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ある日の埔里日記2017(7)日帰りで台北に行く

118日(水)
日帰りで台北へ

 

今日は日帰りで台北へ行くことにした。これまでなら1泊するのが普通だが、今回は基本的に埔里にいることを前提としているので、この強行軍を敢えて一度トライすることにしたのだ。午前5時過ぎに起床、ゆっくり支度をして、6時前にバスターミナルに行く。まだ外は暗い。切符売り場で当日往復を購入すると割引になる。690元で往復できるのは嬉しい。しかも帰りはオープンなので、時間を気にする必要もない。

 

バスに乗り込む人は多くはなかった。荷物もないので身軽に乗り、座席に着く。バスが動くとすぐに眠りに落ちる。気が付くと、台中郊外朝馬のターミナルにバスが停まったので、トイレに行く。新竹付近で少し渋滞があったが、その後は順調に進む。このバスは充電可能だったので、スマホを気にせず使えたのもよい。三重を経由して、台北駅前に9時半過ぎに着いた。

 

バスターミナルから街に歩き出す。時間があったので朝ご飯を探す。中山の方へ歩いて行くと、蛋餅を売る店があったので、そこで食べた。埔里では意外と蛋餅を食べる機会が少ないので、なんとなく懐かしくなる。それからMRTに乗り、交流協会へ。ちょうど名前が日本台湾交流協会に変わったばかりだった。

 

ここの閲覧室で先輩のIさんと待ち合わせ。交流協会に来るのは実に28年ぶりかな。今の建物には初めて入るので勝手が分からない。閲覧室には本が沢山あるようなので次回はちょっと閲覧してみよう。Iさんと一旦外へ出て、近所のコーヒー屋さんでコーヒーを買って、飲みながら話す。その後交流協会の人を紹介してもらい、挨拶する。

 

そこから歩いてMRTを一駅行く。この辺はその昔の職場の近くで懐かしい。兄弟大飯店、30年近く前、何度か泊まったところだ。今は明るくきれいになっている。2階のレストランは健在のようだった。小巨蛋、そこでBさんと待ち合わせた。以前私も執筆したことがある雑誌の編集長を紹介してもらい、ランチを食べる。この編集長と会うのは初めてだったが、彼女が日本で勤めていた雑誌に私がコラムを書いたこともあり、すぐに打ち解けた。

 

それからMRTに乗り松江路で降り、歩いて長安東路へ。意外と遠い。ここでたまたま来ていた香港在住のLさんと待ち合わせ。すぐに林森の喫茶店で話し始める。話はどんどん膨らんでいく。この面談終了後、埔里に戻るつもりでいたが、何と今日はLさんの誕生日だと気が付き、夕飯も付き合うことになる。

 

Lさんが昔よく行ったという台湾料理の老舗レストランへ向かう。私も昔たまに行ったので、何となく場所は覚えているつもりだったが、歩いて行くとなかなか到着しない。何と30分も歩いてしまった。しかも自分が覚えていたのとは違う道にその店はあった。自分の記憶の不確かさに驚く。

 

店はまだ早い時間だというのに、滅茶苦茶混んでいた。日本人も何人もいる。中には若い女性が一人で食べていたりして、これまた驚く。どうしてもここで食べたかったんだろうな。Lさんがオーダーしてくれた料理は全てうまかった。勿論この店がうまいということもあるだろうが、気心の知れた人と楽しく食事をすると美味しいのだ、と改めて気づかされた。結局Lさんの誕生日なのにご馳走になってしまった。申し訳ない。

 

腹が一杯だったので、雨が降りそうな天気だったが、また30分歩いてバスターミナルまで行く。余裕を持って8時のバスに乗ろうとしたが、何と9時までなかった。この辺もち密な計算がまるでできていない。早く帰りたければ高速鉄道+バスという選択肢もあるのだが、何しろすでにバスチケットを購入済みであり、ボーっと9時を待つ。

 

バスには結構乗客が乗っていたが、車内が暗くなると当然ながらすぐに皆眠りに就き、静かになる。そして約3時間、バスは順調に走り、いつの間にか埔里の街に入った。ちょうど深夜零時、バスターミナルに到着。朝6時に出発した、日帰り台北の旅は終わった。やればできることが分かったが、ちょっとしんどいな。

ある日の埔里日記2017(6)尾牙とベトナム人

尾牙会に参加して

 

魚池から戻ると、葉さんよりメッセージが入る。『もうすぐベトナム人が迎えに行くから』と。実は私が借りた部屋のお向かいにはベトナム人の夫婦が住んでいた。その二人が『さあ行こう』と言って、一緒に下に降りる。そして旦那がバイクを運転し、私は後ろに乗る。今日は一体何があるんだろうか。相変わらず何も知らされない。

 

バイクはすぐに近くのレストランに着いた。そこは初めて行くところで、相当広い。こんなところがあったのかと感心する。だが葉さん達は居ないので、どうしてよいか分からない。しばらくすると三々五々人が集まり出した。どうやら我々のグループだけで5テーブルを予約している。ようやく今晩は忘年会、台湾でいう尾牙だと分かる。

 

葉さんが奥さんとやってきたので、私も席に着くことにして、空いているところに座ろうとしたら、『そこはダメだよ』と言われてしまう。なぜかと見てみるとそこには『イスラム教徒』と書かれているではないか。今晩はイスラム教徒も参加するのかと驚く。すぐに彼らはやって来た。女性がスカーフを頭に巻いている。インドネシア人だった。

 

インドネシアのテーブルが1つ、そしてあと3つはベトナム人のためにあった。隣に座ったおじさんが『台湾人は殆どいないんだよ、皆外国人さ』と笑いながら言うので、一応私も外国人だと言い返すと笑いが起こった。結局、ベトナム人は葉さんの親族と取引先、10人にも満たない。

 

実は葉さんの奥さんもベトナム人だし、そのおじさんの奥さんもベトナム人。そこから生まれた子たちはハーフだ。実質的なマジョリティーはベトナム人なのだ。おじさんが言う。『今や台湾の茶業、いや農業そのものがベトナム人抜きでは考えられないのだ』と。確かにこの50人の宴会でも30人以上がベトナム人なのだから、この埔里には一体どれだけの人がいるのだろうか。一説に台湾全土には数十万人のベトナム人がいるというが、これの光景を見るとあながち間違いとも言いにくい。

 

私のお向かいさん、奥さんは元々台湾人と結婚するために台湾に来たらしい。その後離婚して現在の旦那と再婚。彼女のように合法的に居住権を得ている人もいるし、短期労働のビザで入ってきて、そのまま不法滞在している人もいるらしい。いずれにしても、この田舎では、不法だとしても目をつぶっているようだ。そうしなければ、自らの産業が成り立たないという現実がある。

 

初めは大人しく食事をしていたベトナム、インドネシア軍団だが、今晩は酒も入っており、途中からご機嫌で立ち上がり、乾杯などを始める。ちゃんと老板のところへ来て、日頃の感謝も述べるし、何だか誰が台湾人だかわからないぐらい、台湾に馴染んでいる。勿論台湾のおじさんたちも負けじと酒を飲むが、何しろ向こうは若い上に人数が多い。とても敵わない。

 

この尾牙、台湾の大企業ではラッキードローなどが非常に派手で、現金が飛び交うこともあるほど。年に一度のお祭りなのだ。この場ではラッキードローはなかったが、それでもたらふく食べて、酒も飲んで皆ご機嫌だった。遠く故郷を離れて何年にもなる人もいる。ベトナムではテトと言って旧正月も同じようにあるのだが、帰国も出来ずにいる人もいる。そんな彼らのちょうどよい憂さ晴らしになっている。

 

私は途中から葉さんのおじさんと話し始める。彼も最近茶作りを始めたらしい。以前は日本企業の下請けでトンネル工事などを請負、儲けていたという。おじさんは、『山の中の生活はいいぞ、今度遊びに来てみれば』と誘ってくれる。このおじさんの奥さんもベトナム人だという。『ベトナム人は茶摘みですごく稼いでいる。1日に1万元近く稼ぐ人も出ている』と驚くようなことを言う。月に1000米ドル単位の仕送りをしている人もおり、故郷には家も建っているらしい。今度はベトナム人労働者の実態をぜひ見てみようと思う。

 

三々五々お開きとなり、酒を飲まない私は真っ先にレストランを出て歩いて帰る。場所さえ分かっていれば歩いてもすぐの距離だった。ちょうどその時間、あの音楽が流れてきた。台湾ではゴミ捨ては、収集車の登場に合わせて、捨てる人々が道路脇に出て待機、到着と同時に一斉にごみを投げ入れるという、まるで町内の運動会のような展開になる。何とも面白い。

ある日の埔里日記2017(5)魚池の茶農家へ

116日(月)
魚池の茶畑

 

