爺さんの家の先にはお墓があった。これが珍しい両墓制(埋葬とお墓参り用に2つのお墓を設ける)。昔は土葬だったので、土葬の上に小さな小屋を作っていたが、昨今の台風で墓が流されてしまって荒れていた。先ほどのお爺さん曰く『今は島で死ぬ人はいない、皆町の病院だ』。

フェリーで島から戻り、駅まで走っていく。何とか電車に間に合い丸亀へ戻る。宿にチェックインして、疲れたので部屋で相撲を見て過ごす。6時に夕飯を食べに外へ出た。宿の近くでうどん屋を探したが、実はさぬきうどんも朝から昼に食べるもの。夜やっているのは居酒屋でその一軒でざるうどんと骨付鶏を食す。骨付鶏はうまみが出ていてよいが、ニンニクが非常に多く使われている。居酒屋なので、隣のおばさんが酒飲みながらタバコをふかすので、すぐに退散。

7月13日(水)丸亀城

今日も朝から暑い。朝ご飯を探そうかと思ったら、お城が目に入ってしまい、暑くないうちにと、登り始めたが坂が厳しい。それでも丸亀城天守閣まで登ると、とても涼しい風が吹き抜けてホッとする。これは入場料を払う価値がある。ただ階段はかなり急激で、木造なのでちょっと怖い。景色は間違いなく抜群。搦め手からするすると降りる。城の石垣は大規模工事だった。横の歴史資料館に入り、丸亀藩のお勉強。生駒、山崎、松平と続く藩主についての展示があった。

昨日歩いた商店街に、良さそうなカフェを見つけていたので、朝ご飯を食べようと向かったところ、まさかのお休み。何だかすごく焦って急遽他の店に走っていく。ちょうど居心地の良さそうなカフェが見付かり、一安心。ホットサンドセットとアイスティーは悪くなかったが、600円という表示が税抜き表示で660円取られたのは、ちょっと残念。更にタバコを吸う常連客がいて、またもやすぐに退散。

今日は仁尾へ行ってみる。昔栄えた港街だというが、今や鉄道も通っていない。詫間駅まで4駅。ここの駅でもなぜかSuicaが使える(詫間と観音寺のみ)。駅に着くと馬渕英里何と要潤が三豊市のCMに出ている。二人ともここの出身だという。

駅の横にある詫間駅観光案内所に入ると若い女性がとても親切に色々と教えてくれた。40分バスを待つ間、その辺をふらふら歩く。ここにも桃太郎伝説があるらしい。この辺りもコミュニティーバスが何路線か動いているが運賃100円は安い。30分ぐらい乗って行くと、一山超えて仁尾に入っていく。そして古い町並みが見えてくる。取り敢えず仁尾文化会館で降りてみる。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(8)碁石茶と金毘羅参り

大豊町は7年前の四国行脚の時に寄っているので、街中に入ると懐かしい風景があった。JR駅の横、大豊町碁石茶生産組合が農業センター内にあった。現在は大豊ゆとりファームが管理しており、Yさんが丁寧に説明してくれた。ただ碁石茶の歴史については、石鎚黒茶、阿波晩茶同様、現在文化庁が調査中で来年には報告書が出るらしいので、それを待つしかないという。

組合が結成されたのは10年前。前回色々と面倒を見てくれたOさんはなんと今町長になっておられるという。ブランド統一(ブレンド)、製法統一、小笠原家(一時唯一残った碁石茶農家)の蓆(菌)を使うなどを共通ポリシーとしている。だが私が前回訪ねた頃がピークで8軒だったが、現在は高齢化もあり5軒に減り、後継者難だという。碁石茶はマーケッティングが上手くいっていると思っていたので、意外だった。その後ゆとりファームの生産現場(標高400m)で作業の様子も見学させてもらった。

その後道の駅に寄り、私は煎茶と番茶を買う。Aさんが食べたかった碁石茶アイスは売り切れていたようだ。残念。JR大杉駅まで送ってもらい、ここでお世話になった2人と別れる。彼らは今から熊本まで車で帰るというから大変だ。小さな駅で駅員さんからきっぷを買う。ホームに碁石茶の里と書かれている。

特急で約1時間。琴平駅まで行く。自由席は意外と混んでいる。子供の頃から一度は金毘羅参りと思っていたので、ここで降りた。だが琴平駅から予約した宿まで歩いて15分ぐらいと、遠かった。また金毘羅も駅を挟んで反対側でやはり遠い。更にご飯を食べる場所もなく、向かいのスーパーで弁当を購入して部屋で食べた。ただ部屋は狭いがきれい(机はなかったが)で、屋上展望浴場でゆったりできたのは良い。 

