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ある日の台北日記2023その2(2)有記銘茶の出会いと客家文化

それから茶旅散歩を始める。私は何度も通った貴徳街をフラフラとご案内。徳記ビルが無くなっていたり、錦記茶行のビルの横に案内が張られたりと、ちょっとした変化がある。そして何となくKさんが行きたいというので有記銘茶まで歩いてみる。中に入ると、やはり奥の焙煎室を見学する。

そこになぜか子供が走ってきた。母親が追いかけてきたが、その言葉は日本語だった。観光客かと思ったら、何と有記の親族だという。ご主人がやってきたので華語で聞いてみると、何とバンコク王有記の息子だった。そして『バンコクの店に3回行ったが、オーナーには会えなかった』というと、『親父は今そこにいますよ』というではないか。

何ということだろうか。紹介されたバンコクオーナーは王有記の4代目の弟さんだった。理由は分からないが兄と一緒に台湾に来て、途中でバンコクに戻り、ヤワラーに店を開いたらしい。初めは不審に思っていたようだが、私がバンコクの茶荘のいくつかと接点があることを話すと『あそこのおじさんは元気かな』などと日本人の私に聞いてきて、周囲の人に笑われていた。

店に集まっていた10人ほどの人は実は全て有記の親族だった。彼がバンコクから来たので集まったのであろうか。一緒に写真を撮る。最後に老人が写真に入ってきた。それが有記の4代目だとは最初気が付かなかった。後で分かったことだが、この1か月後に4代目は亡くなった。親族が集まっていた、バンコクから弟が来た、というのは、4代目にお別れをするためだったのかもしれない。非常に劇的な場面にまた遭遇し、Kさんは目を白黒させていた。

そして夕飯を食べるべく、タクシーに乗る。頼さんのお知り合いの女性と和食屋で定食を頂く。何だかよく分からない展開になっている。今晩は彼女のサロンで鉄観音茶を飲む予定になっていて、それに参加する。鉄観音茶を持って現れたのは、木柵の鉄観音茶屋さんで働く人だった。台湾の鉄観音の歴史はもう少しやるべきかもしれない。

4月25日(火)

客家文化公園と紀州庵

午前中はお休みして、昼に銀行へ行く。両替が目的だが、意外と人が並んでおり、待たされる。台湾人は世界中に口座を持っているらしい。色々な話が断片的に聞こえてくるが、その内容は、アメリカやイギリスからアジアまで、かなりワールドワイドで面白い。私の番がようやく来て両替したが、やはり両替目的などを聞かれてうっとうしい。これからは空港ですべて両替しよう。

銀行の近くに客家文化会館という名称の建物があったので寄ってみた。てっきり客家関連の展示でもあるのだろうと思いキョロキョロしていると、受付の女性ににらまれる。聞けばここは事務所だけで、一般人が見学に来るところではないらしい。もう一人の女性が『客家文化公園』の場所を教えてくれたので、突然行ってみることにした。

MRTで台電大楼駅まで行く。歩いてすぐに客家文化主題公園が見えた。実に立派な建物だった。だが中に入っても人はいない。係の人がようやくやってきたので、『客家と茶』について聞いてみたが、2階に簡単な展示があるだけだという。取り敢えず2階に上がり展示を見てみると、客家文化の内容はありきたりで、スペースだけがやたらと広いと感じてしまった。

お茶についても東方美人のいつもの説明書きがあり、また客家擂茶など、客家と関連の薄いものが客家文化とされており、ちょっとびっくり。1階の係の人は『もし必要があれば専門家に聞いて返事します』というので名刺を置いてきたが、そのご返事はなかった。桃園のあたりには客家茶文化館というのも出来ているらしい。次回はそこを訪ねてみよう。

ある日の台北日記2023その2(1)約束の地で

《ある日の台北日記2023その2》  2023年4月22日-28日

4月23日(日)昔話をダラダラと

台中から戻ると台北は涼しいなと感じる。NHKのブラタモリを見ていたら、何と下北沢特集で斎田博物館と共に荏原茶が紹介されている。この番組は時々予想外の話題を取り上げるのが面白い。荏原は私の本籍地。私と茶はこれまで全く無関係と思っていたが、何か出て来るのかな。

今日は天気が良く、かなり暖かい。台北駅までMRTに乗り、そこから歩いてみる。昨日の台中駅が完全に東南アジア化していたので、もしや台北駅周辺もそうかと思ったのだが、さすがにそうはなっていない。やはり台鐵と高鐵の駅が離れているところでは、台鐵側にその傾向がみられるということらしい。

