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ある日の埔里日記2017(16)おじさんの山の茶畑

131日(火)
おじさんの山の茶畑

 

昨晩葉さんからメッセージが来た。『明日おじさんの家に行かないか?』、おじさんの家とは先日大晦日に伺った、山の中の静かな一軒家を指している。あの時、おじさんに『また是非来たい』と言ったところ、『昼間に来れば茶畑も見せてやろう』と言ってくれたのだが、まさかこんなに早く実現するとは思わなかった。

 

午前8時前に葉さんの車に乗った。『朝飯を食べよう』と連れていかれたのは、何と近くの大腸麺線屋。『ここのが一番うまいんだ』と言われて思わず頼んでしまう。好きなので、2食続けて食べても何の問題もない。確かに美味い。このお店はおばさんが一人でやっているようで、売り切れご免、午後は大体休みになっている。

 

そして郊外の道を行く。数日前に通ったばかりだが、夜と昼とでは、全く景色、雰囲気が違うので、初めてくるような感覚だ。寺など要所要所は覚えており、30分ぐらいで到着した。葉さんは用事があると言って帰っていった。私を送る為だけに来てくれたのは申し訳ない。『帰りは適当にして』と言われたが、まあ何とかなるだろう。

 

この家で作られたお茶を頂く。前回は大晦日の除夜の鐘を聞きながら、家の中で飲んだが、今回は天気も良く、屋根のある屋外で飲んだ。茶作りの時はここで生葉を干すのだろう。アヒルが三匹、平然と横を歩いて行く。この家の裏山にも檳榔樹に混ざって、茶樹が植わっていた。かなり古い木もある。冬枯れてはいたが、しっかりと根を張っている。

 

おじさんが『行こうかと』と車に乗る。お嬢ちゃんも付いていく。私も乗り込む。さて、山茶の茶畑に行くらしい。10分ほど離れたところで車は停まり、そこから少し山に分け入る。斜面が意外と急な場所で滑りやすい。なぜか水たまりもある。その先に、株ごとに古い茶樹が所々に植わっていた。

 

葉はかなり固く肉厚。低木ながら、幹はかなり太い。おじさんによれば、アッサム種もあるが、それより古い山茶もあるという。一体それはどこから来たのだろうか。いずれにしてもこの地域は日本統治時代に茶樹が沢山植わっており、茶業が盛んだったことを意味しているようだ。

 

因みにこの土地は、おじさんが外での仕事を辞めて山に戻った20年ぐらい前、誰も使っていなかったので知り合いから借り受けたらしい。昨今の紅茶ブームにより、突然脚光を浴びた形の山茶。本当のところは、どの時代にどんな品種があって、どこに植えられた、とはっきり分かればよいのだが、現在の商業的意味合いを加味すれば、地元民は知っていても言いづらいだろう。

 

昼に埔里の街に行くというので、おじさんの車で送ってもらった。おじさんは親戚の家の宴会に出るという。正月は各家持ち回りで毎日宴会があるという。何と私まで参加させてもらうことになる。おじさんは客家、ということで一族も皆客家の血を引いている。元々は新竹の方にいたが、戦時中に埔里郊外の山中に入ったらしい。その後徐々に山を下り、今では平地に住んでいる人の方が多い。

 

奥へ行くと長老たちが座っており、紹介を受ける。皆一様に突然やってきた日本人に興味を持った。次々に質問が飛んで来る。そして宴会が始まる。この家はロイヤルゼリーなどを作っており、その工場を開けて、テーブルを5つも並べて、その上にどっさりと料理を置く。料理は自分たちで作るのではなく、いわゆる仕出し屋を頼んでおり、この時期、どこの仕出し屋も大忙しらしい。各家ともメンツがあるので下手な物も出せず、立派なエビやら、肉やらが並ぶ。まあこれも正月の景気づけ。

 

食後、おじさんがそのロイヤルゼリーの工場を見に行くというので一緒に行く。山の少し途中に工場はあったが、管理人も正月休みでどこかへ行っており、中へ入ることはできなかった。帰りにおじさんの息子がやっているというバナナ畑を見た。昨年の豪雨の影響でバナナ価格は高騰して、この商売がうまくいっているらしい。息子2人はまじめで、頑張っており、おじさんも鼻が高い。

