ある日の台北日記2023その2(3)紀州庵とコーワーキングスペース

公園の庭が意外と広かったので散歩していると、何となくこの近くが昔の川端町だったと気づく。公園の裏手はやはり川だった。そこを歩いて行くと、何やら日本時代の建物が見えた。紀州庵とある。中に入り見学していると、確かに聞き覚えのある名だった。日本時代の料亭、官僚や商人などが毎夜宴会を開いた場所だった。その隣には現代的なビルが建ち、文化基地として、整備されていた。

更に歩いて行く。私の目的地は、あの日月潭で最初に紅茶を作った男、持木壮造の家があった場所だった。当時は川端御殿とも呼ばれ、池のある日本庭園を持ち、鳥居まであった豪邸だった。ここで壮造は晩年を過ごし、終戦の前年亡くなった。現在その場所は完全には確定できない。勿論痕跡などない。それでもこの地の雰囲気を味わうだけでも意味があった。

一度宿泊先へ帰り休息。夜は30年前私が働いていた場所の付近を散策した。勿論大きく変わっているのだが、その建物自体は以前の様子を留めていて何とも懐かしい。そこから少し離れた食堂で、Sさん夫妻と夕飯を食べることになっていた。Sさんとは北京以来実に久しぶりに会いましょうということで約束していたが、先週の会で既に会ってしまって驚いた。相変わらず世界は狭い。

二空眷村小館というその食堂は、名前からして戦後外省人が住んで村を指している。空軍ということで、台南にあったらしい。木須炒餅など、あまり見たことがない料理名がメニューに並んでいる。味付けはかなりあっさりしており、日本人にも好まれているようだ。S夫妻は食通で知られているので、私などよりかなり深く吟味しながら料理を味わっている。同時にこの10数年のお互いの出来事を思い出しながら、会話が進み、何とも楽しい夜となった。

4月26日(水)

チャリティーに参加して

朝はミャンマーのティミックスを飲む。ミャンマーで飲むと甘いのに美味しいと感じるが、台北で飲むと、何となく腹が重くなるのはなぜなのか。11時に開店する近所の餃子チェーン店に行く。開店直後でお客もいないのに、オーダー受付のミスから始まり、何となく店員の態度もよくない。

折角好きな焼き餃子と酸辣湯を食べているのに気分は盛り上がらない。食べ終わった頃思い出した。3年半前もここのサービスは悪かったので、もう少し離れた別の店へ行っていたことを。何年経っても何も改善されていないが淘汰もされない店。ご近所の仲良しでもっているのだろうか、チェーン店の力だろうか?

夕方中山駅まで行く。ホテルオークラの隣にきれいなビルが建っている。その中にコーワーキングスペースが新しくできている。そこの責任者が旧知のTさんということで、見学に行く。セキュリティーが厳しいので入るのに苦労したが、とてもきれいで快適なスペースがそこにあった。

会議スペースや個室なども充実しており、多くの利用者が思い思いのスタイルで仕事をしていた。私のようなノマドとも呼べないフラフラした人には、ご縁はなさそうだが、料金プランなどもきめ細かく、快適な仕事空間を簡単に確保したい人にはお勧めかもしれない。私はオンラインセミナーの時など、Wifi環境が良いので使わせてもらおうかと考えている。

Tさんと出掛けた。天母の方へ行くらしい。車に乗せてくれる人がいるというので有り難く乗る。運転者であるUさんとは初対面だったが、台湾在住40年近いとのことで、僅か5分で多くの共通の知り合いの名が出て来る。その中にS銀行のTさんが登場してとても懐かしい。彼が蝶々を取りによく埔里に行っていたこと、私が数年前埔里を拠点にしていたことを話し、俄然話しは盛り上がる。

ある日の台北日記2023その2(2)有記銘茶の出会いと客家文化

それから茶旅散歩を始める。私は何度も通った貴徳街をフラフラとご案内。徳記ビルが無くなっていたり、錦記茶行のビルの横に案内が張られたりと、ちょっとした変化がある。そして何となくKさんが行きたいというので有記銘茶まで歩いてみる。中に入ると、やはり奥の焙煎室を見学する。

そこになぜか子供が走ってきた。母親が追いかけてきたが、その言葉は日本語だった。観光客かと思ったら、何と有記の親族だという。ご主人がやってきたので華語で聞いてみると、何とバンコク王有記の息子だった。そして『バンコクの店に3回行ったが、オーナーには会えなかった』というと、『親父は今そこにいますよ』というではないか。

何ということだろうか。紹介されたバンコクオーナーは王有記の4代目の弟さんだった。理由は分からないが兄と一緒に台湾に来て、途中でバンコクに戻り、ヤワラーに店を開いたらしい。初めは不審に思っていたようだが、私がバンコクの茶荘のいくつかと接点があることを話すと『あそこのおじさんは元気かな』などと日本人の私に聞いてきて、周囲の人に笑われていた。

