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ある日のバンコック日記2020(20)ビックリな再会

午後は大相撲大阪場所が始まった。何と観客を入れないで開催される異例中の異例な相撲だった。こうなると力士の息遣いやぶつかる音がはっきり聞こえて新鮮だ。更には行事や呼び出しの声もよく聞こえ、動きもよく見えるので、これまで気が付かなかったことがいくつも見えてくる。そして何より、観客の声援で相撲を取っていた力士、というものが結構いると感じられたのがすごい。これを従来は稽古場では強いが、などと言っていたが、声援効果はある力士にとっては、馬鹿にならないことを知る。

それにしても、力士が一人でも感染したら、場所はそこで終了という厳しい条件が付いている。もし途中で場所が打ち切られたら、優勝はどうなる?記録はどうなる?そこまでしてもやらなければならない本当に理由は何だろうか。相撲はオリンピックとも関連はないだろうに。相撲は神事なのだろうか。プロ野球もJリーグもすでに延期になっている今、なぜ開催するのか、各競技団体の利害関係が問われそうだ。

3月10日(火)日本人のタイ入国も制限

今朝ビックリするような話を聞いた。バンコックから香港に出張に行っていた人が、香港空港でタイ航空に乗ろうとして、搭乗を拒否されたというのだ。タイ政府は既に中国などからの入国者に対して、コロナ陰性証明書の提示を求めているが、そこには香港も含まれるというのだ。日本人かどうかは問題ではなく(日本から来る便では要求されない)、搭乗地の問題なのだ。

この人は日本に戻るなどの選択肢を色々と検討した結果、どうしてもバンコックに戻るため、何と香港の病院に手を回し、PCR検査を受け、その証明を入手したというからすごい。だが、再度搭乗手続きをしに空港へ行くと、今度は『10万米ドル以上の海外保険』の提示を要請されたらしい。クレジットカードの保険に入っていると主張しても、目に見える形を求められたが、振り切って飛行機に乗り込んだ。

そして今度はバンコックの空港でその保険の提示を再度求められ、それがなければ、乗ってきた飛行機で帰れ、と言われたらしい。結局夜の空港でネットを駆使して、オーストラリアの海外保険を探し当て、何とか入手して、無事のご帰還となったというのだ。これはもうただ事ではない。日本ではPCR検査を受けることもできないし、ましてやその証明を英語で出してもらうには気が遠くなりそうだ。私も身の振り方を真剣に考える必要を強く感じた。

ビックリな再会

午後相撲を見た後、出掛けた。前回髪の毛を切ったのが、ちょうど2か月前。ただ最近は濃厚接触に該当する床屋へ行くのが良いのかどうか、また床屋側も言葉が通じない相手に来てほしいのかどうかが分からず、躊躇していたのだ。それでも髪の毛は確実に伸びて行き、限界となったので、一番早く処理できるいつもの10分床屋へ駆け込んだ。

床屋はやはり空いていた。店員もお客が少なくて困っているのだろう。いやそうな表情は見せず(マスクで見えない部分はあったが)、いつもより親切丁寧な対応だった。やはり髪を切るとさっぱりしてよい。ちょっとターミナル21のお客具合を見に、上にも行ってみる。意外とお客がいたので、すぐにMRTに乗って引き返そうとしたが、BTS駅との交差で乗客がかなりいた。

MRTからBTSへ向かうエスカレーターはなぜか2本とも登りになっており、下る人は階段を使うしかない。階段を降りても人が多かったので、それを避けてバスで帰ろうかと、アソークの交差点で信号待ちをした。すると後ろから突然名前を呼ばれた。振り返ったが、そこに立っていた女性が一瞬誰だか分からなかった。

何とその人は5年ぶりに会うSさんだった。彼女と最初に会ったのはカザフスタンのアルマティ、2回目が5年前のカンボジア、シアヌークビル。今回が3回目だが、異常に印象に残る人だったが、まさかバンコックにいるとは思わなかった。聞けば、まだシアヌークビルにおり、たまたまバンコックに来ていただけというからあまにもすごい、偶然だった。日本人だが、日本ではきっと会わないタイプの人なのだ。

近況などを立ち話していたが、とても収まらないので、カフェに行って、話を続けた。彼女の人生はその滞在国や都市を見ても、普通ではなく、何とも劇的だ。5年前に訪れたシアヌークビルも、あれから中国資本が投入され、かなり変化してしまったらしい。今やバンコックとの間に直行便も飛んでいるという。コロナ終了後、機会があれば、シアヌークビルをもう一度訪れてみたい。

話は尽きなかったが、予定もあったので、1時間半ほど話して分かれた。次はいつどこで会えるのだろうか。また楽しみが増えた。因みのこのカフェでは、お客が帰るたびに消毒を行っており、その匂いが飛んで来て長居は厳しかった。既にバンコックは臨戦態勢に入っている感じがしたが、日本は相変わらず、ゆったりと構えている。

ある日のバンコック日記2020(19)自粛の流れが

3月7日(土)再会

昨日も1日炎天下のバンコックを歩き回り、かなり疲れた。ただあるミッションに目途がついたのは良かった。タイも徐々に真夏が近づいてきている。だが、既に来月予定されているソンクラーンの休みも取り消されるらしい。タイのコロナ緊迫感は高まってきているが、日本では学校だけが休校になっており、北海道だけが緊急事態だと言い始めている。

夕方、ブラタモリを見る。この番組、マニアックだとの評判をいつも聞いていたが、ほとんど見たことはなかった。見る機会がなかったというべきだろう。だが見てみると何ともためになることが多い。現在のアシスタント、林田アナはアナウンサーっぽくないなと思っていたら、芸大でピアノを専攻していたというからちょっと驚く。NHKも多彩な人材の採用を進めている。