 

結局宿泊先まで送ってくれた。おじさんは実は葉さんの茶屋に来たことはなかったらしい。ちょうど良い機会だからと立ち寄ったという方が正しい。私としては助かった。おじさんは、お茶のシーズンまで台湾内を旅して暮らすと言っている。車に調理道具など、一式積み込めば、どこへでも車を停めて生きていけるというから面白い。お前も行くか、と聞かれたので、思わず行くと、と答えそうになったが、残念ながら、その時間的余裕は私にはなかった。

ある日の埔里日記2017(15)台中にベトナム研究者を訪ねる

130日(月)
台中にベトナム研究者の若者を訪ねる

 

今日も快晴だ。埔里の正月は実に爽やかで過ごしやすい。昨日も行ったバスターミナルに今日も行く。今回は台中に行く必要があり、自分が乗るためだ。ターミナルは昨日ほどの混雑はなかったが、ターミナルと少し離れて出発する全航バスに乗ってみる。特に渋滞もなく、ほぼ定刻に台中駅前に着いた。

 

つい先日もここから市内バスに乗ったが、よく見てみると、既に駅前の国光号のバスターミナルは完全に取り壊され、その向こうの方に新しいバスターミナルが見えている。ついでに駅舎も現代的に作られつつある。少しずつ変化が見られる。埔里行きのバスもあそこから乗るようになるのだろうか。

 

今回は台北に住む大学院生で、ベトナム文化を研究している蔡さんを訪ねることになっていた。彼はお母さんと共に旧正月の休みでお婆さんの家に帰省しており、そこに来るように指示が来ていた。そごうの近くのバス停でおり、後はまたスマホを頼りに歩いて行く。相変わらずバス代は無料で嬉しい。

 

何とかその家を探し当てて、声を掛けたが、誰も出て来ない。中に入ると、お祖母さんがいた。こういう場合、台湾語ができないとちょっと怯む。もごもごとしていると、『ああ、孫に用事ね』と国語で言ってくれたので助かった。ただそのまま2階へ行け、と言われてもどうしてよいか分らない。仕方なく、階段を上って行くと、部屋から若者が出てきた。彼が蔡さんだった。

 

蔡さんとは、FBを通じて知り合った。彼はお茶に興味があるというより、まずはベトナムの研究のため、ベトナムのお茶にも関心を持っており、ベトナム人の茶摘みなどを見ている私と、どこかで出会った訳だ。彼は大学院生でまだ若い。ベトナム語はどこかで教えているようだが、ベトナム文化の研究が主である。

 

1階から声が掛かった。彼のお母さんが、昼ご飯の用意をしてくれていた。1階で3人で食べた。エビや豚足など、台湾のお正月の料理が並んでおり、特にベトナム風の物はなかった。お母さんはベトナム生まれの華僑で、中越戦争の時に、台湾に移住したという。ベトナムから華僑が追い出されたという歴史は知っていたが、台湾に移った人がいたとは初めて知る。確かに香港や広東省に移るだけでなく、親戚などを頼って台湾に来た人がいてもおかしくはない。

 

だから蔡さんもベトナム語ができたわけで、それを軸に研究している。やはりそのような糸口がある方がやりやすい。お母さんはずっとベトナムには帰っていなかったが、最近は簡単に行けるようになり、往来も復活した。お父さんは弁護士で、一家は台北郊外に住んでいるが、お父さんは仕事の関係で、この台中の実家も事務所代わりにして、行き来しているという。

 

食後は2階で二人、お茶を飲んで過ごした。蔡さんは若者らしく、好奇心旺盛で、スマホですぐに検索を掛け、色々と質問してくる。その中でもベトナム関連の資料や研究が日本語で書かれているものが多く、彼としてはその本が欲しいようであった。日本語は読めるらしい。検索するとアマゾンで1円だせば購入できるもの(送料は257円)なので、代わりに買ってあげることにした。

 

彼は台湾内にいるベトナム人と付き合い、ベトナム文化に関するイベントなどにも積極的に出席しているらしい。確かに埔里の私の周りのもベトナム人が多い。台湾全体でも無視できない数のベトナム人がいるのだろう。そうなれば、彼のような研究も意味を持つようになるかもしれない。今日はこれまでの茶とはちょっと違ったアプローチだったが、これはこれで面白かった。

