中壢台中茶旅2023(2)持木家のパートナー、廖家を訪ねる

もう何度も乗ったルートを巡っていく。表面的には特に変化は感じられない。途中から登りになり、約1時間で目的地に着いた。乗客のほとんどは終点まで乗るので、降りたのは私だけ。何とも開放的な気分となり、古い家並みが残る街を歩き出す。今回の目的はただ一つ。いつもFBにメッセージをくれる林老師に会うことだった。

歩いて数分で懐かしい玉春茶房に着いた。隣は息子の店で、まずはそちらに行ったが、ちょうどお客が来ており、早々に退散する。林老師は最近大病されたと聞いて、伺ったわけだが、予想外にお元気そうだった。ただやはり以前のように動くことは出来ないと言いながら、お茶を淹れてくれた。

懐かしい歴史話などを聞いていると、奥さんが『お昼ご飯、食べていくでしょう。買ってくるんじゃなくて、作るから美味しいよ』と声を掛けてくれた。こちらのご飯が美味しいのは12年前、初めて伺った時に味わって知っていた。だが今日は残念ながら時間がない。いや、時間が無いというよりバスの時間と合わなかった。全く後ろ髪を引かれる思いで、立ち去る。

逆に少し時間が余ったので、一停留所分歩いて下ることにした。ここもかつて何度も通った道で懐かしい。ずるずると農会のところまで歩いて来ると結構暑かったので、農会内の売店で涼む。そしてバスの時刻にバス停に戻ると、ちゃんとバスはやってきた。私ともう一人高校生ぐらいの女の子がバスに乗り込む。

やはり予想通り、バスがかなり混んでいたが、何とか席を確保した。鹿谷付近には地元枠として3席確保されている。ただおじさんの何人かは大量の荷物を席において、他人が座れないようにしていた。この辺のモラルの低さは残念としか言いようがない。この点については、誰も口出ししない。いや、さすがに乗れない人が出てきたら、荷物をどけるだろうと信じたい。

台中で劇的に出会う

1時間後に高鐵台中駅に戻り、午後会う予定の陳さんに連絡すると、お迎えまでほんの少しの時間があった。昼ご飯は食べていなかったので、丸亀製麺でうどんでも、と思ったが、残念ながら既にその姿はなく、後には一風堂ラーメンが見える。その横には大戸屋があったが、私は以前も使っていた、まいどおおきに食堂へ向かう。

中に入ると風景はそれほど変わっていなかったが、値段はかなり上がっていた。まあこれが普通なのかもしれない。もし時間的に余裕があれば、鹿谷のお母さんのご飯が食べたかった、無理しても食べるべきだったと激しく後悔する。それでもそれが私の定めと諦めて、ハンバーグに食らいつく。

陳さんと合流して、市内へ向かう。何度も来ている台中だが、実は市内の地理は全く分からない。いつの間にかモノレールが通っている。そんな辺りの駐車場に車を停めて、目指す家に向かった。廖さんの家は立派だった。招き入れられ、挨拶を交わすが、何となくぎこちない。陳さんがうまく説明してくれなければ、会話が進まなかったかもしれない。

この廖さんのお爺さんが、戦前日月潭で紅茶を作っていた持木家の台湾人パートナーだったのだ。廖さん自身は日本人に決して良い印象を持っていないことは何となくわかる。ただ『持木の名前は、爺さんからも父さんからも何度も聞いている』と言って、廖家の話をしてくれた。

そのうち廖さんも元銀行員だと分かり、少し打ち解けてくる。やはり戦前の有力者だったお爺さんの一族には関係者が多く、そのすべてを聞くのはとても無理だった。最後の方になり廖さんが『なんでもっと早く来なかったんだ』と言い出した。実は2階には病気療養中のお父様がいたのだが、具合が悪いので会うのは難しいと言われていた。

しかし廖さんは突然『2階に行こう』と言い出し、我々を連れて階段を上った。そこにはテレビを見ている老人がいた。『日本語で話しかけてくれ』と言われて、『持木さんを覚えていますか?』と大きな声で聴いてみると、目は動くのだが、残念ながら言葉は発せられなかった。それから記念写真を撮り、お暇した。

廖さんは『日本語なら反応すると思ったのだが』といい、『持木の子孫ならいつでも歓迎する。一緒に爺さんの墓参りに行こう』と言ってくれた。この時廖さんはこれが最後のチャンスだと分かっていたようだ。そのわずか1週間後、廖さんのお父様、廖阿霖の息子は97歳で生涯を閉じたと聞く。もしコロナが無くて2‐3年前に来ていたら、日本語で様々な話が聞けただろうと思うと、何とも残念、いや言葉が無かった。

陳さんに高鐵台中駅まで送ってもらい、台北に戻った。車中、頭では常に廖家の存在を考えていた。そして歴史を追うとはどういうことなのか、をじっと考えている。考えれば考えるほど、腹だけが減る。手近なすき家で夕飯を取る。まあ、この低価格路線、悪くはないのだが、今日の気分ではなかったようだ。