駅の近くに公園があった。逸仙公園と書かれた向こうには孫文の像が見える。ここは孫文が台湾を訪れた際、宿泊した宿の跡らしい。梅屋敷、大和宗吉という人物が経営していた旅館、高級料亭だったとある。建物が一部保存されており、中に入ると、孫文関連の資料や写真が多く展示されている。庭園も整備されておりきれいだ。こんなところにこんな静寂な空間があるとは全く知らなかった。

そこから長春路まで歩いて行く。本日は長年のお知り合いであるBさんと会う予定になっていた。Bさんは俳優業や音楽業で忙しいなか、時間を取ってくれた。牡蠣の店に入ったのだが、彼は昨晩飲み過ぎて二日酔いらしく、粥などに少し手を出しただけで、ほぼ私が食べてしまった。何だか最近とみに食欲が出ていて怖い。

場所をスタバに移して、話を続けた。コロナ禍の3年の間のお互いの出来事などが話題に上る。彼は本も出版しており、1冊頂戴した。さすがにこの歳になると色々と体もきつくなる。また周囲の人々との付き合いなども徐々に変わっていくので、その辺について率直に話せる相手は何とも有難い。話は何となくダラダラと続いて行き、気が付くと4時間も経っていた。体調が悪いのに付き合ってもらい、何とも恐縮だった。

彼と別れて歩き出すと目の前に鳥居が見えた。これが林森公園にある明石元二郎の鳥居だろうか。先日福岡へ行き、明石の記念碑を眺めたことを思い出す。そもそもここは光復後外省人が住むバラックが立ち並んでいたのではないだろうか。1990年代、奥さんに頼まれて出張の際に、良くここでCDを買ったのも懐かしい。今家族連れなどは楽しそうに遊んでいる。

何となくフラフラ歩きたくなる。私が30年前に住んでいたマンションは既に姿が見えない。更に行くとその頃お世話になった会社の本社が見えたが、老朽化で改築待ちだった。その1階にあったファミレスも既に営業を停止してだいぶん経っている。この辺がコロナの影響だろうか。宿泊先の近くまで来ると、昔よく泊まったホテルが見えた。その先のパン屋であんパンを買う。腹も減ったので、魯肉飯と排骨酥を食べて帰る。

4月24日(月)劇的な出会い

ちょっと疲れたので午前中は休息。昼に大稲埕方面に出掛けたので、先日行き損ねた金春発でご飯を食べることにした。ところが何と月曜日がお休み。ショック。仕方なく近所のチャーハン屋で昼を取る。これが意外と旨い。スープの量はどこも多い。でも店名に炒飯とついているだけあってかなり満足する。

迪化街の廟のところでKさんたちと待ち合わせた。日月潭での劇的な出会いから3日、今度は台北で会う。大稲埕を茶旅散歩するはずだったが、既に買い物で消耗していたようで、取り敢えずお茶屋に入り休息する。雰囲気の良いお茶屋だなと思っていたら、ここは5年前『湾生回家』の黄監督とお話しした場所だったことを思い出す。お茶を飲みながらしばし昔を思う。

ある日の台北日記2023その(6)製茶公会で

ランチはタクシーで別のところに移動する。そして天仁銘茶でご馳走して頂いた。やはりお茶の店だけあって、優しい味わいの料理が多い。理事長は遠くから来ており、折角の機会とばかりに黄さんとの相談事がいくつも出てきた。その内に台湾茶の現状、そして日本茶輸入の関連など話がどんどん広がっていき、内容にもかなり熱が入っていく。

私は公会のミーティングに参加したような格好となり、ただ黙って聞いていた。やはりコロナの影響はそれなりにあり、歴史や文化よりはまずは目先の利益確保、という感じであったので、私の出番は無さそうだった。気が付くと4時間も話していたことになる。黄さんからご著書を頂いて帰る。

台北に来てから数日が過ぎたが、何となく部屋で寝ていると蚊に刺されることが多い。3年前はどうだったのかさっぱり覚えていなかったが、部屋の中で探し物をしていると、電気蚊取り機が出てきて、これが必要だとようやく気が付いた。急いでスーパーに行ってマットを買ってきたが、何と私が持っている機械は液体対応だった。仕方なく、再度スーパーに行き、マット用の機械を買う。これで今夜から安心して寝られそうだ。

4月19日(水)ご近所散策

今朝は腹が急激に減り、近所に新しくできていた朝ご飯屋に駆け込む。セットを注文したが、ハンバーガーにたまごを入れる場合は、結構割高となる。それでも大好きなので、頼んでしまう。日本もそうだったが、台湾でもたまご不足なのだろうか。たまごが高いと物価高を非常に強く感じる。

