ある日の台北日記2023その5(3)名刺を作る

5月22日(月)名刺を作る

実は台湾に来てから予想外のことが起きていた。持ってきた名刺がほぼ底をついたのだ。最近は名刺を出すことも少なくなり、新しく作ろうなどとは思っていなかったが、Tさんの会に何度か参加し、そこにやってくる多数の企業人は必ず名刺を出すので60₋70枚を配ったことになる。

折角なので台湾で名刺を作ろうと知り合いのTさんに聞いてみると『板橋にいい所があるよ』と教えてくれたので行ってみることにした。MRTを乗り継いで板橋駅へ。数年ぶりだろうか。何だか全く知らない駅へ来たようで、出口の位置さえ分からない。何とか地上へ出たが逆側だったので、大回りして向かう。

Googleを使って細い道を行き、その店に辿り着いた。入っていくと珍しそうな顔で若い男女がこちらを見る。印刷屋というより、普通のオフィスだ。名詞というと、『どうしてここに?』と聞かれたので『日本人の友達に紹介されて』と言ったら、それだけでにっこり。後で聞いたら、ここに来る外国人はTさんしかいないらしい。

今使っている名刺を取り出してこれと同じ物を、とお願いすると、紙質を確認され、フォントが全く同じではない、と念を押された。取り敢えずあればよいので、と答え、金額を聞くと50元という。え、50元?50枚?思わず聞き返すほど安かった。100枚、50元、ただ200枚から受付。それでも100元なのですぐにお願いした。

LINEを交換して、後の連絡はLINEで行う。実際1時間後には見本が送られてきて、それにOKすると翌日には出来上がったと連絡がある。日本でこんな早くてシンプルなサービスはあるのだろうか。取りに行った時、別バージョンをさらに200枚注文した。これで当分、いや一生名刺はいらないかな。

折角なので駅近くでランチを探したが、何故か適当なところが見付からない。板橋名物があると思えない。意麺の看板に思わず反応して入ってしまった。もうすぐ台南にも行くというのになぜ。まあそこそこ美味しいので良かったが、きっと検索などすれば、板橋お勧めランチがあっただろうに。

そこからMRTを乗り継いで松山空港へ行く。先月台北に来た時に利用した航空会社のマイルが付いていなかったので確認しに行く。搭乗したエバ航空のカウンターはちょうど羽田行のチェックイン時間で混雑していたが、係員はちゃんと対応してくれた。だがなぜマイルが付いていないのかは解明できない。

続いてマイレージカードを持つ日系会社へ回る。そこでもスタッフが日本語で対応してくれたが、なかなか分からない。そしてスタッフが色々と調べてくれた結果、何と私が乗ったフライトのクラスレベルが低すぎて、マイル対象外だというのだ。これには正直驚いた。コロナ前は東京‐台北往復航空券は安ければ3万円、高くても5万円以内であり、マイルもある程度ついていた。今回の料金は約8万円。それでマイルが付かないのか。もうマイルは飛行機に乗って貯めるものではないとはっきり理解した。

何となくモヤモヤしていたので、近所の床屋に寄った。私が昭和の床屋と呼んでいるところだ。ところが同じ通りに2軒あり、3年ぶりで何と店を間違えてしまったらしい。それでもサービスも料金も変わらない。コロナ禍ではどうしていたのだろうか、これで食って行けるのかとこちらが心配するほど。まあ髪を切り、頭を洗ってもらうとかなりすっきりした。

夜はまたもやTさんの集いへ。今回は香港関係者が集まっており、会場も広東料理屋で飯も旨い。ただ個室利用は最低1万元だったらしく、10人の参加者に1000元ずつの割り当てがあった。日本円にすると大したことはないが、屋台暮らしにはちょっと堪える。そろそろこういう会はもういいかな。

ある日の台北日記2023その5(2)芝山厳事件

帰りに中山駅まで歩いて行くと、途中に横丁があり、そこに路上食堂?があった。なぜか日本のおでんやさしみ、寿司などが並んでいる。如何にも台北ならではの光景だ。駅まで来て新光三越に行く。ここの上に誠品書店がある。ここでドラマ『茶金』の原作本を探す。『茶金歳月』、これはドラマの主人公の実在の夫が書いたものだ。ネットでは300元と書かれていたが、書店では380元した。これが定価だから仕方がないが、日本との違いに戸惑う。

5月20日(土)芝山へ

小雨が降っている朝だった。それでも意外と涼しいからと出掛けることにした。MRTに乗り、降りたのは芝山駅。ここは初めて来る場所だった。歩いて10分ちょっとで芝山厳文化史跡公園に着く。そこには恵済宮がある。その横の長い階段を上っていく。雨で濡れた石段は滑る。