中壢台中茶旅2023(1)中壢のミャンマー人村へ

《中壢台中茶旅2023》  2023年6月1日-2日

今年の台湾滞在の最後に中壢に行く。そしてなんと翌日は日帰りで台中へ向かう。何となく慌ただしくなったが、とても重要な情報を得て、非常に貴重な面談を果たした。やはり大切なことは動くことだ。

6月1日(木)ミャンマー人村へ

今朝は雨が降っていた。待ち合わせ場所である台北駅へ何とか向かった。中壢行きのバス停はすぐそこだが、雨が強すぎて行くのを躊躇する。同行してくれるTさんは駅舎内のマックで朝ご飯を買っている。時間が来たので雨の中を走り抜け、バス停に着くとちょうどバスが来る。時刻表より少し早いが乗り込むとすぐに出て行く。この辺のいい加減さがバスにはある。

バスで約1時間走ると、中壢のバスターミナルに着いた。ここからバスを乗り換えて、目的地、龍岡へ向かう。私一人ならバスの乗り換えも迷っただろうが、Tさんが一緒なので、実にスムーズに進行する。4年前に来た中壢、最初は見たことがある風景であったが、その内全く知らない所へ向かっていく。

20分ほど乗って、忠貞というバス停で降りる。そこは台湾ならどこにでもありそうな田舎町。すぐに路地に入ると市場に繋がっている。野菜などが売られており、その先にTさんお目当てのナーン屋さん?があったのだが、残念ながら今日は閉まっていて食べられなかった。この店に清真の文字が見えた。

その先には中華民国の国旗が無数にひるがえっている。国旗屋と書かれたその店は、本当は何屋なんだろうか。この辺から、この街が普通ではないと思い始める。そこから径に入ると、イスラム教会、龍岡清真寺が見えてくる。その規模はかなり大きく、回族が多く住んでいることを窺わせる。

当初は1960年代に建てられたというこの寺、当日は中に入ることは叶わなかったが、かなり立派な造りとなっている。現在の形になったのは1980年代だろうか。そして説明書きにも、1954年にタイ・ミャンマー北部から移動していた国民党系の人々について書かれており、ここも所謂ミャンマー人村の一つだと分かる。近所にはタイ・ミャンマー雑貨を売る店がいくつかある。

それから異域故事館を訪ねる。ここは見るべきということでTさんが予約していてくれた。タイから戻った人が立ち上げた展示館で、多くの資料があるらしい。時間になると予約した人々が集まり、ガイドが華語で説明しながら、展示を見て回る。オーナーが収集した数々の武具や写真が目を引く。

約30分見学する。ガイドも我々が日本人なので興味を持って、ここへ来た理由を訪ねてくる。残念ながら茶に関する展示はなかったが、タイ北部と国民党の繋がりを台湾側から見る機会を得たことは収穫だった。この国民党兵士の帰還に関しては、往時もかなりの温度差があったのだろうと感じる。

お昼は名物米干を食べに行く。かなり混んでいるが、何とか席を確保。米干とは『インディカ米を磨いて、ペースト状にして鉄板に載せて蒸す。出来上がったら、太い麺のようにカット』と書かれているが正直よく分からない。豚肉、豚レバー、卵が入っているのが定番。スープはあっさりしている。なぜこれが雲南にあるのか、今度タイ北部へ行って探してみよう。

最後に雲南文化公園へ行く。『魅惑の金三角』という文字が躍っているが、そこは老人がボーッと座っている、実に静かな公園だった。米干節などイベントの際は賑わうらしい。公園内には国民党軍の苦難の歴史なども展示されているが、普段は見る人もいないようだ。既に70年前の歴史となっている。

バスで中壢駅に戻った。何となく話し足りないので、カフェを探して入る。台湾のカフェはどこも実に独創的で、若者が丁寧にコーヒーを淹れている。そして接客も笑顔で好感が持てる。ここでTさんとまた歴史話を繰り広げてしまい、気が付くと辺りは夕方になっている。慌てて台北行きのバスに乗り込むも、台北駅には行かないようで、Tさんに教えてもらい、何とか最寄りバス停で降りた。

6月2日(金)鹿谷へ

翌日もまた出掛ける。今朝は高鐵で台中に向かう。7時台の高鐵に乗るのは今回が3回目。もう慣れたものだ。高鐵台中で下車して、すぐにバスに向かう。ここから鹿谷まで行くバスは渓頭行きで人気があり、コロナ前は乗車できないこともあった路線。今回はどうかと聞いてみると、今停まっているバスに乗れ、と指示があり、急いで駆け込むと、最後の一席が一番後ろに残されていた。やはりもうコロナは過ぎ、路線は完全に回復しているようだ。

ある日の台北日記2023その6(4)バタバタの帰国

カフェの閉店までずっと話していた。暗くなっていたので、近所で夕飯を食べようということになり、いつもの食堂へ行ったが、その横の鴨肉屋が気になっており、入ってみる。何とほぼ満席で最後の一席に飛び込む。偶には美味いものを食べようと、店の人に聞いてみると、このおじさんが勧め上手。結構いい物を選べて大満足だった。一人ではなかなか入れない店、時には相棒が必要だ。