昼もまた近所で食べてみる。今度は初めて入る店でチャーハンに挑戦する。思ったよりはかなり美味しくて満足。ただ同時に頼んだスープの量が多過ぎて困る。日本の中華料理屋さんのようにスープをちょこっとつけてくれれば良いのだが。それでも代金はそれ度高くないのでついつい注文してしまう。

夕方MRTに乗り中山駅へ。雨が降っていたのでちょっと駅地下で雨宿り。駅の外にはドラッグストアーがあり、何とそこに日東紅茶の粉が売っていた。戦前台湾で紅茶を作って一世を風靡した三井が今度は日本国内で作ったお茶を台湾に売り込んでいる。一体どれだけの台湾人が日東紅茶の歴史を知って、この商品を買うのだろうか。

今晩は雨の降る中、北京に留学経験がある日本人の集まりに飛び入り参加した。ほぼ初めて会う人だったが、色々な繋がりから、知り合いの知り合いは皆知り合い、という感じ。北京や中国という共通の話題があり、話が弾んでとても楽しかった。もうサラリーマン時代の仕事の話は忘れていたが、突然数十年前の記憶が呼びこされもした。良くも悪くも中国とは色々とあったなあ。

会場も台湾には珍しいガチ四川料理の店で美味しかった。といっても、やはり台湾だからそこまで辛いというわけでもなく、食べやすい感じだった。ただ話に夢中で料理のことはほぼ思い出せない。お客は台湾人より、台湾に来ている中国人が多かったのかもしれない。普通話が響いている。今回の台湾、こういう場所もう少し探してみたい。

ある日の台北日記2023その(5)台湾茶歴史談義

4月17日(月)台湾茶歴史談義

今朝は少し歩いてあのカツサンドの店へ行ってみる。店は開いていたので、注文しようと中を覗くと、お姉さんが『あら、珍しい』という顔で迎えてくれた。思わず『コロナで3年半来られなくて』と言ったら、初めて私が日本人であることを認識したらしい。喜ばしいというか、何というか。他の店でも私に気づいた人はいたと思うが、誰もこういう感じで声をける人はなく、やはりうれしい。カツサンドは形が変わり、盛り上がっていなかったので、かなり食べやすくなっていた。勿論料金は10元上がっていたが、食べる価値はあるだろう。

部屋に戻ると羅さんから連絡が入り、昼は東門に向かう。早く着いたので、鼎泰豊をちょっと覗くと、人が沢山待っていたが、何とテイクアウト専門店になっていた。そこへ羅さん親子がやってきて、一緒に餃子屋へ向かう。この餃子屋も何だかきれいになっている。ここで焼き餃子、水餃子などをたらふくご馳走になり、大満足。

そして茶歴史談義が始まる。この3年半の間に蓄積された情報を交換し、疑問をぶつけあう。それはそれは楽しい時間となる。テレビドラマ『茶金』の話など、リアル台湾紅茶の歴史であり、羅家の歴とも大いに重なっていると思われる。この3年の間にお話を聞いた羅家の長老お二人も旅立ってしまったのは、何とも残念だ。

場所を近くのカフェに移す。カフェに行く前に鼎泰豊の新店舗の前を通ったが、やはり人が多い。なぜそこまで人気があるのだろうか。カフェも何だかきれいで恐縮してしまうが、それでもお茶歴史にスイッチが入ると全く止まらない。台湾茶の歴史も随分と奥が深い。息子さんはずっと同席していたが、忍耐強いのだろうか。気が付けば3時間以上お話し込む。

すぐ横に意翔村があったのだが、陳先生は最近店にいないと聞き、素通りする。帰りに茗心坊に寄って、林さんに挨拶する。林さんの息子がロンドンから戻り、地道な焙煎作業をしているのが喜ばしい。今はお茶シーズンなので、睡眠時間も短くして、茶作りに励んでいる。一方娘は京都にいるとか。ここのお茶の代理店が京都に出来たような感じらしい。お茶を飲むと腹が減ったので帰りに牛肉麺を食べて帰る。

4月18日(火)製茶公会へ

今朝は圓環に向かう。ここは私の台湾旅の原点である。周囲を歩くと何となく懐かしい雰囲気に包まれる。古い紅茶のポスターを掲げる店もあったが、まだ開いていない時間だ。ドリンクスタンドだろうか。ホルモン系が旨い金春発も当然まだやっていない。この辺の店もちょっと変わっているようだ。コロナの影響はやはり大きかったのだろう。