実は前日紫南宮から戻ると、連絡があった。FB上で知り合っていた魚池のお茶農家さんと会おうということになったのだが、何と彼はすぐさま車を飛ばして、埔里まで来てくれた。距離的にはさほど離れていないとはいえ、初めて会う人間を即座に迎えに来てくれる、これは日本ではあり得ないだろう。こちらも慌てたが、お言葉に甘えてお邪魔した。

 

王さんの店は、魚池の街に入る所にあった。奥さんもにこやかに迎えてくれた。もう夜なので茶畑見学は次回に持ち越す。王さんはやはり数年前に帰郷して紅茶作りを始めたという。それまでは淡水の酒工場に勤めたり、水産関係の仕事もしていたらしい。日月潭紅茶がブームの兆しを見せると、迷わず戻ってきたという。

 

我が家には非常に古い茶樹がある、という。山茶、日本時代より前からあったというが、どうだろうか。その葉で作られた紅茶を味わう。日本人の茶商もここに直接買いに来るとか。そして茶作りを始める前から趣味で飲んでいたという陳年のプーアル茶もご馳走になる。こんなところでプーアルに遭遇するとは、面白い。

 

更には鹿谷式烏龍茶、これも30年ぐらい前の物だという。30年前と言えば、鹿谷、凍頂茶の全盛期。その頃作られた伝統的な烏龍茶なら価値がある。私は紅茶ではなく、この焙煎が効いた烏龍茶ばかり飲んでしまい、ちょっと失礼なことをしてしまった。夜遅くなり、車で送ってもらう。こんな茶旅も、埔里に定住しているからこそできる技だ。

 

翌日はまた別の茶農家さんを訪ねることになっていた。午後一でバスに乗り魚池に向かう。この日月潭行のバスは良く乗るので、大体のことはわかる。魚池の街を通り過ぎて、老茶廠のバス停で降りる。老茶廠は1950年代にでき、紅茶を作っていたが、現在は観光地となっている。

 

そこへ李さんが迎えに来てくれた。彼ともFB上での知り合いだ。茶廠の裏を5分位車で行くと、李さんの家がある。結構古い伝統的な建物だ。李家堡と書かれた板が掛かっており、この一帯は昔から李一族の拠点だったことを示している。今から200年ぐらい前に大陸から渡ってきて、100年以上前にここに定住した。周囲は殆どが親戚らしい。

 

聞けば、ここははなれであり、本宅にはお父さんのお客さんが来ているという。そこで紅茶を頂いていると、若者が入って来た。彰化の保険のセールスマンだったが、仕事ではなく、李さんのお茶のファンで、近くまで来たので寄ったという。お父さんと李さんは有機農法を早めに取り入れ、この地区のリーダー的な存在らしい。李さんは以前四川料理のシェフだったというから、華麗なる転身か。

 

茶畑を見せてもらいに行く。この近くには檳榔の木が沢山植わっているが、日本時代に植えられたアッサム種の茶樹も所々に残っている。こういう茶樹も使えるものは摘んでいるようだが、その先のなだらかな斜面にはキチンと管理された茶園が広がっていた。海抜700m2007年に台茶18号、紅玉を植えたとある。自然農法という文字も見える。

 

それから李さんのお兄さんの家へ行く。こちらも茶農家で、家の横の斜面に茶樹が植わっている。この茶樹は山茶で、四季それぞれに葉の色が変化するというから驚きだ。ただいまは冬でそれを見ることはできない。非常に貴重な茶葉を使って紅茶を作っているという。ここでも快く歓迎され、お茶を頂く。今度は四季それぞれにここに来て、葉っぱの変化を眺めてみたい。夕暮れ迫る中、李さんに送ってもらい、埔里に戻る。

ある日の埔里日記2017(4)金運高まる紫南宮へ

115日(日)
紫南宮

 

旧正月まであと2週間。今日は大家の葉さんが『出掛けるぞ』というので、一緒に付いていく。どこへ行くのだろうか、相変わらず細かい説明はない。彼の車は日月潭方面へ向かったが、途中で山道に入る。この辺は魚池の茶畑に通じており、過去に通ったこともある。だが今日は、葉さんの身重の奥さんとお子さんも一緒なので、茶畑はないはずだ。

 

車はそのまま山道を通り抜け、水里へ出た。日曜日ということもあり、日月潭の混雑を避けたのかもしれない。水里は日本統治時代に発電所が作られた場所で、当時は栄えていたらしい。現在は川沿いの小さな街、という印象だった。

 

その濁水渓沿いを走っていくと目的地の紫南宮があった。竹山に属するらしい。そういえば昨年鹿谷から南投市へ向かう途中に通り過ぎた気がする。葉さんは駐車スペースを探していたが、なかなか見つからない。なんでこんなに人がいるんだ、とビックリするほど、参拝者が多いのだ。まずはトイレに向かう。既にここが観光名所だと言われる。7つ星トイレ、と書かれている。竹山名物、筍の形をしている。確かにきれいで広く、立派なトイレだとは思うが、7つ星とはどうだろうか。

 

この宮は昔からあるのだろうか。縁起を見てもよくわからない。1800年頃清の乾隆帝の後継者嘉慶帝ゆかりの宮となっているが、それはさすがに伝説だろう。現在の建物は1980年頃建てられたらしい。ではなぜここに人が沢山来るのだろう。それは福徳金と呼ばれる借入ができるかららしい。600元を上限に、身分証を出せば、誰でも無担保で借りることができる資金だという。

 

これは宮のお金を貧しい人々の起業資金に充てようということで始まったらしい。だが現在600元では何もできない。それでも人が来るのは、ここが商売繁盛、事業の成功を祈る場所だからだ。資金を借りた人は、いつ返済してもよい。中には事業がうまくいき、200元借りて、20万元を返しに来た人もいたという。そんな話が人気の秘密だ。

 

今日も大勢の人がお金を借りていた。外国人でもパスポートを出せば貸してくれるかも、と言われたが、返せる当てもなく、遠慮しておいた。この時期は1年の感謝を込めて返済に来る人が多いようで、長蛇の列ができていた。やはり御利益はあるのだろう。また本殿は祈りを捧げる人々でごった返し、線香の煙が立ち込めていた。

 

聞いたところによると、この小さな宮に正月には7万人もの人が押し寄せたらしい。今日我々が来たのも、混雑を避けての前倒し参拝だった。こんな宮、日本にはないだろうな。最後に葉さんは金鶏のレプリカを買い込んだ。これを店に飾れば商売繁盛となるらしい。宮の横には大きな金鶏の像があり、皆がここへ来てその像に触っている。やはりここは金運の宮だった。

 

帰りはなぜか別の道を走っている。どこへ行くのかなと思っていると、草屯という街へやって来た。この地名はバスターミナルで見たことはあるが、来たことはなかった。夕暮れ時、大通りの裏に大きな古い木があった。その木の下で、屋台をやっている。そこで夕飯を食べた。

 

店のおばさんはぶっきら棒だったが、地瓜の揚げ物や、野菜・豆腐たっぷりのスープはえらく旨かった。ここが美味しいからとわざわざ寄り道したらしい。この独特の雰囲気の下で食べる、地元の食べ物、なかなか良い。今日一日で何となく運が向いてきた、と思う私だが、特にお祈りすらしていないので、それはあり得ない、と思われる。

ある日の埔里日記2017(3)突然山の小学校へ

113日(金)
小学校と図書館

 

昨日Wさんと話していたら、『毎週金曜日の午前中、埔里在住日本人が集まる会がある』というので、ご挨拶かたがた、行ってみることにして、Wさんに連れて行ってもらった。街中にある画家の方の家が会場だというので、訪ねてみたが、門は固く閉ざされていた。Wさんが電話で確認すると、今日は郊外で写生会を行っているという。さすが画家さんの集まり、何とも面白い。

 

結局その写生会場まで行ってみることになり、またバイクにまたがって郊外へ進む。どこをどう走ったのかは分らないが、自然が豊かな水尾国民小学校に到着した。入口のところで写生している人がおり、Wさんが挨拶していた。後で聞けば、有名な画家先生だという。皆さん、お歳になっても絵を描く情熱は衰えていないようだ。

 

他にも写生している女性たちがいたが、我々が探している日本人グループは居なかった。仕方なく学校内に入っていく。この学校、凄く古いという訳ではないが、なんとなく懐かしい雰囲気がある。周囲が木々で満ちているからだろうか。そして花が飾られていたり、絵が描かれていたり、歩いていても楽しい学校である。学校の外にもバナナがなっていたり、マンゴーの木などがある。一体生徒数はどれほどであろうか。授業中の教室もあり、話は聞けなかったが、何となく山の学校の雰囲気があり、好ましい。