6月7日(水)昔の上司と

いよいよ明日は東京へ帰る。これまでこの部屋に3年半預けていた荷物をどれだけ持って帰れるのか。勿論葉さんは『荷物を早く持って帰って』などとは言わないのだが、私としてはコロナ禍のような不測の事態は今後も起こると考えなければならず、出来るだけ引き揚げておくようにしたい。その為にスーツケースまで買って、何とか押し込んでいくが、これまで貯めこんだ荷物は簡単には片付かない。

更には資料も出来るだけ持ち帰りたい。台北に来るのは来年になるので、それまでのストックも欲しい。何で2か月もいたのに、こんなに慌ただしいんだろう。急いで図書館に駆け込み、最後の収集に励む。そしてその近所でサンドイッチを食べたが、残念ながら私の好みではなかった。

実は昨晩突然、その昔サラリーマン時代の上司から連絡があった。何年も連絡していないのに、なぜ私が台北にいると分かったのだろうか。彼も半信半疑でメールしたらしい。これもまた運命だ。最後の晩はTさんと会うことになった。林森北路近くのホテルで落ち合い、懐かしの梅子に入る。

梅子、30年前は50回以上ここで食べた懐かしい店だ。Tさんとも出張などで来たのかもしれない。昔は圧倒的日本人客が多かったが、今は台湾人も多い。それでもウエートレスは流ちょうな日本語を話し、何とか最後の一席を確保して座る。そして懐かしい料理を注文して美味しく頂く。Tさんは私よりだいぶん年上だが、未だに現役で、出張できているというからすごい。ご馳走様でした。

6月8日(木)東京へ

朝から2つのスーツケースに詰めに詰め込んだ。本などがかなり重いので、預けられるか心配になる。そして最後の昼ごはん、やはり刀削麺を食べに行く。2か月前より随分と暑くなっており、初めてクーラーの効いた室内で食べる。まあどこで食べても美味しいが、涼しいのは有難い。

いよいよ部屋を出た。いつもはMRTで行くのだが、スーツケースが2個あるのでタクシーを拾う。初めてかな。何と15分で松山空港に到着する。早過ぎて空港ロビーに人影もまばらだ。チェックインはスムーズで、すぐに出国審査。ここもあまり人がいない。飛行機を待つ間もそれほど混んでいる様子はなかったが、フライト自体は満席だ。

フライトは30分ぐらい遅れて出発。機内では映画を見て過ごす。因みにエバ空港は安全の案内にもお茶が登場する。流石だ。機内食もまあまあ美味しい。結局30分遅れて羽田に到着したのだが、そこから預け荷物が何と1時間以上出てこない。しかも何の説明もない。ある人たちは地方へ帰る電車が無くなり、ホテルの手配を始める。台湾人もこの対応には不満そうだ。ずっと立って待っているのはやはり納得がいかない。

ようやく荷物を受け取り、空港バスに乗る。まだ10時だから余裕だが、もう少し遅ければ大変だ。羽田はやはり人員不足で手が回らないのではないかのだろうか。新宿に着くと雨が降っている。ここでタクシーに乗ればよかったのだが、何故か息子に連絡して駅まで傘を持ってきてもらった。結局二人で荷物を引き、濡れながら帰る。なんてことだろう。

ある日の台北日記2023その6(3)リアル茶金に会う

幹事役の杜さんは元銀行員。実は廖さんもその昔は銀行員ということで、そんな話でも盛り上がる。皆さん食事をしながら、思い思いに川柳を詠んでいる。私もご飯をお願いすると、懐かしい台湾の洋食が出てきた。帰りがけに日本人の若い女性から声を掛けられた。台湾大学に留学しており、歴史を学んでいるという。

彼女は何と浜松の出身で、『藤江勝太郎について調べてみたい』と言われたので、天地がひっくり返るほど驚いた。藤江勝太郎、5年前まで地元でもほぼ知られていない名前だったが、いつの間にか大学生がその名を口にするようになったとは、何とも感慨深い。歴史とは動いていくものなのだ。

そこから今度は南機場夜市の方へ向かう。昨年末の忘年会で知り合ったKさんからお誘いがあったので行ってみることにした。そこは四川料理と書かれた食堂。既に人が集まっており、その中には旧知のBさんや作家のKさんなどもいて驚く。Kさんのこれまでの台湾での活動の広さが良く分かった。

更には大変台湾料理に詳しいAさんやベジタリアンのIさんなどもいて、非常に有意義な夜を過ごした。今月日本に来る台湾人が、ベジタリアンであったり、牛肉を食べなかったりと、食事について色々とあるのだが、その解決法なども勉強になった。Aさんからは台湾語をはじめ、言語についても色々と教えてもらう。何とも有難い。帰り際、大雨となり難儀して帰宅する。