取り敢えず気の向くまま歩いていると、展示館に出くわす。芝山岩の採掘に関する展示のようだが、見学者はいない。そこから何とか頂上?付近まで登ると、芝山厳事件の記念碑が現れる。台湾が日本領になってすぐ、日本人教師が襲われ、6名が命を落としたと言われる事件だ。これを戦後国民党は義民の義挙としたようだが、その後学務官僚遭難之碑が再建され、教師たちの活動は肯定されている。

堂内に展示があるようだったが、閉まっており、見ることは叶わなかった。近くに六氏先生の墓が作られており、お堂も置かれている。実は私がこの事件に興味を持ったのは、犠牲者の中に楫取道明という人物がいたことだ。彼の父親は、幕末長州藩で活躍した小田村伊之助(薩長同盟などにも関与)、維新後楫取素彦と改名し、群馬県令などを務めた。しかも道明の母親はあの吉田松陰の妹寿であり、一時は久坂玄瑞の養子として久坂家を継いでいる。このような人物が台湾で客死した時代背景、もう少し知りたい。

最高点から下が良く見える。暑くないのでとても良い散歩となる。するすると階段を下りて、駅の方へ戻る。すぐそこに朝ごはん屋があったので立ち寄る。もう朝ご飯の人は皆食べ終わっており、サンドイッチだけがあるという。土曜日の午前中とはそんな感じだろう。でもこのサンド美味しかった。

結構疲れたので、部屋に戻り午後は休息する。ちょっとした山登りでも息が上がるし、その後の疲労感が半端ない。先週の水道博物館と言い、高い所へ行くのは今後控えよう。夜はまたお決まりの牛肉湯肉絲麺を食べてご機嫌となる。以前は新しいものを探して食べていたが、今やもう気に入ったものだけ食べ続けている。これもみな歳のせいだろうか。

5月21日(日)牛丼からジャージャー麵へ

昨日の疲れが残っていた。朝も起きられないし、動きも鈍い。天気もイマイチなので部屋でグダグダしている。それでも昼頃になると腹だけは減る。といっても遠くに行く気はない。こんな時は牛丼だな、と思い、吉野家まで歩いて行く。昔ここにある吉野家。1階は狭く、急な階段を牛丼を自ら運んで上がらなければならない。これもまた疲れる。しかも相変わらず店員の愛想は悪い。

日曜日なので、家族連れが大勢食べている。そんな中一人でいるとちょっと孤独になる。やはり牛丼は日本の方がうまい。これは肉の質の問題だろうか。いや米の問題かもしれない。そんなことを考えていると、更にうまくない。食後隣のパン屋が目に入る。3個100元に釣られて、パンを3つ選んだら、何と『下の段だけね』と言われ、100元では収まらなかった。何とも納得がいかない表記だ。

そんなこんなでモヤモヤの午後を送る。こういう時は妙に菓子など食べてしまい危険なので、夕方早めに夕飯を探す。昼がご飯ものだったので、麺でいいやと思い、なんと昨日の店へ行く。そしてジャージャー麺を食す。実は先日この店で注文時の間違いからこの麺が来てしまった。まあいいかと食べてみると存外の旨さに驚き、今日もまた食べることにしたのだ。偶には冒険してみるものだということか。

ある日の台北日記2023その5(1)陳悦記から鉄道博物館へ

《ある日の台北日記2023その5》  2023年5月18日-22日

5月18日(木)陳悦記から鉄道博物館へ

何だかコメダに行きたくなる。確か近所に一軒あったな、と探してみると健在だった。11時前満席で少し待っていたが、案内された席が狭すぎてモーニングを食べるのを辞めた。日本でもこんなに席が狭かっただろうか。それに台湾では当たり前も知れないが、店員の対応はいいとは言えない。

何となくそのままバスに乗って、出掛ける。先日大稲埕で訪ねた同安楽の元、陳悦記の建物が残っていると聞き、行ってみる。大稲埕よりちょっと北に位置していたその場所まで意外と時間が掛かってしまった。一部改修中だったが、そこへ入ることは出来た。如何にも100年以上前のお屋敷の一部だな、という三合院の造り、先祖を祭る廟などが見られた。この陳家は1930年代初め、ソ連人が茶の買い付けに来た際、気に入られた茶を輸出していたらしい。もっと色々と知りたいが、資料などはあるだろうか。

そんなことをしていると待ち合わせ時間がやってくる。急いでバスに乗り、大稲埕に向かう。何だか雰囲気の良い食堂、ランチ時は満員盛況の混雑だった。そこに先日も会った呉さんと、茶を商っているという郭さんが待っていた。二人とも30代の若者、郭さんは大学在学中に茶に可能性を見出し、茶業に乗り出して10年だという。今でも自らのブランドを立ち上げ、ネット通販を中心に有名になっているという。因みに奥さんは日本人、実にさわやかな青年だった。

茶の歴史などについてかなり話し込んだ。それから呉さんと大稲埕を散歩しながらまた話す。王福記の前を通りかかり、ちょっと寄ってみる。お母さんは私を覚えていなかったが、お父さんと話すとすぐに思い出してくれた。初代王泰友さんの奥様は昨年100歳を超えて亡くなっていた。

