ベトナム南部茶旅2023その1(4)バイリンの茶畑で

劉さんは私を車に乗せて走り出す。劉さんは台湾人で、バオロック(正確には隣のバイリン)に来て15年になる茶師だった。しかも出身は南投の鹿谷というから驚いた。共通の知り合いの名が何人も出て来る。この田舎町で初めて会ったのに5分で打ち解けてしまった。これこそ茶縁の成せる業。

車はバオロックの街を抜けて20分ほど走り、茶工場に着いた。ここが現在の劉さんの仕事場。結構大きな工場で、敷地も広い。空気が旨い。今日は天候の関係で製茶はない。ベトナム人がオーナーでちょっと挨拶したが、地元の名士といった感じの紳士だった。近年この付近の茶園はベトナム人オーナーに代わったところがいくつもあるという。

劉さんは以前近所の台湾系の茶工場で茶を作っていたが、2年ほど前ここへ移ってきたらしい。ここに住み、ここの物を食べて生活している。『慣れてしまえば、ここの生活は悪くないよ』という。勿論製茶時期が終われば台湾に帰り、鹿谷で奥さんと暮らすというが、コロナ禍の3年近く、台湾には帰れなかったというから大変だった、と話しながら高山茶を試飲させてくれた。

私が15年前にバオロックで台湾系茶園を訪問したことがあると告げると劉さんが車を走らせて、『ここじゃないか』という場所に連れていく。残念ながらここではなかったが、そこに台湾人女性がいて、高山茶を淹れてくれた。何だかベトナムの山中とは思えない出会いだ。だが台湾系茶園はどんどん減っているらしい。

『台湾ではベトナム産烏龍茶に対する規制が厳しくなり、また誹謗中傷もあって、茶作りを辞める台湾人が増えている』というのが理由らしい。確かに台湾に行った時も『コンテスト茶にベトナム産が混ざり、混乱している』などの話は何度も出ていた。だが私としてはベトナム産茶の品質がそこまで良くなったのか、と喜びたい気分だった。それにしても『ベトナム戦争時に米軍が枯葉剤を撒いた土地で烏龍茶を作っている』など言う噂は誰が流したのだろうか。いずれにしても需要が無くなれば淘汰される、ということだろうか。

劉さんはバオロックの街まで送ってくれた。途中の山中、道路脇に古い茶樹が見られた。『これがフランス時代、紅茶を作っていた名残だと聞いている』と劉さんは説明してくれた。確かにフランスは1920₋30年代にこの付近で紅茶を作っていたと聞いている。というか、そのような素地、土壌や気候があって、1990年代に烏龍茶造りが始まったということだろうか。

更に山中でちょっと見晴らしがある場所へ行くと、何と不思議な形の建物が見えた。その前には提灯がぶら下がっている。この付近は最近別荘建設が盛んだという。ホーチミン‐ダラット間の高速道路建設が進んでおり、数年後に完成すれば、ホーチミンから週末来られる避暑地として注目されているというのだ。実は茶園を辞めた台湾人の中には、土地を建設会社に売って資金を回収し、台湾に持ち帰った人もいるらしい。約20‐30年前二束三文だった土地の値段は今や1000倍にもなっているとも聞く。

バオロックの街で劉さんがワンタン麺をご馳走してくれた。そこは華人系の店で、味もなかなかのものだった。劉さんは時々街に出るとここで麺を啜って帰るらしい。見ているとそこで作られたお菓子も買っている。いくらこの地の環境が良いと言っても、やはり慣れ親しんだ味がある。

先ほどとは別のバスターミナルへ行き、切符を買ってもらい別れた。私はこれからどこへ行くのか、全く分からない。行き先の地名すら読めない。張さんがアレンジし、その指示で劉さんが買ってくれた切符なので、問題はないと思うがどうだろう。日が暮れていき、何とも不安にかられる。

ベトナム南部茶旅2023その1(3)バオロック行きの長距離バス

6月28日(水)いざバオロックへ

朝6時に起床。7時にはチェックアウトしてGrabタクシーを呼んだ。今日は久しぶりの冒険旅だと思うと、ちょっと緊張する。とにかく言われた通りのバスターミナルに無事に着けるのか。それは杞憂だった。Grabは正確に私をそこへ連れて行ってくれた。午前9時発のバスなのに、7時半にはターミナルに入った。ここは意外と大きな場所だったが、チケットブースにあまり人はおらず、乗客も見かけない。何よりバスがない。

なんとか張さんが予約してくれたバス会社のカウンターを見付けたが、チケットを見せると、『そこに座って待て』という。30分座っているとアナウンスがあり、何人かがどこかへ消える。私はまたカウンターへ行くが、また待てと言われるだけ。仕方なく周囲を一周してみたが、ここは旧バスターミナルではないかと思われる。

