トラン、スラッタニー旅2022(2)トランを散策する

10月25日(火)トラン散策

翌朝は狙っていた近所の早茶屋へ向かう。完全な華人経営(元は旅行会社もやっていた)であり、お客も華人の顔をしているが、店員はタイ人が多く、華語を使う場面はない。点心は魚のすりみなど実にうまし。華人オーナーに話し掛けようとしたら向こうから英語が飛んできた。

食後散歩していると大きなタイ寺があり、その向かいに天福宮の文字が見えた。中に入ると管理人が出てきて、きれいな華語を話す。100年以上前に移民してきたらしいが、祖先がどこから来たのか、自らの原籍を知らないという。ここは福建系ではないのだろうか。それでも華人(年配者)はこの地でちゃんと華語を学んでいたことが分かる。今の若者は全てタイ語で話してしまうようだ。

ここから大観音が見えたので、登って行ってみる。途中道を間違えそうになったが、車に乗った華人女性が英語で道を教えてくれた。更に細い道に入ると自転車に乗った華人の老人とすれ違う。彼も普通に華語を話したので聞いてみると、姓は黄、ヤラー県生まれの潮州系で、薬屋を開くために商売に適したここに移住して数十年も経つらしい。

トランの華人勢力は広東系、福建系、潮州系の順番だと黄さんは言う。100年以上前貿易で栄えた街で、ペナン、プーケット方面から来た華人が多く住んでいる。黄さんが若い頃は華人学校で皆が華語を学んでいたが、今はバラバラになっているため、華語を話す人は確実に減っているとか。

大観音まで登る。誰が建てたのか、説明もなくよく分からない。そして特に寺があるわけでなく、人も常駐していない。ただただ街の(華人の)シンボルのように小高い丘に建っている。近所に天后廟があったので寄ってみたが、華人でなくタイ人管理人一家が廟を守っていたのは意外だった。タイ語が分からないため、その経緯などを聞くことは叶わなかった。この付近には犬が多く、吠えられるので早々に退散した。

宿まで戻ってくると隣にいい雰囲気の建物が見えた。近づくと何とホテルとして使われている。次回トランに来る機会があればここに泊まってみたい。今日の昼は昨日失敗したホッキンミーにありついた。これは濃厚なスープともちもち麺の組み合わせで確かに美味い。観光できていたタイ人若者も迷わず頼んでいた。ペナンで以前食べたのとよく似ている。50bで満足。

食後フラフラと歩いて行くと、チュワン首相生家というのがあった。チュワン・リークパイ(中国語: 呂基文)は、1938年にこの地で生まれた華人であり、タイの首相(第27・30代)にまでなった人物である。現在も政治家を続けており、ある意味でトランを象徴する人ともいえる。実は私にホッキンミーの店を教えてくれたのも、バンコクに住むチュアン一族の一人であった。

形ばかりの警護門があるが、中に入ると誰もいないので、説明を受けることもできなかった。どれが家なのか、敷地が広大でよくわからない。奥の方まで庭が続いており、小さな池もある。温室などもある。何だかトイレがとてもおしゃれだ。それから街をゆっくり歩いて宿へ帰る。途中に大きな寺などを見る。

午後はまた激しい雨が降る。スコールというべきだろうか。しかし2日続けて夕飯に行かないのも詰らないと思い、宿で傘を借りて出掛ける。マッサマンカレーも名物だと聞き、ネットで調べた店を探す。ところがその情報が正しいのかどうか、かなり歩くもなかなか見つからない。Google検索もできないので諦めかけたその時、奇跡的に目の前に現れる。ちょうど雨も上がった。

ここはイスラム教徒の経営だった。マッサマンと言うと何とか通じる。取り敢えずチキンを注文。美味しそうなカレーにきゅうりが付け合わせで付いてくる。ここではきゅうりを一緒に食べないのは反則らしい。調理場を覗くとチキンだけでなく、魚や煮卵など美味しそうなものが並んでいたので、思わず皆注文して合わせて食べる。

ちょっとスパイシーだが実に美味しく、日本人に合うお味だ。応対してくれたのは高校生ぐらいの女の子。英語ができるので、少しお話したところ、日本人がこの店に来るのは珍しいらしく、とても喜んでくれた。最後に支払いをしたら、お釣りが無いと言って、隣の店に走っていく姿が何とも愛らしい。

トラン、スラッタニー旅2022(1)トランへ行く

《トラン、スラッタニー旅2022》  2022年10月24₋27日

先日タイ深南部を旅して、南タイの面白さに惹かれた。Yさんから『トランはいいよ』と言われて行く気になった。トランは4年ほど前に行こうとして、発音が通じず、全く別の街に連れていかれた苦い経験があったが、今回はそれを克服しようと勇んで出掛ける。

トランはタイ南部、プーケット島の南東約140㎞、アンダマン海に面した南北約120キロメートルにわたる長大な海岸線を持ち、近年は近隣のプーケットやクラビに続いて欧米などからの個人旅行者も訪れている。また20世紀初頭までは国際交易の拠点で、マレー語で「夜明け」を意味するその地名のとおり、連日外国からの船が暁の港を発着していた。街中には当時の繁栄を物語る古びた建物、中華系住民がいまも大切に守り伝える信仰や暮らしがある。