 

帰りもバスに乗る。来る時も混んでいたが、帰りはもっと混んでいて、乗るのがやっとだった。やはり無料で乗れるというのは魅力的なのだろうか。ちょうど正月で、実家から台北などに戻る人もいたようだ。台中駅から埔里に行くバスも満員だった。今日は移動が多い日なのかもしれない。

 

埔里まで戻ると、大好物の大腸麺線の店が開いていたので、そこに飛び込み、注文した。内臓系が大好きな私は台北でもよくこれを食べていた。大腸が沢山入ったとろとろした麺。独特の鰹節ベースのスープがまた美味い。ひと椀50元だから気楽な食べ物であり、意外と腹持ちもよい。今日もよく眠れそうだ。

ある日の埔里日記2017(14)原住民が作る高山茶

129日(日)
原住民のお茶

 

翌朝はまたゆっくり起き上がる。Tさんは昼過ぎに台北に向かうことになっているが、午前中は宿にいるというので、特に用事はなかった。12時前に電話があり、Tさんが宿の車でこちらに向かっていると知る。慌てて向かいに出ると、ちょうど下に葉さんが居たので、まずはここでお茶を飲んでみる。

 

それからバスターミナルまで歩いて行く。ランチを食べようというので、ターミナルの向かいのこぎれいな食堂に入ってみる。ここも私は普段近寄らない場所だ。店はかなり混んでいたが、何とか席を確保し、排骨飯を注文した。量が少なく、ちょっと高めだが、盛り付けが上品。若者にはこんな店がよいらしい。

 

そしてバスターミナルに入って驚いた。ある程度は予想していたものも、正月で出かける乗客でごった返している。だがすでにTさんのチケットは事前に買っておいたので、乗車に問題はないはずだった。ところが、念のため尋ねてびっくり。午後1時だというのに、今来たバスは午前8時日月潭発だというのだ。いくら混んでいるといっても訳が分からない。午後1時のバスは一体いつ来るんだと聞いても誰も答えてはくれない。

 

こういう危機的な状況では、Tさんの的確な判断が威力を発揮する。台北行きのバスは、道路が混んでいていつ来るかもわからず、来ても何時着くか分らない。そこで高鐵台中駅まで行くバスに切り替え、そこから高鐵に乗ればよいと判断し、まごまごする私を尻目に、さっさと切符を買っている。高鐵行きも結構並んでいたのだが、直後に来たバスに運良く乗れた。殆ど別れの挨拶も出来ないうちに、Tさんは去っていった。

 

その後もTさんはメッセージで状況を伝えてくれたのだが、高鐵駅まではそれほど遅れなく到着。そして高鐵自体も自由席は空いていて座って台北まで行けたようだ。何のことはない、一番早い方法で台北に到着したということだ。まあ選択肢があったことがよかったということだろう。

 

安心して夕方まで休んでいた。実はMさんから『埔里に原住民で高山茶を作っている人がいる』と聞いており、FBで探し出して、一応メッセージを送っていたのだが、特に返事がもらえずにいた。ところがどうしたことか、突然『暇ならお茶を飲みに来れば』との連絡が入ったので、早々に訪ねてみることにした。彼らの店はわが宿からわずか数百メートルのところにあると思っていたが、そことは別に拠点があるとのことで、言われた住所にスマホを頼りに探していく。

 

住宅街の中にその店はひっそりとあった。入っていくと数人がお茶を飲んでいた。リーダーの高さん、そして息子がお茶を淹れてくれた。彼らの茶畑は梨山の山頂近く、翠ルアンという場所にあると言い、春、秋、冬と年三回茶作りをし、そのお茶は高級品で、高値で取引されるらしい。原住民だけでチームを組んでそれなりの規模でお茶作りをしている例は、台湾にはあまりないとも聞く。非常に珍しい例だ。

 

彼らのお茶は非常に清らかな感じがする。焙煎をあまりかけていないものを飲んだせいもあるかもしれない。息子が丁寧に淹れてくれたからかもしれない。少し茶葉を分けてもらおうと思ったが、殆ど品切れだという。それほど量が少なく、買い手が欲しがるということだろうか。

 