ついに北門まで歩いて来て呉さんと別れる。ふと見ると旧鉄道部の建物が博物館になっていた。コロナ前に来た時は準備中だったが、今回は中に入れた。つい先日新元鉄道部長の話を聞いたので、そんな展示を探したがなかった。それでもかなりの展示品があり、結構な時間をかけて見ていると、5時の閉館時間になってしまった。隣には旧三井の倉庫跡もある。台北はどんどん古い建物を保存している。

そこから呉さんに教えてもらい、もう一度華西街方面へ向かう。広州街、その突き当りまで歩くと、目的地が見えた。ただそこは改修中で中を見ることは出来ない。古跡学海書院、この辺りに150年前ジョンドットの宝順茶舗があったというが、今やその痕跡は何も見いだせない。まあこの付近と分かっただけでも収穫だ。

それからMRTを乗り継いで、今晩の食事会へ向かう。いつものTさんアレンジ、今晩はタイ駐在経験のある方々の集まりというので興味を持って出席したが、それほどタイに詳しい方はいなかった。そして料理もタイ料理を謳っているものの、ほぼ中国料理でちょっと残念。

5月19日(金)茶商公会で

台北滞在も1か月が過ぎ、少し行き詰ってきた。そんな時にいつもいいアドバイスをくれる茶商公会の総幹事を訪ねた。何の用事ということもないが、フラフラと訪ねていき、雑談していると、絶妙のヒントをくれるので何とも有難い存在だ。今回も訪ねていくと、早々にいくつもの情報を提供してくれた。最高のアドバイザーということだろうか。これも彼が歴史好きであり、世話好きであることに起因している。

それから先日来、なかなか行けていない金春発に向かった。今日は開いていたので、早々に座って注文する。牛雑と牛雑湯、特製のたれをつけて食べると旨い。1897年創業と書かれている。100年以上前、日本時代初期から牛肉を食べている人がいたのだろうか。これはちょっと興味深い。そしてこの料理はどこから来たのか。

ある日の台北日記2023その4(4)久しぶりに青田街へ

5月16日(火)青田街へ

今日は昼過ぎに青田街へ向かった。ここは以前時々来ていた、日本時代の建物が残る場所。今もその雰囲気は各所に残っており、更には古民家を活用したカフェなども増えており、ちょっとお茶するにはいい所かもしれない。ただ平日の午後ということもあり、歩いている人は殆どいない。

Hさんが待ち合わせで指定したカフェへ行く。ここは最近流行りの書店カフェ。聞けばオーナーは出版社をやっており、その打ち合わせなどにも使われているらしい。Hさんが来るまで本棚を眺めてみたが、何だか読みたくなってしまうような本が並んでおり、ちょっと驚く。

Hさんとはもう10年位のお付き合いになる。最近はどんどんビックになり、多方面で活躍しているので、なかなか話を聞く機会がなかったが、わざわざ時間を空けてくれたのは有難い。しかしここでも私はお茶の歴史話に余念がない。それに付き合ってもらって、しかも色々と示唆に富んだ話をしてくれて、本当に有り難かった。時間はあっと言う間に過ぎてしまったが、今後も時々はこのような時間があるといいな、と思ってしまう。

帰りはバスに乗って行く。ふと窓ガラスを見ると、セクハラ&盗難防止ベル?なるものが設置されている。私は初めて見たが、いつからこんなものがあるのだろうか。そして正直この、非常ベルと同じように囲われたベルは有効に使われているのだろうか。私は満員バスに乗ることもほぼないので、その実用性についてはつい疑ってしまう。

宿泊先に荷物を置いて、すぐにまた外出した。今晩は大稲埕で約束がある。MRTに乗り、大稲埕公園を目指した。この公園自体はどうということはないが、一応記念碑が建っており、大稲埕の沿革が紹介されているので、外せない。そこからちょろちょろと周囲を見ながら歩いて行く。

既に暗くなった6時半に、同安楽に着いた。ここは4年ほど前紹介されて一度来たことがある。実はここの先祖は茶商だったこともあり、大変興味を持っていて、現在のオーナーに連絡を取ったのだが、残念ながら不在だった。一応予約はしていたが、行ってみると他に客はなく、本当に静かな場所だった。

お茶を飲みながらゆっくり福建料理の食事をした。料理はセットなので、まとまって出てきた。食後にデザートとお茶を楽しむ。ご一緒したIさんとは北京時代の知り合いで、ちょうど彼女が台北に赴任したと聞き、声を掛けた次第だ。北京駐在時代は実に様々な人々と出会ったのだな、と話しながら思う。

5月17日(水)陳さんが来た

今日は台中の陳さんがわざわざ台北に来てくれた。彼は台湾紅茶の歴史を真剣に調べている人で、日本語も出来、私の書いた文章も読んでくれている。こういう人が現れることが茶旅活動では何より嬉しい。しかも来月は魚池の茶業者と共に来日し、一緒に東京と高知を回る予定になっていた。