本日は製茶公会に黄さんを訪ねた。以前も台北に来るたびに訪問し、そのお茶の歴史を教えて頂いていた。まだまだお元気で、今日も色々と話を伺う。ご著書も頂き、黄さんの茶業話を拝聴した。3年半の間に公会自体も理事長、総幹事ともに交代しており、紹介もして頂く。やはり人が変われば、ちょっと以前とは雰囲気が違うようだ。

ある日の台北日記2023その(4)華新街と台湾大学

4月15日(土)ミャンマー人街へ

今朝もサンドイッチで朝を迎える。5月から値上げの表示が見える。最近この表示が目立つように思う。特に卵の値上がりが激しいのは日本と同じか。MRTに乗って中和の図書館へ行く。ここも前から良く通った場所。しかし3年半ぶりなので、PC操作の仕方などは完全に忘れてしまう。それでもここの係員は常に優しく、教えてくれる。

台湾日日新報の検索に励み、気が付くと4時間も座ったままだった。やはりこういう資料を見ているのが一番楽しい。台北の部屋に置いたままだった資料を思い出し、更にここで新たな記事を集め、実に地道な作業が続いて行く。この土台があってこその茶旅だと最近つくづく思う。

またMRTに乗り、終点の南勢角まで行く。ここから更に歩いて10分以上行くと、華新街に辿り着く。ここは台湾のミャンマー人街と呼ばれており、ミャンマー・雲南から台湾にやってきた人々が集まっている。そして人が集まれば食べ物もやってくる。通りは閑散としていたが、店はかなりあり、取り敢えず適当な店で麺を啜る。何となく雲南麺を思い出す味だ。

実はちょうどミャンマーやタイは水掛祭りの最中。ここでも午前中にイベントがあったが、午後は日常を取り戻しているようだった。昼下がり、ミャンマーミルクティーを飲みながら、話し込んでいる老人たちがいる。言語は中国語もあるが、時にビルマ語、シャン語などが耳に入ってくるような気がする。この付近が形成された歴史、人々の歴史を知りたくなる。私も紅茶とミャンマー菓子で寛いだ。

帰りにバスに乗る。ちょっと距離のあるバス。土曜日で道が空いており、かなりのスピードが出ている。突然ブレーキも踏むので、かなり危険な運転だ。といっても30十数年前の台北のバスに比べれば、まだマシだろうか。バス代は安いのだが、その危険度という意味ではMRTの方が乗りやすい。

4月16日(日)台湾大学へ

日曜日は原則外出しない、と以前は決めていた。やはり休みは重要だ。それでも体が外へ出てしまう。かなり天気が良く、暑さが気になる中、今日は台湾大学方面に歩いて行く。途中の団地では、お天気の中、老人たちが日向ぼっこしている。車いすに乗り、インドネシア人メイドに推してもらっている男性、よく聞いてみるとその会話はインドネシア語だった。彼は華僑なのだろうか。それとも仕事で言語を習得したのだろうか。

大きな道路に面して、温州大餛飩があったので入ってみた。ここではいつもワンタンメンを食べていた。午前中の中途半端な時間でお客は一人しかいない。お母さんが一生懸命ワンタンを1つずつ丁寧に包んでいるのが何とも良い。それを見ながら鮮肉餛飩湯と鶏絲飯のセットを注文する。何だかいつもと違う雰囲気。因みにこの温州大餛飩はフランチャイズ方式らしいが、店によってメニューがちょっと違う。

台湾大学まで歩いて行くとかなり暑い。まずは図書館に入る。以前はバッグを地下1階にあるコインロッカーに預けなければならなかったが、何と1階に移動されていて大いに助かる。入室は前と変わらず。だが、以前見ていた資料の場所が思い出せず、かなりまごつく。結局見たい資料の一部には辿り着かないという悲劇。

一応何とか任務をこなして外へ出る。何となく磯小屋の方へ向かう。入口がきれいになっている。建物は以前のままだが、表示なども増えているような気がする。蓬莱米の父とも呼ばれる磯永吉への関心も高まっているのだろうか。残念ながらちょうど昼時間で、中を見学することは出来なかった。暑いので早々に引き揚げる。

夕方はかなり涼しく感じられたので、また外へ出る。よく行っていた近所の食堂で夕飯を食べようと歩いてみたら、何と店が見付からない。まさか無くなったのかと不安になったその時、店の位置を間違えていたことに気が付く。なんとまあボケが進んだことか。店は昔のままだったが、オーダーはボードに印をつける、会計も機械化されていた。まあ味が変わらないので良しとしよう。