10月24日(月)トランへ

何だかタイ国内旅が面白くなってきた。ちょうど半月前にドムアン空港からノックエアでベートンへ向かったが、今日もまたトランへ向かう。搭乗ゲートまで行くと、一つ前のプーケット行きに乗り遅れたインド人女性が激怒して係員に怒鳴っているが、飛行機は既にゲートを離れている。どんな事情かは分からないが、飛行機に乗れないのは悲しい。

私が乗るフライトはとても順調。トランも華人が多い街と聞いていたので、ベートンのように乗客も華人が多いのかと思っていたが、そうでもなかった。1時間半でトラン空港に無事到着する。空港はとても小さく、周囲には何もない。殆どの人に迎えが来ていたが、街まで行くミニバン送迎があったので、それに乗り込む。90b。私以外に乗ったのは地元住民2人のみ。先に彼らの家に行き、そこから街に向かった。

ミニバンは20分で駅前に到着。駅周辺で泊まる所を探したが、どこも部屋に電気ポットの備えがなく、歩いて10分ほど行った街のどこからでも目に付く大型ホテルへ向かった。朝食なしなら1000b。部屋は広く、静かで快適、おまけに景観も良い。大型ホテルは団体客が騒がしいかと危惧したが、フロントで聞くと今日はお客が僅か10室のみ。騒がしい心配はないが、ホテル自体が心配になる。

このホテルの近くにホッキンミーが旨い店があると聞いていた。その店まで歩いたつもりだったが、何と間違えてとなりの店へ入ってしまうというミスを犯した。腹が減っていたので普通のクイッティアオを食べたが、スープが美味い。店員は華人の顔をしているがタイ語しか話さない。お客の家族連れも華人の顔をしていたが、タイ語しか聞こえてこない。

食後街を歩いてみると、中国的建物があり、『董里』がトランの漢字名だと知る。ここにも洋風な時計台が駅前から伸びた道の十字路に建っている。きれいな庭園も見られる。駅からの道には古びているがおしゃれな洋風建築もあり、この街が昔はかなり栄えていたことを示している。

駅近くを歩いていると何とも美味しそうな匂いがしてくる。店の前で焼きそばが作られており、思わず入ってしまった。これはもちもち卵麺にいい感じのソースが絡まっており、何とも旨い。50b。潮州系の麺ということだろうか。メニューには英語はあったが、華語はなく、よく分からない。

更に歩いて行くと、古い建物が多く見られた。広東、潮州公所など華人会館も存在している。駅の向こう側には包公宮もあった。古びた市場もかなり大きい。宿のすぐ近くには、1915年創建、今は歴史的建造物となっているトラン教会がかなりいい感じで佇んでおり、観光客が写真を撮っていた。

宿へ戻ると既に日は西に傾いていた。そして部屋で休んでいると、突然大雨が降り出し、その雨は夜まで止まなかった。仕方なく外へ出るのを諦め、持ち合わせの物を食べて、そのまま部屋でゆっくり過ごす。本当に静かなホテル、静かな雨の夜だった。

バンコク滞在記2022その6(3)王陽春とナイラート公園

MRTに乗り、サムヨット駅で降りる。ふらふら歩いて行くと、立派な歴史的建造物、ロイヤルシアターがある。今はコロナで閉まっているが、現役の劇場だ。その先にはかなり長い校舎を持つ学校に100年以上の歴史がある。この付近は歴史的地区なのだと分かる。

ふと道の向こうを見ると、何となく見覚えのある寺があった。ワットリアップ、日本人納骨堂があるタイ寺であり、10年ほど前、ひょんなことから1泊させてもらったところであった。何とも懐かしく、中を見学した。日本人納骨堂ではちょうど法要が行われており、日本人僧侶の姿も見られた。何とも懐かしい。

その先、川の手前にかなりの敷地がある。ラーマ5世像?が建てられているだけの広場だが、その歴史的背景は良く分からない(タイ語は読めない)。そこから花市場の方へ歩いて行くと、王陽春がある。この店のロケーションは、往時は路面電車が走るなど、かなり良い場所だったはずだ。

店には80歳になる2代目店主、そしてその3人の娘(3代目)、更にはその娘(4代目候補)が、揃って待っていてくれた。それから1時間ほど、この店の歴史を聞き、またその姻戚関係を尋ねる。やはり福建安渓堯陽村の出で、これまで訪ねてきたバンコクの老舗茶行の多くと姻戚関係にあった。ただ違うのは、初代が早く亡くなり、その未亡人が店を継ぎ、それからはずっと女系経営だという点かもしれない。80年以上の歴史を誇るこの店、その道のりは決して平たんではなかった。

この付近には最盛期、10軒以上の茶行が存在していたというが、今はついにこの1軒だけになってしまった。果たして未来はどうなるのだろうか。パイナップル印のロゴ、可愛らしい店内、何らかの形で継承して欲しいと願うのだが、それは外野のエゴだろうか。とにかく今日の訪問はとても意義あるものに思えた。次回はいつだろうか。

10月22日(土)ナイラート公園で昼食を

テレビ大阪の番組に『名建築で昼食を』というのがある。コロナ禍、テレビでそれを見ていたら、自分も行ってみたくなったが、ちょうどバンコクに来てしまった。それならバンコクにも名建築はあるだろうと思い、探し始める。だが名建築はあっても、そこでランチが食べられるかとなると、かなり限られてしまうらしい。