7月12日(火)金毘羅参り

翌朝は早めに宿を出て金毘羅参りに行く。まずは宿のすぐ近くにあった高杉晋作が隠れた家を見る。呑象楼と書かれており、日柳燕石という人が住んだらしい。幕末に追われた高杉がここに滞在したというがどうだろうか。

暑いので早めに金毘羅宮へ。ふもとまで歩いて15分、そして見上げると階段は続いており、表示ではそこから785段とあり、恐れる。しかしここまで来て引き下がるわけにもいかず、トボトボ登り始める。早くもお参りを終わって降りてくる人もいるが、全体的に参拝者は多くない。古びた雰囲気はとても良いが相当に疲れる。石松や源内の金毘羅参りを思いながら這い上がる。江戸から明治期、茶屋からの寄付が多いのは面白い。

高所恐怖症なので、後ろは振り向かず、ただただ上がる。いくつかの鳥居をくぐり、いくつかの建物を通り過ぎ、何とか本殿に達する頃には汗びっしょり。しかしここからは町が一望できる。疲れたので少し休む。特にこれ、といったものはなく、金毘羅参りとは一つの修行では、と思う。

帰りは石段を下りる自信がなく、裏参道を降りてきた。平地まで来ると、琴電琴平駅があった。ここから電車で高松まで行けるようだ。JR駅前の喫茶店に入る。モーニングの表示はなかったが、聞いたら『トーストとゆで卵、コーヒー』が出てきた。450円。常連さんしか来ないような店だが、暑いから常連も来ない?店主と電気屋を待つ女性の世間話は世相を反映していて、参考になる。これから朝はモーニングだな。

線路沿いに『琴平グランドホテル』が見えた、と思ったら、何と立派な社員寮だった。宿へ戻り荷物を引いてJR駅まで戻る。今日の目的地丸亀までは360円30分。乗客は誰もいないと思ったが、発車直前に増えてきた。琴平駅は大正時代に建てられた偽洋風建築のようだった。

丸亀で

丸亀駅で降りた。静かな駅だった。観光案内所で地図を貰い、色々聞いていると塩飽諸島が魅力的に聞こえてくる。茶粥というと、それは高見島かなといい、その島は丸亀の範疇外だというから驚いた。まずは老舗の宿へ荷物を預けて行動を開始する。

商店街を歩くと富田園があった。弘化4年(1847年)創業(元は古道具屋)、店にいた奥さんの話を聞くと、碁石茶と阿波晩茶は子供の頃は店の前に沢山あって『甘酸っぱいにおい』に思い出があるという。現在も扱っているが、昔は一番安いお茶だったのに、今や高級品になってしまった。それでも最近も島の人が買いに来るという。地元の茶は高瀬産、少し渋みある煎茶だという。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(7)西条の高知神社と旧石鎚村で

7月10日(日)西条を歩く

翌朝は朝食をたくさん食べてから、散歩に出た。西条市の事情を知りたいと図書館へ行ったが、何と9時過ぎにはまだ開いていなかった。その裏から小川が流れ、いい風が吹いていたので、それに沿って歩くと郷土資料館、工芸館へ辿り着いた。五百亀記念館は何と読むのか。その横は西条高校、学校の入り口は大手門が使われている。

西条市は水の町、『うちぬき』と書かれた自噴井(地下水)がいくつも湧き出している。この水は石鎚山系に発し、加茂川を通じてやってくるらしい。名水百選などもある。水が美味しいから食べ物が美味しく、移住者に好まれる街であるという。駅まで戻ると四国鉄道文化館があり、その前に十河信二の像がある。戦前は満鉄理事、戦後すぐは西条市長、そして新幹線の父になった人である。

昼にAさんが助手の女性とやってきた。まずはランチを食べようということになり、お蕎麦屋さんに行ったが、満員札止め。2軒目に向かう途中、うなぎ屋があり、そこへ入る。メニューを見るとドジョウ鍋があるではないか。私はうなぎを捨て、ドジョウに走った。柳川鍋で絶品だった。ドジョウ、何年ぶりに食べたろうか。