 

Wさんに送ってもらい、埔里の街に戻る。日本人の集まりには次回参加しようと思う。我が宿泊先からはちょっとところにロータリーがあり、蒋介石の像が建っている。台湾の街ではいまだにこの像がある所が多いが、これはどういう心境なのだろうか。大陸の毛沢東像とはだいぶん意味合いが違うように思うのだが、撤去されないのはなぜだろう。

 

媽祖廟もその近くにあった。これがまた意外なほど立派だった。媽祖様と言えば、海の近くにあるのかと思っていたが、こんな内陸部にも立派なものがある。孔子廟もあった。埔里にも一応ワンセットあるのだなと分かる。旅行で来たのでは、一々行かないだろうところへ、散歩で来られるのは嬉しい。

 

それから埔里の図書館へ行く。昨年もちょっと寄ったことがあるのだが、ここの4階に日本時代の展示館があるので、何かしら資料があるかと聞きに行く。入口の近くに写真が飾られている。よく見るとそれは霧社事件に関連していた。特に犠牲になった日本人、日本人と結婚した原住民の写真が目を惹く。霧社は埔里から山を登る。地理的には非常に近いところにある。

 

中に入ると、そこは昭和レトロな展示になっている。日本統治時代に、埔里にあった商店が再現され、お医者さんの診療所などもあった。当時の知識階級の台湾人が写真や書籍などを残しており、それが展示されている。埔里がその昔どのような位置づけの街であったかを知りたいと思ったが、それを見つけることはできなかった。学芸員さん?が居たが、先客があり、話を聞くことはできなかった。ここもまた後日再訪しよう。

 

昼間はそうでもないが、夜はやはり涼しい。ファミリーマートで売っている焼き芋が美味しいと聞き、食べてみる。ちょっと柔らかくて甘い。値段は重さによって違うが、まあ30元程度。

ある日の埔里日記2017(2)中台禅寺と埔里大仏

1月12日
中台禅寺と大仏

工場に戻らず、一休みしようかと思っていると、埔里でゲストハウスを経営する日本人Wさんから電話がある。バイクで迎えに来てくれ、まずは彼の行きつけのカフェへ。何となくオシャレなところで、昼下がりでも満員の客を集めている。Wさんは多い時は12回、ほぼ毎日ここに来てコーヒーを飲んでいるらしい。行き付けのカフェがあるのはいいものだ。Wi-Fiも完備しているし、地元の人たちとの交流もできる。私も5月、11月と来ているので『戻って来たのか』と歓迎された。

 

 

それからバイクで郊外へ出た。埔里の郊外にはなぜか大きな寺が多い。その理由は未だによくわかっていないが、その内の1つ、中台禅寺を目指す。このお寺、Wさんが以前日本語教師を務めていた関係で彼は詳しい。郊外の畑が広がる道から、急な坂を上ると、そこにはお寺というより、何らかの施設を思わせるビルがあった。観光バスが停まる広い駐車場もある。今日人は少ないが、埔里の観光名所となっている。

 

1994年に惟覚和尚によって創建されたこのお寺。臨済宗系。全台湾に80以上の精舎と呼ばれる支部を持ち、信者も非常に多いようだ。埔里の街のど真ん中にも非常に目立つ高い建物を持っており、中台禅寺と言えば誰でも知っている。惟覚和尚は四川省の出身で、蒋介石の国民党と一緒に台湾に渡って来たいわゆる外省人。1963年に剃髪し、その後台北県に寺を創建するも、信者の増加で埔里に移ったとある。和尚は昨年亡くなったようだ。

 

この総院の規模はすこぶる大きくて、見る者は圧倒される。安置されている大仏も立派だ。千年前に大陸で作られた仏像なども安置されているらしい。どうやって台湾に運び込まれたのだろうか。中台禅寺という名前からして、中国と台湾の結びつきが窺われるが、どのようになっているのだろうか。和尚はどのようにして台湾の信者を集めて行ったのだろう。中国からの何らかの支援はあるのだろうか。疑問だらけである。

 

しかし建物自体は、中華式というより、中西融合といった雰囲気があり独特。万仏殿はビルの上にパゴダが乗っているような感じがユニークだ。敷地内には世界各地から集められた珍しい植物が植えられているという。益々この寺は謎めいている。更には最近近所に建てられた博物館へ行ってみると、まるで故宮でもイメージしたかのような四角い建物がデンと構える。もうこうなると、大陸を台湾に持ってきた印象が強く、寺という本来の意味合いは失われている。一体誰のために、そして何のためにこの寺はあるのだろうか。近くには巨大な学校まであり、多くの生徒が学んでいるらしい。

 

バイクにまたがり、夕暮れが迫る田舎道を行く。Wさんがもう一つ見どころがあるというので連れて行ってもらう。そこは正徳埔里大仏、実に立派な大仏が、山の斜面に鎮座していた。彰化に生まれた常律法師が、1986年に開いたとある。金色の大仏はどれくらいの大きさなのだろうか。先日行った彰化の大仏よりは小さいような気がするが、常律法師は故郷の大仏を思って、これを作ったのだろうか。

 

ここから埔里の街が一望できる。夕日がきれいに落ちていく。ここには大仏しかないが、寺はどこにあるのだろうか。むしろ大仏しかないこと、そして誰もいないことが、心を落ち着ける。しばらく、何もせずにただただ風景を眺め、聞くともなく、音に聞き入る。ここにはこの大仏の由来も、この宗派についても、殆ど何も書かれていない。

 

それにしてもなぜ埔里には、このような巨大な寺や大仏があるのだろうか。ここは聖地なのだろうか。それもその昔からあるのではなく、ここ数十年内に建てられているのは不思議でならない。勿論土地も余っており、環境も抜群に良いのは分るが、99年の地震もあり、決して安全とは言い切れない。台湾の宗教政策はどうなっているのか、これまで考えたこともない話題が頭を過る。今後調べられるのなら、調べてみたい。

ある日の埔里日記2017(1)沈香茶作りを見ながら思う

《ある日の埔里日記2017》  

 

拠点を台湾に移したいな、そんな希望を持っていた。何度か来る度に、どこか良い場所はないかと探していた。昨年5月、数年ぶりに埔里に来た。日月潭にも、梨山方面にも近い、気候も良い。11月にまた埔里を訪ねると、お茶屋さんが『うちの上、1部屋空いているよ』というではないか。まずは試しに1か月暮らしてみるか。

 

110日(火)
いざ埔里へ

今日は埔里に向けて旅立つ日だった。エバ航空はこの日の為に?格安料金を私の前に提示した。いや、台湾通の人から、1か月以上前に予約すると23000円で往復できるよ、と言われ、見てみると本当に、22,800円で成田⇔桃園の往復が買えた。エバには乗りたいと思っていたが、これまで高くて乗れなかった。やはりLCCの攻勢の影響は大きいのだろうか。

 

エバの機内は快適だった。エアチャイナとは大違いだが、料金的にはいい勝負。機内食も結構充実。映画『君の名は』を初めてみたが、あまりよくよさが理解できない。歳のせいだろうか、感性が鈍っている?成田を午後出て、桃園には午後5時に到着。前回も11月に桃園から、豊原まで行った経験があるので、今回埔里まで行くのも問題ないと思っていた。

 

まず空港で、携帯のシムカードを購入した。30日使い放題で1000元というのがある。タイの空港でも使い放題と言われながら、使っているとその内にスピードが遅くなる、という仕掛けがあったので聞いてみたが、台湾は絶対そんなことはないという。結局まるまる1か月使ってみたが、本当に使い放題で重宝した。毎回電話番号が変わるという欠点はあるが、今後もこれを買おう。

 

両替は台湾銀行を覗いたがレートが悪いので、持ち合わせの台湾元で台中までのバスチケットを買った。バスはすぐに出発するというので走って、乗り場へ急いだ。ここまで実にスムーズ。僅か40分でバスは空港を離れた。初めは順調だったが、台中に近づくと夕方の渋滞に巻き込まれる。そしてこのバスは台中市内を通過するため、速度が遅く、終点まで乗っていたのは私だけだった。大きな荷物を抱えており、身動きは取れない。

 

午後8時前にようやく干城駅(台中駅から歩いて10分)に着く。そこから埔里行のバスを探すと、3つのバス会社が運航しており、一番早いのは15分後だった。常に30分に一本はあるので便利だ。埔里までは国道6号線を使う。そして1時間後、埔里のバスターミナルに着く。そこから大きな荷物を引いて、人影もまばらな、夜の埔里を歩いて行く。これからお世話になる家主は、ちゃんと待っていてくれ、鍵を受け取り、部屋に入った。部屋は片づけられ、きれいになっていた。シーツや掛け布団、枕も貸してくれていた。有り難い。