今日は、甲賀と信楽がテーマ。信楽焼は以前工房を訪ねたこともあり、親近感があるが、最近は朝ドラで有名になっている。この朝ドラ、妙に抑揚がなく、面白いとは言い難いが一応見てはいる。陶芸家というのは本当に難しい仕事だと思う。番組ではお茶壺道中の説明などもしている。

ブラタモリを見終わった頃、部屋を出た。既に辺りは暗くなりかけている。バスでプラカノーンに向かっていく。まあどのバスに乗ってもラマ4通りを走って行けば、プラカノーンに着くので安心だ。ただバスは意外と混んでおり、皆マスク装着になっており、空いている車両を探す。エアコンバスの方が料金が高いので空きがある。

間違って少し前で降りてしまった。歩いてみると、大きな宗氏廟が見えたり、漢字の看板があったりと興味深い。やはりこの辺まで華人がメインストリートを占めていたわけだ。スクンビットまで出たが、道を渡るところがない。仕方なくBTSの駅を上下して向こう側へ降りた。それからGoogleで調べた通りに歩いて行ったが、またしても店が見つからない。有名な沖縄料理屋の横のはずだが。実はそのお店、7時開店だったが、まだ準備中で、やっていると分からず通り過ぎてしまっていた。

その店は日本人が経営しており、食堂というよりは、おしゃれない居酒屋という雰囲気だった。先週勉強会で知り合ったIさんと歴史談義をしようと声を掛けたのだが、何と主催者のY先生も一緒にやってきたので驚いた。何しろY先生を紹介されてから、わずか1週間ちょっと4回目の遭遇とは。普通ではあり得ないことだろう。Iさんは先日の勉強会参加者の中で圧倒的に若く、Y先生の助手的役割を担っていた。

Iさんはベビーカーを押している。お子さんをお店の人やお客さんがあやしてくれている間に、少し歴史談義をした。タイや東南アジアの歴史、そしてY先生が語る昭和の歴史。そこへタイ人女性がサッとやってきて席に着く。Iさんの奥さんだった。食事は何と隣から出前を取れるというので、和食となった。これは非常に便利だが、このお店としてはどうなのだろうか。店主は沖縄出身とのことだったが。

結局殆ど何も話していない、と思っていたが、気が付くと3時間もここにいた。店はいつの間にか満員になり、日本人の若者たちが酔っ払って大声で騒いでいた。コロナウイルスなど、どこ吹く風と言った感じだった。タイの緊張感とは裏腹に、ここは完全に日本だった。

3月8日(日)マラソン+無観客相撲

昨晩珍しく遅くに帰ったのだが、今朝は早起きした。マラソンの男女最終選考レースだった。女子の名古屋ウイメンズは元々中継を見られないので、速報を見て過ごす。男子のびわこは、NHKで中継があるのだが、なぜか30分くらいズレている録画。両方ともに気になるので、スマホで経過を追う。

男子の方は記録も低調で、途中から見るのを辞めて、後でNHKを追うことにした。女子はワコールの一山が快走。何と1月に松田が出した記録をあっさり抜いてしまい、代表に内定した。それにしても、見ている側からすれば面白いレース内容だったが、代表落ちした松田瑞生の心境はあまりにも悲しい。しかも男子ほどではないが、代表になっても本番でメダルの期待とは言いにくいタイムでもある。まあそもそもオリンピックは延期か中止か。そろそろはっきりしてもらいたい。

ある日のバンコック日記2020(18)日系航空会社の対応は

ANAへ

BTSまで歩いて行き、シーロムまで乗って行く。段々外出が不自由になるようなので、一度出かけた際に、他の用事も済ませる方針を取ることとなる。今日はANAの支店へ行き、特典航空券のキャンセルについて相談するつもりだった。何だかネットではキャンセルできないみたいなので、困ってしまっていたからだ。

バンコック支店に行くのは初めてだった。ビルの2階に上がると、店の外まで大勢の人が待っているのが見えた。店内も人で溢れている。どうやら、コロナ関連のキャンセルについて、無料でできるかなど、混乱が生じているようだった。先日のエアチャイナとのあまりの違いに驚いた。

店内に番号の紙があったので取ってみたが、一体何人待っているのか、いま何番の人の対応をしているのかも分からず、困ってしまった。電話も鳴りっぱなしで誰も取ろうともしない。ただ流石にタイ人と思うのは、これだけ訳も分からず待たされているのに、誰も怒ったり、文句を言っている人がいないことだ。

仕方なく支店内をウロウロしていると、白人さんが別室で何やら交渉していた。外で待っているのはタイ人ばかりのように見えたので、私も誰かが対応してくれないか、今の状況だけでも知らせてくれないか、と見回ってみると、マイレージデスクがあり、そこのスタッフが日本語で声を掛けてくれた。

特典航空券の件だというと、親切に色々と教えてくれた。だがそこで分かったことは、なんと『特典航空券のキャンセルは電話でしかできない』という衝撃的な事実だった。先日のエアチャイナは、全てネットでするものだったので、ここで日中のネット事情のあまりに大きな差に愕然となってしまった。日本は、何かあると店へ行くか、電話するかという、いまだに20世紀型の経営なのだ。

宿に戻ってすぐに電話しようかと思ったが、きっとパンク状態だろうと思い、まずはPCで予約の変更を試みたが、6月以降の予約はなぜか入れることができない。なぜできないのか、その辺の事情も分からないので、結局夜10時(日本時間深夜12時)に無料の番号に電話をしてみた。だが案の定、繋がらない。結局1時間以上経って諦めかけた頃、突然先方が応答し、話が始まった。

まあ残念ながら余計な確認やら、お知らせなどで時間をどんどんとられていく。そして肝心の予約変更も可能だというが、なぜネットではできないのか判然としない。最終的にもう一度変更となれば、また電話しなければならないので、キャンセルすることにした。オペレーターもクレームにはウンザリしているだろうから、何も言わなかったが、文句を言いたくさせるに十分すぎる対応ではある。

更に予約キャンセルは電話のみで、メールなどの確認も送られてこないので、不安になってしまう。翌日Yさんに話すと、ネット上の予約を確認するように言われ、すでに消えていたので、ようやくキャンセルを確認した。尚サーチャージの返還に関しては、何のお知らせもなく、1か月ぐらい経ってから、クレジットカードに突然戻されていた。まあこの時期だから文句は言えないが・・??