茶工場の衛生安全面でも、5つ星に認定されたとのことで、高さんは『これなら日本人にも受け入れられるだろう』と胸入り、『ぜひ我々原住民の茶を宣伝して欲しい』と言われる。出来れば今後彼らの茶作りを山に見学に行きたいと思う。今日は初回だったので、顔合わせで終わった。

 

夕飯はどうしようかと歩いてみたが、空いている店は少ない。1軒、牛肉フイ飯と書かれたところが開いていたので、頼んでみる。まあ、基本的にあんかけご飯ということだろう。中国大陸のフイ飯とはちょっと違うかなと思われる。取り敢えずご飯にあり付けただけ良しとしなければなるまい。正月はまだ続く。

 

ある日の埔里日記2017(13)元日のお客さん

128日(土)
元日のお客さん

 

昨晩は寝るのが遅かったので、朝はかなりゆっくり起きた。元日の朝は快晴だ。素晴らしい1年の始まり。昨日あんなに食べたのに、それでも腹は減る。果たしてどこで飯にあり付けるのかと危惧しながら下に降りると、何と宿泊先の下の店が開いているではないか。『新年快楽!』と声を掛け、名物のおこわご飯と大根スープをもらう。これはいい始まりだった。

 

部屋に戻りゴロゴロしていると、メッセージが入る。上海在住のTさんが台湾入りし、昨晩は台中に泊まっていたのだが、もうこちらに向かっているという。正月は道路も混むので、いつ来るかわからないとたかを括っていたが、結構近くまで進んでいるようだ。慌ててバスターミナルへ行く。

 

そこにはTさんが予約した民宿のおじさんも迎えに出てきていた。Tさんが予約したところ、私は勿論知らない場所だったので、実は昨日念のため、場所を確認しに行っていただが、探すのにかなり苦労した。そこは私の宿泊先からでも歩いて15分以上はかかるので、バスターミナルからだと30分近くかかる新興住宅街。921地震の後に開発されたちょっと高級な場所だった。宿の奥さんに声を掛けて事情を説明すると、『日本人が泊まってくれるのは珍しい。迎えに行くよ』と言ってくれ、ご主人が来てくれたわけだ。

 

だがバスは予想通り渋滞に嵌り、なかなか到着しなかった。それでも通常より30分程度の遅れでバスがターミナルに入ってきたのでホッとした。車ですぐに宿泊先に向かう。歩くと大変だが、車なら5分で着く。この宿は昨年開かれたばかりで、明るくてきれいな民宿。一階のリビングには本がたくさん置かれ、くつろげるスペースになっている。2階の部屋も居心地のよさそうな、ちょっと可愛らしい若者向けの作りになっていた。

 

すぐに宿を出たが、行く当てはない。Tさんはただ街歩きをしたいというので、歩き出す。1月末の埔里はそれほど暑い訳ではないので、歩くにはちょうど良い。取り敢えず埔里の観光地、18Cに向かう。Tさんとしては今まで訪れたことのない場所に来てみる、という狙いだけなのでそれで十分らしい。正月の埔里は歩いている人もまばら、特に見る物もない。そんな中で18Cだけは観光客で賑やかだった。

 

それから適当なカフェを探して、お茶を飲んで話す。彼とはFB上でその動向をいつも見ていたが、会うのは2年ぶりぐらいだ。積もる話というより、最近の中国の状況などが話題になる。いつも鋭い分析で人々をうならせているTさんの解説は聞きごたえがあった。ついつい時間が過ぎてしまう。

 

夕飯を探してまた歩き出す。閉まっている店が多い中、普段私が立ち止まることもない、こぎれいな石鍋の店に入ることになる。そこはジンギスカン鍋を謳っているが、なんで埔里でジンギスカンなんだろうか。見ると比較的若い人を中心に結構な賑わいを見せているので驚いた。地元の人は地元に料理に飽きているということだ。

 

先に肉と野菜を炒めている。それを取り出し今度はスープを入れて、残りの野菜や豆腐を煮ている。何とも独特な作りだった。食べてみるとこれがあっさりしていて意外とうまい。更にはTさんがご飯とたまごをもらってきて、自ら〆のおじやを作ってくれた。これは実に美味しかった。日本の味は不要だと言いながら、こういう飯は時々必要だと感じた。

 