私の宿泊先で話をした。まず前半は訪日スケジュールの調整だ。これが簡単なようで意外と大変。それでも台湾の人たちは日本に慣れているので、宿から交通手段まで、自分たちで何でもできて助かる。何だか来月が待ち遠しいが、果たして陳さんにとってどんな成果があるのだろうか。

途中から台湾紅茶の歴史を少しした。といってもテーマは膨大であり、とても1₋2時間で話せるような内容ではない。腹も減り、昼は近所の行きつけの食堂でランチを食べたので、余計時間は少ない。結局今日のところは陳さんの関心がある写真や資料を提供して、それに解説を加える程度で終了となる。それでもわざわざ台北まで来てくれた陳さんの熱意には感服する。歴史調査が如何に地道であるかも再度感じる1日となった。その夜、羽田‐高知便を予約するなど来月の旅が動き出した。

ある日の台北日記2023その4(3)湾生、そして伝統的潮州料理

5月14日(日)湾生の話を聞く

今日は実は誕生日だった。いつもは無関心の子供たちから、早々にLINEが来たのには驚いた。FBでは数年前に誕生日を消しており、今日が私の誕生日だと知る人はほぼいない。私はお誕生日メッセージは好きではなく、こちからも送ることはないので、何だか嬉しくなる。一人でお祝いしようととんかつを食べに行く。

それからKさん主催の講演会に行った。湾生の新元さんという方が91歳で訪台されており、背筋の伸びたお話しされていた。私はこの方が戦後明治製菓にお勤めだったと聞き、明治紅茶について情報を求めに行く。だが何と新元さんのお爺様は、あの新元鹿之助鉄道部長だと知り、かなり驚く。湾生にも色々な方がいる。日本語の講演だったが、会場は満席の盛況。知り合いもかなり来ていた。尚新元さんはあのきのこの山の開発者でもあった。

帰りにいつも食べたいと思いながら食べていなかった豚足麺を食べる。まさにコラーゲンたっぷりの豚足にかぶりつき、麺をするすると啜る。こりゃあ、美味いが、ちょっとくどい。周りのおじさん二人も同じものに食いついている。刀削麺と豚足、これはとてもよいコラボだった。これからも偶には食べることとしよう。

5月15日(月)潮州料理

何となく疲れが出ていた。やはり62歳にもなると、もう無理は出来ない。ゆっくり起きてボーッと茶を飲む。これからはそんな日が続く予感がある。そして腹が減ったら外へ出る。近所に鰻屋という名前の弁当屋があったので、入ってみた。ちょうど値上げの時期で、その弁当は100元を超えている。

店内でも食べられるので、日替わり弁当を注文すると、かなりのボリュームがあり、ビックリ。そして自分でよそえるみそ汁が、何とも昔の日式で、かつおだしが効いていて懐かしい。近所の人がひっきりなしに弁当を数個ずつ買っていく人気店。これからはたまには利用しに来よう。

夕方までジョンドットについて調べる。ドッドが150年前に開設した宝順茶舗は萬華のどのあたりにあったのだろうか。今やそれを知るすべはないのだろうか。先日李さんからもらった資料を読んでいると、どんどんと疑問が湧いてくる。これまではとにかく旅が優先だったが、歳も歳だし、もう少し資料を読み込んでみるスタイルが良いかもしれない。

夕方バスに乗って信義区へ行く。この辺は高級商業地区であり、古き良き台北もないので、あまり行くことはなく、地理が良く分からない。今晩は以前から『台湾に伝統的な潮州料理はあるのか』というお題で探していたレストランがあるというので、そこへ向かったが、何とそこは新光三越の中にあった。食前に濃いお茶は出て来るのか。

しかもこの付近に新光三越の入ったビルはいくつもあって、全く迷子になってしまった。何とか表示板を見てビルを特定したが、なぜ三越は同じ場所にこんなにあるのだろうか。これで集客はどうなっているのだろうか。疑問はどんどん湧いてくる。少し時間があったので、周囲も歩いてみたが、仕事帰りのOLさんたちが闊歩している。高層ビルと青い空はよい。

潮州料理は当然ながら三越にあるのだから高級店だった。料理も高級で、普段屋台暮らしの私には眩しいものだった。そして食前茶などもなく、高級なお茶のリストが出て来るだけだった。料理の質は高く、美味しいのだが、周囲で食べている人もその辺のおっちゃんではない。

どうやらこの店、以前他の場所で先代がやっていた頃は食前茶なども出していたらしいが、今のご時世ではそれもなくなり、潮州料理=高級料理、路線を進んで、三越に出店したのかなと思われる。まあでも誘ってくれたSさん夫妻と楽しくお話したので、良かった。もう伝統的な潮州料理は台北にはないとよくわかった。そんなことを考えながら歩いていたら、帰りのバス乗り場に迷った。