何と8時半になっても呼ばれない。というか、乗客らしい人がいなくなる。不安で張さんに連絡するも良く分からない。それから10分してついに呼ばれた。ところが目の前にあったのはミニバン。ああ、これで新バスターミナルへ向かうんだな、と安心していたら、もう9時になってしまった。バスは一体いつ出るんだ。

しかもミニバンには2人しか乗っておらず、更に途中の小さなバスステーションで降ろされてしまう。さすがにまずいと思ったが、カウンターの女性は英語が出来、長距離バスがここへ来るというので待つ。10分後、どういう仕組みか分からないが、本当に立派なバスが来た。

車掌の若者は私とチケットを見て、『一番前の下』を指した。何とこのバス、全部が座席ではなく、リクライニングブース?ゆっくり寝ていける上、プライバシーも保たれる優れモノ。ちょっと狭いが十分だ。充電ソケットが壊れていなければ完璧だ。韓国製のバス。乗客はほぼベトナム人らしい。

バスは市内の渋滞を抜けると、後はスイスイと走っていく。すぐに田畑など田舎の風景が続いていくものと思っていたが、意外と道路沿いには民家や商店が多く見られる。朝早かったのでちょっとウトウトしていたら、すぐに2時間ぐらい経ってしまった。バスはサービスエリアに入り休息。運転手もランチを取っているので、私も肉まんを買って食べてみる。

そこを出てからは長く感じられた。一体いつ目的地バオロックに着くのだろうか。聞いてみたいが、車掌とは言葉が通じない。ここは耐えるしかない。途中教会がいくつもある街を通過した。その近くには中国寺もあった。この付近はどんな歴史背景を持っているか知りたいが、その地名すら分からない。

乗車から4時間が経過した。張さんの話だとそろそろ到着するはずだったが、何と又サービスエリアで休息する。このバスはダラット行だから、このペースで2時間に一度休息が義務付けられているのかもしれないが、何も分からず揺られていくのはかなり緊張感がある。皆トイレに行くとさっさとバスに戻る。因みにバスに乗る時は靴をビニール袋に入れるが、降りる所にはちゃんとサンダルが用意されており、それを履いてトイレに行く。

そこから更に1時間、ついにバオロックのバスターミナルに入った。車掌も笑顔で降りろ、と合図してくれる。何人かが下りていく。私は周囲を見渡したが、張さんがアレンジしてくれた迎えは来ていない。仕方なく電話してみると、何と後ろに停まっている車の人が手を振っている。ああ、何とかなったと安堵する。

ベトナム南部茶旅2023その1(2)ホーチミンでイタリアンを食べながら

交渉してみたが頑強なので疲れてしまい、お金を支払って部屋に入り、3時間ほど寝た。まあ、ベトナムのサービスは東南アジア型ではないのを忘れていたということだ。部屋は料金の割にはよかった。K社長のお知り合いの紹介だというが、なぜここに泊まっているのかは分からなかった。

昼にまたK社長と落ち合い、近所にランチに出た。よく分からないので適当な店には入ると、『バインクオン』という料理があり、それを注文する。ライスペーパーにひき肉やきくらげを入れて食べる物。それにベトナムハムが添えられており、野菜を混ぜて食べると、意外と旨い。

その後街へ行こうということなり、Grabで車を呼んで、ベンダイン市場へ行った。K社長は早々に店員と交渉して、楽しそうにTシャツを買っている。残念ながら客は少なく、私にも方々から声が掛かるが、買うべきものはない。コロナ禍はまだ終わっていないのだろうか。インド系観光客が目に付く。市場の向かいのホテルのカフェでお茶を飲みながら休息する。K社長は疲れてしまったようで、早々にまた車を呼んで宿へ戻った。

私は飲み物が欲しかったのでコンビニへ向かった。少し離れた場所にサークルKがあり、無事に買い物ができた。夜はK社長のお知り合い夫妻と夕食を取った。Hさんは以前北京にも勤務しており、共通の友人は沢山いて驚く。また奥様は中国茶を習っていたこともあり、お茶の話題でも盛り上がる。ちょっとびっくりの展開だった。

我々の宿はHさんの住まいのすぐ近くにあり、食事場所である雰囲気のあるレストランにも近い。料理はベジタリアン系で、盛り付けがきれい。上品で食べやすく、お茶もきちんと淹れられていた。ベトナム人もべジを好むのだろうか。こんなに話が弾む夕飯も珍しいかもしれない。K社長の人徳だろうか。

6月27日(火)張さんに会いに

翌朝も早く起きて、K社長と朝食を食べた。この宿はかなり静かなので助かる。その後ダラダラして、昼前にGrabを呼んで、出掛ける。今日は張さんに会いに行く。元々今回のホーチミン行はお茶好きの台湾人、張さんにダラット方面の茶畑に連れて行ってもらう予定だったのだが、新婚の張さんの奥さんの体調が悪く、同行できなくなったというので、私一人で行くためのレクチャーを受けに行く。