店に集まっていた10人ほどの人は実は全て有記の親族だった。彼がバンコクから来たので集まったのであろうか。一緒に写真を撮る。最後に老人が写真に入ってきた。それが有記の4代目だとは最初気が付かなかった。後で分かったことだが、この1か月後に4代目は亡くなった。親族が集まっていた、バンコクから弟が来た、というのは、4代目にお別れをするためだったのかもしれない。非常に劇的な場面にまた遭遇し、Kさんは目を白黒させていた。

そして夕飯を食べるべく、タクシーに乗る。頼さんのお知り合いの女性と和食屋で定食を頂く。何だかよく分からない展開になっている。今晩は彼女のサロンで鉄観音茶を飲む予定になっていて、それに参加する。鉄観音茶を持って現れたのは、木柵の鉄観音茶屋さんで働く人だった。台湾の鉄観音の歴史はもう少しやるべきかもしれない。

4月25日(火)

客家文化公園と紀州庵

午前中はお休みして、昼に銀行へ行く。両替が目的だが、意外と人が並んでおり、待たされる。台湾人は世界中に口座を持っているらしい。色々な話が断片的に聞こえてくるが、その内容は、アメリカやイギリスからアジアまで、かなりワールドワイドで面白い。私の番がようやく来て両替したが、やはり両替目的などを聞かれてうっとうしい。これからは空港ですべて両替しよう。

銀行の近くに客家文化会館という名称の建物があったので寄ってみた。てっきり客家関連の展示でもあるのだろうと思いキョロキョロしていると、受付の女性ににらまれる。聞けばここは事務所だけで、一般人が見学に来るところではないらしい。もう一人の女性が『客家文化公園』の場所を教えてくれたので、突然行ってみることにした。

MRTで台電大楼駅まで行く。歩いてすぐに客家文化主題公園が見えた。実に立派な建物だった。だが中に入っても人はいない。係の人がようやくやってきたので、『客家と茶』について聞いてみたが、2階に簡単な展示があるだけだという。取り敢えず2階に上がり展示を見てみると、客家文化の内容はありきたりで、スペースだけがやたらと広いと感じてしまった。

お茶についても東方美人のいつもの説明書きがあり、また客家擂茶など、客家と関連の薄いものが客家文化とされており、ちょっとびっくり。1階の係の人は『もし必要があれば専門家に聞いて返事します』というので名刺を置いてきたが、そのご返事はなかった。桃園のあたりには客家茶文化館というのも出来ているらしい。次回はそこを訪ねてみよう。

ある日の台北日記2023その2(1)約束の地で

《ある日の台北日記2023その2》  2023年4月22日-28日

4月23日(日)昔話をダラダラと

台中から戻ると台北は涼しいなと感じる。NHKのブラタモリを見ていたら、何と下北沢特集で斎田博物館と共に荏原茶が紹介されている。この番組は時々予想外の話題を取り上げるのが面白い。荏原は私の本籍地。私と茶はこれまで全く無関係と思っていたが、何か出て来るのかな。

今日は天気が良く、かなり暖かい。台北駅までMRTに乗り、そこから歩いてみる。昨日の台中駅が完全に東南アジア化していたので、もしや台北駅周辺もそうかと思ったのだが、さすがにそうはなっていない。やはり台鐵と高鐵の駅が離れているところでは、台鐵側にその傾向がみられるということらしい。

駅の近くに公園があった。逸仙公園と書かれた向こうには孫文の像が見える。ここは孫文が台湾を訪れた際、宿泊した宿の跡らしい。梅屋敷、大和宗吉という人物が経営していた旅館、高級料亭だったとある。建物が一部保存されており、中に入ると、孫文関連の資料や写真が多く展示されている。庭園も整備されておりきれいだ。こんなところにこんな静寂な空間があるとは全く知らなかった。

そこから長春路まで歩いて行く。本日は長年のお知り合いであるBさんと会う予定になっていた。Bさんは俳優業や音楽業で忙しいなか、時間を取ってくれた。牡蠣の店に入ったのだが、彼は昨晩飲み過ぎて二日酔いらしく、粥などに少し手を出しただけで、ほぼ私が食べてしまった。何だか最近とみに食欲が出ていて怖い。

場所をスタバに移して、話を続けた。コロナ禍の3年の間のお互いの出来事などが話題に上る。彼は本も出版しており、1冊頂戴した。さすがにこの歳になると色々と体もきつくなる。また周囲の人々との付き合いなども徐々に変わっていくので、その辺について率直に話せる相手は何とも有難い。話は何となくダラダラと続いて行き、気が付くと4時間も経っていた。体調が悪いのに付き合ってもらい、何とも恐縮だった。