ある日の台北日記2023その4(2)自来水博物館へ

本日は先日偶然会ったUさんのオフィスに伺い、Uさんが現在進行している霧社のプロジェクトの概要を聞きに行った。霧社は私にとっても懐かしい場所であり、知ることも少なくない。コロナ前に完成していたUさんたちのプロジェクトは、コロナ禍を挟み、状況が大きく変わったようで、また一から積み上げているらしい。実に大変な作業を行っており、感服する。本来の交流とは、このような人々の努力により、成しえていくものだろう。

そこを出て懐かしい場所を歩いていく。勿論台北も大きく変わっているが、何だかそのままの古い廟が突然現れたり、懐かしい茶荘に出会ったりする。夜は松江路近くの浙江料理屋で会食があったので、その付近も散策するが、雨になり、中断。その会食は駐在員の偉い方ばかりが集まっており、何だか居場所がなかった。ただ料理自体は美味しかったので、そちらの方に集中する。

5月13日(土)自来水博物館へ

週末は出歩かない、と以前は言っていたが、あまり混んでいない場所なら良いのではと思い、出て行くことにした。まずは刀削麺を食べて精をつける。それからMRTに乗り、公館駅で下車。歩いて数分行くと、自来水博物館に到着する。ここは公園のようになっており、入場料を支払う。そこで『今日のイベントに参加しますか?』と聞かれる。どうやら週末は園内散策があるらしい。

ここは水道博物館なのにこんなに広いのかと思う。子供たちの遊ぶスペースが充実している。門から入ると向こうの方に立派な建物が見える。バロック様式の建物本体は、1908年完成した日本統治時代のポンプ室。総督府は英国人技師ウィリアム・K・バルトンの意見を入れ、台北地区への水供給のため、公館観音山に近い新店渓一帯を水源地として、取水口を設置したとある。1977年にその役目を終えたが、その後修復され、現在水道博物館になっている。

中に入ると大型の抽水機が何台も並んでおり壮観。一室には最近復元されたバルトンの胸像が置かれている。バルトンはお雇い外国人として、日本の上下水道の基本計画を策定、同時に弟子を育成。1896年に台湾に渡り、台湾の上下水道の整備を計画するも病に倒れる。その後は弟子の浜野弥四郎が引き継ぎ、台湾の上下水道は完備されていく。浜野は1919年に台湾を離れる際、バルトン像を製造したが、戦時中に供出されてしまう。初代バルトン像建立から100年、新しい胸像が作られたが、どれだけの人はバルトンを知っているだろうか。

建物を出て、観音山貯水池に向かう。ここは台北とは思えないほど自然が豊かで、ちょっとした山登りになり喘ぐ。小雨も降り始めたが何とか登り切り、貯水池跡を見る。ここからは台北市が良く見える。帰りに建物の裏に回ると、若い女性がモデルとなり、写真愛好家がカメラを向けている。写真が好きだったバルトンはここにも生きているというか。

帰り道、シャッターの閉まった店の張り紙に思わず笑ってしまった。『店主が足を怪我したので一日休み』と。笑い事ではない。日本でも台湾でもこれからこんな張り紙が増えるだろうが、ただ休む事情をこう書くのかと思ってしまう。いや、お客は近所の人なので、心配を掛けない措置かもしれない。

帰りに最近近所に出来た食堂に入ってみた。チェーン店のようだが、お客はおらず、店もやる気のなさを露骨に感じる。こうなると食べ物も美味しくは感じられない。その夜、NHKの番組を見ていると『全てのものは無常』『万物は常に変転する』と言っていたのが、なぜか心に響く。

ある日の台北日記2023その4(1)香港から戻って

《ある日の台北日記2023その4》  2023年5月10日-17日

5月10日(水)香港から戻って

香港からのフライトは順調で時間も短かった。予定より早く桃園空港に着陸した。イミグレの混雑も想定したが、全くなくて拍子抜けした。荷物も預けてないので一番に外へ出た。ここでやることが一つあった。台湾観光協会の抽選会、どこにあるのだろうか。事前に登録したQRコードをかざすと、見事に外れた。周囲には誰一人いない寂しいハズレとなる。

行きはバスだったので帰りはMRTに乗ってみる。きれいな電車は空いており、座っていく。途中で何人かが下りていき、向かいに来た電車に乗った。その時まで気が付かなかった。私が乗ったのは普通車で、もう一つ空港と台北駅を結ぶ直達車があることを。まあ急ぐ旅ではないのでよいが、特に表示もなかったような気が。何だか結構疲れたが、何とか宿泊先に帰り着く。

5月11日(木)小楊と会う

香港から戻った翌日、朝はハノイのNさん出演のラジオを聴きながら、ゆっくりと過ごす。今回の香港・深圳の旅は予想よりはるかにハードとなり疲れたので、仕方がない。一応サンドイッチは食べたものの、ちょっと元気が出なかった。もう頑張る歳ではないのかのかもしれないと実感する。