そんな中、Mさんが有力な情報を送ってくれた。そこは100年以上前の実業家の家で、美味しいレストランもあるというのだ。お知り合いのお二人にも参加してもらい、4人でランチに行ってみる。当日は土曜日で、朝の交通渋滞もないと踏んで、バスに乗ったが、何故か全く進まず焦る。近くのコンベンションセンターでコスプレ?アニメイベントが行われるようで、何とバスにも乗ってくる。

そのナイラート公園はBTSのチットロム駅から少し北上したところにあり、アクセスは意外とよい。公園のところまで来ると大規模改修工事が行われていた。ここには元々スイスホテルがあったが、今後はアマンリゾートになるらしい。都会のど真ん中、どんなホテルになるのだろうか。大林組が施工しており、その脇を通り抜けて何とかレストランに辿り着く。

レストランの前で、立派な服を着た人に呼び止められる。ドアマン?だった。そして何ともモダンなレストラン、マ・メゾンに案内された。ここは正直名建築と言ってもレトロ感がないので、私が思っているところとちょっと違っていた。だが料理が出て来ると実に上品で美味しい。特にマッサマンカレーとミンチ入り卵麺は特筆したい。これからも偶には食べに来たい味。

帰りに公園に踏み込むと確かにレトロなお屋敷が建っていた。ちょっと入って見学していると『ここは有料予約制』と言われてしまう。仕方なく公園を散策すると、ナイラート像があり、愛車や船が飾られており、日本的な庭園や大きな池もある。池のほとりには、ひっそりとカフェがあり、まさにここに来ればよかったかと思う佇まいだった。今度は朝食に来て見よう。

バンコク滞在記2022その6(2)バンコクで肉骨茶

10月20日(木)バンコクで肉骨茶

後輩のUさんから肉骨茶の店の紹介があった。肉骨茶と言えばマレーシアかシンガポールの名物であり、バンコクで見かけることは殆どない。先日ヤワラーで1軒見掛けて気になっていたが、今日は全く違う場所に案内される。待ち合わせはMRTペップリー駅と連絡を受けたが、路線図を見るとそんな駅は存在しない。だが自分でもあそこだな、と思っているのが不思議。結局ペチャブリ駅をペップリーともいうことが分かる。しかしなぜ2つの名前を持つのだろうか。

そこからタクシーを拾おうとしたが、乗車拒否に遭ってしまい、Grabで呼ぶことになる。乗車拒否などしても営業は成り立つのだろうか。バンコクのタクシーは何とも不思議だ。車は10分以上走って止まった。その周辺には高層住宅がいくつもあったが、『最近中国人がかなり買って住んでいる』との話だった。近くには中国大使館もあり、タクシーが止まった場所にも中国スーパーと食堂が並んでいた。新中華街、今やバンコクの各所に中国人集落があるという。

だが目的地の肉骨茶屋が見当たらない。よくよく見ると店の看板はあったが、店は既に改修工事をしていた。コロナ禍で潰れてしまったのだろうか。ここまで来て食べられないとは、何とも残念。仕方なく他の食堂のメニューなどを見て、どこかへ入ろうかと考えているとUさんが店を覗き込み、張り紙を見つけ、『店の引っ越し先が分かった』と言い、歩き出した。

10分ほど歩くと、肉骨茶屋とは思えないような店が登場した。そしてそこが移転先だった。何だか突然カラオケ屋か何かを借りた感じで、食堂とは思えない空間だった。そこで働いている店員女子も、華人ぽい人はいないが、果たしてタイ人なのだろうか。店名は『巴生桥底』と書かれており、これはマレーシアのクランにあった有名な肉骨茶屋と同じであった。どうやら親戚が出てきてこちらで開業したらしいが、今もその人々が経営しているのだろうか。残念ながらこの店の歴史を聞くことはできなかった。

ちょっと待っていると、いきなりドライバクテーがやってきた。10年前にKLで食べて以降、今や普通のメニューになっているが、これは本格的で美味い。しかもつけ汁が別の椀で付いてきた。それからぐつぐつと煮込まれた熱々の肉骨茶も土鍋に入ってやってくる。中身は豚足で、味は私の好みだった。葱油飯と一緒に食べると余計に良い。ただかなりの時間食べて、しゃべっていたが、残念ながらお客は殆どいなかった。次回この場所にあるのだろうか。ちょっと心配になる。

帰りもGrabで車を呼び、プロンポンまで行った。距離的にはそれほど離れてはいないが、ソイの狭い道は渋滞しており、なかなか前に進まない。バンコクは10月から完全にポストコロナ時代に入ったが、渋滞も元々に戻ってきており、もう油断はできない。

10月21日(金)ついに王陽春茶行へ

2020年3月、バンコクでももっと古いかもしれない老舗茶行を発見した。その店の娘さんと話し、『茶行の歴史はお母さんに聞いて』と言われ、翌日再訪するつもりが、何とコロナによる都市封鎖が迫り、敢え無く国外避難となってしまった。そして2年半、先日店に行くとちゃんと営業していてホッとし、電話連絡で会う日を確定させ、いよいよ話が聞けると楽しみにしていたが、何と前日に家族がコロナ感染、約束はキャンセルとなってしまった。その後コタバルで劇的に電話を受けて、今日ついにその日が来た。