 

それにしても1月の埔里の夜は結構寒い。今回は5年前の香港を思い出して?寝袋持参でやってきたが、やはり初日から、掛け布団の上に寝袋も掛けて寝る。この部屋にはクーラーがないのだが、夏も本当に涼しいのだろうか。何となくワクワクしながら、疲れた体を横たえると、すぐに眠りに就く。これからこの部屋ではお茶を飲まないという実験もする予定だ。今日は茶を飲んでいないので、よく眠れた。

 

112日(木)
沈香茶を作る

 

朝起きるとちょっと腹が減る。宿泊先の下にはうまい飯を出す店があるのだが、行ってみると隣にもう一軒、細々とおばさんがやっている店があったので、そちらで大腸麺線を頼んでみる。内臓系が大好きな私、特に麺線には目がない。かつおだしが効いている。この店、非常に簡単な作りで、家の前でやっている感じ。昼には終了してしまう。

 

昨日、劇的に再会した?許さんの茶工場へ行くことになった。許さんとは昨年11月の台北の博覧会で彼がブースを出していて、偶然出会った。ちょうど埔里滞在が決まりかけていた時で、彼が埔里のお茶屋さんと知って驚いた。早々店の住所を確認すると、何と宿泊先から200mぐらいしか離れていない。これも茶のご縁だ。

 

でも今は一月、茶作りは行われていない。『沈香茶を作るんだ』と彼は言う。それは一体何だろうか。よくわからないので、取り敢えず同行することにした。朝8時に彼の店から車に乗る。真っすぐ霧社に登る道を行く。上る手前ぐらいの道路沿いに、比較的大きな、きれいな工場、そこが彼の工場だった。

 

彼は茶作りを始めて15年ぐらいらしい。それまでは全く経験がなかった、そして親も茶作りとは無縁だった。最初の2-3年は茶作りの研修を受け、その後独立。収入に目途が立つと銀行から借金をして、この工場を建てたのだという。どうして茶作りを始めたのかと聞くといとも簡単に『他にいい仕事がなかったからだよ』という。

 

それはある意味で、田舎町の現実かもしれない。だから『もし茶業で食っていけなくなりそうになったらどうする?』というちょっと意地悪な質問にも、あっけらかんと『他の仕事を探すよ。現に今も探しているし』という。確かに収入として成り立たないなら、食べていけないので、仕方がない。彼の店には、何かの石で作った仏像などが置いてあったが、『あれも収入源になるかどうか試しているんだよ』と屈託がない。

 

工場を開けると、2階では沈香の葉が広げられていた。室内萎凋だ。それが終わると、1階にある機械で揺する。揺青だ。茶師も来て、本格的に茶作りの要領で作っていく。しか原料の沈香の葉はどこから来るのだろうか。彼によれば、台中郊外に植えている人がおり、そこから買うらしい。健康飲料として、結構いい値段で売っているという。将来は自分で沈香の木を植えてみるのもよいかというほどだ。

 

 

ネットで検索すると、確かに沈香茶は高値で取引されている。インドネシアやベトナム、タイなどからの輸入品を扱っているところはあったが、台湾産はなかった。コストが高いのか効能が薄いのか。実際に沈香茶を飲んでみると、何とも強烈な味がした。1日に1-2杯が限界で、それ以上飲むと気分が悪くなるらしい。何となく元気になりそうだが、果たしてどうなんだろうか。

 

車で1度、店に戻る。昼ご飯は店で食べるらしい。私も奥さんが買ってきた弁当をご馳走になる。この家では殆どが外食だという。忙しいので作っている暇がないとか。台湾ではそういう生き方もありかなと思う。帰りがけにもらった高山リンゴ、凄く甘い蜜の味がした。

ぶらぶらバンコック滞在記2012(6)12月29日~1月3日ハジャイ、ソンクラー

12月29日(土) とてもラフな思い付きバンコック茶話会開催

24日深夜、零下15度の極寒の北京からバンコックに辿りついた。バンコックで夜風に吹かれていると「人間の幸せはこんなことだなあ」と思ってしまう。ただ暖かいというだけで体が脱力する幸せ、噛み締めた。

そしてそんなダラダラの気分の中、突然「茶会でもしよう」と思い付く。これまでMさん主催のバンコック茶会は既に3回開催されており、定着してきたが、平日来られない人の為に土日開催の茶会をしたい、もっとラフな会をしたい、という希望が心にあったようだ。まずはBTSチョンノンシー駅近くでお茶屋をやっているポーラに電話し、場所を確保した。

だがこの年末に、しかも僅か3日目の通知では、「既に帰省している」「先約がある」との当然すぎる回答を貰う。それでもめげずにいると、先日ヨーガ合宿で一緒だったIさんがお友達を連れて参加するという。最終人数2人と明記したので、これで会は成立した。そしてやはりヨーガで一緒だったKさんも参加。更には2日前に一緒に飲んだSさん、Kさんを引き込み、前日にはバンコック茶会に来てくれたT夫妻も参加となり、なんとなく会の形が整う。

当日、殆ど準備もせずに、会を始める。持っているお茶が全て詰まった袋を持参。まさに話の流れで、またその時の気分でお茶を出し、話をした。プロジェクターが無いのでPCの小さな画面を見せることになり、申し訳なかった。

トルコの緑茶に始まり、湖南省安化の紅茶、福建の白茶と続き、阿里山高山茶、タイチェンライ県の金萱茶と飲み続けた。話もトルコが注目の国であること、反日のこと、台湾茶が足りないこと、果ては杭州のお寺のお茶まで話がどんどん飛んで行った。

そして2時間半が過ぎ、ようやくポーラのプーアール茶講座が始まった。生茶と熟茶の違い、そして今回は彼女の故郷、広西壮族自治区で作られる黒茶、六保茶の由来などまで話が及び気が付けば、6時近くになっていた。主催者は楽しかったが参加者はどうだったろうか??

その後4名でポーラお勧めの本格四川料理屋へ。本当に中国人しか働いていない、中国人を対象としたお店だった。お客は多く、殆どが普通話を話していた。その付近にある中国料理店の多くが、行き成り中国語で話し掛けてくるタイプの店。うーん、バンコックは広い。料理のあまりの美味さに?写真を撮ることすら忘れた夜だった。場所はナラワティロード ソイ24らしい。

12月30日(日) ノックエアーに乗ってみた

今年の残すところあと2日。日本では年賀状書いたり、大掃除したり、帰省ラッシュに巻き込まれたりしているかもしれないが、既に1年9か月の放浪生活を続けていると、年末とか年の瀬とかいう言葉は正直ピンとこない。ただ年末年始に時間が出来たので、どこかへ行こうと考えた。

初めは12月の東京報告会でご縁を得た関係でマレーシアのサバ州へ行こうとしたが、現地の紅茶工場がクローズということで断念。次にチェンマイ郊外の少数民族の村へ行こうかと思ったが、こちらもご縁を得た方と会えずに、結局行く機会を失った。そして、何故か、タイ南部ハジャイとソンクラーへ行くこととなった。

マレーシアへ行けばよいのだが、最近の円安は私の旅行資金をかなり圧迫しており、節約したかった。鉄道やバスは年末年始の休暇移動でかなり大変だと言われ、それではLCCで行くことにした。ところが、エアアジアの料金とノックエアーの料金がさほど変わらない。座席料金だけなら確かにエアアジアは安いが、荷物を1つ預けると300バーツ(15㎏まで)取られるので、往復で600バーツ加算すると合計料金は200バーツも変わらなくなる。

そうなると、荷物の重さを気にしなくてよい、座席指定が事前に出来る、簡単な飲み物が出る、というノックエアーが良く見えてくる。更にはタイエアーの子会社であるという安心感、CAの笑顔にも定評あり、と聞くと乗ってみたくなるのが人情??レガシーとLCCの中間ニーズを補足するノックのような航空会社が好まれてきているように感じる。

バンコックのLCCはドムアン空港に集められていてこれは不便(ノックもLCC扱い)。ドムアンに行って時刻表を見ると当たり前だが、KL起点のエアアジアよりバンコック拠点のノックの方がはるかに多くの便を運航している。お客も多いようで、チェックインには時間が掛かる。飛行機の到着が遅れて出発は30分ディレー。でも、ノックエアーの乗客であれば、空港内フリーWIFIは嬉しい。予約番号がパスワードになっているので、何と予約したPCを使うと予約番号が出て来て直ぐに繋がった。いいぞ、これは。

機体は比較的新しく、清潔。CAさんの黄色の制服もなかなかよい。知り合いで「あの制服に萌える」という人もいるようだが、そこまではどうか。でも確かに笑顔の接客があり、好感は持てる。