指定されたショッピングモールは思ったより多くてびっくり。それでもGrabだから安心して乗っていれられる。45分ぐらいかかって何とか到着。そのモールは結構大きくて、ユニクロなどの店舗が多く入っていた。張さんは迷わず、レストランへ入っていく。そこはイタリアンだという。かなりいいデザインの店で、ランチ時でかなり賑わっている。

何とここを経営しているのは日本人だという。日本のイタリアンを持ち込み、ベトナムで何店舗も出店しているらしい。カンボジアにも進出し、何と今後東京へも逆上陸するらしい。出てきたピザもパスタも美味しい。寿司まで出てきたのには驚いた。これからの時代、日本人は和食屋、という発想は古いのかもしれない。東京には世界の旨いものが集まり、外国人もそれを求めてくる時代なのだから。

料金が手ごろ。ベトナムに勃興している中間層にとっては和食より寧ろ手が出しやすい感じかもしれない。張さんからバスの乗り方、アポの状況などの説明を受けたが、やはり一人旅で言葉が通じないのは心配だ。まあ、最悪張さんに電話することで気持ちを整理する。でも張さんと一緒に行けなかったのは、何とも残念だが、これも茶旅だろう。イタリアンを食べながら、お茶の歴史話で盛り上がる。また宿まで車で戻る。

夕方、腹が減ったので、近所で麺を探す。チキンフォーの店があったので、食べてみるとまあまあの味。5万ドンはこの地としては安くないようにも思えるが、ホーチミンはハノイより物価が高いのかもしれない。また店員の対応は決して良いとは言えない。帰りにバインミーが食べたくて、道路沿いの屋台で買う。2万ドン。更にコンビニを探すと、実は宿のすぐそばにあることが分かる。明日は長距離バスに乗るので、一応非常食のパンを買う。

ベトナム南部茶旅2023その1(1)早朝ホーチミンに到着して

《ベトナム南部茶旅2023(1)》  2023年6月25日-6月30日

3月にハノイから鉄道でラオカイへ行き、思いがけない展開で山岳民族の村へ入った。その旅があまりにも刺激的で、どうしてもホーチミンへ行きたくなった。少し長めに滞在し、折角なので6年ぶりにダラット付近にも足を延ばしたいと考えた。

6月25日(日)早朝ホーチミンに到着して

夜の羽田空港に来たのはいつ以来だろうか。朝とは違ってそこまでは混んでいなかったが、それでもかなり人がいた。今回はサラリーマンを辞めてから恐らく初めて日本航空の国際線に乗ることにした。3月にもう一社のいつも乗る航空会社のサービスがあまりにもひどかったので、2社ともサービスが落ちているのか、見てみたかったのだ。

チェックインは順調、そして顔認証が使える(これは日系2社のみ)ので、すぐに登録が出来、保安検査場へ簡単に入れる仕組みとなっていた。僅か10分で保安検査場を潜り抜け、出国も簡単に終わった。その先には深夜便に乗る乗客がかなり席に座って待っている。飲み物でも買おうと探したら、何とセブンイレブンが夜10時過ぎには閉まっており、外国人が珍しそうに写真を撮っていた。24時間営業が普通のセブンで、何とイレブン迄開いていないとは。まあドリンクは自販機で買えるので、問題はない。

機内はきれいで座り心地も良い。深夜なので、すぐに寝入る。ところが3時間後、全ての灯りが点灯して、朝食?が配られた。僅か5時間ちょっとのフライトで、まさか着陸2時間前に食事とは。しかも全員を起こしているからびっくりする。タイ航空やエアチャイナでは考えられない仕打ちに遭う。それでも食事を受けとって食べてしまうこちらが悪いのだろう。

そしてフライトは定刻より早く午前5時にはホーチミン空港に到着してしまった。まだ夜明け前であり、他に到着したフライトもなく、イミグレもちょうど開き始めたところだった。今回は預け荷物もなく、さっと外へ出た。一番気がかりだったのは、スマホのシムと両替。羽田空港なら当然開いていないだろう。事前のネット検索でも8時頃からしか開いていないと書かれていた。

ところが行ってみると、ちゃんと両替ができ、SIMを買うことが出来た。観光客にこのようなニーズがあるのに、商売をしない(出来ない)、日本の空港はもう完全に負けていると思ってしまう。それにしてもあっと言う間にホーチミンに放り出されたが、ここからどうするか。

実は今回は韓国在住のK社長と待ち合わせていた。そのホテルは何と空港の近所だったので、朝日を見ながら歩いて向かうことにした。空港から徒歩で出てきたのは、タイのメーホーンソンや先日の山口宇部空港以来だろうか。暑さもなく、気持ちは良いが、空港の周りは道路で囲まれており、歩いて行くようにはなっていない。

何とか道路を渡り、広い道でケースを引いて行くと、これは結構辛い。やはり歩道の整備は良くない。1㎞以上歩いて何とかホテルに辿り着く。まだ朝の6時前だが、K社長は起きていた。私はフロントで『今日予約したのだが』というと、『今から掃除をするので2時間後に来て』と言われたので、K社長と共に上に上がり朝食を食べ始めた。