ある日の台北日記2023その(3)南機場夜市と済南教会

夕方バスに乗り、南機場夜市を目指す。ここは全く初めて行く夜市。お目当ては台湾のおこわご飯、米糕。有名な店があるというので行ってみた。こんなところにも夜市があるのか、と思うほど、今や台湾は夜市だらけだ。夜基本的に出掛けないので、夜市にはあまり縁がない。名前からして元飛行場跡なのだろう。

入り口付近にある米糕屋には行列が出来ていたが、よく見るとテイクアウトの人々と分かり、席を探して適当に座る。何とか注文書を渡して待つ。徐々に日が暮れていく中、人が増えていく。久しぶりの米糕、やはり美味しい。昔拠点とした埔里の味が思い出される。排骨湯と煮卵もいい。その後夜市を散策。元々が行く人が来る場所ではないが、地元民で行列が出来ている店もあり、コロナからの復活が見て取れる。私はバスで早々に退散する。

4月14日(金)大稲埕から済南教会へ

朝はまた近所で蛋餅と大根餅を食べる。やはり台湾の朝食はバリエーションもあり、安価であり、そして旨い。もう言うことはない。そのまま近所を散策する。以前はよく行っていた市場方面を歩くと、お客も店も特に変わっていないように見える。帰りに宿泊先の横で、バナナを買う。これも台北生活のルーティンだ。

MRTに揺られて大橋頭駅へ向かう。ここから大稲埕を歩き出す。駅近くには十連棟という建物があり、この付近日本統治代は米などを扱う六大商家がいた場所であると書かれている。平日なので人は少なめであるが、お茶を売る店なども見られる。懐かしい警察署もあった。

本日は王瑞珍茶荘を訪ねてみた。実はこの名前、タイのバンコクにあり、3年半前に話を聞いていた。その際台北にも親戚がいる、ということだったので聞いてみる。突然の訪問にも拘らず3代目夫婦が招き入れてくれ、お茶を飲みながら色々と説明してくれた。やはりこの茶荘も元は安渓西坪から出てきており、王福記などとも親戚にあたるようだ。3代目になってから現在の店舗で小売りに転じたが、元は茶輸出を行っていたという。

そこから大稲埕の港を少し眺めてから、貴徳街をフラフラ歩く。相変わらず細い道だ。李春生記念教会、ここが目指す場所だったのだが、いつものように門は閉まっていた。あれ、と思い、案内をよく見ると、何とここではなく、済南教会と書かれている。実はここで李春生のひ孫さんと待ち合わせていると思い込んでいたので、大いに慌てる。

途中何とかタクシーを拾い、済南教会まで急行した。初めて見たが実に立派な教会が建っており、その後ろの建物の2階で、李春生生誕185周年の記念展示会が行われていた。ちょうど他のお客さん向けに説明が始まり、その流れについて行く。かなり詳しい展示内容、そして李家の大邸宅の模型などを材料に、その歴史が話されていく。これまで李春生については多少は調べていたので、その内容は非常に興味深い。

その後ジョンドッド関連のご本を頂き、更に李さんより日本語に関する質問を受ける。確かに李春生に関しては日本語の資料がたくさん残っているが、その漢字だけでは判別は難しい。李がなぜ台湾に渡ってきたのか、その辺の事情を解明してみる。いずれにしても李と茶葉貿易は重要な関係があるはずだが、何故かそれに関する資料は殆どない。

教会を後にすると、急に腹が減り、その辺の弁当屋に入ってご飯にありつく。排骨飯とは何とも懐かしい響きだ。台湾では食に困ることはない、というか、選択肢が多過ぎて悩むことは多い。安くてうまい、は台湾料理の代名詞。多少の値上がりはあるが、今だにそれは健在だと言えるだろう。

ある日の台北日記2023その(2)近所散策を開始

何と出てこなかった理由は『悠遊卡』を使ったからだった。3年半使っていなかったカードを恐る恐る使ったところ、ドアが閉まってしまった。パスワードなどが出て来るものと思っていたが、何とカードをかざせば開けられる仕組みだった。そんな勝手な大騒ぎの中、35年来のお知り合いTさんがやってきてくれた。昨晩台北に行くことを告げると『取り敢えず空港に行く』と連絡があった。もう4年近く会っていなかったが、全くこれまでと変わらないの普通の会話となる。何と自然なことか。

それから少しPCなどを触ってみる。空港のWifiはかなり強いので、何でもできるし、充電も可能。座って作業に励む。その内、家主の葉さんから連絡があり、家に向かう。結局タクシーには乗らず、いつものように文湖線で行く。家の前には果物を売るおばさんが全く変わらぬ姿でいたのが印象的。