僅か1時間のフライトなので、何もいらないのだが、甘いパンと水が配られた。何もないよりは良い。風邪気味のせいか、冷房が寒く感じたが、毛布は無いようだった、残念。基本的にはエアアジアと大きく違うわけではないが、ほんのちょっとしたところの違いが意外と大きいのかもしれない。気持ちの問題だが、その問題は影響が大きい。帰りも乗ってみて観察を続けよう。

12月30日(日) ハジャイの街

ノックエアーを降りると、そこはハジャイの空港。先ずはどうやって街へ行くのか。またトゥクトゥク野郎と料金交渉するのか、嫌だな、と思っていると、エアポートタクシーなる看板が。見ると市内まで一人100バーツ。更には白タクや白トゥクの姿はなく、迎えが無い人は基本的にこれに乗るらしい。タクシー1台は300バーツ。

タクシーというか、ロットー(ミニバス)。お客は女性二人と私。市内までは10㎞ちょっとか。直ぐに着いた。予約したホテルは昔の一流ホテルという触れ込み。確かにそうだった。ロビーは立派で広いし、部屋も広かった。だがホテルキーを差し込むと電気が入るのだが、エアコンはどうやっても止まらない。とても寒い中、タオルを被ってPCに向かう。PCの充電をするためには私が部屋に居なければならず、エアコンも点いているのである。風邪ひいた。おまけに小さな虫がいてかまれて痒い。こりゃいかん。

ハジャイの街は小さい。ホテルは中心から少し離れており、散歩しながら中心へ。中国的な寺がある。中国系と思われる人々が歩いている。ここはタイか、中国か。更に中心部の屋台ではイスラム系の女性が中華系料理を作って売っている。混沌とした街、ハジャイ。マレーシア華人が年末年始を過ごしにやって来ているようだ。

中心のデパート、ホテル街付近は車両通行禁止で警備の警官が大勢出ている。実はテロの予告があるようだ。以前よりタイ南部はイスラム系のテロが頻発しており、特に危ない所へ行かない日本人には敬遠されている。私にも知らせてくれた方がいたが、最近の気分は「そこでテロに会ったら、それは私の人生の定め」と割り切ってしまっている。実際観光客がいない場所は、何とものんびりしており、いい感じなのだ。

ハジャイ駅へ向かう。私が今回ハジャイへ来た目的は殆ど何もないが、唯一あるとすれば「深夜特急」で沢木耕太郎が訪れたハジャイを見ること。彼はスラタニーから夜行でハジャイ駅へ降り立ち、乗り合いタクシーでソンクラーへいく。そしてまたハジャイ駅へ戻り、ダッシュして列車に乗り、マレーシアへ抜けて行った。

駅も警戒厳重のように見えたが、タイの他の駅同様、出入り自由。誰にも咎められない。駅前には機関車が置かれ、国王の写真が飾られていた。ハジャイはこの駅を中心にとても小さな街を形成している。

夕飯は中心街のローカル市場で食べた。本当は中華系の食堂に入り、中国語を使って話を聞いてみたかったが、適当な店が無かったことと、おばさんが作っていた物が美味しそうだったので、ふらふら頼んでしまった。それはマレーシアで昔食べた卵を入れた焼きそばに思えたが、実際に食べてみると何と麺は無く、ジャガイモと思っていたのが、お餅だったのだ。そこにもやしとにらを入れて炒めただけだが、美味い。僅か30バーツ、2日前に正月が来た気分だ。ついでに豚と鶏を揚げた物も買った。塩味が効いていて美味かった。極楽、極楽。

12月31日(月) ハジャイの大晦日

夜中に大雨が降った。結構大きな雨音にビックリ。そして朝になってもしとしとと霧雨が降る。タイでこの季節に雨が降るなんて、と思っていたが、天気予報を見るとKLも雨。ここハジャイはタイではなく、マレーシアなのかもしれない。朝ごはんはビュッフェだったが、カオトーンというお粥が美味しく、そればかり食べる。雨が止まないため、部屋にこもる。することもなく、「深夜特急」を読み返す。文庫2冊目のマレー半島編、結構切ない。特にペナン島の売春宿で働く女とそのヒモの話、何とも言い難い。

何とか雨が止んだが、時刻は既に11時。今泊まっているホテルはイマイチなので、ホテルを変えることにし、予約を入れたので、移動を開始。ところが、何と再び雨が降り出し、ずぶ濡れになる。歩いて10分ぐらいと思っていた新しいホテルまで何と20分以上掛かったし、その間に雨脚はどんどん強くなり、背中のバックにあるPCが心配になるほど、濡れてしまった。

雨に濡れながら、車が水を跳ねるのを気にしながら歩いていると、「何故私はこんな所に居るのだろう」と思ってしまう。日本人なら日本に帰り、紅白歌合戦や駅伝を見る方が普通ではないのか。確かにその通りだが、最近は「それが定め」で片づけている。来年は「少しスピードを落とし、考えながら行動しようかな」と弱気になる。

今度のホテル、見た目は新しく、清潔感がある。それでも部屋のドアはきちんと閉まらず、毎回強引に開け閉め。またバスタブが広くてよかったが、お湯を流そうとしても、出来ず。こういう細かい?ところがきちんとできないと日本ではフラストレーションが溜まるが、こちらでは見た目が大事、ということだろうか。まあ、暮の31日に足を伸ばしてゆっくりと湯に浸かったのだから、大満足なのだが。


   

午後2時ごろ雨が止み、昼ごはんへ。直ぐ近くにバスターミナルがあり、そこで年越しそばならぬ、年越しクイッティオ。きしめんのような太くて平べったい麺で大好物。どこで食べても美味しい。沢木耕太郎も深夜特急で食べていたので、つい手が出た。沢木はこれをバンコックの駅で食べるのだが、そこの6-7歳の子供の行動を疑ってしまい、後悔している。まさに最近、中国に住んで覚えてしまった「性悪説」になっている私にも、痛い話題だった。そしてまた雨。ここは完全に雨季だ。夕方までシトシト。このホテルは街から結構離れているので、もう一度濡れ鼠になって歩く気分ではない。テレビはNHKワールドしかないので、紅白も楽しめない。どうするんだ、この年の瀬に。

ようやく晴れてきたのは午後6時頃。また昨日と同じ街へ出た。それしか行く所が無かった。そして美味しそうな海鮮オムレツを買ったが、食べることが無く、持ち帰ってホテルの部屋で食べた。たれを付けるとバカウマ。今年もいい年だったと思えた。夜は方々で花火や爆竹の音が鳴り響いた。テロの危険が言われていたが、正直こんな中で発砲や爆発があっても誰も気が付かないだろう。そういえば、街中では警備の警官が観光客の記念撮影に応じていた。何とも長閑だな。せめてもの救いは街から離れていたこと。直ぐに眠りに落ちた。今年は呆気なく終わった。

1月1日(火) ソンクラーのビーチリゾートホテル

新しい年が始まった、という実感はまるでない。単に一日が過ぎ、また一日が始まったに過ぎない。昨晩のカウントダウンはどこへやら、街はひっそりしている。朝食を軽く食べ、チェックアウト。今日はハジャイからソンクラーへ移動。

直ぐ近くのバスターミナルまで歩き、ソンクラー行きのロットーが出ているので乗る。乗客は私しかいないと思ったが、後ろの女性が一人乗っていて、突然携帯でしゃべり始めたのには運転手もビックリ。この車、16人乗り。快調に進むかと思ったが、その後街中で乗客待ち。私は始発駅で乗ったにすぎず、30分は街を出なかった。そして街を出る時は満員。

料金は28バーツ、何と運転手が籠を回し、客が料金を入れる仕組み。何だか田舎芝居を思い出す。街を出ると急にスピードを上げる。20分もしない内に客が降りはじめる。香港のミニバスと同じで、降りたい所で声を掛ける。最後まで乗っていたのは私ともう一人の若者だけ。このバスは地元の人が使うものだった。だから運転手が何度も「お前はどこへ行くのか」と聞いてきたのが分かる。

バスはサミナビーチでキチンと停まった。ホテルは目の前。古いが大きかった。ロビーは更にだだっ広い。フロントは笑顔でよいが、WIFIが使えるかと聞くと何とロビーだけ、と言われ驚く。部屋へ行くと完全なSea View。気分は一気に晴れやかに。何故かWIFIも問題なく繋がり、良いお正月になる。

直ぐにビーチへ出る。正月休みか、ビーチは多くの観光客及び地元の人で賑わっていた。ここの波は非常に激しい。しかも浜に対して斜めに押し寄せてくる。近くに島が2つ見える。その景色がなかなか良い。

昼ご飯を食べようとしたが、適当な所が無く、焼鶏肉を買って部屋で食べる。ウマいが量が多過ぎた。食べたら眠くなる。昼寝をすると夜になる。まだ腹が減らないので、風呂に入る。ここの湯船も深くて、ゆったり。いい気分だ。