K社長には3月ソウルでかなりお世話になったが、またホーチミンで会えるとは感謝しかない。2時間後にフロントへ戻ると、女性が立っていて『あなたの部屋は用意できたので、これだけ支払って』と言われて面食らう。東南アジアでは、部屋が空いていればいつでもチェックインできると思っていたのだが、半日料金を取るというのだ。

東京高知関西茶旅2023(6)三宮で

三宮で

三宮駅は慣れない人間には複雑だったが、何とか予約した宿に辿り着いた。週末の三宮の宿代は驚くほど高かったが、サービスはイマイチで、ちょっとイライラしてしまう。ポストコロナでは、従来の格安感が無くなり、このような気分になりやすいかもしれない。まあ部屋はきれいでよいか。

今晩は大学の後輩Nさんと会うことになっていた。指定されたのは駅の反対側の繁華街にあるスペイン料理屋。だがなぜか突然スマホが動かなくなり、マップが見られない。電波障害か。約束時間になっていたので、以前見たマップを思い出しながら、何とか探し当てた。

Nさんは大学教授だが、その専門は少数民族の言語学だった。先月香港のKさんと会った時に紹介され、折角なのでここまで会いに来た。日本で畲(輋)族について研究している人がいるとは思わなかったので、嬉しくなってしまい、様々な疑問をぶつけお話を聞く。お茶の歴史を解明していくには、特に少数民族の場合は、文献などの資料がほぼないので、このような言語学的観点は極めて重要であると実感する。

スペインバルの料理は、予想以上に美味しく、酒も飲まないのでバクバクと食べていく。何だかとても知識が吸収出来た気になっているが、吸収したのは栄養だけだったかもしれない。それにしてもこのような稀有な人材と出会えたことは何とも嬉しい。それでも畲族については、まだまだ分からないことだらけだ。

6月17日(土)三宮から

翌日はゆっくりと起きて、散歩がてら、一駅歩いて神戸南京町へ行く。前回はコロナ禍で大変そうだったが、土曜日ということもあり、ある程度人が戻ってきているように見えた。豚まんの老祥記などはかなりの行列が出来ており、残念ながらパスした。情報では近所に似たような豚まんを売る店があるらしい。次回チャレンジしよう。

11時に待ち合わせがあったので、指定された場所へ向かった。阪急神戸三宮駅東口改札、と言われていたが、何故か西口で待ってしまった。隣はJR三ノ宮駅の改札だったので、混乱してしまったようだ。慌てて反対側まで走っていくと、何とか懐かしいSさんと再会できた。

Sさんとは北京で一緒の駐在、その後東京でも会っていたが、ここ10年ほどは機会が無かった。偶々連絡があったので、会うこととなった。ところが何ともうすぐ鹿児島に転勤だという。しかもその場所は私が茶の歴史で目を付けていたところに近い。何という偶然だろうか。

ランチはそば焼きを食べる。これが鉄板で焼かれていて、かなり旨い。お客が次々に入ってくるので、食べ終わるとすぐ外へ出て、Sさん行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら、ゆっくりと話を続ける。お互い10年も会わないと様々なことがあるものだ。最近中国へ出張した話などは参考になる。

そこから神戸市立中央図書館へ向かった。ここには2度ほど来ているので、要領は分かっていた。明治期の大茶商、山本亀太郎に関する資料はかなり手に入った。だがもう一人の茶商、武田貞吉については、思うようにいかなかった。仕方なく、亀太郎の像があるという公園の方へ歩いてみる。

途中何故か関帝廟があった。南京町にありそうなものだが、ここにある理由は分からない。すぐ近くの学校の壁には孫文来校のプレートが挟まっている。この付近、今でも多くの華人が住んでいるようだ。諏訪山公園まで行くと金星台や孫文の碑は見付かったが、残念ながら亀太郎の像には出会わなかった。

バスもないので、宿まで歩いて戻ることにした。途中に相楽園という場所があったが、入場時間は過ぎていて入れなかった。何だか立派なお屋敷のようだった。神戸駅付近は細い路地のようなアーケードが並んでいて、暑さを避けて歩けるのが良い。地下鉄で一駅、新神戸駅まで行き、駅弁を買い、新幹線に乗り込んだ。弁当は姫路鶏のり弁。姫路城が立体化できる仕掛けがあった。何だか3時間ほどで品川まで戻ってきた。やっぱり速いな。

東京高知関西茶旅2023(5)五代友厚散歩、そして奈良へ

6月16日(金)大阪散歩

朝はゆっくりと目覚める。昨日までの団体旅行はやはり私には向いていない。気が向いた時に向いた方へ歩きたい。今朝の気分は五代友厚だったので、そのゆかりの場所を歩いてみる。まずは道頓堀を北に向かう。天気が良い中、途中に古い民家が建ち、花火や産などもあって楽しい。