6月5日(月)スーツケースを買いに

今日は台北駅へ行った。駅付近は以前よく泊まっていたので、知っている店が多いと思っていたが、随分と様変わりしていて、馴染みの店が無くなっていた。ちょっとショックだが、コロナ禍もあり、それは仕方がないことだ。ただ周辺はやはり安い弁当屋などが多く残っており、その意味ではあまり変わっていない。何故か新しい、きれいな店に入った。蒸し鶏に特製ソースをかけて食べるのだが、まあまあ美味しい。

それから駅の地下街に行き、スーツケースを買う。前に行ったことがある店があったのだが、残念ながら閉まっていた。仕方なく、他を探していると、ちょうどよさそうな店があったので入る。聞いてみるともう20年もここで商売しているという。コロナ禍はお客が来なくて大変だったが、最近ようやく回復してきたようだ。まあ手ごろなケースが手に入ってよかった。

6月6日(火)歴史好きの若者と

朝起きると、サンドイッチが食べたくなり出掛けるも、お目当ての店は休業しており、結局今回ここでは一度しか食べずに終了となる。仕方なく近所をフラフラすると、意麺の店があった。しかも排骨羹がプラスされているので、思わず注文した。これは予想外の旨さ。最近予想外の旨さに出会うことが何度かあったが、もう少し早く見付けるべきだった。

午後、先日出会った留学生と会った。宿泊先の近所ではあるが、待ち合わせたカフェは全く知らない場所だった。確かに近所には若者向けのカフェは沢山あるのだが、おじさんが一人で入ることはないような雰囲気で、特に気にも留めていなかった。コーヒーも高くはない。

彼女が『藤江勝太郎を調べたい』と言ってくれたことが、とても嬉しかったので、話を聞いてみることにした。彼女は湾生などをかなり調査しており、先日来台した湾生にも同行していた。リアル茶金の廖さんについても、歴史を知りたいということで川柳会に参加していたらしい。藤江勝太郎とは台湾統治時代の設立された製茶試験場の初代場長。そして静岡県森町出身で、台湾茶業の基礎を築いた男だが、その存在はそれほど知られてはいない。

ある日の台北日記2023その6(2)旧三井倉庫の講演会

5月30日(火)蘭州拉麺

そろそろ台北を離れる準備が必要となってきた。まずはいつもの図書館へ行き、必要となる資料を探し出す。かなりの成果が上がったので、満足して終了し外へ出る。ランチを食べようと店を探すと、蘭州拉麺の看板を見かけたので入ってみる。先日高雄で食べた牛肉拉麺が美味しかったので、何となく惹かれたのだ。

看板に偽りありか。蘭州拉麺と書かれていたが、メニューにはそんなものはない。結局牛肉拉麺を食べることになる。台湾の牛肉麺は蘭州拉麺が発祥ということなのだろうか。しかしあの中国にある蘭州拉麺は台湾にはないのだろうか。牛肉をいつから食べているかも絡んで興味深いテーマではあるが、残念ながら解決の糸口は一向に見えない。

6月3日(土)旧三井倉庫で

本日は旧三井倉庫で講演会があるというので、行ってみる。先日鉄道博物館を見学したついでに1階だけちょこっと覗いてみたが、2階には上がれなかったので、ちょうどよい機会だだと思い、申し込んだ。この倉庫も100年前から三井紅茶が搬入されたのだろうか。そんなことを考えながら眺めるとちょっとワクワクする。

講演のテーマは『三峡茶業文化』であり、大いに興味あり。勿論三井の茶工場がここにあったことは重要なポイントの一つではあるが、台北郊外の茶の歴史、という、地域誌はあまり確認したことがないので、じっくりと聞いてみた。三峡茶業の歴史は1700年代に始まるとの話もあったが、果たしてどうだろうか。この手の話は凍頂烏龍茶の歴史などにもみられるので、見解が分かれる所だろう。

参加者は、歴史好きの一般台湾人と講師のお知り合いという感じだろうか。日本でも偶にこのような講演会があるのかもしれないが、台湾の場合は何だか和気藹々としていてよい。日本の場合、どうしても『私は知っている』といったマウントを取るような発言をする方がいるので、あまり好まないが、本日はそのようなことはなかった。

講演後は講師を囲んで、質問が飛び交っている。一方では呈茶が行われており、三峡茶が試飲されている。まあこのようなコラボは当然のことではあるが、一般の方々は歴史のお話しだけでは満足できないのだろう。2階の空間もかなりリノベーションされており、往時の雰囲気はない。

6月4日(日)リアル茶金に会う

朝ご飯はセブンに行って、初めておにぎりを買う。葱塩焼肉30元。思ったよりは食べられる。これからは時間がない時など、このおにぎりで過ごそうかと思ったが、もう帰国まで数日しかない。合わせていつも食べているあんパンを頬張る。伝統的な、安定的な味と値段は喜ばしい。

今日は何と台湾川柳会に行く。私は川柳とは全くの無縁だが、先日会ったHさんが『リアル茶金に会いたいなら川柳会ですよ』というので、その言葉通りに訪ねてみた。南京路のホテルの2階、月に1階開催されているというこの川柳会。台湾人と日本人が十数人集まっている(中には日本から来た人たちもいた)。その中に最年長96歳の廖さんがいた。