午後は石鎚黒茶に関連するところへ行こうと思い、まずは土佐との関係を知るべく、西之川に高知八幡神社を訪ねる。ここはかなり急な階段を登らなければならず、また折角辿り着いても神社の由緒書きなどが見られず、何もわからなかった。ただ西条市に高知と名の付く神社があるということ自体、自ずと高知との繋がりを示していると勝手に思う。

実は八幡神社と反対方面、東之川に『高知神社』があることが分かり、そちらに回ってみる。かなり山の方へ向かい、石鎚村の近くにあった。こちらは何となく霊気が漲り、すごく雰囲気のある神社だった。しかもその周辺の道沿いには山茶と思われる茶樹が沢山見受けられ、中には茶葉がアッサム並みに大きいものまであって、仰天してしまった。その近隣の村もちょっと風景が原始的で神秘的。ここはある種の原風景ではないかと思ってしまった。恐らく私が知りたい高知と愛媛の繋がる場所だが、詳細は不明である。

ここで本日の活動は終了し、ホテルまで送ってもらった。夜はホテル内のコインランドリーが無料だったので洗濯する。利用者が多くてなかなか洗濯は進まない。ロビーには東南アジア系の若者が沢山チェックインしている。何の仕事だろうか?参議院議員選挙速報を見たが、自民党圧勝で何ともつまらない。アイドル高見知佳は落選。年齢は私の一つ下だった。

7月11日(月)旧石鎚村へ

翌日は高知へ向かう前、折角なので旧石鎚村へ行ってみた。西条市内から20㎞ほどで旧石鎚村の山道へ。意外とちゃんと整備されている道だった。土井というところまで来て車を降り、少し山に入ると道の両脇が茶の木で埋まっていた。自然に種が落ちて増えたのだろうが、誰かが世話をしていなければ、このようにきれいには生えていかない。険しい山道と聞いていたが、見た感じはそれほどでもない。

入口のところに、祠があった。偶然人が出てきたので話し掛けると、あのレジェンド曽我部さんと同じ村出身、曽我部さんの息子さんと同級生だというSさんだった。そしてSさんが子供の頃に住んでいた場所は中村といい、ここから歩いて登って30分はかかるらしい。因みに曽我部家はそこから更に10分上と言われて驚く。中村には以前6軒が住んでいたといい、中学の頃まで樽漬けの黒茶作りを実際にしていたともいう。茶摘みを実演して見せてくれたが、その速さにはAさんたちも舌を巻いていた。Sさんの手に歴史を見た思いだ。

実は本日は祭り。石鎚山の祭礼(石鎚神社夏季大祭)は、古くより「お山市」、「お山開き」と呼ばれ、7月1日から7月10日に斎行、そして本日11日午後12時30分、本社へ御還宮して、夏季大祭は終了するという。まさにその最後の場面に偶然にも遭遇したので、神社までついていく。

そろいの法被を着ている参加者はほぼ男性。神主と山伏とが談笑しながら出てきた。この辺りの関係性は極めて興味深い。我々が見ていた横の家では桑の葉を干していた。お茶が捧げられる習慣があると聞いたが、今は桑の葉が納められているのだろうか。いずれにしても詳細は分からないながら、何とも神秘的、そして茶との繋がりも感じさせられる重要な祭礼に立ち会ったのは幸運だった。

これで西条での活動を終了して、車で高知県大豊町に向かう。予想外に午前中の時間を使ったので、慌ててサービスエリアで昼ごはんを食べる。真鯛の漬け丼、生卵掛け。山の中では意外な食べ物だったが、美味しく頂く。昔は生の魚など食べられなかったのだろうに。西条から大豊までは、案外と近い。これも関連性があるだろうか。

ふらっと四国茶旅歴史旅2022(6)松山から伊予西条へ

ちょっと歩いて行くと、川辺に大きな木があった。説明書きを読むと何とあの赤穂浪士10名(大石主税、堀部安兵衛、大高源吾ら)が、仇討ち後松山藩預かりとなりそこで切腹した。松山藩主は彼らを丁重に扱ったことを謝して赤穂から贈られたものだという。こんな歴史も街に落ちているのか。

その先に石手寺がある。この寺は外から眺めるだけでその異様さ?が分かる。ビルマ関連のパゴダはあるは、日中友好も謳っており、とても変わった寺に見えるが、どういう理由だろうか。実はここから石鎚方面へ登れる?ルートがあるようで、その昔は修験者の通り道だったかもしれず、様々な思想が混ざり合っているのだろうか。