彼と別れて歩き出すと目の前に鳥居が見えた。これが林森公園にある明石元二郎の鳥居だろうか。先日福岡へ行き、明石の記念碑を眺めたことを思い出す。そもそもここは光復後外省人が住むバラックが立ち並んでいたのではないだろうか。1990年代、奥さんに頼まれて出張の際に、良くここでCDを買ったのも懐かしい。今家族連れなどは楽しそうに遊んでいる。

何となくフラフラ歩きたくなる。私が30年前に住んでいたマンションは既に姿が見えない。更に行くとその頃お世話になった会社の本社が見えたが、老朽化で改築待ちだった。その1階にあったファミレスも既に営業を停止してだいぶん経っている。この辺がコロナの影響だろうか。宿泊先の近くまで来ると、昔よく泊まったホテルが見えた。その先のパン屋であんパンを買う。腹も減ったので、魯肉飯と排骨酥を食べて帰る。

4月24日(月)劇的な出会い

ちょっと疲れたので午前中は休息。昼に大稲埕方面に出掛けたので、先日行き損ねた金春発でご飯を食べることにした。ところが何と月曜日がお休み。ショック。仕方なく近所のチャーハン屋で昼を取る。これが意外と旨い。スープの量はどこも多い。でも店名に炒飯とついているだけあってかなり満足する。

迪化街の廟のところでKさんたちと待ち合わせた。日月潭での劇的な出会いから3日、今度は台北で会う。大稲埕を茶旅散歩するはずだったが、既に買い物で消耗していたようで、取り敢えずお茶屋に入り休息する。雰囲気の良いお茶屋だなと思っていたら、ここは5年前『湾生回家』の黄監督とお話しした場所だったことを思い出す。お茶を飲みながらしばし昔を思う。

台中茶旅2023(3)台鐵で雲林へ

4月22日(土)雲林で

今朝も雨が降っていた。それでも駅近くを散歩する。市場では野菜や果物を買う市民が集まっていた。鉄道の線路を越えると、公園のようなところがある。よく見ると古い建物が建っている。帝国製糖廠、ここは日本時代の砂糖工場だった。今は展示館になっているが、まだ時間が早く残念ながら開いていない。それにしても立派な庭園があるものだ。

その向こう側にショッピングモールが見える。ここが三井のアウトレットパークだと聞き、驚く。日本時代、三井は日東紅茶などで台湾を攻め、今は不動産で攻めているのか。実は台中港付近にもう一つアウトレットがあるというから、中国から台湾に進行方向を切り替えている。

その更に向こうには、立派な市場の建物が見えた。建国市場は元気の良い所だった。雨でも濡れないのでここにもお客が結構いた。こんな駅の近くに色々とあるのはすごい。折角なので、ここで朝ご飯として、赤肉麺線を食べる。何だかお店の人がとてもやさしい。料金も優しいので嬉しい。

台中駅周辺は現在再開発が進んでいるということか。そしてまず駅舎が新しくなった。週末そこを歩いているのはインドネシアなどの外国人労働者というのが、台湾の将来を暗示している。そしてもう一つ気になったのは、多くのホームレスが駅で寝泊まりしていること。台湾も経済が良いとは決して言えない。

今日はまっすぐ台北に帰らず、雲林へ行く。区間車で約1時間かかるが、台鐵に乗るのは好きなので苦にはならない。乗客は外国人も多いが、何とか座れたのでゆったりと進む。雨も上がり、晴れ間も見えてくる。何とも揺れが心地よい。新烏日、彰化、二水など馴染みある駅を通り過ぎていく。

11時過ぎに林内駅に到着。ここから歩いて数分で張さんの店に着いた。コロナ中に新たな住居兼店を買い求めたらしい。初めて来たがすぐに分かった。店に入ると旨いお茶が出て来る。さすがは茶師。更には親戚が肉羹麺を買ってきてくれ、昼ごはんとして食べる。雲林の名物は肉羹麺と排骨飯。今回は麺にありついた。

張さんの車で林内神社へ行く。今も日本時代の鳥居や灯篭が残っている。神社までの階段は一体何段あるのだろうか。さすがに足では上がれないと、車で上がる。上から見ると、ここ林内は、南投、彰化との境目にあり、交通の要所と言える位置にあることが分かる。茶葉も以前はこの付近から鉄道で送られていたのだろうが、今や茶畑はほぼない。