大阪商工会議所まで来るとその横に五代友厚像が他2人の会議所会頭と並んであった。明治維新後、大阪経済の中心、商工会議所を立ち上げたのが五代であった。現在の会議所前には『大阪府立貿易館跡』などの記念碑も立っている。商業の街大阪を支えた男が薩摩出身の五代だったということか。

続いて五代友厚邸跡を探しに行く。途中勝海舟寓居などの表記が見える。海舟はこの地で私塾を開設し、坂本龍馬らが通ったらしい。その近くに大阪科学技術館という立派な建物があり、その先は緑地になっている。この一帯が友厚邸だったらしいが、今や表記も見いだせないのは残念だ。

土佐堀川に出る。旧住友銀行の実に立派な本店がある。北浜まで歩くと大阪証券取引所があり、その前にも五代の像が立派に建っている。証券取引所開設にも関わった五代。その向かいには、江戸時代の俵物会所跡の表記があり、天下の台所大阪の中心地が良く分かる。ここから地下鉄に乗る。

南森駅まで乗る。地上へ上がると、駅のすぐ近くに墓地がある。その中ほどに、ひときわ大きな墓石が見える。五代友厚の墓だ。五代家の人々もここに収められている。大阪で、日本の実業界で大活躍した五代だが、やはり薩摩に帰ることは難しかったのだろうか、などと思ってしまう。

宿の近くまで地下鉄で戻ると、そこに黒門市場があったので、ちょっと寄ってみる。ここは外国人観光客の人気スポットと聞いていたのだが、午前中で入り口付近を除いては、それほど人は多くない。英語や中国語、韓国語が飛び交っている。海鮮などが売られていたが、その値段は決して安くはない。何か食べてみようという気にはならず立ち去る。

奈良へ

宿へ帰って荷物を取りだし、近鉄難波駅へ向かう。しかし歩いて辿り着いた地下の駅には近鉄日本橋駅とある。まあどちらでも近鉄奈良へ行けるので良いのだが、私のボケも相当に進んでいる。昼間なので近鉄特急は空いており、ゆっくりと座って周囲を眺めながら移動できた。

近鉄奈良駅にはOさんが待っていてくれた。何とウルムチ以来10年ぶりの再会だ。Oさんはその後ウルムチからパキスタンに移り、最近帰国して奈良に住んでいるというので、会うことになった。駅から荷物を引いて、観光客の多い地域を歩くと、結構人がいる。それでも古い町並みの奥の方まで行くと誰もいない静けさ。

その一軒に吸い込まれる。ここは古民家を改造した宿屋で、ランチも食べられるという。間口から想像できないほど奥行きがあるのだろうか。庭がきれいに見える。卵焼きメインの定食を美味しく頂きながら、パキスタンやウイグルの話を聞くとは、何とも愉快だ。更には若狭のお茶の話まで出て来る。

それから徒歩数分の所にある心樹庵さんを訪ねる。以前はエコ茶会でしか会わなかったのだが、最近はお店を訪ねたり、一緒に山添村へ行ってもらったりと親交を深めている。Oさんの家も近所ということで、既にお店に何度か行っていた。ここでまた最近分かったお茶の歴史の話などを勝手気ままにしゃべってしまい、申し訳なかった。いいお茶を出して頂くのに、その感想すら述べないのは改めなければならない。

夕方お店を後にして近鉄奈良駅へ戻る。私は全く理解していなかったのだが、近鉄奈良から神戸の三宮までは、何と近鉄特急に乗れば乗り換えなしで行けるのだ。今晩の宿はまさに三宮なので、何とも有難い。始発だから座れるし、約1時間で到着してしまったのは、体力的に有り難かった。

東京高知関西茶旅2023(4)佐川町から伊丹へ

その向かいにある建物、庄屋さんの家だったであろう立派なお屋敷でランチを取る。なんといつの間にかアメリカ人と日本人の夫婦が料理教室を開いており、本日は特別にベジタリアンフードが提供された。畳の立派な座敷できれいに飾られた和食を頂く。何と贅沢なランチ。ここに居れば、それだけで落ち着ける。

何だか時間はどんどん過ぎていってしまう。旧工場を離れ、Sさんの工場に寄り道する。石さんがどうしても紅茶製造機械を見たいというのだ。私とYさんが3年前にエンゼルカップで紅茶を飲ませて頂いたその場所を一同で見学する。そこからまたすぐに車に乗り、何だか山の上の方へ行く。途中見覚えがあると思ったら、それは3年前迷い込んだ道だったのだ。

小高い丘の上に建物があり、ここで試飲会が行われた。午前中の小雨が嘘のように晴れており、抜群の風景、そしていい風が吹き抜ける。石家とSさんの紅茶が並ぶ。淹れ方は石家の娘が披露する。MさんとYさんはその光景を泣きそうになりながら見つめている。石家の紅茶は持木時代に植えられ、残された木の葉を使っているものもある。まさにここで持木と魚池、そして高知が一つに繋がった。皆真剣に試飲している。