3年半ぶりに家に入る。一番気になっていたのは荷物だったが、何とスーツケースには入っておらず(前回帰る際にケースは持ち帰っていた)、しかも親戚の子供が来て、私の荷物で遊んでいたというので、カビなどは生えていなかった。それでも3年半全く使っていなかった衣服なので、一部は捨て、残りは明日全面的に洗濯しよう。ここに残してきた資料もみな無事でよかった。涙が出る。

そうなると腹が減った。もう思い付くのは近所の麺屋だ。刀削麺の店で牛肉湯肉絲麺を頂く。この店、ちゃんと開いていてよかった。夢にまで見たモチモチ麺とコクのあるスープ。これが食べられる幸せ。値段も10元程度の上昇。といっても円換算ではかなりの上昇だろうか。まあ食べられる幸せが値段に勝る。他の店もあまり変わっていない。コロナの影響はどの程度だったのだろうか。

4月13日(木)懐かしの店から南機場夜市へ

爽やかな台北の朝。まずは近所をうろつき、いつもの店で総会三明治と氷紅でスタートする。ここも10元ほどの値上げ。特に卵入りは高くなっている。そのままフラフラ行くと、今度は大腸麺線の店がある。美味しそうだな、と思っている間に、足が勝手にそちらに行き、口は勝手に注文している。これはやはりうまい。何とも懐かしい味だ。

そのまま歩いていたら、以前あった古い市場が完全に解体されていた。スーパーもセブンに代わっている。やはり3年半の間には、それなりの変化があったのだろう。その先には新しいきれいな市場が出来ていた。2階には食堂街もあるので、今度機会があれば食べに来ようと思う。敦化南路の街路樹はそのままだった。

今やなんでもオンラインの時代だ。葉さんからもらったURLを開くと、そこではお茶販売の新しい試みなどについて、台湾人とシンガポール人で議論が交わされている。パティシエである葉さんの息子も堂々と英語で持論を述べている。こういう議論に日本人はなかなか加われない。台湾茶業も重大な変革期のようだ。

午後早々に約束を取り付け、双連までMRTで行く。駅から地上に上がると何となく懐かしい。思わず以前も食べた店で肉羹と魯肉飯を注文する。値段は10元ずつ上がっただろうか。ここの魯肉飯は肉がゴロゴロしており、何となく日本で食べるものを思い出させる。食後裏道を行くと、まだまだ古い店がいくつか残っており、何とも好ましい。

茶荘に湯さんを訪ねる。彼女とはもう20年近い付き合いになる。既に店は息子に任せて悠々自適かと思っていたが、知り合いと一緒に理想の高山茶を作るべく、現在も奮闘中らしい。昔はプーアル茶で一目置かれ、その後烏龍茶、紅茶などに取り組んだ茶商さんの追及はまだ続いている。その熱意には心打たれる。

ある日の台北日記2023その(1)3年半ぶりに台北へ

《ある日の台北日記2023その1》  2023年4月12日-20日

実に3年半ぶりに台湾に舞い戻った。荷物や資料は置きっぱなしでずっと気になっていたが、台湾の門は固かった。仕方なくまずはタイで5か月を過ごし、ついに3月には台湾も基本的にコロナ前に戻ったので、出掛けた。それにしても飛行機代が高くなりすぎて、今後はちょくちょく行くことは出来ないような気がした。

4月12日(水)3年半ぶりに台北へ

羽田から台北へ。3年半前まではそれは日常だったが、今回は久しぶりで緊張する。午前10時台のエバエアを予約していたが、8時前には空港に到着した。何しろ保安検査場が激込みでフライトに乗れない乗客が出ているとFBに書かれていたからだ。因みに余裕を持って家を出たので早過ぎてしまい、珍しく渋谷からバスで羽田へ向かう。だがリムジンバスは何と1時間に一本ほどしかなく、ちょうど乗り場に行った時バスが来て何とか乗り込めたのだ。主要駅から空港行バスも激減している東京。

まずは荷物があるのでチェックインする必要があるが、何と保安検査場がそんな状態なのに、カウンターはまだ開いていない(2時間前開始)。しかも並ぶ場所も不明確で乗客は混乱していた。何とか荷物を預けると今度は長い長い列が待っていた。まるでセールに殺到する買い物客のようで、係員が『最後尾』のプレートを持っている。

そこから40分ほど死の行軍が続く。外国人も多いが、皆諦め顔で文句を言う人はいない。ただひたすら耐えている。子供連れだと大変だ。どうしてもフライトに間に合わない客は航空会社のスタッフが別に誘導しているから、次回はギリギリに行こうか。何とか保安検査場へ辿り着く。