バンコク滞在記2022その6(1)近所の食事と地獄のメール削除の日々

《バンコク滞在記2022(6)》  2022年10月16₋10月24日

10月16日(日)メールが詰まった

実はここ2か月ほど、Webチェックインしたチケットがメールで送られてこないという現象があった。当然空港会社側の問題だろうと問い合わせていたが、理由が判明せず、一方奥さんに聞いたところ『あんたにメール送ってもボックスが一杯いって出ている』と言われた。慌ててメールボックスを見ようと思ったが、もう何年も見ていないのでログインに苦労する。

何とか入って見てみたら、何とボックス内に27万以上のメールが溜まっていた。正直驚いたが、確かに私はGmailを使って受信をしており、そちらで不要になったメールは削除しているつもりでいたが、本家の方を削除していたわけではなかったのだ。もう10年以上の渡るゴミメールで詰ってしまったようだ。それにしても、27万ものメールを受信した覚えもなく、これまでに大量の不正メール、広告メールを無視してきたつけが回ってきたことを初めて知る。

とにかく開通に向けて作業をしなければならないが、それには何と必要なメールとゴミを区分けする必要があり、一気に削除することはできず、1つの画面に30個ずつあるものを地道に消していく作業をすることになってしまった。ただどう考えても、気が遠くなるような作業であり、どこまでやったらメールが開通するのかも分からない。どうすればよいのだろうか。取り敢えず本日より修行のようにひたすら消し続ける日々を送ることとなる。

何となくだが体調もすぐれない。旅から戻っても食べたい物が食べられず、八番らーめんなど、優しい食べ物で凌ぐ。今日もフードコートでベトナム雑炊のようなものを食べてみたが、物足りなくなり、肉まんと焼売を買い込んで帰る。最近こういう食い物の味が良くなっているように感じられる。

10月17日(月)、18日(火)、19日(水)近所の食事

お昼に久しぶりにYさんとランチする。まだ体調万全ではなかったので、おばさん三姉妹の店で鶏麺を食べる。何とも優しい味でよい。昔は常にコーラを飲んでいたYさん。三姉妹は今でもYさんが来るとコーラを持ってくるので、飲まざるを得ない。これが常連というものだろう。

午後もゆっくりと過ごし、夕方外へ出た。やはり和食でも思ったが、すき家があったので牛丼を食べる。これは安上がりな和食だろう。空いている時間、スタッフはワンオペでちょっと大変そうだが、元気に働いている。これで110b、チップ無しとは有り難い。

翌日の昼もYさんとランチ。今日は少し回復したので、バスターミナル脇の食堂でかなり食べる。ラートナーがあると聞き、注文してスープのように飲む。ラートナーはスープ兼主食として、この辺の労働者は食べている。ガパオライスは日本ではなぜか有名だが、バンコクで食べる機会はあまりなので、わざわざ作ってもらった。如何にもご飯のお供、という感じで、主菜にはなりえない。

夕方いつものようにブドウパンを買いに出ると、信号の向こう、タイヤ屋が麺屋になっていたので、思わず入る。ここの麺が好きなのだが、常設ではなく、思い出した時に店を開くようで、なかなかありつけない。タイヤを見ながら麺を啜るのはやはり特別感がある。

その翌日は元気も回復し、朝からコムヤーンを食べる。何だか肉を焼く煙を見るだけで幸せになれる不思議な空間がそこにある。おばさんがいつもと変わらない表情で、焼き鳥を焼いている姿が何とも微笑ましい。

何と3日続けてYさんとランチする。こんなことは珍しい。Yさんは会社から支給されるお弁当をどうしているのだろうかと心配になる。ランチのレパートリーも尽きてきたので、いつもの食堂へ。ここでもラートナーを初めて頼むと、思った以上に美味しく、なぜこれまで頼まなかったのかと後悔する。いつも食べる食堂の食事は安定の味、何とも好ましいし、懐にも優しい。

タイ最南部からマレーシア2022(7)ナラティワート おじさんとビーチへ

10月14日(金)おじさんとビーチへ

朝飯がないのでふらふら散歩していたら、華人の店でジョークが出ていた。焼売も頼んでみると、こりゃ何とも美味い。華人オーナーは華語も話したので、何となく楽しい。中国茶をゆっくりと飲んで、70b。これならもうホテルの朝食など今後は不要だな、と思う朝。

店を出てまたフラフラしていると、何と昨日の(英語で話し掛けてきた)おじさんと遭遇する。どう見ても悪い人では無さそうだったので、案内してくれると言われるがままバイクの後ろに乗る。まずは近くのボートレース公園へ。ここは広々としており、年1回は前国王も訪れていたらしい。

更にマナオビーチへ。バイクで15分(歩いたら結構ある)。非常にきれいなビーチだが、人はほぼいない。おじさんがお茶とお菓子を買ってくれるというピクニック気分の展開。公園を掃除している人に挨拶。その先には何故かアメリカ人女性が一人で海を見つめていた。聞けば親族がここで英語教師をしているらしい。更にはヨーロッパ人男性もいた。タイ人女性と結婚しているとか。ある意味で秘境であるこの地に憧れる外国人もいるということだ。

海を見ながら、おじさんとイスラムについて話す。この地域はタイ南部のイスラム地域で、日本では危険視(渡航中止勧告地域)されているが、決してそんなことはないという。更には日本と日本人が大好きで、いつか日本へも行きたいともいう。甥は既に2回日本へ行った。日本人に是非ナラティワートを知ってもらい、来てもらいたいといい、写真を撮りまくり、LINEで知り合いに送り続けている。このおじさん、誰とでも気さくに話すのは素晴らしく、タイ国内から来た人々とも記念写真を撮っている。