『茶金』とは一昨年台湾で放映されたテレビドラマで、主人公は戦前戦後、紅茶生産などで財を成した新竹北埔の客家一族。台湾史がきめ細かく描かれており、かなり好評だったと聞く。突然訪ねた訳だが、幹事役の紹介で廖さんから話を聞くことが出来た。

ある日の台北日記2023その6(1)台鐵弁当とうなぎ

《ある日の台北日記2023その6》  2023年5月26日-6月8日

5月26日(金)台鐵弁当

高雄から戻り、どっと疲れた。やはり暑いのだ。朝から外へ出る気にならず、部屋にあるものを食べて過ごす。それでも昼になれば腹が減り、また弁当屋で食事を取る。お目当ては味噌汁でお替りも自由だった。暑くても食欲が出ることは前向きに考えるべきだろう。

先日頼んだ名刺を取りに板橋へ向かう。もう慣れた道なので迷いはない。こんなに沢山名刺を持ったので配りたい気分になるが、実はもう配る機会はそれほどない。なんだか不思議だ、なぜ私は名刺を作ったのか。何となく持って安心したい、という気分だけだったのだろうか。

帰りに板橋駅の地下でパンを買った。水分以外はパンが一番だと思ったのだが、何とその反対側に台鐵弁当屋を見付けてしまう。先日台鐵に乗っても弁当を食べる機会はなかったので、やはり一度は食べようと列に並ぶ。弁当は2種類で、昔安い60元弁当はもうなかった。取り敢えず標準装備の鶏腿100元弁当を買って持って帰った。容器も以前の紙ではなく、プラスチックになっている。まあコロナもあったし、当然変化するよな。

5月28日(日)林森北路を歩く

最近週末よく出かける。今日はTさんのお誘いで、ランチに出向く。場所は林森北路と聞き、少し早く出て、周囲を散策した。ここはその昔は良く出没したエリアだが、現在はかなり変化した街になっている。飲み屋街を観光客が歩き、泊まる場所になっているので驚く。

Tさん指定の店は鰻屋さんだった。この辺でうなぎと言えば肥前屋。その前を通りかかると、相変わらず行列が出来ている。30年前の倒れそうな古い店が懐かしい。かなり暑いので、歩いている人は多くないが、ここだけは人がいる。最近は本当に飲み屋が減り、各国料理、ホテルなどに変身。

Tさんと、そのお知り合い一家と食事。彼らは今度北京に転勤になるというが、小さなお子さんがいて、何となく大変そうだなと思う。今北京、いや中国は昔とは全然違う。まず入国する時からして大変だ。ビザ取得も時間が掛かるかもしれない。現地でも慣れるまでは台北とは大違いだろう。うなぎセットを美味しく頂きながら、ちょっと昔話をする。

5月29日(月)肉巻

今日は先日高雄で訪ねた鄧先生の依頼で、茶商公会に彼の本を届けた。茶商公会には本当にお世話になっており、本を届けるぐらいはお安い御用だ。更に色々と情報を集めたかったが、既に台湾滞在期間も残りわずかだったので、今回はちょっとお礼を述べてすぐに帰った。

折角なのでまた金春発で別のメニューを食べようと行ってみたが、何と月曜日定休を忘れていた。さて、どうするかと歩いていると、旧円環付近に老舗がいくつかあった。その中でどうしても食べたくなったのが、肉巻。それに魯肉飯、肉羹、鴨蛋を並べて食べまくる。もう台湾が残り少ないので、許して欲しい。

それにしてもこの肉巻、実に美味い。タレが独特だ。この店は60年以上の歴史があるようで、思い出してみれば10年以上前に、ここで食事をしていた。日本のガイドブックにも載っているのか、日本人が日本語で注文しても、店員は難なく捌いている。何というべきか。

帰りに中山駅に行くと、地下通路に誠品書店があるので、そこで涼みながら、本を眺める。細長い、広い店内に日本関連の本が目に付く。ドラッグストアーに寄ると、広告の女優さんの多くも日本人のように見えた。今や当たり前になっているが、台湾には日本が溢れている。夜はまた炒羊肉を食べる。

台南・高雄茶旅2023(4)文藻外国語大学へ

一度宿に戻り休息。暗くなった頃、近所を散策して夕飯を探す。1軒、客が外まではみ出している店があった。牛肉拉麺と書かれており、ちょっと興味を持って入っていく。お客が多い中、何を頼むべきか分からず、注文するところへ押し出されたので、牛肉拉麺というしかなかった。他の客は小菜も頼んでいるので、キュウリを頼んでみた。

少し時間は掛ったが、あの大混乱の中でも店員は注文を間違わずに運んできた。さすが高雄の人気店。スープの味が濃厚で、麺はしこしこ。これなら客が集まるわけだ。それにしても台湾人はいつから牛肉を食べているのだろうか。やはり戦後かな。帰りにおーいお茶を買ってみる。日本産茶葉100%使用だ。