食後、また散歩しようかと思ったが、もう疲れたのというので、日本人Wさんが開いているゲストハウスに遊びに行く。彼は奥さんが台北に住んでおり、大晦日をご両親などと過ごすため、台北に行っていたが、ちょうど帰ってきていた。正月はお客さんが多いのだろうか。そこで1時間くらい雑談してから、ゆっくりと宿に送っていき、正月元日は終了した。たまにお客さんが来てくれるといつもと違う埔里が見えられて面白い。

ある日の埔里日記2017(13)山中で大晦日を過ごす

127日(金)
山の中の大晦日

 

ついに除夕、大晦日がやって来た。午前中はゆっくりして、昼飯を食いに出たが、既に正月モードの街、店はかなり閉まっていた。特にこんばんはほとんどの店が休むと聞いている。ここからは食事難民を覚悟しなければならないということだ。何とか炒飯にあり付き、もう動くのを止めた。これまでの茶関係の資料を整理して過ごす。

 

夕方、葉さんから連絡があり、向かいのベトナム人がバイクで彼の家に連れて行ってくれた。葉さん一家が迎えてくれ、大晦日のご馳走を頂く。先日魚池でもらったバナナをお土産に持っていく。特に酒を飲むわけでもなく、紅白歌合戦があるわけでもない。ただただ食事を頬張る。こんな大晦日も悪くない。と思っていると、ベトナム人たちは、オーナーである葉さんからお年玉をもらって帰っていった。尚日本の年末ジャンボ宝くじに当たる彩票を葉さんからもらったが、残念ながら外れてしまった。台湾人はこの彩票が大好きだ。

 

私も道は分るので歩いて帰ろうかと思っていると『さあ、行こうか』と言われる。どこへ行くのか分からないが、葉一家ととともに車に乗る。そろそろ暗くなる中、車は山の方へ向かっていき、そしてかなり深い山の中へ入っていく。葉さんの故郷へ向かっているらしい。暗くても道はよくわかっているので安心だ。

 

途中で、人に出会うと皆挨拶している。この辺は皆知り合いらしい。そしてついに目的地に着いた。その家の庭ではたき火をしており、外にテーブルが出て、皆が酒を飲んだり、食べ物を食べたりしていた。ちょっと寒いが、何とも気持ちの良い風が吹いている。ここには葉家の親戚が毎年大晦日に集まり、新年を迎えるという。我々の後からも人がやってくる。

 

葉家の祖先は以前新竹の関西の方にいた客家で、戦争中にこの山に移り住んだと聞く。その時代には茶畑がかなりたくさんあり、多くが茶業に従事していたが、その後徐々に減っていき、人々も出稼ぎに出て行くようになり、埔里の街に住む者も増えている。ただその山中の家を守っている人もいて、年末には皆が顔を合わせることになっている。

 

食事を食べろ、酒を飲めと親切に勧めてくれるが、既に腹が一杯であり、酒は飲めないので手持ち無沙汰になる。親戚同士の会話にもついて行けないところがある。葉さんは子供のために花火を打ち上げ始める。たき火で焼き芋を焼いているのは、昔の日本を思い出す。焼き芋を食べていると、おじさんの一人が『うちはお茶を作っているから、家で茶を飲もう』と誘ってくれ、車で別の家に移った。おじさんには8歳の女の子が一緒だった。そういえばこの方、先日の尾牙の時も色々と親切にしてくれていた。

 

おじさんの家は、誰もいないのか、凄く静かだった。森々と山中の夜が更ける、という感じだった。何だか除夜の鐘がどこからともなく聞こえてくる。ゆく年くる年を思い出す。そこでおじさんが作った紅茶をしみじみ頂く。私は日本で新年を迎えたばかりだったが、お茶を飲みながら、今年も暮れたな、という感慨があったのは不思議だった。面白いものだ。

 

日付が変わる前に葉さんが車で迎えに来てくれ、この静かな家での時間は終わってしまった。夏なんか、ここに住んだらいいだろうな、と思ってしまう。いずれにしても葉さんのお陰で、印象に残る台湾の大晦日を経験できた。何とも有り難い。12時を過ぎると、ラインで一斉にあけおめメッセージが流れるのは、日本と同じだった。消音にして早々に眠りに就く。

ある日の埔里日記2017(12)台中の講茶学院

126日(木)
台中の講茶学院

 