帰りも軽快に走っていたバイクが突然パンクした。これは困った、どうするのかと見ていると、まずは人家のある所へ行き、人を選んで助けを求める。電話してもらうと修理屋がすぐに来てくれるのはすごい。今日は金曜日でお休みだったが、特別に修理してくれた。150b。こういうコミュニティーは素晴らしい。ホテルまで送ってもらうと、おじさんはホテルのボーイとも知り合いで、私のことを頼んでくれた。何とも有難い出会いだった。

宿で12時まで休み、チェックアウトしてランチへ。あまり食べる所はないので、結局一番近いムスリム系食堂へ思い切って入ってみる。言葉は通じないがとても親切で助かる。ちょっとピリ辛な牛雑スープとライス、そして卵焼きもいるかと言われて頷く。75bで大満足。 

午後1時、宿に頼んだ送迎ミニバスが到着する。乗っていたのは5人(家族)だけ。一人80b。20分で空港まで来てしまった。実はナラティワートには公共バスもなく、空港に行けるタクシーを見付けるのも大変。ホテルで聞くと乗り合いバスがあるというので乗ってみたのがこれ。快適だが、フライトまではさすがに早すぎる。

空港には公園のような場所があり、家族連れが芝生で食事するなど、多くの人の憩いの場になっていた。そして空港入り口はなぜか人でごった返している。まるでインドの空港を見る思いだ。空港内に入っても人が多いのはなぜ?実はこの飛行場はエアアジアとタイスマイルの1日2便しかないはずで、しかも今日のエアアジアは既に飛んでしまったのだが。 

よく見るとチェックインカウンター脇には、同じバックを持った団体が並んでいる。もしや巡礼の旅に出るのだろうか?大勢の人々はその見送りか?などと想像するがよく分からない。更に横を見ると僧侶が4人もいる。ちょっとカオスな状況だった。私はWebチェックインして、チケットはスマホに入っていたが、何とスマホ搭乗券はダメと言われて、カウンターに取りに行く羽目に。

やはり警戒態勢は厳しいと感じたが、荷物検査スタッフなど、そこで働いている人はとても明るく、ナラティワートの人々のフレンドリーさが出ている。中には日本語を使ってくる人までいて驚いた。1時間ほど待って飛行機がやってきて、歩いて搭乗する。意外と大きな機体だったが、搭乗率8割?でかなり混んでいた。

1時間20分でスワナンプーム空港まで飛んでいく。実は国内線でスワナンプームに降りたのは初めて?ではないだろうか。出口が分からず右往左往する。歩いていると途中で搭乗者とすれ違い、更に混乱をきたす。入国審査もないのにかなり緊張してようやく外へ出てバンコクに戻った。

タイ最南部からマレーシア2022(6)ボートでタイ国境へ

10月13日(木)ナラティワートへ

宿で朝飯後散歩に出た。ホテル敷地内に石碑を発見するも入れず。スタッフに説明して頼んで無理に入れてもらう。漢字の碑が建っていたが、何なのかは誰にも分からない。そして突然のにわか雨に襲われ、部屋に逃げ帰る。

1時間で雨が止む。宿を出てバス乗り場まで歩く。10:15のペンカランクボール行、料金3.2mrは定刻に出発した。乗客は4人。車内は冷房がきつかった。途中道路工事があり、またかなり郊外に中国系の寺が2‐3見えた。約1時間かかってペンカランクボールに到着。もう海の横だ。

皆の後について行くと、イミグレの建物がある。非常に簡素。出国手続き後トイレに行きたくなり聞いてみると戻っていいと言われ、またイミグレを通過。何とも親切で有難い。その先は川を渡ればタイ側だった。ボートかフェリーかを選択。ボートが速いと言われ、3mr払う。フェリーは車なども乗せるのでゆっくりのようだ(1mr)。

数人が小型ボートに乗るとすぐ対岸へ。2‐3分で到着。だが思いの外、イミグレは混んでいる。窓口は一つしかなく地元民10人以上が待っていた。おまけに陸路入国はイミグレカードも必要で取りに行く。知り合いなのかマレー人の横入りもいてなかなか進まず。ようやく私の番が来ると係官はゆっくりとパスポートを眺め、そしてPCを見てから、『陸路3回目、ここは通れない』と言い出す。

私もノービザの場合、タイは年に2階しか陸路入国を認めていないことは知っており、その上で今回2回目を使おうとしたので、その拒絶には驚いた。懸命に説明すると何とか分かってくれ、すごい時間をかけて確認後ようやくハンコを教えてくれた。だが後ろで待っていたマレー人が怒りだした。その気持ちは十分に分かる。

タイ側はタクバイという名称の街だった。国境を歩いて出ると、バイタクからの声が沢山かかったが、全て誘い断ってソンテウを探す。何と国境付近では頼みのGrabは使えない。バイタクは40㎞、300bはかかる上、そんな時間高速のバイクに乗っていては体がもたないと思った。

何とかソンテウの居場所を発見したが、いつ出るかも分からない。運転手に話し掛けると、200b出せば、今すぐにナラティワートへ向かうという。これは安いのではないかと思い、その誘いに乗る。運転手はシンガポールに出稼ぎに行ったことがあり、その時日系企業で働いたらしく、日本びいきだったが、それ以上の英語会話は続かなかった。