このホテルは沢木耕太郎の深夜特急で沢木が泊まったというホテル。ここで日本人夫婦と会い、遅くまでラウンジで語らったという。だが、今日来てみると、その面影はそれほどない。40年も前の話、途中で改装や増築などもあったかもしれない。それでもこの環境で思ったほど高くはない料金、悪くはない。

1月2日(水) ソンクラーのフェリー

朝早く、波の音で目覚める。だが、強烈な雨が降ってきた。出掛けることが出来ない。ようやく雨が止んだのは午前10時半、そそくさと外へ出る。昨日の混雑はどこへ行ったのか、殆ど人がいないビーチ。既に正月休みは終わっていた。

急に日差しが強くなってきたが、何とも心地よい。足に任せて歩いて行くと、フェリーターミナルの表示があった。何気なく見ると、ちょうどフェリーが接岸され、多くの車やバイクが降りてきた。ふらふらっとフェリーに乗りこんでしまう。どこへ行くのだろうか、この船は。どこでもいいや、という気分になる。

このフェリー、単に対岸へ車やバイクを運ぶための渡し船だった。5分で到着。徒歩の人間もぞろぞろ降りていく。しかも無料。まさに地元民の足、いや橋だった。しかしどこへ行く当てもない。直ぐ近くに観音廟があり、手を合わせて見たりする。

車はかなりの数が列を作ってフェリーを待っていた。そこで果物や卵を売る人々がいた。一日いくつ売れるのだろうか?その女性の脇で子供達が纏わりついていたが、私が通り過ぎるといきなり手を出し、「マネー」という。やはり貧しいのだろうか。イスラム系の人々が住む村のようだ。

もう少し歩いて行くと空き地にイヌが三匹、ごろりと寝ていた。すると一人の少年がいきなり石を投げつけ、犬は驚いて起き上がる。何とひどいことを、と思ったが、遠い昔自分も同じようなことをしていたような気がする。これは一種のあそびなのだ、と思って気に留めずにやっていたが、本当は遊びだったのか、不満のはけ口だったのか、いじめ、とはそんなことから始めるのかもしれない。

帰りもまたフェリーに乗る。そして歩き出す。暑い。ロイヤルパゴダ、という名称が見えたので、近づいたが、このパゴダ、山の上に有り、リフトで上るという。リフトと言えば、昨年湖南省長沙で恐ろしいリフトに30分も乗ったトラウマがあり(高所恐怖症)、直ぐに諦めて去る。サルが沢山いた。

パレス、と書かれた場所がある。この地の王の住処だったのだろう。面白いのはその両脇がインドネシア領事館と中国領事館だったこと。中国がこんな田舎に領事館を開いている意味は何だろうか。この街は何か特殊のだろうか。確かに華人は多そうだが、それは理由ではない。

ホテルに帰り、汗でぬれた体にシャワーを浴びさせ、寝入る。夕方少し腹が減り、ビーチへ。ホテルの横にゴルフ場があるが、その脇では多くの食べ物屋台が出ており、竹製の小屋?で食事ができる。メニューはどこも同じで、焼魚、焼き鳥、など。ビーチなどに座り込み、買い込んだつまみをあてに、ビールを飲む若者グループもいる。少女たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。

屋台のおばさんと目が合った。野菜炒めでも作ってよ、というジェスチャーをすると分かったという表情で懸命に作り始める。出来たのは海鮮チャーハン、それに焼き鳥。思いっきり食べたが、食べ切れない。それでも使命感で食べる。食べ終わるとおばさんに「アロイ」といって支払いをする。お互い笑顔になる。この店、旦那は適当に皿などを片付けるだけ、もしかすると障害があるかもしれない息子におばさんが根気よく仕事を言い付けていた。一生懸命働いても大した儲けにはならないように思えるが、このおばさん、頑張っているな、と感心してしまう。そして人間の生き様、について少し思いを巡らせる。

夜ある人のツイッターを読んでいたら、「マスコミは天皇陛下の新年の言葉を全文掲載せよ」というのがあった。こういう文章は直ぐに右翼で片づけられてしまうかもしれないが、実は大切な気がする。天皇の言葉が「国民の幸せを祈ります」とだけ新聞紙面に載っていても、それは何だ、と思ってしまう。マスコミは一国の象徴である人の言葉を自分の都合で表現せずに、全文を掲載し、国民自身に考えさせるべきだと思う。因みにバンコックポストの2日の紙面トップはやはり王様の写真。これって当たり前のことだろう。

1月3日(木) ソンクラーからバンコックへ戻るには

ソンクラーのビーチホテル最終日。今日はさらに激しい雨に見舞われる。外出すらままならず、ベランダから荒れた海を眺めるのみ。仕方なく、部屋の大きな湯船に浸かり、足を思いっきり伸ばして休む。

午後2時になっても雨は断続的に降っている。雨が止んだ瞬間を捉え、ホテルをチェックアウトして、ハジャイ空港へ向かう。ホテルからタクシーをチャーターすると700バーツと言われたが、時間はあるので自力で行って見る。ホテル前にはトゥクトゥクすらいない。どうするんだ?少し歩いて行くと学校があり、その前にはトゥクトゥクが数台いたが、私が「ハジャイ」と告げると、皆困った顔で「お前行けよ」という雰囲気で誰も乗って来ない。するとトゥクトゥクに乗っていた高校生が「バイタク」と叫び、皆が「そうだ」と安堵して、バイタクが呼ばれる。ハジャイ行きのロットー乗り場まで連れて行くらしい。高校生、ナイス。

バイタクに乗るとまた雨が降り出した。かなり強くなり、濡れる。困ったと思っているともう到着。20バーツ払う。そしてロットーに乗り込む。直ぐ出発し、順調。行きと同様、お客を拾いながらゆっくり進む。もう慣れた、と思ったが、ハジャイまでの道は見慣れない道。本当にハジャイ行きか心配したが、何とか市内に入る。30バーツ。

全員が降りたが、私はどうするんだ?運転手は何も言わない。とうとうバスターミナルまで戻る。ここでタクシーを拾えという。だが時間は3時半、私にフライトは7時なので、先ずは食事。麺を食べる。相変わらず美味い。40バーツ。この店、旅行社を兼ねているらしい。おじさんが「どこ行くんだ」と聞くので「空港」と答えると興味なさそうな顔。

別のおじさんが、400バーツだ、というので驚く。そんなに高いのか、何故。確かにハジャイ空港から市内のタクシーは1台300バーツだった。どうやらこれが基本、そしてタクシー以外にバスなどは全くないという。飛行機に乗る人間はお金持ち、ということだろうか。「高い」と訴えると、トゥクトゥクは300バーツという。それも本当にボロボロの車だ。きっと空港へ行く旅行者が集まる場所は他にあり、そこでタクシーをシェアするのだろうが、今は探すすべもない。結局このボロトゥクで空港へ。それでもソンクラーのホテルからタクシーに乗ると700バーツだから、ちょうど半額で来た。

空港にはすぐに着いてしまった。あまりに早いので、もう1つ前のフライトに乗ろうと思ったが、何と「キャンセル」だった。仕方なく、WIFIでも、と思うと、この空港はドムアンと違い、ノックエアーのWIFIはないとのこと。残念。コーヒーショップでも「今日は繋がらない」と言われたが、レストランでは何故か使えた。ここのトーストは何故かうまい。コーヒーもコンデンスミルク入りで甘いが良い。そして中国茶?も登場。

ノックエアーはほぼ定刻に出て定刻に着いた。CAの笑顔は相変わらずよい。ドムアンでは前回タクシー待ちの列、そしてタクシー運転手の騙し、に会い、嫌だったが、今回は初めから空港の外へ出た。バスに乗ろうかと思ったが、バスの番号を忘れてしまい、そこにやって来たタクシーに乗る。高速を走ることもなく30分、175バーツで宿泊先に到着。これならいいか。

今回は何もない所へ行き、何もせずに、そして何かを考えた。年の初めとしては良い旅だったかもしれない。さあ、これから鬼門のインドだ。やはり緊張する。






 

ぶらぶらバンコック滞在記2012(5)11月1~23日

11月1日(木) 第2回バンコック茶会開催

第2回バンコック茶会が開催された。前回は日曜日開催だったが、今回は平日の午前中。16名のご参加があり(男性は二人)、会場はアソークのパーソネルコンサルタントさん(http://personnelconsultant.co.th/)がセミナールームを提供してくれた。場所が便利で有難い。

主催者Mさんが前回同様タイ産の金萱茶、軟枝烏龍茶、パパイヤ茶を淹れて、タイでお茶が採れること、そのお茶が健康にもよく、そして美味しいことを説明。タイのお茶も品質が向上している。