本日も旧正月前の駆け込みで、台中へ行く。ちょうど会いたいと思っていた湯さんと連絡が取れ、彼のオフィスへ行くことになったのだ。彼とは昨年、静岡の世界お茶祭りで出会っていたが、その時はゆっくり話も出来ず、彼の活動の全貌を掴むこともなかったので、この機会を利用して、相互理解を深めようという狙いだ。

 

今日は台湾好行バスではなく、全航バスに乗って台中駅に向かった。台中駅に行くには桃園バスで行くこともできるが、乗ったことが無かったので、バスターミナルの外に乗り場がある全航にトライする。料金は特に変わらない。シートはこちらの方がよいかもしれない。ルートは若干違うが、1時間ちょっとで台中駅に到着する。

 

まずは腹ごしらえが必要だったが、駅の近くには意外と食堂が少ない。今や高鐵が中心で、また街の中心は三越や市政府のある場所なので、駅前と言いながら、ちょっと寂しい。ふらふら歩いていると、ベトナムやインドネシア料理の店がいくつかあったが、そこを素通りすると、丸亀製麺が目に入る。その横には吉野家もある。

 

私は日本食がどうしても食べたいと思うことは既に稀になっているが、時々牛丼を食べることはある。丸亀がかなり和のテーストで『あんかけうどん』などを推奨している。一方吉野家は、とみると、何とこちらもうどんがあるではないか。牛丼とのセットのようだが、麺を食べるならやはり隣に行くだろう。私はまた違ったチョイスとして、カレーと牛肉が半々のどんぶりを注文した。これにアイスティーとキムチが付いて、169元。埔里では支払わない金額だが、たまにはいいか。

 

それから湯さんに指示された通り、73番のバスに乗ろうとしたが、バス停でいくら待ってもバスが来ない。よく見ていると反対側をバスが行くではないか。私は反対方向で待っていたことに気が付いたが、そのバス停の位置が分からない。仕方なく駅の旅行センターで聞くと、親切にも若者がスマホで検索してくれ、何とかバス停が分かった。

 

台中市内のバスは面白い。何しろ遊悠カードなどを使えば、10㎞以内は無料なのだ。こんなサービス、見たことがない。地下鉄が通っていないから、と説明されたが、公共サービスとしては異例ではないか。バス路線も発達しており、乗り方さえ分かれば、便利で使いやすい。

 

今回乗ったバス、結構乗客がいる。私が思っている方向とは違う方へ走っていくなど、ちょっとドキドキしたが、30分ほど乗って、無事に目的地に着いた。これで無料なのだから、驚きだ。バス停からは教えられた住所をスマホで探し、歩いて行く。最初の方向さえ間違えなければ、簡単に目的地に着ける。以前は迎えに来てもらうことが多かったが、都会ではもう不要かもしれない。

 

湯さんのオフィス兼家が見付かった。講茶学院という看板が掛かっている。彼はお茶を講義形式で教える学校を主催している。お父さんも姿を見せた。お茶関係ではないが、山で仕事をしていたという。お母さんはお花を教えているらしい。湯さん自身も初めからお茶を目指していた訳ではないらしい。ただお茶に魅せられ、新しい形の仕事として、2008年よりセミナーなどで、お茶の基本を教え、その魅力を伝えている。実際のセミナーは会場を借りて20人ぐらいでやっている。場所も台中だけではなく台北他でも開催している。

 

具体的には台湾茶をワイングラスに入れ、ワインテースティングの要領で香りをかぎ、味わっている。この斬新な手法が鮮やかで、受講者も増えているらしい。また受講した生徒を連れて台湾の各茶産地を回るなど、実地もしっかり行い、その知識を高めている。本人は趣味?で、茶作りを行い、その焙煎技術にはかなり高い物があるようだ。生徒はお茶好きの初心者から、茶農家、茶荘オーナーなど専門家もいるというから、彼の知識は相当に高いものなのだろう。

 

私が台湾茶の歴史に興味があるというと、『我々も今、台湾茶の歴史を発掘し、古老から話を聞き、その保存に勤めている』と言い、実際に訪ねた先を紹介してくれるともいう。これは実にありがたいお話なので、今後支援をしてもらうことにした。台湾においても、その歴史よりは現在のビジネス、という考えが主流であり、どんどん歴史は失われているようだ。取り敢えず、台湾紅茶の歴史を知るため、今回の滞在中に、埔里の紅茶工場に連れて行ってくれるという。