楽しい時間とはすぐに去ってしまうモノ。予定時間をオーバーして会は終了。我々は佐川の牧野富太郎記念館も酒蔵も素通りして、一路高知駅へ向かった。台湾組一行は高知駅から岡山へ電車で移動する。実は台湾に帰る直行便の良いのが四国になく、明日岡山から帰るというのだ。駅で駅弁を買い、そこで分かれた。スティーブは何と我々の分のパンを買って渡してくれた。何とも親切な人だった。

私とMさんはYさんの車で高知空港に送ってもらった。Mさんは東京へ戻り、私は伊丹へ向かう。Mさんはある程度のお歳なので、今回の旅は大変だったかと思うが、それにもまして楽しそうだった。持木家と台湾が繋がっていくのが本当に嬉しいようだ。本来であれば高知にもう少して滞在して親族と旧交を温めるかと思われたが、未だ現役で働いておられ、その暇はないようだった。

伊丹から

高知発伊丹行きの飛行機は小さかった。普通は機内に持ち込めるサイズのケースも預け荷物にされてしまった。乗客は満員御礼。フライトは僅か40分、上昇したと思ったらすぐに降下を始めた。ほぼ定刻に伊丹空港に到着。ほとんど人がいない空港、荷物もすぐに出てきて快適。恐らく初めて降りた空港だった。

今晩は難波方面に泊まる、という頭しかなく、どうやって行くのかキョロキョロしていたら、リムジンバスの難波駅前行きがあったので、すかさず並んで乗り込む。そこで初めて予約した宿を検索したら、何とバス停の目の前だと気づき、幸福感に浸る。バスは難波周辺の駅を回り、50分後にようやく南海の難波駅前に着いた。

そこから見えるビルに向かい、宿へ行くと、外国人従業員が『自動チェックインです』と案内してくれる。だがいくら名前を打ち込んでも出てこない。彼女は私のスマホを覗き込んで『ああ、予約したのは姉妹店ですよ』と言い、約1.5㎞歩かないといけないと告げる。オーマイゴッド!

ホウライ屋の前を通り、グリコの看板まで来ると、外国人観光客で溢れている。既にコロナは終わっていた。更に歩いて行くと酔っ払いのおじちゃんなどが歩いており、平和な日本が蘇っていた。何とか宿に着いたが、そこは近鉄日本橋駅の近くだった。なぜ関東系のホテルチェーンが大阪に4つもあるのだろうか。ここもまた自動チェックイン。先ほどと違い外国人宿泊客で溢れている。さっきの方が静かそうでよかったのに。部屋へ行っても、きれいではあるが、料金の割に狭い。

東京高知関西茶旅2023(3)高知城見学、そして佐川の茶工場へ

そういえば家の横に駐車場があったのだが、石さんが『月決駐車場』って何?と突然聞いてくる。確かにそう書いているのだが、彼女は続けて『東京は月極だった』というのだ。やはり漢字圏の人たちは見ているところが違うとはいつも感じることだ。『月決』はマイナーらしいが、この地域では使われている。

車は高知城まで戻ってきた。我々はここから市内を少し散策してホテルにチェックインする。面白いのはYさん、自宅に戻るという。ホテルの駐車場に停めて一緒に散歩しようと言ってみたが、『夜は酒飲むので』と。実は我々東京から来たメンバーは誰も酒を飲まないのだが、『高知人は酒を飲みます』ときっぱり言われて笑ってしまった。

高知城に入ると山内一豊と妻の像がある。ここで何と陳さんがぐっと前に出て、極めて詳細な説明を台湾華語で始めたのには、本当に驚いた。陳さんは歴史好きで、相当本を読みこんでいる。恐らく普通の高知人よりははるかに詳しいと思われ、その後は彼をガイドとしてついて行くことになった。

小雨が降ってきたので、近くのセブイレブンでビニール傘を買う。ついでにスティーブが森永のジャンボモナカアイスを食べようと言い、全員分購入してくれる。私は数年ぶりに食べてみたが、意外にも美味しい。森永との繋がりが大きくなってきているせいだろうか。Oさんからその製法の綿密さを説明されたからだろうか。

最後にひろめ市場をさっと見る。時間的に早いこともあり、お客は多くはなかった。そして彼ら一家は皆酒も飲まず、生魚を食べないので、それほど興味も沸かなかったらしい。ホテルまで歩いて行き、チェックインする。荷物を部屋に入れて少し休むとまた出掛ける。夕飯はYさんが予約してくれていた。