土曜日の午後、店に戻ると親族が見ていた。張さんの1歳になる孫娘が可愛い。張さんもメロメロだ。私は今日台北に帰りたいというと、高鐵の駅が車で30分以内の場所に2つあるという。だが折角なので自強号に乗りたいと無理を言う。週末は席がないことが多いとは知っていたのだが、調べてもらうと空席があるらしい。

林内駅で指定席を買い、斗六駅まで車で送ってもらった。途中張さんが『この辺は中国大陸から戻ってきた工場がどんどんできている。それに合わせて労働者も住み始めており、人口は増えている』という。そんな情報、どこでも見たことがない。これがリアルな現状なのだろう。百聞は一見に如かず、ということだ。

斗六駅から電車に乗ったが、以前のような混雑は確かになかった。台北まで3時間20分、高鐵ならその半分で行けるだろうが、やはり旅情がある。新竹ぐらいから、立っていく客が出てきたが、満員電車という感じはなかった。本当は台鐵弁当を買って食べたかったが、満員を予想して遠慮した。台北駅に着くと妙に腹が減り、近所の麺屋で麺を食べて満足した。

台中茶旅2023(2)魚池で劇的に出会い、豊原へ

4月21日(金)魚池で

今朝はゆっくり目覚める。窓の下に台中駅が良く見える。8時半にはトミーが迎えに来てくれた。今日は久ぶりに魚池へ向かう。高速に乗ってちょっと行くともう埔里と魚池の境目まで来る。一体何度ここを通ったことだろうか。ちょっと時間があったので、そのまま魚池の街へ行き、王さんの茶工場、いやお茶屋さんを見学する。4年前はちょうど開店するところで、忙しくしていたのを思い出す。

ところが今や魚池で最も成功した茶業者となっていた。週末は5000人ものお客が列をなしてお茶を買いに来るらしい。ちょうど日月潭への通り道、その立地の良さと、彼のセンスでビジネスに成功した。彼のお父さんは造園業で成功しており、やはり血筋があるのだろうか。血筋と言えばお爺さんは林口茶業伝習所の卒業生で茶業に関わっていた人。残念ながら昨年亡くなられたと聞く。私が訪ねると喜んで迎えてくれた姿が忘れられない。

そして和果森林へ向かった。ここでデニス夫妻と森永紅茶の歴史について語り合うことになっていた。台中から台湾紅茶の歴史を研究する陳さんも駆けつけてきて、議論に加わる。やはり森永紅茶にはかなりインパクトがある。そして日本で森永紅茶復活プロジェクトが進んでいることを説明し、彼らもそこに参画したい、との希望があるようだった。そこで一度日本へ行ってプロジェクトメンバーなどとも会ってみてはどうか、という話なる。

昼ごはんはこちらで美味しいパスタをご馳走になった。旦那のスティーブは用事があると出掛けていく。そして食後の紅茶を飲んでいると、LINEでメッセージが入る。知り合いのKさんからだったが、何と送られてきた画像は和果森林の1階のショップのものだった。ということは下に居るのかと急いで降りて行ったがその影はなかった。電話すると、既に日月潭の方に移動したという。

我々も次の目的地が日月潭だったので、そちらに向かった。湖に臨む絶好の場所に新しいホテルが出来ていた。何とここのカフェを任されていたのが、以前茶旅にも参加してくれたチェスターだった。ホテルはまだ内装中だったが、屋上のバーからは日月潭が一望でき、ホテルの部屋もかなり豪華なもので、中には畳の部屋まであった。

カフェでは各種紅茶などを飲むことが出来、菓子類も充実しているようだった。取り敢えずこんな場所があることが分かり、ちょっと驚く。場所は文武廟の前だから、誰でもわかるだろう。そこへ先ほど連絡したKさんたちがやってきた。彼女とは何年ぶりだろうか。お互い台湾にいることすら知らなかったのに、何という偶然、いや必然だろうか。そういえば4年前にも香港で突然出っくわしたことがあったので、余程のご縁なのだろう。

Kさんたちはこれから豊原へ行くという。何とジョニーのところだと聞き、私も突如同行することとなり、トミーとはここで別れた。それにしても何という成り行きだろう。頼さんが運転する車に乗り、豊原へ向かった。頼さんは最近お茶の販売を始めた人だったが、昨年のエコ茶会でも会っていた。

突然豊原へ

車は1時間ほどかかって豊原に着いた。懐かしのジョニーの店。ここに来るのは久しぶりだ。彼はもうすぐ山の上の茶工場へ行くので、相当忙しいはずだが、Kさんのために時間を取ってくれていた。丁寧にお茶を淹れ、丁寧にお茶の説明をしている。会社の歴史についてもどんどん詳しい説明になっている。2時間ほどがあっという間に過ぎた。