 

帰りも又、バスで戻る。また台中で夕飯を食べようかとも思ったが、バスが来たので、すぐに埔里に戻った。既に都会生活が馴染めなくなってきている。埔里のバスターミナルより前で降りる。前から気になっていた鶏肉飯の店に入る。店はお客でごった返しており、列の一番後ろに並んだが、店内で食べる場合は、そこに並ばず、直接オーダーすることを知る。

 

ここの鶏肉飯、列ができるだけあって、あっさりしていて旨い。キャベツなど野菜も豊富。スープと卵も頼んで80元、これなら週に1回はここで食べようと思う。実に日本人向きの食べ物だった。

ある日の埔里日記2017(11)日月潭で三蔵法師の遺骨と出会う

125日(水)
日月潭を回る

 

いよいよ正月の気配が濃くなってきた。正月中は身動きが取れないと言われているので、天気もまずまずの今日、思い立って出掛けることにした。場所は日月潭、これまでも何度か通り過ぎたり、ちょっとだけ立ち寄ったりはしているが、湖の周囲を回るというのは初めて台湾に来た1984年に遡らなければならない。実に33年ぶりの日月潭ツアーになるのだから、感慨ひとしおと言えば聞こえは良いが、ようはそこまで関心がなかったというのが、本当のところだ。

 

まずはいつもの店に行き、クラブサンドイッチで腹ごしらえする。台湾でサンドイッチを食べるのかとの声もあるが、これが意外と美味しい。台湾人の朝ご飯の定番と化している。特に私はこのクラブサンドイッチが好きだ。これが食べられるから、自分でトーストを焼く朝ご飯を放棄しているほどだ。そして甘い紅茶を合わせて飲むと台湾が感じられる。

 

昼の12時発の日月潭行台湾好行バスに乗り込む。魚池まではちょくちょく行くが、日月潭まで行くことは稀だ。30分程度で水社に到着する。そこで一日周遊バスチケット80元を購入する。乗り放題ということだが、バスの本数は1時間に一本程度と限られており、便利とは言い難い。若者ならレンタル自転車を100元で借りるだろう。だが私はこのバスに乗りたかったのだ。

 

それは33年前の思い出。台中からバスで午後遅く着いた私はそのまま日月潭一周を考えたが、バスチケット売り場で拒絶されてしまう。実はこれから来るバスが今日の最終だったから、バスを降りてしまうと帰りは歩きになるということだった。それでもバスに乗ったまま湖を見ようとバスに乗ると、そのチケット売り場の女性も乗ってきて、何と彼女の家の近くで降り、彼女の運転するボートで湖に浮かぶ島へ行ったのだ。そしてちゃんと折り返してきたバスに乗せてくれるという、何ともダイナミックな経験が頭に残っていた。勿論あの時の女性がそこにいるとは思えないが、何となくバスにこだわった。

 

バスまで時間があったので、その辺を散策する。水社の道の両側にはホテルや食堂、土産物屋が並んでいるが、この風景は30年前とそれほど変わっていない。恐らくこの中の一軒に投宿したと思うのだが、今はどこだか見当もつかない。そのまま湖まで出ると、その景色は素晴らしい。遊覧船が沢山停まり、観光客が乗り込んでいく。

 

その先の坂を上って行くと、かの有名な涵碧樓が見えてくる。蒋介石が愛した宿である。日本統治時代に作られ、今は一部が記念館として残り、見学することができるが、ホテル部分は、非常に独特の設備に改修されていると聞いたが、残念ながら宿泊客以外進入禁止と厳しい。台湾一ともいわれるリゾートホテルで予約を取るのも難しいらしい。記念館は木造の立派な建物で、中にはその歴史が展示されている。原住民、邵族との関係などが語られている。一度は泊まってみたいようなホテルだが、とにかく敷居が高い。

 