疲れたのでバスで大街道へ移動する。290円、30分。何となく定食屋に入り、何となくチキン南蛮を注文し、何となくテレビを見たら安倍晋三が襲われていた。元総理が撃たれたという衝撃にも拘らず、何となく緊迫感の薄い中継、そしてなんの防御もない護衛にただただ驚くのみ。これが日本の現状なのか。チキン南蛮の味は全く覚えていない。

何だか歩きたくなりふらふら。宿の近くの子規堂に辿り着く。入場料50円なのだが、なぜかグッズとのセット販売を勧められる。きっと運営は大変なのだろう。室内は極めてシンプル。子規だから派手な訳はない。周囲には石碑が多い。疲れたので部屋で休む。

夕飯を食べに検索した店まで30分歩いて行ったが、何と営業時間が6時までに変更になっており入れず。これはきっと何かの流れ、誘導かと思いGoogleを見ると、近所にロシア兵墓地があった。坂を上っていくとロシア大佐の胸像が目に入る。日露戦争時の松山捕虜収容所には4千人以上が収容され、98名が死亡したとある。この収容所の待遇が良かったと書かれているが、どうだろうか。横は松山大学のキャンパス、松山大といえば女子陸上長距離が強い。

疲れたので路面電車で宿へ戻るが、何だか反対周りに乗ってしまい、時間をロスする。おまけに大雨が降り出し、何とか洋食屋へ逃げ込んでハンバーグを食べた。接客に愛想なし。おまけに主人は常連さんに『安倍さん死んじゃったよ、可愛そうにな』と店に響き渡る声で話している。夜もハンバーグの味が分からなくなる。

7月9日(土)松山から西条へ

今朝もゆっくりしている。大谷を見て、それから朝ご飯を食べに行く。商店街の2階でモーニング。トースト、目玉焼き(醤油が掛かっている)、コーヒーで480円は悪くない。ただ喫煙可と書かれており、店内が狭いのでかなり恐れたが、幸いお客がなく、難を逃れた。11時にチェックアウトして、路面電車に乗り込み、JR松山駅へ。乗り間違えなければすぐに着いてしまう。時間が余ったので、駅で名物じゃこ天うどん、570円を食べてみた。味はうーん?

各停、2両編成に乗り込む。1両目後ろからのみ乗車可能。土曜日なので半日登校の高校生などが多い。電車は遅い。1駅行って6分待つ。特急がどんどん通過していく。ダラダラ乗車を続け、1時間45分も乗って、ようやく壬生川駅に到着。熊本から来ているAさんの出迎えを受ける。しかしなぜ壬生川を『みぶがわ』ではなく、『にゅうがわ』と読むのかふつふつと疑問がわいてくる。

車で10分ほど行くと、石鎚黒茶を作っているさつき会の作業場に着いた。Aさんもここでお手伝いをしている。朝摘んだ茶葉の枝切り、葉茹でなどが行われており、思ったより多くの人が作業に従事していた。20年前お母さん会が伝統の黒茶を復活させた。Tさんのお母さんが中心だった。私も7年前この地を訪れた際、この母子にお会いしていた。

最近は石鎚黒茶の認知度も高まり、東京など日本全国から応援の人が多数来てくれるという。だがこれだけでは食えない(作業場にトイレも作れない)といい、コインランドリー経営をしているようだ。そのランドリーに石鎚黒茶のレジェンド曽我部さんも時々来るという。 

Tさんから石鎚黒茶の話を色々と聞いた。愛媛大や日大など、黒茶について協力してくれる大学の先生は何人もいるが、その歴史については、最近出た調査報告書に書かれている以上は分からないだろうという。帰り際、曽我部さん(石鎚村で黒茶を作っていた最後の一人)と同じ村の出身の方からもお話を聞いた。碁石茶と昔の石鎚黒茶のお味はかなり近かったという。

Aさんの車で伊予西条駅まで送ってもらった。宿が駅前に集中している。その一軒に入ると、大浴場がありよかった。ただ部屋は何と喫煙ルーム。においがきつい。フロントの男性は色々と説明してくれたが、喫煙とは言っていなかった。西条市は水が美味しいらしく、西条の水が無料で飲めたのは良かったが、たばこのにおいは美味しい水を台無しにした。

腹が減ったので商店街へ行ったが、本当に寂しい雰囲気だった。その中にある古い食堂へ入ってかつ丼600円を注文する。目の前におでんが出ていたので、一本100円を二本取って食べる。昔ながらと言いながら、地元の人が懐かしむ場所なのだろうか。