40㎞は平たんないい道だったが、やはりバイクではきつかったろう。途中で乗客も乗ってくるなど、この辺の交通手段がどうなっているのか分からなかった。ここからハジャイや南部三県へ道は繋がっている。約1時間で街に到着。直前に調べたタンヨンホテルまで連れて行ってもらった。何とも有難い。

このホテル、朝食なしなら1000b。部屋は広くて開放的。ベランダがあり、強い西陽で濡れたい服が乾くのが良い。宿の前の中国系食堂で麺を食す。コーラで国境越えに乾杯、70b。残念ながら華語は通じなかった。

食後ビーチの方へ歩いて行く。広い公園にいい風が吹いている。家族連れ、カップルがランチを食べているが、ビーチで泳ぐ者がいないのは、ここがイスラム教圏だからだろうか。子供が波で遊んでいるだけだったが、何となくゆったりした気分になる。子供向け電車も走る。

帰りにモスクに寄ると近代的な建物だった。その先で突然おじさんに英語で声を掛けられる。何だかとてもフレンドリーで、日本が大好きだと言っていたが、この人は誰なんだろうか。更に行くと立派な時計台があった。タイ国内でも、ミャンマーなど他の東南アジア諸国でも、時計台を見ることは多い。なぜアジアの街に時計台があるのだろうか、というテーマで調べた人はいないだろうか。

一度宿で休息し、夕方夕飯を探しに出たが、食べるところはなかなか見つからない。そんな中、ハンバーガーを売る屋台を発見。若者2人でやっているのだが、何と日本サッカー協会と書かれたエプロンをしているではないか。話し掛けると英語も上手くて、『札幌』と言えば『コンサドーレ』、『アントラーズ』と言えば『鹿島』という感じでJリーグにかなり詳しい。さっきのおじさん同様日本大好き。思わずハンバーガーを購入。ついでに近所でフライドチキンも買う。合計68b。テイクアウトして部屋で食う。しかしこの宿、夜2時まで音楽が鳴り響き、うるさい。

タイ最南部からマレーシア2022(5)コタバル散策

10月12日(水)コタバル散策

朝ご飯は前回同様ルーフトップで食べる。お粥が旨い。本当は外で食べたかったが、既に日差しが強くてとても暑く、座ってはいられない。9時過ぎに戦争博物館へ向かった。6年前のリベンジ、旧憲兵隊司令部。前回お休みだった博物館にとうとう入った。入場料2mr。係の女性が何処から来たのか聞くので、『日本』と答えると、彼女は大きく頷きながら中を指した。

館内の展示をゆっくりと見た。第1次大戦で英国に連れていかれヨーロッパで戦死したマレー人がいた。山下奉文の隣に牟田口廉也が登場した。銀輪部隊についても書かれており、パールハーバーより僅かに早く、コタバル上陸作戦が行われたとある。上陸戦はかなりの激戦で戦死した日本兵も多くいた。

三方より上陸してシンガポールを目指すのが日本軍の作戦だった。逃げていくイギリス軍に地元民は喝采したとあるが、それも長くは続かなかった。途中からは抗日運動も起こり、そこでまた悲劇が生まれる。博物館の後方には飛行機、戦車なども置かれている。我々はコタバル上陸作戦をもう少し知る必要があり、その後の日本軍がマレー半島で一体何をしたのか、もっと知るべきだろう。

外へ出て、何となく歩き出す。ふと、マレーシアリンギをあまり持っていないことに気が付いて、銀行を探す。銀行のATMに銀聯カードを突っ込んだが、お金は出てこなかった。慌てて銀行の人に聞いたが、よく分からない。もう一つの銀行でも銀聯が使えないことが分かり、愕然となる。と同時にこの街が中国人観光客の来るところではない証明を見た思いだった。

結局地元系銀行は無理で、かなり歩いてHSBCのコタバル支店でリンギットを何とか確保した。ついでに街の両替所の場所を聞くとKBモールという徒歩20分かかる郊外のビルにあることが分かった。折角なのでモールまで歩いて行く。途中で旧バスターミナルを発見、ここから国境行のバスの存在も発見できてよかった。それにしても市内で両替所はここしかないのか??モールにお客は殆どなく、小学生が遠足に来ている以外は、閑散としていた。 

宿まで歩いて帰り、荷物を持ってリバーサイドのホテルにチェックインした。ところがなんと5時前まで部屋のエアコンが使えないというではないか。結局10mr割引してもらい、 1泊朝食付218mr。部屋は広く、リバービュー全開。おまけに室内は冷房の残りが効いており、涼しく快適で問題なし。

外に出て昼ごはんを探すがなかなか良い所がない。よく見るとチキンが下がっている店があったので入ってみたら、食堂は隣だと言われる。隣はかなり立派なレストランで、きちんとした身なりの人々が食事している中、場違いな格好でチキンライスを食べる羽目になる。料金は11.5mrとそんなに高くはない。

食後に出てきたティーはミルクなしで、甘い。周囲を見渡すと、基本的にヒジャブを被った女性たちが食事をしているが、なぜか身なりの良い男性4人も登場し、私とは違った場違い感を出している。まあイスラム世界では酒を飲まないのが私にとってはとても良い。