夜は何といっても豊原の夜市へ行く。私が台湾で最も好きな夜市だ。まずは肉圓を食べてスタートする。肉羹は30分待ちの大行列。ジョニーが番号札を取っている間に、頼さんが菱角酥を買ってくれる。これもうまい。食べながら立って待っていると、どんどん客が増えてくる。ようやく順番が来て、肉羹にありつく。これはまた幸せなこと。

食後は歩いて泉芳茶荘へ向かう。夜遅いのにお母さんが『お茶飲んでいけ』と言ってくれる。お父さんの顔を見ることもできた。お母さんが今年の新茶を淹れてくれ、更には何とあの幻の鉄観音茶まで出してくれた。これはもう感激しかない。何と有り難いご縁で、有り難いお茶を頂く。素晴らしい夜だった。頼さんに車で送ってもらい、夜更けの台中へ帰る。

台中茶旅2023(1)茶の本の山に埋もれて

《台中茶旅2023》  2023年4月20日-22日

台北到着後、茶旅の相棒である台中のトミーに連絡したところ、この日なら空いている、と言われ、早々に台中まで行ってみる。彼も今や茶業界の大先生なので時間がある時に会っておこうと思う。

4月20日(木)3年半ぶりの台中で

雨の中、MRTで台北駅へ行く。駅の自販機で高鐵の切符を買った。だが高鐵の改札が通れない。おかしいと首を傾げると、隣の乗客が『ここはMRTの出口だ』と教えてくれる。何と自販機がMRT駅内にあったということをすっかり忘れていた。かなり恥ずかしい。高鐵は値上がりがなく、日本の新幹線の半額だ。客は意外と多い。1時間で高鐵台中駅まで行く。

雨が降っているということで、いつもと違う場所で待っていたトミーと再会。既にFacebookでは見ていたが、3年前と比べてトミーはすごく痩せていた。30㎏以上の減量をしたと言い、今はすごく軽い感じになっている。彼の車も変わっていた。まっすぐ彼の家へ行く。お父さんとお母さんが笑顔で迎えてくれた。

取り敢えずランチでも、ということで、以前も通った近所の小籠包屋へ行ったが、何故か閉まっており、初めて行くハンバーガー屋へ。ハンバーガーなんか食べて痩せられたのはすごいと思う。メニューを見ると金三角サンドイッチがあり、思わずそれを注文する。まだチェンマイ滞在を引きずっている自分がいる。

トミーとは3年半の溝を埋めるのにそれほど時間はかからない。ただ話したいことが多過ぎて収拾がつかない。お家に戻り、お茶を頂く。この後新しくできたお茶屋さんへ行く予定だったが、トミーが『実は最近姉が友人からお茶の本を大量にもらった』と言い出した。よく分からないが、まずはそれを見てからということで、2階に上げる。

驚いたことに段ボール3箱はあった。お茶関係者が亡くなり、その人が集めていた本が遺族を通じて回ってきたらしい。確かに必要のない人にとっては、場所を取るだけの厄介ものだろう。だがその箱を開けてみると、私には宝箱に見えた。そして何気なく一番上の本を開いて驚愕する。そこにはなんと『森薗市二』の名前があったからだ。これは著者が森薗に贈呈した本だった。まさかこんなところで会えるとは。この本により森薗が戦中台湾に滞在したことは完全に証明された。

それから約5時間、そこにあった本を片っ端から読み漁る。よくもこんなに集めたものだ。まずは何があるかを見ているだけで日は暮れてしまった。お茶屋さんに行く暇もなくなった。何とか切りの良い所で本を納めてホテルに向かった。トミーが車で送ってくれたが、夕飯を食べようとは言わなかった。それで彼のダイエット法が夕飯をぬくことであると知る。

ホテルは台中駅の横。以前の定宿だったが、名前が変わり、経営も変わった。料金はそれほど変わっていないが、4年分劣化している。朝食もない。4年前は窓のない部屋でぐっすり眠ったが、今回は窓ありだった。こんな部屋もあったのか。窓からきれいになった新しい台中駅と保存された昔の台中駅のライトアップが良く見える。

腹が減ったので、近所を散策すると、ここは完全に東南アジアだった。ベトナム系のレストラン、雑貨屋、美容室などが軒を連ねている。インドネシア、タイなども見られる。食堂は何となく8時頃閉まるようで、片付け中のところも多い。何とかベトナム系の店に入り、フォーを注文する。まあハノイと値段は変わらないか。中国語が通じるだけ有り難い。台湾には一体どれだけの東南アジア出稼ぎ者が来ているのだろうか。

ある日の台北日記2023その(6)製茶公会で

ランチはタクシーで別のところに移動する。そして天仁銘茶でご馳走して頂いた。やはりお茶の店だけあって、優しい味わいの料理が多い。理事長は遠くから来ており、折角の機会とばかりに黄さんとの相談事がいくつも出てきた。その内に台湾茶の現状、そして日本茶輸入の関連など話がどんどん広がっていき、内容にもかなり熱が入っていく。