3月5日(木)コロナ混乱が本格化

昨日は一日中歩き回っていたので疲れてしまった。今日は朝から部屋にこもって過ごす。何と楽しみにしているプールも閉鎖されるらしい。運動不足が加速する。この宿では2月に最新式のジム器具も入れたばかりだが、使われることもなく、ジムが閉鎖されている。段々気がめいってくる。

ニュースを見ていると、日本では迷走が続いている。ついに中国と韓国からの帰国者に対して、2週間の自宅待機が要請された。既に遅すぎるだろうとの指摘が多く寄せられている。しかしそれにもかかわらず、オリンピックは通常通りに行うというのだ。あの元総理などは、精神論むき出しで、マスクなどつけず頑張ると言っているから驚きだ。日本が仮に開催しても世界の誰がやってくるというのだ。日本の政治家はどこを向いて話しているのか、全く分からず、困惑する。まさに狂気の沙汰だ。

いよいよタイからも日本が危険な国とみられるようになり、『タイ入国日本人も2週間隔離か??』とのうわさが流れ始めた。最近日本語で話していると、周囲のタイ人の目が厳しくなってきているのが分かる。私は既に2か月近く日本に帰っていない、と説明しないといけない状況になってきている。ちょうど部屋をもう1か月借りる契約をしたが、これは正しい選択だっただろうか。神のみぞ知る、というところか。

ある日のバンコック日記2020(17)バンコックのランチ

2月29日(土)近現代史の会

今日は4年に一度の2月29日。8年前のこの日に母の葬儀を行ったことが思い出される。何しろ大雪が降っていたのだから、忘れられない。母からこの日を忘れるな、と言われているようだが、やはり4年に一度思い出す程度では、誠に申し訳ない。

今回は珍しく、日本人の集まりに参加することになっていた。時期的にどうかと思っていたが、Y先生のお誘いもあり、またテーマにも興味があったので行ってみることにした。待ち合わせまで時間があったので、久しぶりにプロンポーンにある洋食屋に入ってみた。11時半過ぎだというのに、結構混んでいて、相席と言われてビックリ。まあ単身赴任のおじさんなどがランチを求めてきたのだろう。メンチカレーを美味しく頂く。味噌汁が付いているのが如何にも洋食屋でよい。

Y先生に連れられて、日本人が主催している貸しスペースへ向かう。ここは2-3年前に一度、お茶会を開いた場所だった。比較的年齢層の高い方々が10数人集まってくる。今日のテーマは日本国憲法。講師の方が非常に丹念に調べた結果をきれいにまとめて発表され、とてもきめ細かい内容で正直驚いた。憲法論議はとかく改憲だ、擁護だ、アメリカの押し付けだと政治的な話しになりがちだが、元々歴史的にはどのような過程を経て作成されたのか、史実に基づいてもう一度きちんと整理するべきであり、その上でぎろんすべきであろう。大変勉強になった。

3月1日(日)東京マラソン

今朝は早く起きてみた。というのも、東京マラソンが開催されるので、そのレースの様子を知りたかったからだ。スマホを見てみると、FODというので、生中継するらしい。海外でもVPNをかませれば、視聴可能ということで、設定を試みた。基本的に東京オリンピックが7月に開幕する可能性はほぼないが、MGCの結果もイマイチだったので、代表権のかかったこの大会は見ておきたいという気持ちがあった。

案の定、一般参加の3万人のランナーは走ることが出来なかった。正直に言えば、各スポーツが自粛されていく中、この時期にマラソンなんてと思ったが、東京では応援自粛要請にもかかわらず、7万人以上の観客が沿道で応援していたというから、これには世界も驚いたことだろう。

最初は部屋で見ていたが、ネット環境が弱く、途切れがちで困った。途中から1階のロビーに行き、何とかレースを追うことができた。大迫は途中で一度遅れたが冷静だった。井上は最後までもたなかった。設楽は最初から調子が悪かったようだ。まあとにもかくにも、日本新記録でゴールにたどり着いた大迫はやはりすごい、彼こそが世界で戦える人材だと言わざるを得ない。

来週のびわこもあるが、男子はこれで決まりだろう。後はいつオリンピックが開かれるかにかかっている。個人的にはロンドンで可能ならば、会場を移してもよいと思っていたが、ヨーロッパも徐々に感染が広がっているようだから無理だろう。マラソンは東京オリンピックなのに札幌でやるのだから、ロンドンでもどこでもできるところでよいではないか。まずは選手のことを第一に考える、現実的な対応が欲しい。

何だか朝早く起きて、ちょっと興奮してホッとしたら、お腹が空いた。昼前に近所のマックに行ってみると、いつもの日曜日なら子供連れが沢山いる店内に客は全くいなかった。代わりにデリバリーの配達員が数人オーダーしており、受け取りを待っていた。いよいよバンコックでも外出自粛が本格化する感じだ。後から中国人が入って来て10人分ぐらいの大量オーダーをして、テイクアウトで店員と何か揉めていた。その後白人カップルがやってきたが、店内は本当に静かだった。私も食べたらさっさと立ち去る。