午後はイスラム博物館でイスラム教がこの地に伝わった歴史などを勉強。ついでに隣の州立モスクを見ると非常に美しい。思わず何枚も写真を撮る。ここに来ている人は皆優しい顔をしているのが印象的。更にその隣は王宮博物館。その建築美は素晴らしいが、室内の展示は王室関係ばかりだった。その隣には今も使われている王宮があるがここは立ち入り禁止。もう一つケランタン州博物館まで歩いて行ってみたが、現在改装中で入れず。

疲れたので宿に戻り、大きな窓から川を眺めて休息する。これは何とも落ち着く。4時前にはエアコンも復活。少しずつ降りてくる夕日を見ているのは幸せだった。涼しくなったので夕飯を探しに外へ出たが、いい所が見付からず困る。川沿いに屋台?が出ていたが、川だけ眺めて宿に戻り、結果クラブサンドイッチをルームサービスして、部屋で夕日を眺めながら食べる。何とも贅沢な時間。6年前を思い出す。暗くなると川も見えず、川音だけが静かに聞こえてくる中、深い眠りにつく。

タイ最南部からマレーシア2022(4)ペンカランフールーからグリー経由コタバルへ

するとそこにちゃんとタクシーが1台いるではないか。インド系男性が英語で話し掛けてくる。『コタバルならグリー(Grik、宜力)からバスだな』というと中華系のお爺さん運転手に指示を出す。70mrと言われるが、どのくらい遠いかもわからず、他に選択肢もなく、タクシーに乗り込むしかない。このお爺さん、山道をすごい勢いで飛ばす。100㎞は出ており、対向車などもほぼなく、45㎞の道のりを1時間もかからずに走破して、グリーに到着した。因みに顔は中華系だが、華語は分からないようだった。マレーシアも奥深い。

しかしコタバル行バスチケットを買おうとブースに進むも何と言葉が通じない。マレー語しかできないのだ。何とかコタバルは分かったようで12という英語を何とか話す。だが実際に29mrで購入したチケットには12時半とある。まだ10時半(マレーシアとタイは時差1時間)で、何と2時間バスはなかった。まあ、これも想定内だったが。

仕方なく街歩きでもして過ごそうかと思ったが、何とここがどこか分からない。タイを出る時、タイのシムでローミングを買うのを忘れてしまい、スマホが機能しないのは誤算だった。どこかでマレーシアのシムを買わなければならない。思い付いたのがコンビニ。確か数年前一度シムを買ったことがある。

バスターミナルの横にセブンがあり、確かにシムは10mrで購入できた。だがアプリをダウンロードして登録を済ませないと使えないのだが、なんとそれにはWifiが必要だった。ヒジャブを被った従業員の女性は英語が出来、この状況で自分のスマホからテザリングしてセットしてくれた。本当に感謝しかない。日本ならどうするだろうか。あまりに有難いので、記念に写真を撮らせてほし渡いとお願いしたが、それは拒否されてしまった。

グリーの街歩きを始めたが、予想より小さい街だった。それでも意外と人口はいるようだ。 華人と漢字も目立っており、立派な福建会館も見られた。華人はどんな所にでも根を下ろしており、すごいとしか言いようがない。観光するべき場所は特にないのに、ホテルはいくつもある。なぜだろうか。食堂からいい匂いがしていたが、食事はバスに乗るので控える。

12時半になってもバスは来なかった。まあ想定内の20分遅れで到着したから良しとしよう。それにしてもペナン島から来たこのバス、先客は僅か1人。私ともう一人が乗り込むが、完全自由席で、車掌も暇そうにしている。ともあれ、バスが走り出したのでホッとした。

最初バスはかなりの山の中を行き、スマホは使えなかった。景色もよく見えなかったが、 途中から山を越え平地へ。後はひたすらコタバルを目指すのみ。特に休憩はないが、運転手は時々意味なく止まる。説明もないので理由は分からない。休息とは思えない。乗車する人などもいない。なぜ?

コタバルで

結局3時間半ほどかかってコタバルに到着した。以前は街中までバスが走っていたが、今回は郊外のバスターミナルで降ろされる。ここから歩いて予約した宿へは行けない。またなぜかマレーシアではGrabが使えないと思い込んでしまっていたため、飯を食べているやる気の無さそうなタクシーに頼んでしまう。宿まで5分で到着したが、料金は20mr。さっきのバスが3時間半乗って29mrだから、何とも割り切れない思いだ。

クリスタルロッジ、6年前よりロビーがきれいなっており、当然ながら料金も高くなっていた。なぜか10mr割引してくれたが、それでも1.5倍か。部屋は少し広い所になっていたが、 5階の奥まった部屋で、廊下の電気がついておらずドアのかぎが見えないほど暗い。部屋で充電しようとしたが、コンセントが合わず。マレーシア事情を、完全に忘れている。フロントでアダプター借りる。応対は親切でよい。

ついでにタイ側へ行く方法を聞いたが、『ランタウパンジャンへ行け』と言われる。初めて聞く地名で戸惑い、Grabで調べてみると75mrもかかる。かなり遠い。以前ネットで見た時は、ボートで渡れる国境があると書かれていたが、そんなところは知らないという。まあ、ゆっくり調べよう。