私は公会のミーティングに参加したような格好となり、ただ黙って聞いていた。やはりコロナの影響はそれなりにあり、歴史や文化よりはまずは目先の利益確保、という感じであったので、私の出番は無さそうだった。気が付くと4時間も話していたことになる。黄さんからご著書を頂いて帰る。

台北に来てから数日が過ぎたが、何となく部屋で寝ていると蚊に刺されることが多い。3年前はどうだったのかさっぱり覚えていなかったが、部屋の中で探し物をしていると、電気蚊取り機が出てきて、これが必要だとようやく気が付いた。急いでスーパーに行ってマットを買ってきたが、何と私が持っている機械は液体対応だった。仕方なく、再度スーパーに行き、マット用の機械を買う。これで今夜から安心して寝られそうだ。

4月19日(水)ご近所散策

今朝は腹が急激に減り、近所に新しくできていた朝ご飯屋に駆け込む。セットを注文したが、ハンバーガーにたまごを入れる場合は、結構割高となる。それでも大好きなので、頼んでしまう。日本もそうだったが、台湾でもたまご不足なのだろうか。たまごが高いと物価高を非常に強く感じる。

昼もまた近所で食べてみる。今度は初めて入る店でチャーハンに挑戦する。思ったよりはかなり美味しくて満足。ただ同時に頼んだスープの量が多過ぎて困る。日本の中華料理屋さんのようにスープをちょこっとつけてくれれば良いのだが。それでも代金はそれ度高くないのでついつい注文してしまう。

夕方MRTに乗り中山駅へ。雨が降っていたのでちょっと駅地下で雨宿り。駅の外にはドラッグストアーがあり、何とそこに日東紅茶の粉が売っていた。戦前台湾で紅茶を作って一世を風靡した三井が今度は日本国内で作ったお茶を台湾に売り込んでいる。一体どれだけの台湾人が日東紅茶の歴史を知って、この商品を買うのだろうか。

今晩は雨の降る中、北京に留学経験がある日本人の集まりに飛び入り参加した。ほぼ初めて会う人だったが、色々な繋がりから、知り合いの知り合いは皆知り合い、という感じ。北京や中国という共通の話題があり、話が弾んでとても楽しかった。もうサラリーマン時代の仕事の話は忘れていたが、突然数十年前の記憶が呼びこされもした。良くも悪くも中国とは色々とあったなあ。

会場も台湾には珍しいガチ四川料理の店で美味しかった。といっても、やはり台湾だからそこまで辛いというわけでもなく、食べやすい感じだった。ただ話に夢中で料理のことはほぼ思い出せない。お客は台湾人より、台湾に来ている中国人が多かったのかもしれない。普通話が響いている。今回の台湾、こういう場所もう少し探してみたい。

ある日の台北日記2023その(5)台湾茶歴史談義

4月17日(月)台湾茶歴史談義

今朝は少し歩いてあのカツサンドの店へ行ってみる。店は開いていたので、注文しようと中を覗くと、お姉さんが『あら、珍しい』という顔で迎えてくれた。思わず『コロナで3年半来られなくて』と言ったら、初めて私が日本人であることを認識したらしい。喜ばしいというか、何というか。他の店でも私に気づいた人はいたと思うが、誰もこういう感じで声をける人はなく、やはりうれしい。カツサンドは形が変わり、盛り上がっていなかったので、かなり食べやすくなっていた。勿論料金は10元上がっていたが、食べる価値はあるだろう。

部屋に戻ると羅さんから連絡が入り、昼は東門に向かう。早く着いたので、鼎泰豊をちょっと覗くと、人が沢山待っていたが、何とテイクアウト専門店になっていた。そこへ羅さん親子がやってきて、一緒に餃子屋へ向かう。この餃子屋も何だかきれいになっている。ここで焼き餃子、水餃子などをたらふくご馳走になり、大満足。

そして茶歴史談義が始まる。この3年半の間に蓄積された情報を交換し、疑問をぶつけあう。それはそれは楽しい時間となる。テレビドラマ『茶金』の話など、リアル台湾紅茶の歴史であり、羅家の歴とも大いに重なっていると思われる。この3年の間にお話を聞いた羅家の長老お二人も旅立ってしまったのは、何とも残念だ。

場所を近くのカフェに移す。カフェに行く前に鼎泰豊の新店舗の前を通ったが、やはり人が多い。なぜそこまで人気があるのだろうか。カフェも何だかきれいで恐縮してしまうが、それでもお茶歴史にスイッチが入ると全く止まらない。台湾茶の歴史も随分と奥が深い。息子さんはずっと同席していたが、忍耐強いのだろうか。気が付けば3時間以上お話し込む。