3月2日(月)ランチ会

1週間前にランチ会があり、それが意外と楽しかったので、今回もお茶会メンバー数人でランチを食べることになった。今回の場所はエカマイ、ということで、バスで向かうつもりだったが、そこはタイのバス。いつになって出発せず、つい我慢できなくなって、バイタクを拾って進む。だがバイタクはやけに早い。時間前に着きそうになったので途中で降りて、時間調整しながら歩いていたら、何と店を通り過ぎてしまった。

洋食屋さんで、ハンバーグセットを食べる。デザートにティラミスまで出てきて、美味しく頂く。ただ今回は主催者のMさんが都合により欠席となったこともあり、余り方向感のない話になってしまったようで申し訳ない。やはりお話会というのは、きちんとしたテーマがあった方が話しやすいようだし、質問などもしやすいのだろう。

ある日のバンコック日記2020(16)サトーンでフライトキャンセルして

2月27日(木)エアチャイナからサトーン散歩

元々3月5日に予約していた東京への帰国便。中国のエアチャイナの北京経由であり、今北京に入ることはどう考えても得策ではないので、フライトキャンセルの連絡をずっと待っていたが、成田便はキャンセルになったが、結局羽田行きは最後まで飛んでおり、こちらからキャンセルする羽目になってしまった。

旅行会社のYさんによれば、『すでに半分使ってしまったチケットを自己都合でキャンセルする場合、一般的には返金はないが、今回はコロナという特殊要因があるので、オフィスに行って相談してみたら』と言われたので、訪ねていくことにした。

シャワーのような雨が突然降ってきたが、ほどなく止んだ。最近雨も降っていなかったので、政府が人工的に降らせたんだろうか。雨が降っていないであればと、エアチャイナのバンコックオフィスへ行く気になった。サトーンの立派なビルに入っており、バイタクに乗ってそこまで行ってみた。オフィスビルなので、受付で入館証をもらい、機械を通して、エレベーターに乗る。まるでビジネスでの訪問のようで、何とも懐かしい。エレベーターも目的階以外には停まらないシステムで、まごまごする。

驚いたことにエアチャイのオフィスに、お客は誰もいなかった。暇そうな係員に事情を説明すると、『えー、なんでわざわざ来たの。皆ネットで申請するんだよ』と言いながら、コロコロと笑われた。確かに今の中国ならそうなのだろう。そして彼女はURLを教えてくれ、キャンセル事情にコロナの欄があるから、そこを選べば、いくらかの返金がある、と説明してくれた。

不安だったので、その場でスマホを操作すると、あっという間に完了する。10-15日で返金額などの連絡があると書かれている。これは良かった、有り難い。でもいくら返ってくるのだろうか(結果は何の連絡もなく、いきなり3週間後に総チケット代の半額より少し多い額がクレジットカードに戻されており、大満足))

折角なので、この付近を散歩してみた。確かこのビルの後ろには華人の墓があったことを思い出す。恐らく華人がバンコックにやって来た頃からある墓なのだろう。とすると、その頃、シーロムなどは野原だったのだろうか。そういえば近くにはヒンズー寺院もある。風水がよいからこの地が選ばれたはずだ。かなり立派な墓があるが、近づいていくと数匹の犬が吠えてくるので、それ以上近づかなかった。

もう一つ別の門があり、客家系との表示が見える。犬はいないので、墓の文字などを見ることもできた。潮州系が多いようだが、福建系もいる。客家かどうかは墓を見ただけでは判別できない。この周辺、表通りは現代的なビルがどんどん建っているが、裏側には墓があり、かなり古い教会もある。100年以上前の建物も保存されており、歴史を感じた。

夕方宿に戻ると、LINEが入ってくる。最近は色々と情報が必要だから、これは便利だ。その内容は『タイが緊張し始めた』ことを示していた。北海道に観光に行ったタイ人が帰国後、感染者だと分かり、大騒ぎ(北海道旅行を隠していた)になっているという。バンコックに来る日本人出張者のアポがキャンセルされ始めており、タイ人スタッフも出張者のみならず、日本帰りの駐在員を歓迎しないムードが漂う。

夜、日課となったNHKニュースを見る。何と突如安倍さんが全国の小中高校を一斉休校にすると発表して驚いた。確か昨日オリンピックは予定通りと言っていたではないか。そんな国がなぜ学校だけを閉鎖するのか。きちんとした説明もない。瀬戸際とか、正念場倒壊う言葉が飛び交う。しかも文科省も話を聞いていなかったようであり、現場は大混乱。日本という国が恐ろしく見えてきた。

そのままNHKを見ていたら、『世界は欲しいものにあふれている』という番組で、『タイのパン』特集を放送していた。さっきビックリニュースを見たかと思うと、今度はふんわりしたパンのお話しとは、NHKもなかなかやるな、この配置。バンコックにも美味しいそうなパンが沢山あることが紹介されており、さらにそこに日本のパンなども持ち込まれていく。

是非店に行って味わってみたい。そういえば、リトル-マーメイドがバンコックに進出しているが、何とあんパンが70バーツもして、ヤマザキパンの2倍だから、私にはとても手が出ない。日本のパンは高級品だが、タイのホワイトカラーはこれが消費できるようになってきている。

ある日のバンコック日記2020(15)ちょこっとヤワラー

そういえば、先日AISショップで買ったシムカード、1か月の期限が到来寸前だった。プロモーションということで1か月使い放題、僅か200バーツという格安だったが、今度買う時はどうなるのか心配だった。恐る恐るテスコのAISに出向いてみると、何とまた200バーツで1か月継続になった。空港で買うと1000バーツ出しても使い放題にはならないのに、いったいこれは何だろうか。

2月25日(火)ヤワラーへ

数日は、おとなしく宿で勉学にいそしむ。今回は勉強用の本は沢山持ってきており、プールで体を冷やしたのち、ゆっくりと本が読める環境もあるのは有難い。ただ時折中国人の若者などがけたたましく騒いでプールに入るのはいただけない。もう騒がしい中国人はいないと思っていたが、ずっとこちらに滞在している人がいるらしい。