5月25日(木)高雄の大学で

朝ご飯は地下にあった。宿代の割には充実した朝食だった。今の台湾、特に若者的には、きれいで機能的な部屋、健康的な朝食が求められているようだ。宿に荷物を預けてチェックアウトしようと思ったが、荷物がロビーに並べられているのを見て止めた。これなら盗まれても分からない。セキュリティーは重要度が低いのだろうか。日本の新しいチェーン店でもスペースが無くて、こんなことになっているのを思い出す。

今日は高雄の大学を訪ねる予定になっていた。台湾で唯一の外国語大学である文藻外国語大学へ向かう。バスを検索すると数分歩いたところから出ているとあったので行ってみたが、バスはいつ来るか分からない。おまけに午前9時でもかなり暑くて、待っているのもしんどい。

何とか来たバスに乗り込む。何と長距離バスだった。20分ほど乗っていると到着する。門を入るとここがキリスト教系の大学だと分かる。まだ少し時間があったので周辺を散歩する。立派な図書館などがあるが、学校自体は大きくない。私も日本の外国語大学卒だから、その小さい理由はよくわかる。

時間に正門へ行くと、連絡していた鄧先生がやってきた。何と広報の人も一緒で、まずは自己紹介をして、写真を撮る。それから先生の研究室へ向かい、横の会議室で色々と話を聞く。先生は1930年代の台湾の茶貿易について調べており、特にシンガポール華人との繋がりについて、現地調査(実在の茶荘)していた。ただ勿論本業は茶貿易ではないので、その調査は関連する一部だけのようではあった。それでも十分に貴重な情報を得ることが出来て満足だった。

昼前に先生の教え子がやってきて、車に乗せてくれ、ランチに行った。しゃぶしゃぶの店だったが、前菜やデザート、ご飯や野菜などは取り放題で、メインのしゃぶしゃぶも豪華だった。私は普段食べないが、台湾では平日の昼間から、多くの人がこんなものを食べているのかとちょっと驚きだった。ご馳走になり感謝する。

それにしても外は35度、日差しも強く南国の強烈な暑さだった。これからどうするかと尋ねられ、取り敢えず高雄駅まで戻りたいというと、また車に乗せてくれ、送ってくれた。途中の道路を見ていると、本当に歩いている人はなく、車も少なかった。そして車が着いた先は高雄駅ではなく、高鐵の始発駅、左営駅だった。台北に帰るものと、気を利かせてくれたのだ。私は元々潮州あたりを歩いてみようかと考えていたのだが、この暑さですっかりその気はなくなり、駅に来たのをよいことに高鐵に乗ることにしてしまった。

自由席だが、始発なので座れる。そのまま疲れた体をシートに沈めるとあっという間に寝込んでしまい、後はただ流れに任せていたら、いつの間にか台北まで運ばれていた。僅か2時間半で着いてしまう。東京‐京都間の距離なのだ。台北に着いてから、急に潮州へ行きたくなったが、それは来年のお楽しみにしよう。

台南・高雄茶旅2023(3)台湾糖業と逍遥園

そこからDさんの案内で食事に向かう。最初に市場を通ると、そこにおいしそうな麺があったが、もっと美味しいものがあるというので通り過ぎる。そして辿り着いたのは、昨日歩いていた赤崁楼の横だった。午前11時頃だったが、その店はお客で溢れている。何とか席を確保して、並んでいるおかずから好きなものを選び、肉燥飯と一緒に食べる。内臓系が旨い。美味い店は地元の人が一番よく知っている。ここでDさんの近況や将来などについて聞く。

台湾糖業で

Dさんと別れ、駅まで歩き、荷物を取りだして台南駅から電車に乗る。今日は高雄に泊まる予定だが、折角なので途中で寄り道。橋頭駅で降りる。駅から遠くを眺めると煙突が見える。その方向に10分ほど歩くと、台湾糖業が見えてきた。特にチェックもなく、自由に中に入り、参観できる。

入るとすぐに古ぼけた建物が見える。これは日本時代の物だろう。その前には巨大な木とそこに作られた防空壕があり、歩いていると時空を越えそうな雰囲気が漂う。ちょっと行くと当時の廠長宿舎がきれいに整備されていて我に返る。この先は糖業博物館と書かれていたが、門番のおじさんに聞くと『ここからすべて博物館だよ』と教えてくれた。そして私が日本人だと分かると、実に親切に対応してくれて嬉しい。

少し歩くと立派な、オランダ風の建屋が見える。ここは事務所だったらしい。その前に胸像がある。台湾製糖初期から携わり、社長も務めた山本悌二郎のもので、台糖と三井の関連を思う。建屋内にも色々と展示があった。その外に観音像が見えたので近寄る。これがあの初代社長鈴木藤三郎が作ったものなのか。つい先日彼の出身地、静岡県森町で見たものと同じようだ。この辺に深いつながりが感じられる。

そこから工場の方へ向かう。今も現役なのだろうか、大きな設備が見られるが、人は誰もいない。その向こうの倉庫跡が整備されて、イベントなどに使われているようだ。敷地がかなり広いので、既に暑さにやられ、疲れが出て来る。さっきの煙突があり、その向こうには鉄道が敷かれている。往時はこれで砂糖が運ばれたのだろうか。