夕方腹が減ったので、羊雑炒めを食べに行く。やっぱりこれを食べる時に一番元気が出ると思う。飯を搔っ込む感じが良い。満足して散歩していると、小楊から連絡が入る。台北に来た時から連絡していたのだが一向に返事が無くて心配していたが、無事のようだ。今晩来いというので、7時過ぎに訪ねた。僅か歩いて10分だ。

エレベーターがない5階。何とも懐かしい古びた階段を上る。息が少し切れた頃、ようやく到着する。特に変わった様子もない部屋の中にはお客さんがいたが、何と皆でマックを食べていて驚く。奥さんと話をしていると、皆が食べ終わり、お茶を飲み始めたので、お相伴に預かる。小楊はお客さんへの説明に夢中で、ほとんど話が出来なかった。お客さんも熱心でずっと質問を続けており、私の出る幕はないと考え、1時間ほどで引き揚げた。まあ、元気だと分かればまた機会もあるだろう。

5月12日(金)SIMカードを買いに

一昨日桃園空港に行ったが、夜遅くでシムカードを買うことが出来なかった。そこで今日は近くの松山空港まで買いに行く。その前に腹が減ったので、近所で広東系の三宝飯を食べる。何だかとても美味しいと感じる。香港より安いから、これから台北で食べることにしようか。

モノレールに乗って松山空港に行く。ちょうど台北に来て1か月が経つ。30日のシムを買った中華電信で、『このシム継続したいんだけど』とダメもとで聞いてみると、『これは30日間のみのカード。ここにも書いてあるでしょう』と実に素っ気ない対応を食らう。仕方なく、また30日のシムを買い直す。まあ電話番号は変わるが、それで困ることはほぼない。まず台湾で電話を掛けることなどないのだから。

空港からバスで中山北路を目指そうとしたが、ちょうどよいバスは無かったので、またモノレールに乗り、途中で乗り換えていく。途中駅においしそうなパン屋があった。今や台北もエキナカが実に発達している。これからの訪問予定が無ければ、いくつかパンを買って帰りたかった。

香港・深圳茶旅2023(8)香港フラフラ

その奥に、元ホテルだという不思議な建物が建っている。中に入るとレトロな雰囲気で、多くの映画の舞台にもなったらしい。壁にはたくさんのスターの写真が飾られている。元々Kさんは、ここでハトを食べようと思い、選んだらしい。まあ何よりもお客が少なく、ゆっくりと話が出来るのは有難い。

のっけから畲族が登場したので、鳩肉を食べながら、潮州人、客家などの言語学的違いについて、色々と教えてもらった。香港にも多い潮州人とは一体どんな人々なのか。突如注目されてから30年の客家、そして誰も知らない畲族との関わりや如何に。知りたことだらけだが、分かることは多くはない。

3時間も話し込み、店を出た。私は沙田にある銀行へ向かった。ここでも手続きに色々と時間は掛ったが、中国のような緊張感はない。ただ店内では何とも横柄な普通話が飛び交っており、英語を話す客など稀らしい。彼らは大事な客だろうが、私はどうでもいい客なので、その対応は何となく雑になる。

ネーザンロードまでMTRで進む。よく知っているが泊ったことのない宿を予約してみた。当日予約だから高いのかと思ったら、当日でいい部屋しかなかったのだと、チェックインして分かる。まあ香港も深圳も本当にコスパは良くない。やはり私は東南アジアが好きになっている。因みにこの宿には電源アダプターがちゃんと備え付けられていた。

もう夕方なので廟街を歩いてみる。やはり昔の熱気はないようで、屋台は出ているものの静かな感じだ。何となく吸い込まれるようにチェーン店に入り、何となく牛喃カレーを食す。うーん、やはり九龍城迄行きたい。暗くなってからもう一度廟街を通ると、食事をする人が多く見られた。こういうところは一人で食べるのが難しいのでパス。ネーザンロードに戻ると、そこには安い弁当を売る店があり、大繁盛していた。香港庶民も厳しい現実に直面している。

5月10日(水)台北へ

朝は早く目覚めた。今日は台北に帰る日だが、香港への未練はあまりない。取り敢えず散歩に出て、油麻地の天后廟にご挨拶する。それから朝ご飯を探して茶餐庁に入る。人が多くてごちゃごちゃしているのは香港らしいが、料金はうんざりするほど高くなっている。それでも何とか食べていると、中国人観光客家族が入ってきて、めちゃくちゃ煩く、退散する。

そのまま油麻地を歩き、更に深水埗までフラフラ歩いて行ってみる。高層建築が目立つ中、古い建物にどうしても目が行ってしまう。いつまで頑張れるのだろうか。深水埗の近づくにつれて、何となく懐かしい香港の風景が出現して、嬉しくなる。ただ人はあまりおらず、いても香港人ではなさそうな顔の人が多い。