昼ご飯後、久しぶりにヤワラーへ向かった。MRTは何となく空いており、ファランポーン駅も人が少なかった。今日はこれまでと少し違って、この駅の周辺、ヤワラーの中でも早めに発展した場所を訪ねてみる。マイトリッチ通り、余り歩いたことがない。直ぐに細長い古びたビルを発見。マンションと書かれている。100年は経っているだろうか。

その裏側、駅と運河を挟んだ向かい側にあるホテル、シークルンホテル(京華大旅社)が建っている。ここはレトロで立派な駅前ホテル。往時は有名人なども泊っていたらしいが、今や老朽化が激しく、取り敢えずOYOグループに吸収されてしまったらしい。中に入るともう少し色々と分かったのかもしれないが、何となく入る気に慣れず、通り過ぎてしまった。

マイトリッチ通りに戻ると、すぐに七聖媽廟がある。その横には斗母宮、これは一体なのだろう。更に歩くと、タイで最古のプロテスタント教会、マイトリッチ教会がある。華僑区礼拝堂と書かれているものの、やはりこれは潮州人のためにあるようで、礼拝は潮州語でも行われるらしい。商人の信者が多い教会なのかもしれない。中の建物はさほど古いとも思われないが、1935年と書かれている。

この付近には、古い建物を利用したカフェやゲストハウスが少しみられるが、ヤワラー通りと比べれば、本当に静かだ。ぐるっと回って、王さんの集友茶行でお茶を飲ませてもらった。ここでバンコック茶商公会の資料を得ようとしたのだが、既に公会は有名無実化しているようで、資料はない、と言われてしまった。

帰りに駅に寄ってみると、待合室では相変わらず大勢の人が列車を待っている。これで良いのだろうかと思うほど密集している。私も列車の旅がしたいと思い、バンコック近郊の路線を探すが、タイ語でよく分からない。駅から道路の向こうを見ると、ステーションホテルと書かれたて建物が見えた。あれは何だろうか。

夜NHKを見ていると、東北大学の押谷先生という人が出ていた。SARSの時にWHOで陣頭指揮を執っていた感染症の専門家だという。こういう実戦を経験した人の話は何とも説得力があってよい。ただ、ウイルス検査が進まないのは、日本には検査体制が出来ていないから、と言えない事情があるようで、何ともかわいそうな気がした。

とにかく日本は人の命より、パンデミックよりオリンピックなのだろう。同時に受け入れられる病院、ベッドに相当に限りがあることは、日本の医療体制はあまりにもぜい弱だ、ということを露呈しているのではないか。ただいまそれを言っても仕方がない、最善を尽くす、という姿勢が感じられた。

2月26日(水)K先生と

今日も午後はヤワラーの続きを歩こうとバスに乗っていた。するとK先生から『今から時間がある』と連絡があり、急にバスを降りた。なぜか今日は道路が混んでおり、ほとんど進んでいなかったが、降りた場所には屋台に毛の生えた食堂がいくつもあり、意外と美味しそうに見えたので、今度偵察することにして、MRTの駅に向かった。

相変らず会合場所はスクンビットのチョコ屋。場所が固定されているのが考えなくてとても良い。前回お会いしてからまだ数日も経っていない。まるで恋人のようだと冗談を言う。今日お会いしたのは、こちらから華人に関するある質問を投げたからだったのだが、その説明をメッセージでやるのは大変、ということで、口頭で説明をもらった訳だ。

更には前回話題に上がったミャンマー行きの情報も共有した。シャン州の中でも外国人は陸路で行けない場所もあることやソーボアの末裔情報など。ちょうどミャンマー茶の謎に関する原稿を書き上げたばかりで、そのなぞ解きをした気分ではあるが、果たして行けるのだろうか。今の時点でミャンマーには感染者はいないというが、中国人があれだけ入っていて、ゼロはないだろう。事態はどんどん悪い方向に走り始めている。

ある日のバンコック日記2020(14)チョコレート屋で盛り上がる

そんなことをやっていると約束の時間となり、出掛けた。ちょうど先日お会いしたK先生がパタヤから出てきているので、入手した本を渡そうと思ったのだ。フライトが遅れたら、空港で足止めされたら、と思いながらも、約束しておいてよかった。プロンポーン駅で待ち合わせ。

落ち着いた場所は、何と歩いて5分ぐらい行ったスクンビット沿いのチョコレート屋さん。ちょっと意外。しかもそこにはK先生より一回りお歳が上のY先生がおられ、紹介される。K先生には、ミャンマー、シャン州のソーボア関連の本をお渡しし、ひとしきりミャンマー話で盛り上がる。Y先生はタイ在住30年、タイの大学で教鞭をとられており、極めて人脈が広い。何と近現代史の会を主宰されており、歴史に対する知識も素晴らしい。このような出会いは非常に好ましい。

因みにこのチョコレート屋さん、ちょっと雰囲気がよく、周囲には日本人駐在夫人が何組かお茶を飲んで話し込んでいた。かなり高級チョコを売っているが、店内でコーヒーか紅茶を注文すると、美味しいチョコが2個ついてきて、100バーツ程度とお得なのだとか。確かにスタバでコーヒー飲むより余程合理的だ。

話に夢中になっていると、何と日が暮れてしまった。お茶だけと思っていたが、夕飯までご一緒することになる。ご飯は、エンポリアムの中にある大戸屋だったが、何と85歳になるY先生が、『みそかつがうまいよ』と言って、とんかつを食べていた。私ももし長生きしたら、何歳になってもとんかつを食べていたいと思う次第だ。