高知に来たらカツオのタタキなのだが、残念ながら彼らは食べない。鍋や野菜など、それぞれが食べられるものを注文して、腹一杯になるまで食べた。Yさんの酒量も相当なものだった。そしてここでも話しはかなり盛り上がり、喜ばしい夜となる。帰りにアーケードを通っていると、何とそこにマジシャンが待っていた。Yさんの教え子だと言い、わざわざ待機してくれていた。そのマジックは本格的で皆を喜ばせた。駅方面へ帰る道にはアンパンマンのキャラクターの像があり、小さな子供を持つ陳さんなどが喜んで写真に収めていた。

6月15日(木)佐川町へ

ホテルの朝ごはんは豪華だった。定食様式だが、朝から刺身、焼き魚からカツオのタタキまで食べられる。流石に昨晩堪能したので焼き魚定食にしたが、皆何だか喜んで食べている中、スティーブはトーストを注文して何とか凌ぐ。これが彼の信念ということだ。信仰と信念を考える朝となる。

Yさんが迎えに来てくれ、本日の活動がスタートする。目指すは佐川町。佐川と言えば、現在の朝ドラ『らんまん』の主人公、牧野富太郎の生誕地であり、今話題の場所である。途中こちらで紅茶作りをしている懐かしいSさん夫妻と合流し、車は山間部を走っていく。高知市内から車で約1時間、ついに茶畑が見えてくる。

ここはM園芸の茶畑。迎えてくれたMさんは高知に嫁に来てここで茶作りをしているという。緩やかなスロープにべにふうきなどが植わっており、この茶葉がSさんに渡り、美味しい紅茶が作られているらしい。台湾組も熱心に写真を撮り、質問を重ねていく。やはり茶畑に来れば茶のプロなのだ。

そこからまた車で小1時間走る。そして懐かしの旧茶工場へ着いた。ここは3年前、Yさんと二人、苦難の末に辿り着いた森永紅茶製造最後の茶工場だった。その時既に中に入れないほど痛んでいたが、その後の豪雨などでついに解体が決まったが、地元企業がここを買い取りリフォームして原型を保っていた。周囲の茶樹も健在で何となく涙する光景だった。

東京高知関西茶旅2023(2)持木家との交流が続く

そこから赤坂に地下鉄で移動。夜はMさん一家と天ぷら屋さんで会食となった。ここでもベジタリアンのスティーブが気なったのだが、お店側も野菜中心に天ぷらを作ってくれ、それを食べたスティーブが『この野菜は甘い!どこで作っているのか』などと質問攻勢に転じて、大将も大いに喜び、どんどん会話が弾んでいってこちらが驚いてしまった。彼は食べ物、飲み物に対する非常に高い意識があり、それを高い会話力で、ぐいぐい引き込んでいく。

Mさんの息子夫婦、孫たちも駆けつけ、非常に賑やかな、和気藹々の宴となった。Mさんの情熱は知っていたが、この紅茶を媒介とした一族の歴史については、皆が強い関心を持ち、台湾からやってきた客を、まるで親戚のように扱っている。ご縁というのはこうして繋がっていくのだなと思わせる夜だった。

6月14日(水)高知へ

翌日は高知へ移動した。羽田空港を11時台に出るフライトなのだが、何しろ石家の荷物が多く、無事辿り着けるのか、心配だった。一応2時間前集合としていたが、何と彼らは2時間半前には空港に到着したという。宿泊先の前から空港行バスが出ており、ラッシュにも合わず座って悠々とやってきた。Mさんも息子さんの付き添いで早々と空港に来ていた。皆気合が入っている。

ランチは機内で食べることにして、それぞれ好きな空弁を買う。皆日本に慣れているから、どれが食べられるか、美味しそうかの見分けはすぐに付く。フライトは順調で弁当を食べ終わると高知空港に着いた。今回はやはり持木家の子孫であるYさんが色々と気を使ってくれていたが、何と石家は『空港に迎えは不要です。荷物が多いのでリムジンバスに乗る』と言ってきて驚いたが、1台の車に一行6人を乗せ、更に大きな荷物は入らない、とよく分かった上での申し出だった。

取り敢えずバスが出発しないように係の人に話し、何とか荷物を引っ張ってきた彼らを乗せて行く。高知空港まで約40分、だが空港のバス停は二つあり、Yさんとは会えなかった。それでも我々は高知駅前を楽しく通過。坂本龍馬像などで記念写真を撮っていると、何と駅にはアンパンマン列車が停まっている。因みにこの日アンパンマン号は利用者100万人達成セレモニーが行われていた。

駅のすぐ横のホテルに荷物を預ける。そこにYさんが合流。Facebookでは交流はあったが、石家と会うのは初めて。ついでにYさんにとってMさんは従妹の子供になるが、すごく久しぶりの再会となる。ここでもご縁が繋がっていく。Yさんの車でYさんのご両親が住む、いの町に向かう。

Yさんのお母様はMさん同様、創業者持木壮造の孫にあたる。お母様の父は壮造の長男であり、Mさんの父は次男。この二人は若い頃は東京で会っているが、何と近年はご無沙汰で、数十年ぶりの再会となっている。もしこんなことがなかったら、一生会えなかったかもしれないとMさんはつぶやく。