私は「中国茶の基礎知識」を説明し、前回と全く違うラインナップでお茶を淹れた。福建の白牡丹(白茶)、金駿眉(紅茶)、そしてインドのダージリン紅茶を提供し、飲んで頂いた。ダージリンの茶旅も少し披露。どうだっただろうか。

そういえば、ウエルカムティーとして、トルコの緑茶を淹れてみた。「飲みやすい」との感想が多かったが、それもそのはず。このお茶は鹿児島の技術で出来たせん茶だった。が、説明するのを忘れた。最近ボケの傾向が強まり、何と紅茶も雲南紅茶と福建紅茶を取り違える始末。主催者と参加者にはご迷惑を掛けてしまった。

そして今回の目玉は何と和菓子。トライアスロン選手のKさん、実は和菓子屋さんの息子さんでどら焼き、水羊羹、みたらし団子が振舞われた。これには参加者からも「作り方を教えて欲しい」の声が。和菓子と烏龍茶や紅茶のコラボ、どうだっただろうか。

もし皆さんのご要望があれば第3回が開かれるかもしれない。こんな会が定例化するのもよいのではないかと思う。

11月5日(月) ドムアン空港は安くない

ビエンチャン訪問を終え、バスで国境を越え、ウドンタニへ行った。バスターミナルの直ぐ近くにセントラルのショッピングモールが見える。ビエンチャンの人々がここまで買い物に来るらしい。時間が無いのでトゥクトゥクで空港へ。20分、80バーツ。ウドンタニ空港には無料Wifiエリアもあり、なかなか好ましい。

エアアジアでバンコックへ。10月からエアアジアはスワナンプーンからドムアンへ使用空港が移った。ドムアン空港は以前バンコックに来るたびに使った懐かしの空港。基本的にLCCはドムアンに集結させたわけだが。

国内線で預け荷物もなく、あっと言う間に外へ出た。そこにはタクシーを待つ長蛇の列。昔ドムアンには空港から市内へのバスが走っていたが、今はない。バスはスワナンプーンへのシャトルバスだけだろうか。外の公道へ出れば市内行きの路線バスはあるだろうが、夜も8時で暗く、字も読めないのでタクシーを待つ。因みにバンコック行きの鉄道もあるが、いつ来るか分からないし。

そしてようやく列がカウンターに着き、宿泊先を告げる。4つのタクシー乗り場があるが、各場所に仕切り人がいて、タクシーを指定して客を乗せる。だが、この仕切りが悪い。寧ろ人がいない方がスムーズに乗れる感じだ。

タクシーに乗り込むと運転手が「場所が分からない」というジェスチャーをして聞きまわる。ようやく「分かった」というポーズをして車を動かそうとするが、周囲の車が動かずに進めない。何とか車は空港を出たが30分ぐらいして全然違う場所に向かっていることを知る。「ここじゃなかったのか」と運転手。そして再度名刺を出し、宿泊先を告げると「なんだそうか」と頭を搔きながら、運転する。彼は完全に故意に演技していた。そこからは実にスムーズに宿泊先に着いた。人のよさそうな顔をした人だったのに。

ドムアンからはメタ―+50バーツが原則。この50バーツは遠回り代として支払わなかった。運転手は一瞬怒る振りをしたが、そのまま行ってしまった。これでも支払過ぎたのかもしれない。

格安航空会社が集まるドムアンで、空港を出ると安い交通手段がないとはどういうことだ。懐かしのドムアン空港の思い出は急速に色褪せた。

11月21日(水) 和僑会例会に参加してみた

スリランカから戻った翌日、和僑会に参加した。和僑会は香港が発祥、海外で頑張る日本人起業家の会。最近は何故か東京にも和僑会が出来て、ちょっと違和感あるが。バンコックでは和僑会関係者との交流があり、朝の読書会にも参加したことがあるが、例会は初めて。今回の会場は何とオープンテラスの和食。ビアガーデン状態の中、そこに20名以上の参加者が集い、ワイワイガヤガヤ。これは如何にもタイの和僑会ならでは。何とマイクを持ち込み、メンバーがお話する場面も。

参加者は会員とは限らない。タイで起業している人が中心ではあるが、日本から来た人、中国での経験がある人、そして私のように何でいるのか分からない人まで、暖かく迎え入れられ、何ともおおらか。実際に様々な人とお話をしたが、タイ情報に精通している人から、タイでの節税を訴える人、これからバンコックで飲食業をする若者、通販をしている人など、それはそれは幅が広い。先ずは基礎的な情報はこのような場で交換し、進んで行くのだろう。

和僑会には日本では感じられない力強さ、前向きな姿勢が大いにある。日本以外での人生を選択した(または選択しようとする)人々は、個々に苦悩しながらも、個々に輝いて見える。

和僑会の総会は現在シンガポールで開催されているようだが、来年は世界の和僑がバンコックに集う予定とか。何となく覗いてみたい気がする。

11月23日(金) バンコックでスーパー銭湯へ行く

バンコックの宿泊先の直ぐ近くに2か月ぐらい前にオープンしたスーパー銭湯。あることは知っていたが、行く機会はなかった。ところが約束をしていたIさんの仕事が早く終わり、宿泊先まで来てくれることになり、そして銭湯へ連れて行ってくれることとなった。

外見は日本と同じようだ。入り口を入ると明るい。そして客層はタイ人の若者が多い。ある年齢層以上のタイ人はお金があってもここには来ないのだろう。居酒屋あり、カフェあり、ネットしている若者もいる。オーナーはタイ人で、日本の銭湯好きが高じて営業を始めたらしい。入浴料450バーツ。受付を済ませると、次は履物を脱ぎ、サンダルに履きかえる。そうして浴衣(丹前?)を貰う。この浴衣、結構厚手。タイのクーラー事情から、このような厚手になったと思われるが、ちょっとどうかな。

浴室は銭湯のようになっており、洗い場の向こうに湯船、ジャグジー、水ぶろなどがある。スチームサウナもある。更に露天ではないが、ドアの向こうには温室のような場所があり、浴槽とサウナ、丸い一人用の浴槽まである。開業したばかりということもあるが、きれいである。お客さんはタイ人の方が多かったが、裸で入ることにも抵抗はなく、騒ぐ人もおらず、実に日本的な雰囲気がした。日本で温泉などを体験した人や日本の習慣に慣れている人々がここの主要顧客であることが分かる。

風呂から上がると居酒屋へ向かい、冷えたビールで乾杯する。日頃それ程お酒を飲まない私でもこの1杯は美味いと感じる。この居酒屋は九州系のようで、この銭湯にテナントとして入居している。

Iさん曰く、「バンコックで銭湯につかり、冷たいビールが飲める日が来るなんて、夢のようだ」。確かにリラックスにはちょうど良く、これは使えるかもしれない。同時にこの店が流行るかどうかが、タイの日本ブームの一つのチェックポイントかもしれない。





ぶらぶらバンコック滞在記2012(4)10月5~31日

10月5日(金) サケオへ行く

2週間ほど、トルコへ行ってきた。トルコにはアジアもある、と思い込んで行ったのだが、残念ながらアジアは見付からなかった。ただヨーロッパも中東もトルコを起点に中央アジアを目指している、非常に基礎的な理解は出来た。 タイの田舎へ行く、ここはアジアである。今回はバーンタオ氏が炭焼きを依頼しているサケオ県を訪ねた。サケオはバンコックから東へ約200㎞、あと数十キロでカンボジア国境と言う街。

朝BTSのウドムスックという駅で待ち合わせる。この駅、以前は無かった。ここ1-2年でBTSの線が東西南北に延びている。駅前にはマンションが建っているが、それほど高くはないらしい。新しい駅だからか。結構便利なのに何で。マンションの下にMax Valueが入っていた。24時間営業、店内にキッチンがあり、朝の弁当を仕込んでいた。新興住宅の香りがした。駅付近の朝の渋滞はかなりひどい。

車は一路サケオへ。今日台風が来るという不穏な情報があったが、快晴で快適。30分も行くと田園風景が広がってくる。ゆうかりの木が植林されている場所もある。バンコックも一歩抜け出せば田舎の風景がある。これがタイ本来の姿のような気がする。

3時間弱でサケオの街に到着。先ずはバーンタオ氏お勧めの駅前肝っ玉母さん食堂でランチを取る。コイセンミー(餡かけ固焼きそば)を頼む。確かに勧めるだけのことはある。ここの餡は実に濃厚で美味い。揚げたそばとの相性も抜群で、最後の最後まで汁を吸ってしまう。何杯でも食べたい気分だが我慢した。値段は1杯、30バーツ。バンコックなら大盛りの分量は嬉しい。