まあここの作業が遅いのは昔からだが、スタッフもストレスが相当かかっていて気の毒だった。最後に自動ゲートを出て出国スタンプを貰おうとしたら、頼んだところと全く別の場所にスタンプを押して返してきた。こちらは必要があるから場所を指定しているのに、何だか権力を振りかざした、勘違い係官で驚いた。

結局1時間半前には準備完了。とにかく朝から疲れた。ドリンクを飲んでゆっくり休んでから飛行機に乗り込む。先日乗った日系と違い、エバは何とも落ち着く。日本映画を見ながら、美味しい食事を頂き、烏龍茶を飲む。徐々に台湾へ行くというモードになる、何とも言えない気分だ。

気になっていたのは空港の混雑だった。以前は特別ルートから入国できたので問題なかったが、今やその神通力も通用しない。さっさと通路を歩き、入国審査場へ行ってみると、何とほぼ人がいない。むしろ特別ルートの方に何人か並んでおり、それを横目にあっという間に入国完了する。松山空港は便数が限られているからだろう。早過ぎて荷物が出て来るのに少し時間が掛かる。その間、日本からの卵などの持ち込み注意を呼び掛けられる。サンドイッチにたまごが入っていても捕まるらしい。

懐かしの松山空港。まずは夜までここで待機する必要がある。中華電信でいつものシムを買い、作動させる。それから両替。何とタイなど東南アジアで拒否されてきた米ドル旧札の両替が出来たのは嬉しい。一応手数料として1%取られたが、全く両替できないのに比べれば全くマシだった。

次に大きな荷物をコインロッカーに入れた。以前もやったので問題ないと思っていたが、前の人がドアを閉めて処理が完了するとレシートが出てきたのに、私の番になるとなぜかそれが出てこない。なぜか分からず、しかし取り出すことも叶わない。困っていると掃除のおばさんが手伝ってくれ、最後は係員まで呼んできてくれた。これが台湾の親切だ。

バンコク滞在記2023その2(4)

食後どこかでお茶でもしようと店を探す。ヤワラーで最も入りにくいカフェ?とある人が言ったお茶屋は今日も実に入りにくそうでパスした。その向こうにおしゃれない建物が見えたのでそちらに入ってみた。すると中の客がインド系で驚く。ここは一体どこなんだろう。すごくしゃれた雰囲気の店内に、次々と客がやってくる。後で聞くと、今売出し中のホテルだったようだ。因みにインド系観光客は昨年バンコクに来た時から相当目立っていたので、特に驚きはないが、若者でお金のある人が多く見受けられる。

ここでお互いのコロナ禍での生活などについて話す。インドもかなりひどかったようだが、今や何事もなかったように普通に戻っているらしい。私も一度アユルベーダドクターのところへ行きたいと思っているので、計画せねばなるまい。Tさんもヨーロッパから帰国し、今は京都に住んでいる。当たり前だが3年という月日はかなり長い。

皆さんと別れてMRTに乗り、先日行った王陽春へ行き、頼んでおいたお茶を取りに行く。やはり長女が対応してくれた。4代目候補が学校から帰ってくる時間かもしれないので、すぐに失礼した。ここのお茶は実に飲みやすいので、普段飲み用として好評だ。帰りに宿の近くまで来て、何故かエネルギーが切れた。初めて入る店で麺を食べたが、美味かった。どこで食べても安くてうまい、これがバンコクか。

3月17日(金)東京へ

何とか2か月分の荷物を纏めて宿を出る。思えば今回も意外と長かった。フライトは午後だが、念のため空港へは早くに向かった。前回チェンマイへ行く時、Grabで呼んだ車が全然来なくて困ったが、今回もやはり時間が掛かる。しかも何と私の位置情報が間違って送信されており、Yさんがタイ語で対応してくれ、難を逃れた。Yさんにも毎度毎度お世話をかけている。

車は高速を使い、30分ちょっとで空港に到着。チェックインカウンターで『ワクチン証明』と言われるのももう慣れたが、何をいまさらと、日本政府に不満の矛先が向く。結局昼間の時間帯は、税関検査も出国審査も言われるほど混んではおらず、また空港で大いに時間をつぶすこととなった。まあ喜ばしいことと言わざるを得ない。

満員の乗客を乗せた(その多くは花見のタイ人)フライトは順調だったが、それでも羽田到着は午後10時半。ここで降りるまで10分待たされた。すぐに外へ出てVisit Japanをかざして人込みを突き抜けて行く。終電の一本前に間に合うかと焦ったが、荷物が出てこない。その間に税関申告の電子手続きをして、何とか11時過ぎに荷物を受け取り、また走る。

やった、何とか電車に間に合ったと思ったが、何とそこには大勢の乗客がおり、乗り込めない外国人も多数いた。私は素早く一番前まで移動して何とか滑り込む。何度もドアが閉まらず、開閉が繰り返された後、列車静かにホームを離れた。積み残された外国人が遠くに見えた。日本って、こんな国だっけ?