ちょっとご挨拶と思って家に入ったが、そこからとても和やかな交流が始まって、また驚く。皆で昔の写真を見ながら、話が弾む。ついにはお母様が立ちあがり、何と流ちょうな英語で挨拶を始めた。因みにお母様もMさんも台湾生まれの所謂湾生であるが、幼少期に引き揚げているので、台湾の記憶はあまりないという。

もう一つ驚いたのは、お母様のご主人、Yさんのお父様は本日90歳のお誕生日だったことだ。しかも高知で植物学を収め、現在も研究を続けているという。ちょうど朝ドラの主人公が高知の牧野富太郎であり、お父様はそのひと世代下らしい。お歳を感じさせないクリアーな発言が多く、たくさん質問させて頂いた。あっという間に1時間半が過ぎ、お暇したが、とても名残惜しい感じだった。

東京高知関西茶旅2023(1)森永紅茶と魚池

《東京高知関西茶旅2023》  2023年6月13日-17日

ここ数年、森永紅茶の歴史を調べている。元々は台湾紅茶、日月潭紅茶の歴史を追っていたのだが、そこで行き着いたのが森永紅茶だった。日本統治時代の台湾で、日本人が作っていた紅茶。今回はその後継者台湾人が日本へやってきて、日本人子孫と交流することになり、その手伝いをした。

6月13日(火)持木家と森永

台湾中部魚池から石家(戦後父親が旧持木工場の工場長)の娘夫婦とその娘の3人、そして台中から陳さんが日本へやってきた。昨晩無事に成田に着いたと連絡があったが、入国にはどれくらい時間が掛かったことだろう。今朝はまず持木家の子孫であるMさんに会うため、朝の通勤時間帯にホテルから最寄り駅まで電車で来てもらった。ラッシュとは縁遠い魚池から来たのだから、さぞや戸惑うだろうと思ったが、何と彼らは何度も日本に来ており、満員電車にも慣れていた。

Mさんと石家は4年前から付き合いがあり、遠くの親戚が来たかのような打ち解け具合だった。早々に沢山のお土産(なぜかお茶と一緒にお酒も)が渡され、英語を主とした会話はどんどん盛り上がり、あっという間に時間が過ぎていく。こんな海外との民間交流、なかなかないのでは。

次にJRで鶴見に行く。昼前に駅に着いたので、駅ビルでランチを取る。実は石家のスティーブはベジタリアン。食事を心配していたが、さすがに日本慣れしており、すぐに蕎麦屋を見付けて入る。メニューをさっと見て自分が食べられるものを探して、店員に注文している(この店はアプリで注文する仕組みだが、多くの老人は口頭でやっている)。私は蕎麦を啜りながら、それを眺めるだけ。

鶴見駅からバスに乗る。娘のジョアンはお土産を入れた大型スーツケースをずっと持っていて混んでいるバスの車内では大変だ。10分ぐらいで森永鶴見工場に着いた。ここの研究所に勤務するOさんが、森永紅茶の歴史に大いに興味を抱き、社内で資料を探し、外部にもコンタクトして、何と今年『森永紅茶復活プロジェクト』を立ち上げたので、その話を聞きに行く。

とても働きやすそうな、雰囲気の良い研究所内で、色々と説明を聞く。森永の歴史、それは我々の歴史でもあった。子供の頃から親しんだ、森永チョコボールやムーンライトなどは何とも懐かしい。台湾組はチョコモナカジャンボの画期的な製造方法に大いに興味を示している。台湾ではこの商品は売られていないらしい。

森永紅茶については、既に50年前に無くなってしまった商品であり、決して大きな比重を占めていたわけでもないので、殆どの社員がその存在自体を知らない。そんな中でOさんはただ一人で資料を集め、各地に出向いて歴史を調べて、ついには紅茶復活のため、三重・奈良・高知の紅茶生産者と組んで、森永紅茶復活を目指している。

この紅茶の当初の原料は日本統治時代の台湾にあるので、今回の石家訪問がきっかけとなり、今後プロジェクトに進捗があれば、台湾産紅茶も加えて復活して欲しいという願いが私にはある。因みに森永が最初に手掛けたドリンクは宇治ほうじ茶というのも興味深いものだった。

研究所を後にして、またバスで鶴見駅まで戻る。そこから京急で銀座へ向かう予定だったが、何と事故があり、電車は止まってしまった。このままでは次の予定に間に合わない。そこでJR川崎駅へ向かい、京浜東北線で有楽町まで出て、何とか歩いて到着する。そこは石家のデニスが行きたいといった、小さな、おしゃれな茶荘だった。ここで買いたい茶器があったようだが、残念ながら在庫は無かった。それでも様々な日本茶が置かれていて、試飲も一部可能。英語でも説明してくれるので、外国人にとっては有難い茶荘だろう。