サケオ駅前といったが、本当に本当に小さい駅がそこにあった。バンコックから5-6時間掛かるだろう列車がたまに来る各駅停車のみが停まる駅。まるで映画のセットのようだ。その横の並木道、ミャンマーと全く同じ風景がある。うーん、タイの田舎は素晴らしい。

先ずは付近の国立公園に行く。自然を売り物にしているが、本当に大自然、管理するのも大変な敷地に様々な草花や木々が所狭しと育っている。管理と言っても道を整備する以外は自然に任せて、開発しないという意志表示のようだ。途中道にひょっこりイグアナが顔を出す。トカゲの大きい物だ。

かなり進むと見晴らし台があり、そこが終点。山に木々が密生している様子がよく分かり、山の深さを教えてくれる。小さな滝も見た。タイ人は水遊びをするようで数人が下に降りていく。自然の中での遊びは彼らが一枚上手のようだ。

それから炭焼き小屋へ行く。これまでチェンマイ郊外の窯などを見学したが、比べると格段に整備されており、窯の数も多い。雨季は材料の木々の切り出しが少し困難で生産量が落ちるとのことだが、一定量は焼き上がっている。

バーンタオ氏はこの地にバーンタオ村をつくろうとしている。先ずは身近なバンコック在住者からメンバーを募り、時々遊びに来る計画。敷地を借り、畑も作る。炭焼き体験もする。緩いコミュニティはこれからの主要テーマだ。面白い。

帰りは渋滞がひどく、また途中で雨も降り、5時間以上掛かってバンコックに戻る。午後9時半にスクンビットのお蕎麦屋さんに辿りつき、鴨南蛮を食べる。久しぶりで実に美味しい。お腹が空いていたからだろうか。幸せな気分で一日を終える。

10月6日(土) 心地の良い2つのカフェ

バンコックには最近日本人経営のカフェがいくつもオープンしていると聞く。今日はご縁のある2つのカフェをはしごした。

1つ目はスクンビット、ソイ49にあるMoss Terrace。8月にオープンしたこのカフェ、閑静な住宅街にある。ただ店内はカフェという雰囲気はない。タイで生産された女性服が並んでいる。本業は服屋さんなのだとか。その横には、数々の珍しい石が並ぶ。ご主人が趣味で集めた物が中心とか。かなりの種類があり、また売るか売らないかはその人の熱意とも聞く。石に秘められた魅力が見える。

水槽の前に座る。ブルーオパールが中に入っているその水槽は、何となく好ましい。いくつか構想が浮かび、何故かメモを出して書き留めていた。面白い。ここだとアイデアが出やすい。でもPCを持ち込んでやってはいけないだろう。頂いた抹茶牛乳がまた素晴らしいミックス。心が少し温まる。そういえば水槽の前で気持ちよく寝込んだ人もいた。

このお店、Aさんご夫妻が開いている。来タイ20年、海外から見た日本など、話題は尽きず、午後5時の閉店時間を大幅にオーバーして居座る。ここはカフェというより、楽しい空間であり、オーナーと来客のコミュニケーションの場であった。お子さんがお小遣いを貯めて、小さな石を買いに来る、何とも嬉しい。

そしてもう1軒は、先日バンコック茶会でお世話になった、シーロムにあるSaladee。僅かしかいないバンコックで今日がもう4回目だ。先日のトルコ旅行、主目的の茶畑訪問が成功した一番の要因は、このお店のオーナーAさんによる紹介だった。茶縁のお礼を兼ねて報告に伺った。

野菜ソムリエのAさん、食事にはスペシャリティがある。赤米のスープ、さっぱりしている。サバが乗ったご飯。豆、野菜などが添えられている。昨年6月に行ったヨーガ合宿、長野県穂高の養生園の料理を少し思い出す。白米を食べず、肉を食べない。体が軽くなるのが分かる。そして暖かいお茶を飲み、ネガティブではない前向きの話をする。実に健康的だ。こういうお店が近くにあると、便利だなと思う。

バンコックには個性的なお店が増えている。こんな空間とのコラボ、望ましいな。

10月30日(火) バンコックのバス

10月は10-29日、中国と日本に行っており、不在。久しぶりのバンコックは雨季が明けたかと思いきや、強烈なスコールが夜中だったり、朝だったり、突如として降り出す不安定な天気。我が宿泊先から最寄りの地下鉄駅まで歩いて10分、かつ交通量の多い道路を信号なしで横断しなければならない。雨でも降ろうものなら、結構シンドイし、かつ暑い。(東京や上海は今がベストシーズン。比べるとバンコックの暑さは際立つ)

宿泊先の直ぐ近くにバスターミナルがある。以前もたまに使用していたが、昨日は午前午後の2度の外出で共にここからバスに乗る。ターミナルには以前は無かった路線ごとの大まかな行先表示看板が出来ており、しかも英語も併記されていたので、初めていくつかの路線の行く先を知る。タイではタイ語が読めないと色々と不便がある。


   

バンコックのバスには何故か無料バスと有料バスがある。それは青色の帯がフロントガラスに表示されており、字が読めなくても分かる。何だか籤引きのような気分でバスを待ち、青が見えると「当たった」と喜ぶ。但し私が払うバス代は赤バス(全線料金共通)で6.5バーツ(日本円15円程度)。実にささやかな喜びである。因みに本日は2回で1回当たりが出た。

私が乗るバスにはエアコンはない。エアコンがあれば料金は倍になるようだ。窓は基本的に空け放たれるが、渋滞に捕まると風が入らず、難渋する。またスコールでも来ようものなら、一斉に窓が閉められ、地獄のように暑くなる。良く見てみると車内に1つだけ扇風機がある。それは運転手のすぐ後ろ。車掌のおばさんもそこへ居着く。私も2回目は運転手の後ろの席をゲット。


   
  

バスはいつ目的地に着くか分からない。バンコックの渋滞は時々とんでもない状態になる。そんな時はバスを降りる。日本ではバス停以外でバスがドアを開けることはないが、ここでは渋滞になれば自然とドアが開き、降りたい人は自由に降りることが出来る。このような柔軟性がタイの良いところ。私も時間を見計らってバスを降り、目的地に向かう。

日本の公共交通機関は高過ぎる。途上国には料金によりいくつものバリエーションがある。私の場合は時間があるので、タクシーやバイクタクシーを止め、バスにしている。一般的なタイ人は今や時間が大切。一番有効なのは渋滞をものともしないバイクタクシーだろう。またタイ人は全般的に言って歩くのが苦手。200mでもバイクタクシーに乗る人がいる。それもまた柔軟性のある社会ということか。タイ人が時間に追われ始めたのを見て、経済発展を感じ、また一抹の寂しさを感じている。

10月31日(水) 中国人経営のプーアール茶荘

9月に開催したバンコック茶会。その会場はBTSチョンノンシー駅から少し歩いたシーロムプラザにあった。そこへ何回か通ううち、BTS駅のすぐ近くにあるお茶屋が気になり始めた。開いていないことも多く、その存在自体が謎となっていた。

バンコック茶会主催者のMさんはいち早く、この茶荘を訪れ、オーナーと交流していた。そして私にもお声が掛かり、訪れることに。オーナーは中国人だと聞いていたので、通訳のようなものか。

お店はなかなか綺麗で、茶器がかなり置かれていた。お茶はプーアールしかない。何だか面白い、こだわりのありそうな店だ。棚にはプーアール茶の茶餅がずらっと並ぶ。見ると易武の茶が多い。これは本格的かもしれない。

オーナーのポーラさんは中国広西壮族自治区、桂林近くの出身。10年前に一家でバンコックに来て、プーアール茶を商っている。聞けば、中国では地元メディアの記者だったとか。またご主人は画家で、現在は北京在住とか。そういえば中国ではこのような文化人で茶好きが多かったな。

彼女は緑茶やウーロン茶を飲み続け、最後にプーアールに辿りつた。これが一番と他の茶は商わない。毎年雲南省を訪れ、仕入れを行う。茶器にもこだわりを持っている。好きが高じて茶荘を開いてしまったようだ。

肝心のお茶は2007年以降の生産が多いが、原料の茶葉は樹齢100年以上の古樹から摘んだ物が多いという。確かに熟茶2種類、生茶1種類を飲ませてもらったが、カビ臭さはなく、飲みやすい物だった。飲む所はカウンターになっているが、今後は変えていくという。2階には12-3人が座れる茶席もあり、有料で貸してくれるらしい。

お客はタイ人、華人、欧米人、日本人と多岐に渡っている。日本人は生茶が好きで、良く通ってくるし、友人達とも連れ立ってくるという。タイ人は健康志向の人、文化的な人が飲んでいる。タイの茶文化事情の一端が分かるかもしれないと思ったが今回は時間切れ。次回再訪しよう。