2月21日(金)ランチ+

バンコックにもコロナの足音が近づいてきていたが、まだそれを大きく実感するまでには至っていなかった。むしろ中国人の入国を止めない日本を危惧し、大都市封鎖がなされた中国にはいつ行けるのかと気を揉んでいた。そんな時にお茶会のMさんから、ランチのお誘いがあったので出掛けてみた。

指定されたレストランはスクンビットにあった。Googleに名前を入れたらすぐに場所が示されたので、安心して出掛けて行く。だがその場所に着いても、そのレストランは見つからない。多少ズレているのかと探し回ったが、どこにもない。仕方なく地図に示された店、雑貨店に入って聞いてみると、さすがスクンビット、日本人経営者が親切に教えてくれた。その場所は道の反対側、しかもビルの2階だから、道を歩いていても分かるはずはない。

皆さんをお待たせしてしまったが、何とか到着。ここは日本人がやっている有機野菜の販売所兼レストランだという。コンドミニアムの2階、プールサイドの席でご飯を頂く。ドリンクと今日の定食で200バーツだから、そう高い訳でもなく、ゆったりと食事することができた。

ここで皆さんと旅のお話をした。私のFBの『思い出』欄には、1年前はどんな投稿をしたかが表示されるので、それを見るだけでも色々と思い出すことがあり、中にはその旅をもっと知りたい、情報が欲しいという方もいた。行ったことがある場所が出てくれば話は更に盛り上がる。私の場合、有名観光地や評判のレストランに行くわけではないので、一般の皆さんのお役に立つ情報はないと思っていたが、意外と役立つものもあるのかもしれない。

そんな話をしていると、先日お会いしたK先生からメッセージが入る。何とこのすぐ近くに来ているから会わないか、という内容。まるで私の位置情報が伝わっているかのようなタイミングに驚く。やはりかなり深いご縁があると感じてしまい、ランチ終了後、また例のチョコレート屋を訪ねていく。

やはりここを根城にしておられる?Y先生もおられ、またもやチョコを食べながら、話しがどんどん展開する。K先生とは『一緒にミャンマーへ行こう』と盛り上がっていく。この勢いだと来月にも実現しそうだが、どうだろうか。次回の近現代史の会への参加も決まった。中国などの状況を見ていると、これから大変なことになりそうだが、楽しみも増えている。どうかこの楽しみを消さないでほしい。

夜になり、K先生はパタヤに帰って行き、私はY先生に伴われて、夕飯に出掛けた。今晩はY先生を訪ねて来られた大学の先生とご一緒するというので、人気のタイ料理屋へ向かった。7時半頃だったが、店は驚くほど満員で、日本人も多くいた。如何にも日本人などが食べられそうなタイ料理が出されている。大学の先生は観光学などがご専門で、タイにもその調査で来たらしい。

まだ日本から様々な理由でタイに来る日本人がいる。ただそろそろ、タイ人も日本が危ないと思い始めており、余り安易に日本から来るのは止めた方がよい。まあ日本では、いまだにオリンピックを予定通り開催などと寝言を堂々と言っているのだから仕方がないか。オリンピックが自国の状況だけで開催できると思っているのだろうか。世界から見放されていく日本。

ある日のバンコック日記2020(13)無人のスワナンプーム空港

《ある日のバンコック日記2020》  2020年2月19日-3月13日

2月19日(水)空港で

パクセーから乗ったラオス国際航空のフライトは、1時間でスワナンプーム空港に降り立った。果たしてすぐに降りられるのか、それとも機内に検疫官が乗り込んでくるのかと、緊張した。だが、皆何事もないように降りていく。ただタラップを降りて、バスでターミナルに向かった。

ターミナルに着いても、何の検疫もなかった。そのまま入国審査の前まで来たが、私が先頭を歩いており、前には一人の乗客もいなかったので、本当に驚いてしまった。そしていつもは長い列が出来ている外国パスポートの審査場にも、ただの一人もおらず、係員が欠伸をしていたおり、我々を見て急に動き出した。

いきなり入国審査台にパスポートを差し出す。これまでの渡航歴など、色々と聞かれると覚悟していると、係官は一言、『ウエルカム』と言って、スタンプを押した。恐らくタイ入国でウエルカムと言われたのは長い歴史の中で初めてだろう。勿論サーモグラフィーで検温はしていただろうが、結局何のチェックもなく、外へ出てしまって、完全に拍子抜けだった。

因みに荷物受け取りのターテーブル付近にも乗客の姿は殆どなかった。到着便の案内は沢山出ているのに、なぜ人がいないのか。他国から来た便は、どこか別の場所に隔離されているのだろうか。いずれにしても、ここまで人がいないスワナンプームを見たことはなく、正直怖くなってしまった。

タクシーに乗るのも何なので、地下まで行き、エアポートリンクに乗る。いつもは乗客で混んでいるチケット売り場にも人影がない。もうゴーストタウン状態だった。ホームに行くと、多少乗客がいて、ホッとする自分がいた。この時期でも白人旅行者が乗り込んでいるのには驚くが、立場的には私と同じで、東南アジアを回っているのだろうか。

MRTの乗客は若干少ない程度だったが、マスク率はかなり上がっていた。駅から宿まではバイタクに乗った。バイタクは濃厚接触とか、言われないのだろうか。そろそろ何でも気になってくる。それはやはりSARSを経験しているからだろうか。あの時は香港で2か月閉じ込められたから、印象は鮮明だ。とにかく人と接触しないことを叩きこまれたものだ。ただまだタイでは感染者も多くはなく、そこまで神経質になる必要は無さそうだ。

これから考えなければならないことがいくつかあった。3月5日に北京経由で東京に戻るフライトが予約されていたので、まずはこの便には乗らないことを決めた。今や中国経由で帰国したら、最悪隔離措置だ(日本はなぜか中国からの入国者を隔離していないが)。そして東京に戻るべきか、バンコックに残るべきか、はたまた第三国へ行くべきか、真剣に考え始める。