すぐ横に意翔村があったのだが、陳先生は最近店にいないと聞き、素通りする。帰りに茗心坊に寄って、林さんに挨拶する。林さんの息子がロンドンから戻り、地道な焙煎作業をしているのが喜ばしい。今はお茶シーズンなので、睡眠時間も短くして、茶作りに励んでいる。一方娘は京都にいるとか。ここのお茶の代理店が京都に出来たような感じらしい。お茶を飲むと腹が減ったので帰りに牛肉麺を食べて帰る。

4月18日(火)製茶公会へ

今朝は圓環に向かう。ここは私の台湾旅の原点である。周囲を歩くと何となく懐かしい雰囲気に包まれる。古い紅茶のポスターを掲げる店もあったが、まだ開いていない時間だ。ドリンクスタンドだろうか。ホルモン系が旨い金春発も当然まだやっていない。この辺の店もちょっと変わっているようだ。コロナの影響はやはり大きかったのだろう。

本日は製茶公会に黄さんを訪ねた。以前も台北に来るたびに訪問し、そのお茶の歴史を教えて頂いていた。まだまだお元気で、今日も色々と話を伺う。ご著書も頂き、黄さんの茶業話を拝聴した。3年半の間に公会自体も理事長、総幹事ともに交代しており、紹介もして頂く。やはり人が変われば、ちょっと以前とは雰囲気が違うようだ。

ある日の台北日記2023その(4)華新街と台湾大学

4月15日(土)ミャンマー人街へ

今朝もサンドイッチで朝を迎える。5月から値上げの表示が見える。最近この表示が目立つように思う。特に卵の値上がりが激しいのは日本と同じか。MRTに乗って中和の図書館へ行く。ここも前から良く通った場所。しかし3年半ぶりなので、PC操作の仕方などは完全に忘れてしまう。それでもここの係員は常に優しく、教えてくれる。

台湾日日新報の検索に励み、気が付くと4時間も座ったままだった。やはりこういう資料を見ているのが一番楽しい。台北の部屋に置いたままだった資料を思い出し、更にここで新たな記事を集め、実に地道な作業が続いて行く。この土台があってこその茶旅だと最近つくづく思う。

またMRTに乗り、終点の南勢角まで行く。ここから更に歩いて10分以上行くと、華新街に辿り着く。ここは台湾のミャンマー人街と呼ばれており、ミャンマー・雲南から台湾にやってきた人々が集まっている。そして人が集まれば食べ物もやってくる。通りは閑散としていたが、店はかなりあり、取り敢えず適当な店で麺を啜る。何となく雲南麺を思い出す味だ。

実はちょうどミャンマーやタイは水掛祭りの最中。ここでも午前中にイベントがあったが、午後は日常を取り戻しているようだった。昼下がり、ミャンマーミルクティーを飲みながら、話し込んでいる老人たちがいる。言語は中国語もあるが、時にビルマ語、シャン語などが耳に入ってくるような気がする。この付近が形成された歴史、人々の歴史を知りたくなる。私も紅茶とミャンマー菓子で寛いだ。

帰りにバスに乗る。ちょっと距離のあるバス。土曜日で道が空いており、かなりのスピードが出ている。突然ブレーキも踏むので、かなり危険な運転だ。といっても30十数年前の台北のバスに比べれば、まだマシだろうか。バス代は安いのだが、その危険度という意味ではMRTの方が乗りやすい。

4月16日(日)台湾大学へ

日曜日は原則外出しない、と以前は決めていた。やはり休みは重要だ。それでも体が外へ出てしまう。かなり天気が良く、暑さが気になる中、今日は台湾大学方面に歩いて行く。途中の団地では、お天気の中、老人たちが日向ぼっこしている。車いすに乗り、インドネシア人メイドに推してもらっている男性、よく聞いてみるとその会話はインドネシア語だった。彼は華僑なのだろうか。それとも仕事で言語を習得したのだろうか。

大きな道路に面して、温州大餛飩があったので入ってみた。ここではいつもワンタンメンを食べていた。午前中の中途半端な時間でお客は一人しかいない。お母さんが一生懸命ワンタンを1つずつ丁寧に包んでいるのが何とも良い。それを見ながら鮮肉餛飩湯と鶏絲飯のセットを注文する。何だかいつもと違う雰囲気。因みにこの温州大餛飩はフランチャイズ方式らしいが、店によってメニューがちょっと違う。