その列車は4分遅れて品川に着いた。すると予定していた山手線には乗れず、一本待つことになる。そうなると今度は新宿の乗り換えにも間に合わず、結局終電と同じになってしまった。それでも運よく乗れたからよいものの、もし終電と思って1本遅い電車に乗っていたら、途中までしか帰れなかっただろう。そして羽田空港の大勢の入国待ち外国人には終電などあり得ないのだろう。どうする外国人観光客?

バンコク滞在記2023その2(3)ヤワラーの潮州系茶荘

3月15日(水)近所で食べ納め

今朝は朝からコムヤーン。すぐそこにあると思うとあまり食べなくなっていたが、いざバンコクを離れるとなるとやはり食べたくなる。カオニャオとの相性がいい。おばさんも歳を取り、今は息子や娘?が店を切り盛りし始めている。もう少ししたら、孫と遊ぶおばあちゃんになっているかもしれない。

昼はYさんと最後のランチ。もう一つのカオマンガイ屋へ行く。ご飯がかなり濃厚で、鶏肉は柔らかい。ケチャップをかければチキンライスかとも思ってしまう。これで60バーツとなれば、やはり食べるだろう。狭い店内には客がひしめいていた。夕方通り掛かると、いつも鶏肉の残骸だけが残っていた理由が分かった。

夜も早めに近所のお気に入りへ。牛雑麺と言えばよいだろうか。ここは英語が通じてしまうので、彼らが中国語で何と言っているのかは知らない(漢字メニューはない)。まあとにかく濃厚スープといい味が出ている内臓があればよいだろう。隠れた名店、と評した人がいたがまさに。2人以上だと鍋を食べているので、いつか誰かと来て鍋を食いたい。

3月16日(木)ヤワラーで

今日は先日紹介を受けたヤワラーのお茶屋さんを訪ねる。超老舗で5代目だという。まずはMRTでファランポーンまで行き、そこから歩いていつもの店でジョークを食べる。これからジョークが食べられなくなるのは、何とも悲しい。今日も極めて天気が良いが、暑さも相当厳しい。

老舗茶荘に行って見るとそこは過去何度も行った店だった。確かにお母さんは華語を話していた。南港茶という文字に惹かれたこともある。だがこの店の歴史は分からなかった。5代目は30代の若者で、何と大阪で商売をしていたという親戚のおばさん(70代)も来ていた。日本を離れて10年ぐらい経つというが、日本語をよく覚えており、使いたいらしい。

5代目が淹れてくれた茶は何とタイティーだった。その理由を聞いて驚く。あの私が以前訪ねて記事も書いたタイティーの会社は、何とこの一族の人たちだったのだ。確かに苗字は林だ。古いガラスコップにこの一族に関連した企業が書かれていたが、その中にタイ人なら誰でも知るあのマークもあって驚く。私が以前書いた記事を見せると、皆が寄ってきて『親戚が写っているぞ、後ろの写真はうちのおじいちゃんじゃない』と言い出し、笑ってしまった。

この店、間口が狭いので小さな店と思っていたが、実は奥行きがかなりある。お母さんは奥に引っ込んで出てこない。さすが潮州系。商売にならないと分かると奥で別の作業をしている。確かに歴史だ、文化だと言っても、利益には直結しないことが多い。やはり商売というものは厳しいものだ。

あっという間に2時間が過ぎ、店を辞した。駅まで行き、待ち合わせのA師夫妻とTさんと合流。5年ぶりだろうか。一緒に先日紹介された潮州料理屋へ向かう。階段を上がり2階へ行くと、何と団体さんが大勢で食事をしていたが、すぐに終了し、我々だけが取り残され、急に静かになる。

オーナーは勿論潮州人だが、華語をこちらが使う前に英語で対応してくれた。肉は食べないが伝統的潮州料理が食べたいというといくつか選んでくれた。潮州料理は海鮮も有名だが、やはり肉を全く頼まないというと、色々と制限が出ることが良く分かった。工夫茶が出た後、鍋などを美味しく頂く。