台湾からは『こっちの方が安全だから早く来たら』と言ってもらったが、茶の歴史関連の資料が東京にあるので、東京に取りに行く必要があり、台湾に直行できないので、現実的な選択肢ではなかった。何より日本への懸念が強まっている。各国は今後日本からの入国を制限されるだろう。そうなると旅をする者としては活動を大幅に制限されてしまうので、最も好ましくない。取り敢えずタイに留まって様子を見ることにした。

そうなると、3月に東京付近で予定されていたいくつかの講座を取り止めねばならない。既に1件は主催者よりキャンセルの連絡があったが、他の2つはやる気満々のようだ。残りの一つは自分が主催なので、早々に取りやめを通知する。やる気の2つも最後は『帰国しないので』と言って、こちらから中止してもらった。既に相当厳しい状況に陥っている海外をよそに、日本だけが別世界かな、と感じた瞬間であった。

更には、フライトのキャンセルなどを考慮し始める。エアチャイナは当然フライトキャンセルになる可能性があり、そのまま放置することにした。その方がキャンセル返還料をもらえそうだったからだ。その次に3月の台北行きをキャンセルする必要があったが、これも特典航空券だったので、そのままにしておいた。

更に台北からすぐに四川省成都へ行く便を押さえており、これはCtripで予約したので、キャンセルしようとしたが、何と中国の電話番号にパスワードが送られてくるというので、困ってしまった。ところが運のよいことに、いつも使っている中国シムカードも持参しており、何とかパスワードを取得してキャンセルに漕ぎつけた。返金は2週間後にアリペイに全額入金された。成都のホテルはすぐにキャンセルができ、即金でアリペイに返金された。やはりキャッシュレスの世界では、中国の方が便利だ。

ある日のバンコック日記2020(12)ヤワラーを歩き回る

2月12日(水)ヤワラーの奥へ

今日も午後散策へ出掛ける。MRTでファランポーンの次の新駅、ワットマンコーンで降りる。この駅の前にワットマンコーン(蓮光寺)がある。ここは中国的に商売繁盛などにご利益があると言われており、いつも多くの人が訪れている。その並びには例の王有記があるが、道路の向かい側から見るとその建物の上にも看板があった。

今日は進路をヤワラー通りの方へ取る。駅の横から両側に店が並ぶ細い道を抜ければ行けるのだが、敢えて一つ先の大きな道を行く。途中に大きな廟もあったが、ヤワラー通りの角にひっそりと建つ小さな廟に惹かれる。更に川の方に向かってずっと歩いて行くと、ようやく立派な建物の培英学校に辿り着く。

培英学校はちょうど100年前、1920年に潮州人が資金を出し合い設立した華人学校。その裏には、バンコックにおける潮州系廟の総本山ともいわれる大本頭公廟がドカンとある。その脇から路地に入っていくと、薄暗い。そうだ、80年代の都市伝説『ヤワラーに一度入ったら出て来られない』という雰囲気が漂う。そこにもほのかな灯が見え、廟が存在している。如何にもチャイナタウンの奥地だ。

明るい所へ出てくると、客家総会の入り口が見えた。その間口はかなり狭いが、中に入ると広い敷地に立派な建物が建っており、如何にも目立たないように生きる客家を象徴している。その建物の最上階には100年以上前に作られた関帝廟が置かれており、商売繁盛を願って、管理人が管理していた。

道に戻るといくつもの小さな廟を見かけた。どこも参拝者がいて、廟は華人にとって極めて重要な場所だとよく分かる。MRT駅のあるチャルンクルン通りまで戻り、広肇会館に入ってみる。ここはその名の通り、広東系の総本山。手前に仏像などは安置された廟があるが、裏は同郷会館になっている。140年前に別荘の名で建てられたという。広東系の影が薄いバンコックで、ここは異彩を放っている。

道を斜めに歩いてみる。呂帝廟がある。ここは1899年に建てられた客家最大の廟であり、道教寺院でもある。当時2大派閥があった客家を一つにまとめたのがこの廟だとも言われている。客家は当時から自らを客家と認識していたのだろうか。30年ほど前に火災で焼け、再建されたとある。中には薬を扱う場所もあり、薬局(医者)の役目も果たしていた。

その向こうには報徳善堂と書かれた大きな会館が見える。ここがタイでよく見る慈善団体、救急隊の本部だった。その向かいには100年以上前に報徳堂によって建てられた廟があり、多くの参拝者が拝んでいた。更に行くと南海観音宮がある。小さな廟だが、凛としている。ここも客家廟だそうだ。

帰る前に細い路地を歩いてみる。ふと人が横にそれた。そこにも古い廟があった。龍尾古廟、ここはバンコックの中国寺院としてはもっと古いらしい。華人商人たちがその昔から商売繁盛を願って祈る場所、潮州系廟だった。

K先生と

一度宿に戻り、ゆっくり休息した。夜また出掛ける。先日お訪ねしたOさんが『私にぴったりの人を紹介する』と言ってくれ、その方のご本まで貸してくれた。それがK先生。華人廟の歴史などを書かれていて、これまで見たことがない角度から調査されている。何より今の私の活動にドンピシャな内容で、さっそくこの本を使って歩いているわけだ。

そのK先生とお会いして更にビックリ。特に華人研究を主にしているわけではなく、世界中の面白いと思うものを実地で調べ上げ、本にしているというのだ。これはもう話が弾まないわけはない。私は茶の歴史しかやらないが、K先生は何でも知っている文化人類学者だった。隣でOさんがあきれ顔で会話を聞いている。