川沿いに行くと夕日がきれいだった。6年前の記憶が急速に蘇る。私はこの夕日を見るためにここへ戻ってきたのだろうか。街中はとても静かで歩いている人もほとんどいない。海南会館、福建会館の建物はあったが、華人食堂は閉まっているところも多く、確実に華人の影響力が弱くなっているのを感じる。

腹が減ったが適当な店が見付からない。ちょうど屋台のような店があり、中を覗くとヒジャブを被った女性と目が合う。マレー系だが英語のメニューもあり、彼女の英語も上手い。お勧めを聞くと、ナシゴレンカンポン(小魚入り)と言われ、食べてみると確かに美味いし、何となく懐かしい。6mrと甘いミルクティー2mrで満足。部屋に帰ってゆっくり休んだが、夜また赤蟻が登場して、かゆくて眠れなくて困る。

タイ最南部からマレーシア2022(3)早茶を食べて国境へ

ランチを食べていなかったので昨日の店へ行く。食べたかった豚足は残念ながら売り切れており、チキンとチャーシュー半々のライスを頂く。60bでこちらも満足する。この店の人達、みんな華語は得意ではない。広東系の一家なのだろうと理解した。 

午後は郊外のモスクに向かって歩き出す。大通り沿いには、4階建ての福建会館、広西会館、八桂会館が並んでいる。いずれも立派だ。広西会館前にお婆さんが座っている。話し掛けると華語はかなりうまい。両親が広西から70₋80年前に渡ってきたという。当時林業など仕事は何でもあった。おばあさんはここの生まれ。広西系はベートンの一大勢力らしいことが分かる。

歩くこと20分。郊外にようやく小さいモスクが現れる。ハラール料理の店が見える。ベートン人口の半数はイスラム系と聞いていたが、そのプレゼンスは大きくないように見えた。ただヒジャブを被ってバイクに乗っている(3₋4人乗り)女性がやけに目立つ。所謂タイ人らしき人はほぼ見られない。

夕方外を歩いているとあの市場の傍でタクシースタンドを見つけた。昨日旅行会社の女性が言っていたのはこれか。だが国境まで乗せてくれというとやはり300bだという。これは完全に価格統制が敷かれている。更に行くとロットゥもあることが分かる。ただこれはハジャイまで行くもので、5時間かかるらしい。料金は280bで一日数本出ている。これしかこの街から脱出方法がないと分かり呆然としたが仕方ない。

夕飯は潮州系の焼麺を屋台で食べた。既に腹は一杯だったが、それでもいつものようにうまい。時計台のライトアップがきれいだった。部屋に戻り、ちょっとPCをいじってすぐに寝る。夜はぐっすり10時間寝られた。昨晩の睡眠不足を一気に解消する。赤蟻がいない、窓がない、そして電気ポットがなく、お茶を飲まなかったことが安眠に繋がった。

10月11日(火)マレーシアへ

朝6時前起床。気持ちの良い朝。ベランダから街を眺める。ドミトリーに泊っていたタイ人女性もヨーガのポーズで景色を眺めている。旅行でバンコクからソンクラーへ飛行機で行き、そこからレンタカーを借りてここまで来たらしい。もう一人男性がいた。パッタニ県でカフェを経営しており、ここに2店舗目を出すべく、視察に来たらしい。パッタニもベートンも彼にとって極めて安全な場所だという。二人とも英語が旨い、慣れた感じの旅人だった。

朝ご飯に出掛ける。目をつけていた早茶屋、6時半ですでにほぼ満員。何となくおじさんの集まり(奥さんや家族にはお土産持ち帰り)が多い。自分で点心を選んで蒸してもらう。 1皿15b?店主に華語で菊普茶を注文。美味い(砂糖も入っている)。叉焼包、チャーシューと言ってしまうと広東語が飛んでくる。ゴーヤー肉団子巻きが渋い。全部で100bの極めて優良な朝ご飯は、満足な上、何とも楽しい。

8時前に宿に戻ると、宿の女性が待っていてくれた。コロナ禍でカフェとホテルを開いて大変だった話などを聞いていると、彼女が予約してくれたトゥクトゥクが登場した。たった 5㎞で国境へ行けるのに300bも取られるのは納得できないが、Grabなども使えない国境特有の料金設定で他の手段はない。

トゥクはあっと言う間にタイ国境に到着したが、誰もいないので出国審査は実に簡単に終わる。中立地帯へ出たが、誰もいない。その途中までトゥクで行けたが、マレーシア側手前で降ろされ、その先は歩いてイミグレへ。立派な建物が見えるが人も車もほぼ見えない。僅かに石碑が見えたので行ってみると、1968年の反共闘争で命を落としたマレー側の人たちを追悼するものだった。この辺にこの付近の歴史がにじみ出て来る。

ペンカランフル、と書かれたマレーシア側国境。マレーシアからの観光客がバンで1₋2台来ているだけで、マレーシアに入国するのは私だけ?だった。スマホアプリもワクチン接種証明も提示など求められない。ただ『どこへ行くの?』と聞かれたので、取り敢えず『コタバル』と答えると、イミグレのヒジャブを被った女性は一生懸命行き方を考えてくれた。こんな国境初めてだ。

彼女は最後に『向こうにタクシーがいるはずだから相談して』と入国スタンプをサラッと押す。こんな誰もいない所にタクシーなんか本当にいるのかと不安が過ったが、まだ午前中なのでかなりの余裕をもって歩いて行く。