深水埗では、鴨寮街でSIMカードを買った。今回の反省を踏まえて、中国でも使えそうなカードを念のため買っておいた。といっても次回いつ中国に行けるのかも分からないのだが、まあ保険の意味合いが強い。その辺で雲吞麺を頬張る。やはり香港に来たら、一度は食べておこうと思う。

MTRに乗って、尖沙咀へ。普段はあまり歩きたくない所だが、偶には行ってみたくなる。ペニンシュラーホテルは健在で、ネーザンロードも人が多い。重慶マンション、懐かしい。結局横道に入る時間はなく、ただネーザンロードを北上しただけだったが、それでもやはり香港が強く感じられる。古き良き香港、などという言い方は、香港には似合わない。

ホテルまで戻り、チェックアウトする。宿のスタバで林さんと会う。東京以来4年ぶりだろうか。大学時代からの知り合いだから、もう40年になる。私は実は正確な彼の年を知らなかったが、既に70歳を超えていると聞き、驚く。まあ元気でよかった。よもやま話をしているとすぐに時間は過ぎてしまう。

林さんと別れて、空港バスに乗る。急にトイレに行きたくなり、一本逃してしまうと、なかなか来なくて不安になる。ようやく乗り込むと、何となく眠くなる。1時間で空港まで到着する。コロナ禍で空港内部もちょっと変化が感じられた。2003年のSARSの時を思い出すと、香港への影響は甚大だった。

人の移動が止まれば香港は死んでしまう、という恐ろしい体験をしたので、今回の被害も甚大だったはずだ。今や空港に人が戻り、結構混雑しているように見えるが、果たしてどれほど回復しているのだろうか。今更香港の将来をどうこういっても仕方がないが、やはり心配ではある。

香港・深圳茶旅2023(6)中英街と茶葉世界で

5月8日(月)深圳茶葉世界

宿は深圳の中心部。周囲は高層ビルで囲まれている。どうなんだろう、この風景。30年前は香港が高層ビルで囲まれていたのに、今は深圳の方がすごい。朝ご飯は上の階へ行く。窓はなく、薄暗い室内で食べる。食事内容はコロナ前とほぼ変わっていない、健康系のように感じるがどうだろうか。

そのまま外へ出る。小雨が降っているがあまり気にならない。ただ既に昨晩かなり降ったようで、所々に水が溜まっているので地下道を通る。深圳も交通量が増え、歩行者の横断は地下道でさせるようにしている。本日の、いや今回深圳訪問の目的地はその先のビルの中にあった。

中国の銀行に口座を持っていると時々機能が停止する。今回はコロナ禍で3年以上使っていなかったので当然止まるとは思っていたが、これを再開するためには中国内へ行かなければならない。中には口座を開いた店へ行かなければ手続きしない銀行もあるようだが、私が使っているところは簡単に再開できてよかった。これで支付宝にもチャージできるので、普通に使えるようになる。この現金が全く流通しない社会では、支付宝が命綱となる。

あまりにあっけなく解決したので、午前中をどう過ごすか考えた。ちょっと地下鉄で遠出しようと思い、思いついたのが沙頭角。ここは昔中英街の件で来たことがあるが、それ以来だろう。地下鉄の切符を買うのに紙幣がはねられたので、今回は係員を見付けて、コインと代えてもらい、無事購入した。

沙頭角駅がいつできたのかは知らないが、私が知っているところとイメージがかなり違っていた。駅から数分歩くと沙頭角の辺境が見えてくる。村人だけが行き来できた以前とは違い、今では中国人観光客が中英街を目指して、専用入り口から入っていく。残念ながら外国人は入れないようで、そのまま引き返すしかない。ただその周辺には立派なマンションが立ち並び、その発展を見ることは出来た。

そこから中心部に引き返し、羅湖駅前にある茶葉世界に行く。まずは腹ごしらえと、その近くにある昔よく行った食堂に入ったが、経営が変わったのか、料金は高くなり、味は落ちており、かなり残念な状況だった。まあ、これも時の流れと諦めるしかない。この周辺、駅前なのに以前と比べて人通りがかなり少ない。

茶葉世界はそのまま残っていた。だが2階に上がっても、人は殆どいない。完全に閑古鳥が鳴いている。馴染みの店に行ってみたが、不在だった。もう一軒は引っ越したのか、それとも閉鎖してしまったのか見付からない。何だか完全に取り残された感じとなり、早々に立ち去ろうかと思った。

フラフラ歩いていると見慣れた名前の看板がある。あれと思い、中に入ると、ご主人の笑顔があった。ちょうどコロナの頃にこの場所に引っ越したらしい。元々岩茶の店だが、今や黒茶類が大半を占めている。茶を飲みながら世間話をしていると、コロナ禍の大変さが伝わってきた。それでも20年も店をやっていれば常連客がおり、基本的に個人より飲食店などへの卸しは影響が少なかったようだ。