そこで今私が一番疑問に思っていることを素直にぶつけてみた。正直分かるわけがないと思っていたが『チェンライ、チェンマイの雲南回族がチンギスハンの子孫だといっているが?』と聞いてみると、『それはね・・』とすらすら話し出すではないか。一生解けないかと思っていた疑問、目の前でそのヒントがどんどん出てくる。そしてそれに関する本も書いてあるよ、というから、これはまさに奇跡の出会いだった。

2月13日(木)うまい炒飯と客家

今日はどうしても炒飯が食べたくなり、近所の食堂へ向かう。他の店と違い、ここの海鮮チャーハンがなぜか絶妙にうまい。一体何を入れているのだろうか。完全に癖になってしまった。ここはパッポンカリーもうまいのだ。何か秘伝のたれでもあるのではないか。

夕方、出掛ける。同級生のOさんと会う。今日は態々奥さんにも来てもらって話を聞く。何しろ奥さんはマレーシア華僑で、しかも客家系だというのだ。家庭内でも多言語を話すマレーシアの言語事情、客家としての意識の変化など、様々な話が聞けてとても有意義だった。

その後3人で、中国系食堂へ行った。いつもは満員だというのだが、お客はまばら。これもコロナの影響だろうか。オーナーがビール飲みながら夕飯をゆっくり食べている。新華僑、それも東北人がやっているのだから、餃子がうまい。でも麻婆豆腐はちょっとね。なんだか急にマレーシア中華が食べたくなる夜。

ある日のバンコック日記2020(11)ソムデット

2月11日(火)茶の番組

バンコック暮らしも1か月を過ぎると生活リズムというものが生まれてくる。午前中は資料まとめなどを行い、昼ご飯の後、気分が乗れば散策に出掛け、そして毎日プールに入るようになった。これまで宿にプールがあっても見向きもしなかったが、本を読む空間として良いかと思い、プールサイドへ行ったところ、何とも暑かったので体を浸してみるとこれが心地よい。少し泳いで、後は体が乾くまでお茶資料を読む、何ともいい習慣だ。ちょっと筋力も付いて体も軽くなってきている。

また朝ドラも必ず見るようにしている。朝ではなく10時45分からの再放送。この時間までに色々なことを済ませ一つの区切りとしている。今日朝ドラの少し前にテレビを点けると、偶然コウケンテツの食旅番組で、何とタイのミエンが取り上げられていた。それもかなり詳しく、作り方から食べ方、健康に良いなどとも言っている。こういう形でタイのお茶が番組で流れていることを初めて知る。

朝ドラが終わってそのままテレビを点けていたら、趣味の番組で、『茶の湯』をやっている。日本ではいつの間にかお茶関連番組が増えているのだろうか。私は茶の湯のことは本当に知らないので、真剣に見ていたが、解説者の話の端々に引っかかるものがあり、どうにも馴染めない。『茶の湯は特別なことではない』と言いながら、じわっと特別感を出している感じか。まあこれも一つの世界、文化と見えれば、良いのかもしれない。決して茶の湯を否定しているわけではなく、余りに形式的なのどうだろうか。気軽にお茶飲んだ方が私は楽しい。

午後はまた赤バスに乗り、ヤワラーを越えて、川を渡る。降りるべき場所が分からずだいぶん過ぎてしまう。今日の目的地はソムデット地区。今まで来たこともなかった、全くノーマークな場所。運河沿いには大きな廟があるが、タイ式だ。ここにも華人の足跡はあるのだろうか。

ずっと歩いて行くと、かなり大きな市場があった。その向こう、川に近い方に目指す三奶廟をようやく見つける。こじんまりした作りだが、中に入ると飾りがギュッと詰まっている。ここがバンコック最古の客家系廟だという。元々は川沿いにあったが後の区画整理で現在地へ移動したらしい。私には客家を示すものを発見することはできなかったが、客家は自らを隠して生きてきた、とも言われているので、そう簡単に分かるものでもないか。

渡し場が見えた。その横を潜り抜けていくと、昔の木造、塩倉庫があった。これも客家の商いだろうか。何となく昔を偲ばせる、いい風景だった。その先には公園が見えたが、河南古廟という横幕が目に入ったので、まずは川沿いの廟を目指す。武聖廟、古めの立派な廟が川沿いにあった。これは福建系で、かなり由緒正しそうな廟だった。

疲れたので、川沿いに建つ古民家カフェに入ってみた。中には多くの観光客がドリンクを飲みながらくつろいでいた。ここも昔は華人の商家だったようで、その末裔らしき人がカフェを開いていた。川辺で飲むドリンクは疲れた体に優しい。そして眺めも良いのでつい長居してしまう。

先ほどの公園は、故プミポン国王の母、シーナカリーン妃にちなんだ場所だった。王室らしい作りの庭園があり、建物内は展示館になっていた。一般人だった(華人の血が入っている)彼女が、どのような経緯でラーマ8世及び9世(プミポン国王)を生み、国母になったのか、その概要が写真から推察できる(ほぼタイ語なので説明は分からず)。

この付近、古い華人の雰囲気が溢れている。アユタヤから移り住んだ人々の末裔なのだろうか。昭帝老爺という小さな廟もあった。そのままバスを降りた方へ歩いていくとタイ式の立派な廟があったが、その中にも華人を感じさせる建物が見え、墓には漢字が刻み込まれていた。このあたりの往時の様子が垣間見られる。

運河の向こうには、高い仏塔とさらに立派な廟が見える。ワット・ピチャヤ・ヤティカラム、1830年前後に建立されたというから、このあたりの様々な歴史を思わず考えてしまう。ただ夕方のせいか、参拝者はほぼいない。そこからトボトボと10分ほど歩くと、庶民の生活が続いて行き、モスクなども見え、MRTの駅まで行く。そこで今日の散策は終了した。因みに途中に氷屋さんがあったが、氷は海南系の得意業種だったと聞いたことがある。