台湾大学まで歩いて行くとかなり暑い。まずは図書館に入る。以前はバッグを地下1階にあるコインロッカーに預けなければならなかったが、何と1階に移動されていて大いに助かる。入室は前と変わらず。だが、以前見ていた資料の場所が思い出せず、かなりまごつく。結局見たい資料の一部には辿り着かないという悲劇。

一応何とか任務をこなして外へ出る。何となく磯小屋の方へ向かう。入口がきれいになっている。建物は以前のままだが、表示なども増えているような気がする。蓬莱米の父とも呼ばれる磯永吉への関心も高まっているのだろうか。残念ながらちょうど昼時間で、中を見学することは出来なかった。暑いので早々に引き揚げる。

夕方はかなり涼しく感じられたので、また外へ出る。よく行っていた近所の食堂で夕飯を食べようと歩いてみたら、何と店が見付からない。まさか無くなったのかと不安になったその時、店の位置を間違えていたことに気が付く。なんとまあボケが進んだことか。店は昔のままだったが、オーダーはボードに印をつける、会計も機械化されていた。まあ味が変わらないので良しとしよう。

ある日の台北日記2023その(3)南機場夜市と済南教会

夕方バスに乗り、南機場夜市を目指す。ここは全く初めて行く夜市。お目当ては台湾のおこわご飯、米糕。有名な店があるというので行ってみた。こんなところにも夜市があるのか、と思うほど、今や台湾は夜市だらけだ。夜基本的に出掛けないので、夜市にはあまり縁がない。名前からして元飛行場跡なのだろう。

入り口付近にある米糕屋には行列が出来ていたが、よく見るとテイクアウトの人々と分かり、席を探して適当に座る。何とか注文書を渡して待つ。徐々に日が暮れていく中、人が増えていく。久しぶりの米糕、やはり美味しい。昔拠点とした埔里の味が思い出される。排骨湯と煮卵もいい。その後夜市を散策。元々が行く人が来る場所ではないが、地元民で行列が出来ている店もあり、コロナからの復活が見て取れる。私はバスで早々に退散する。

4月14日(金)大稲埕から済南教会へ

朝はまた近所で蛋餅と大根餅を食べる。やはり台湾の朝食はバリエーションもあり、安価であり、そして旨い。もう言うことはない。そのまま近所を散策する。以前はよく行っていた市場方面を歩くと、お客も店も特に変わっていないように見える。帰りに宿泊先の横で、バナナを買う。これも台北生活のルーティンだ。

MRTに揺られて大橋頭駅へ向かう。ここから大稲埕を歩き出す。駅近くには十連棟という建物があり、この付近日本統治代は米などを扱う六大商家がいた場所であると書かれている。平日なので人は少なめであるが、お茶を売る店なども見られる。懐かしい警察署もあった。

本日は王瑞珍茶荘を訪ねてみた。実はこの名前、タイのバンコクにあり、3年半前に話を聞いていた。その際台北にも親戚がいる、ということだったので聞いてみる。突然の訪問にも拘らず3代目夫婦が招き入れてくれ、お茶を飲みながら色々と説明してくれた。やはりこの茶荘も元は安渓西坪から出てきており、王福記などとも親戚にあたるようだ。3代目になってから現在の店舗で小売りに転じたが、元は茶輸出を行っていたという。

そこから大稲埕の港を少し眺めてから、貴徳街をフラフラ歩く。相変わらず細い道だ。李春生記念教会、ここが目指す場所だったのだが、いつものように門は閉まっていた。あれ、と思い、案内をよく見ると、何とここではなく、済南教会と書かれている。実はここで李春生のひ孫さんと待ち合わせていると思い込んでいたので、大いに慌てる。

途中何とかタクシーを拾い、済南教会まで急行した。初めて見たが実に立派な教会が建っており、その後ろの建物の2階で、李春生生誕185周年の記念展示会が行われていた。ちょうど他のお客さん向けに説明が始まり、その流れについて行く。かなり詳しい展示内容、そして李家の大邸宅の模型などを材料に、その歴史が話されていく。これまで李春生については多少は調べていたので、その内容は非常に興味深い。

その後ジョンドッド関連のご本を頂き、更に李さんより日本語に関する質問を受ける。確かに李春生に関しては日本語の資料がたくさん残っているが、その漢字だけでは判別は難しい。李がなぜ台湾に渡ってきたのか、その辺の事情を解明してみる。いずれにしても李と茶葉貿易は重要な関係があるはずだが、何故かそれに関する資料は殆どない。

教会を後にすると、急に腹が減り、その辺の弁当屋に入ってご飯にありつく。排骨飯とは何とも懐かしい響きだ。台湾では食に困ることはない、というか、選択肢が多過ぎて悩むことは多い。安くてうまい、は台湾料理の代名詞。多少の値上がりはあるが、今だにそれは健在だと言えるだろう。