何とか一周回ってさっきのおじさんに挨拶する。『高雄へ行くなら、その先に駅があるよ』とこれまた親切に教えてくれた。敷地を出るとすぐに廟があり、その向こうにMRT橋頭糖廠駅があった。台鐵駅に戻るよりはだいぶ体力がセーブできた。高雄方面も詳しくないので、こんな交通手段があることに驚く。

高雄で

30分ほどきれいな電車に乗っていると、高雄駅に着いた。今日はこの付近に宿を取ったので、楽ちんだと思った。ところが高雄駅は改修中で、結構分かり難い。更に私の宿は駅の裏だったようで、更に分かり難い。何とか辿り着いたそこは、全く賑わいのない裏道。そして新しくできたらしいそのホテルのロビーは殺風景だったが、部屋はまあまあ。

まずは歩いて逍遥園に向かう。ここは日本時代末期、大谷光瑞が建てたもので、熱帯植物研究の基地だった。戦後は完全に埋もれ、近年解体の危機にあったが、何とか保存が決定し、ここに修復されたと聞いたので、見学に出向いた。旧市街地の一角にきれいに整備された場所が現れた。係員はいたが、見学は自由。参観者は多くはない。

和洋折衷の2階建て建物は1940年に作られた。その修復にどれだけのエネルギーが必要であったか、それをここでは展示している。勿論本願寺や光瑞についても語られている。実は私が知りたかったのは、光瑞が投資した茶について。唯一見付かったのは、光瑞の弟子の広瀬の写真かな。

フラフラ付近を歩いていると、何となく古い高雄にタイムスリップした気になる。私が初めてここへ来た約40年前、勿論随分変わっているが、関東煮や山本頭など、懐かしい文字も並んでいる。ただ賑わいという点では、残念ながら今は寂しい限り。全てが台北に回ってしまったのだろうか。

台南・高雄茶旅2023(2)朝は画廊で

取り敢えず外へ出た。台南は4年ぶりで、駅前宿泊も何度もしているが、未だに道を覚えない。ホテル前の広い道をまっすぐ歩いてみる。腹が減ったので食堂を探すと意麺の文字が見える。乾意麺を注文するといい感じだ。台南に来たら、まずはこれを食べないと始まらない。

すぐ近くに赤崁楼があった。ここは1653年にオランダ人が創設、もとはプロビンティア城と言われ、鄭成功も拠点とした場所。今や台南観光の中心地だ。台南に初めて来た1984年には見学したと思うが、今はかなりきれいになっている。近所に天后宮などもあり、古き良き台南だった。

天后宮の横の細い路地を入っていくと、古い茶荘が見えた。その先に武廟がある。先日茶商公会で聞いたのがここの歴史。何とここには1818年に茶商の集まり(茶商組合の前身)が寄進した記録が壁に残っているというのだ。台湾最古の茶商はどこだ、という話を前に追いかけたことがあるが、1836年というのが一番古かった。この茶荘は今でも台南にあるが、それより以前に台湾には茶商がいた、しかも1つではないとなると歴史はどうなるのだろうか。

とぼとぼと駅まで戻る。駅の中は相変わらずレトロだが、改修中の足場などが何となく痛々しい。ここにステーションホテルが出来るのだろうか。我がホテルへ行き、チェックインして部屋に入る。それほど良い部屋でもなく、料金はそれなりだからコスパは良くない。唯一良いのはレトロな雰囲気だろうか。

少し休むと夕飯の時間となる。小雨が降り出したので近くで食べようと探すと、ちょうどよい雰囲気の食堂があった。外にメニューが出ていたので、それをゆっくりと眺めていると、おじさんが『早く注文しろよ』と華語で言い放つ。私は困ってしまい、華語がたどたどしくなる。すると奥さんが旦那に向かい『あんた、外国人が一生懸命中文で話そうとしているのになんてこと言うんだ』と怒ってくれた。何とも有難いのだが、何とも言えない気持ちになる。

台南名物?虱目魚魚肚湯と肉燥飯(南部では魯肉飯はない)を注文して席に着くと奥さんがやってきて『野菜も食べた方がいいよ』と言ってくれたので、追加注文する。ちょうど向こうのテーブルには日本人観光客がいて、楽しそうに日本語で話していたので、思い切って日本語で注文すればよかったな、と思ってしまう。

出てきた料理はとても美味しかったが、何となく後味が悪かった。だが会計をするとおじさんが『あっちの食べ物もうまいぞ。今度また食べに来てくれ』と笑顔でいうではないか。余程奥さんの忠告が効いたのだろうか。本人もかなりバツが悪かったのだろう。何となく晴れやかな気分にはなった。

5月24日(水)朝は画廊で

翌朝はゆっくり起き上がる。食欲に乏しく、部屋でゴロゴロする。朝8時半にチェックアウトして荷物を預けて、出掛ける。今日は台南在住のDさんと会う予定になっていたが、指定された場所は何と画廊だった。しかも画廊が開く前の時間、オーナーに日本語を教えているので、一緒にどうかという。