もう一軒の店ももう一度覗いてみると帰ってきていた。ご主人は公務員を退職してもう10年近い。夫婦二人で店をやっているが、お客が来ることは稀だという。今は全てが微信なので、直接顧客と会うことは本当に少ない。そして現金を受け取らなければ、偽札を掴むこともなく、会計も全て機械でできるので、個人商店としては本当に有り難いという。確かにその通りだ。慣れてしまえば、こんな便利な社会もない。さすがに店舗が無いと信用度が下がるらしいが、それ以外問題はない。

香港・深圳茶旅2023(5)4年ぶりの深圳では

深圳で

懐かしの深圳に入った。相変わらず人が多く、出口には人だかりが出来ている。その中にシムカードを売る人々もいた。彼らに中国移動香港のシム、というと、小雨が降る中、ちゃんと店まで連れて行ってくれた。店の女性が私のスマホにシムを差し込んだが、このシムも作動しなかった。これは私のスマホの問題なのか。30分ほどあれこれやったが、結局使えず、店を後にした。因みに代金は払わなかったが、ここだけは現金でも良いと言われた。

中国国内のシムは持っていたので、それを使って本日の宿を予約して、地下鉄で向かう。地下鉄1号線の駅はどこだ。迷う。それほどに深圳の地下鉄は路線が伸びている。何とか探し当てて改札へ行くと、皆がスマホスキャンで通っていく。私は切符を買おうとしたが、10台ほどある自販機の9台は使用停止だった。残り1台も勿論100元札など入らず、古い札を入れてみたが、はじかれてしまう。コインを探して何とか切符を買う。僅か3元が払えない恐怖。

地下鉄で3駅乗って大劇院で下車。ここから歩いて予約した宿へ向かう。道はよくわからなかったが、スマホ地図で何とか辿り着く。深圳の街が何となく静かに見えたのは気のせいだろうか。宿はコロナ前からよく使っていたチェーン店で私は会員だった。チェックインしようとすると、フロントの女性が、『何で予約しましたか』と聞いてくる。この宿のアプリからさ、と答えたら、エッという顔をした。

更に微信は持っていないのかと聞く。何とチェックインも全て微信で行うらしい。彼女は私のスマホを引き取り、すごいスピードで作業を完了した。だが最後の支払いが出来ない。私は微信支付を使っていなかったのだ。支払いは現金でも良いかと聞くと、またエッという顔になったが、何となく頷いたので、4年前の100元札を何枚か取り出したら、『お客様・・』となり、私のスマホから支付宝を見付けて、『こちらから払いましょう』と手続してしまった。私のなけなしの電子マネーは一気に無くなった。これが今の中国なのだと思い知った。

この騒動のせいか、部屋はアップグレードされて、広い。冷蔵庫のドリンクは全て無料。茶葉とお茶道具のお茶セットも用意されている。勿論朝食も付いている。ただ料金は円安も含めれば、コロナ前よりかなり上がっている。それでもお客はひっきりなしにやってくる。エレベーターに乗るにはカードキーが必要であり、カードをかざせば自動的に行き先階に連れて行ってくれる。これはコロナによる自動化だろう。

何となく腹が減ったので、外へ出た。突然蘭州拉麺が食べたいと思い探す。見付けた店に入ると、メニューに羊肉拌麺があり、ついそれを頼んでしまった。店員はウイグル族なのだろうか。味は普通だが、量が非常に多く、それだけで十分腹一杯。勿論支払いはQR決済の一択。最初から現金を出すとか、受け取るとかいった雰囲気は全くない。

腹が一杯になったので少しだけ深圳の街を歩いてみる。歩道を歩いて困るのは、デリバリーを行うミニバイクが縦横無尽に走っていること。ちょっと油断すれば確実に轢かれてしまう。比較的静かな街に、このバイクだけが蠅のようにうるさい。バイク側には時間に追われているという制約があるようだが、事故多発は間違いない。規制すべきだと思うが、どうだろうか。

老街に行ってみたが、雨上がりでも人はそれなりにいた。マスク率は低い。店はどこも開いていて、既にコロナは終わった感がある。賑やかな音楽が中国らしい。少し人がいない公園の方へ歩いて行く。深圳はある意味で人工都市だから、緑は意外と多い。多くの人が憩いの場として活用しているように見える。

帰りに線路脇を通る。列車が走っていく。広州へ行くのだろうか。私は深圳市内にしか行けない身。こういうのを籠の鳥、というのだろうか。しかもこの街には何となく監視されている雰囲気もある。以前のような自由な環境は無いようにも感じられる。景気も良くないのかもしれない。

その夜、部屋に戻ってPCを立ち上げた。なぜか日本のテレビ番組を見ることが出来た。中国国内では、FBもツイッターも見られないはずなのに、なぜか読める。それは中国が緩和したのか、この宿の問題なのか、それともほんの一時なのか。とにかく外の人々への連絡などが出来て良かった。中国国内に入ると、何しろ生存報告も難しい。