街の中心にあるその画廊は、かなり奥ゆかしい建物だった。日本的な窓枠、階段、中庭などもある。2階の一室で日本語の授業が始まる。Oさんとは8年ぶりだが、その時は蕎麦屋を開店しようとしていた。その後コロナ禍で蕎麦屋を辞めて、台湾の歴史本を翻訳して出版するなど活躍している。音楽なども行い、実に多趣味な人材だ。

Oさんの授業はかなり実践に即しており、今日はオーナーの娘も参加して、日本の話題を話している。彼女は京都が好きで住みたいらしい。かなり京都関連について勉強している。なんだか楽しく1時間話している内に授業は終了した。こういう授業であれば飽きないだろうな。

その後画廊内を見学する。台湾人の画家の絵が掛かっていたが、何と彼の先祖は西夏だというので驚く。私は潮州人を追いかけてみたが、台湾にはもっと様々な民族がいるということが分かり、益々興味が沸く。この画廊には日本人の作品が展示されることもあり、その作品は人気で、よく売れるという。こんなところにも繋がりがある。

台南・高雄茶旅2023(1)奇美博物館へ

《台南高雄茶旅2023》  2023年5月23日-25日

台北滞在も1か月を過ぎ、一度南部へも行こうと思い立つ。はたしてどこまで行けるのだろうか。今回はちょっといつもと違う感じの旅となる。

5月23日(火)奇美博物館へ

朝起きて台北駅へ行く。ちょうど1か月前台中に向かった時とほぼ同じ感じだ。今回は台中を通り越して台南まで行ってみる。時間的には30-40分伸びるだけで、料金も高鐵で600元ほど増えている。実は台南には何度も行っているが、高鐵駅で降りた記憶がない。なぜだろうか。

高鐵台南駅へ降りてみたが、やはり記憶はない。そしてここから台南方面へ向かう電車がどこから出ているのか、良く分からずまごつく。改札を出ると、珍しく日本人の団体さんと遭遇した。高齢者が多く、ガイドさんが日本語で細かい注意事項を伝えており、大変そうだった。

台鐵沙崙駅を何とか探し当てる。三井アウトレットモールの看板が見える。台中だけでなく、台南にも進出か。電車は既にホームに停まっていた。2両編成の車両は上を走っていく。車内はきれいだが乗客は少ない。中洲駅で高雄方面は乗り換えとなる。私は台南方面に一駅乗って保安駅で下車した。

保安駅の駅舎(1908年建造)は実にレトロでよい。そういえばその昔『保安‐永康』間の切符がブームになったことを思い出す。駅前を歩き出すとバス停もレトロだったが、今はかなり荒れていた。更に橋を渡り、向こう側を見ると広大な敷地が見えてくる。駐車場側から入っていく。ここが奇美博物館だった。

奇美実業は台湾有数の企業であり、その老板許文龍氏の名は各方面で知られている。私ももう30年近く前に一度だけ仕事で会ったことがあるが、実に飄々とした人物であった。ただその事業は極めて合理的で、先進的だったことは良く覚えている。帰りに当時の奇美本社ビルの上にあった博物館を見学した。許氏は自らも芸術家であり、世界中から美術品、工芸品を収集し、台南の子供たちに見せていた。

その博物館がいつの間にか郊外の巨大スペースに移されていた。入場料を払い、中に入ってみると、自然科学から歴史まで、展示物はかなり多い。鎧があると思えば、楽器があり、美術品が納められた部屋があれば、はく製なども自然に置かれている。それでもスペースはかなりゆったり取られており、2階まで上がって一生懸命見た。だが私の今回の目的、許氏が自ら作成した日本人胸像を見付けることは出来なかった。この胸像、先日盛岡で新渡戸さんの物を見たし、新井さんについては魚池と沼田で見てはいるのだが、他の人もまとめて見られれば、と思った次第だ。

仕方なく一回りして外へ出た。インフォメーションへ行き、日本人像について尋ねると『以前特別展をやっていた記憶はあるが、今それがどこにあるのか分からない。メールで問い合わせてみては』といい、メールアドレスを教えてもらった。そこへメールしてみたが、その後も何の返答もない。私の言語が不明瞭であったろうか。

台北に比べて南部はかなり暑い。ここから台南行きバスも出ているようだがいつ来るか分からず、結局また保安駅へ戻り、台南駅まで一駅乗る。台南駅は4年前来た時も改装中だったと思うが、今も尚改装中で驚いた。後で聞いたら、途中で工事が中断したらしい。コロナのせいではあるまい。

今日は駅前の老舗ホテルを予約していた。1時過ぎにチェックインしようと思い行ってみると何と『チェックインは4時からです』で言われてしまう。これではまるで東横インだ、と日本語で言うとフロントの女性は『では3時まで荷物を預かります』と今度は日本語で答えた。後ろでも日本語が聞こえるこのホテル、どうなっているのだ。