バスターミナルまで歩いて戻り、バスに乗って半周以上行き、伊達という観光地で降りた。そこは邵族の部落だったが、今は完全に観光で食っており、余り興の乗る場所ではなかった。ただ港から見る日月潭はきれいだった。折角なので邵族の歴史でも勉強しようと、旅行センターを訪ねたが、何と自分で邵族の団体に電話で連絡を取るようにと言われ、更に興ざめした。邵族を観光の目玉にしているのに、その邵族について、説明すらないとはどういうことだ。結局電話も繋がらず、街をぶらぶらした。観光客が思ったよりいる。原住民の名物、野生豚の焼き肉などに長蛇の列ができている。

 

バスの時間に合わせて動く。乗っている人は外国人のごく一部と多くない。次は玄奘寺だ。玄奘という名前に惹かれて、何となく降りたのだが、思いのほか立派な寺だった。ここから湖を眺めると絶景だった。その寺の中に入ってびっくりした。何とここに玄奘の遺骨があるというのだ。勿論実物を見ることなどできないが、玄奘殿という建物を登り、参拝した。何故かちょっと震えた。

 

その遺骨がここに渡来した経緯がまたビックリだ。玄奘大師記念館というところに、その歴史が展示されている。なんと日本からもたらされたというではないか。にわかには信じがたい。しかもその日本の寺、埼玉の慈恩寺にもお骨は残っているという。三蔵法師の骨が日本にあるなど聞いたこともなかった。その骨は戦争中に南京で掘り出され、日本に持ち出されたらしい。戦後蒋介石にこの骨の扱いを相談したところ、日本で保持して欲しいと言われたが、その後台湾仏教界より要請があり、分骨した。その際に建てられたのがこの玄奘寺という訳だ。玄奘の旅は1400年前から続き、ついにここまで来た、ということだろうか。

 

因みに2月に東京に戻った際、玄奘の骨があるという埼玉県岩槻の慈恩寺を訪ねてみた。結構な田舎にあったが、戦争中だったので、疎開の意味があったらしい。現在時々台湾人も訪ねてくるという。ただ日本人には殆ど知られてないとのことで、残念だった。遺骨は寺から少し離れた場所に安置されていた。あまりにもひっそりしている。

 

玄奘寺では、仏教の経本などが無料で配られていたが、玄奘が辿った天竺までの道のりが入った地図があった。最後の1枚、それが私に示された何かであった。現実にはアフガニスタンなど、紛争地域を多く通過するため、すぐに歩き出すことは難しいが、いつの日か、訪ねてみたいと思う。それがご縁というものだろう。

 

玄奘寺から、歩いて玄光寺へ行こうと思ったが、何とその散歩ルートは封鎖されていた。何か土砂崩れでもあったのだろうか。ここでバスに乗って行くと、戻るのが大変なので、仕方なく、折り返しのバスで、文武廟に行く。玄奘寺とは異なり、かなり賑やかな場所で、観光客も多い。

 

正月飾りも眩しい文武廟は三段になっている。龍の階段があるのは中国と同じ、かなりキラキラした感じだ。一番上まで登ると、かなり疲れるが夕日が沈んでいく中、全貌が見える。降りていくとバスが来たので、乗り込む。ここではかなりの乗客があり、座れないほど。水社に戻り、埔里行きのバスに乗り換え、日が落ちる前には埔里に戻った。

ある日の埔里日記2017(10)鹿谷から竹山へ

123日(月)
鹿谷から竹山へ

 

土日はバスなども混むので埔里で大人しく過ごす。そして月曜日の朝、久しぶりに鹿谷を目指す。これまで鹿谷には何度も行ったが、全てUさんが居る時で、彼に案内してもらっていた。今回は初めて一人で行く。と言っても本当の目的は鹿谷の下、竹山を訪ねることにあり、折角なので、旧知の顔を覗いてから行こうと思っただけだった。

 

埔里から鹿谷へバスで行くのは意外と面倒だった。日月潭経由のルートもあったが本数が少ないため、結局無難な台中高鐵駅経由を選んだ。台湾好行バスを2つ乗り継ぐのである。7時半に埔里を出れば、9時半過ぎには鹿谷に着く。昔では考えられない便利さだ。広興のバス停で降りると、なんと前を林光演さんが歩いて行く。

 

挨拶しても私を覚えている訳ではないが、Uさんの友達だというと、そうかとなる。林さんは鹿谷農会の総幹事だった1976年に茶のコンテストを仕掛けた人であり、凍頂茶の歴史においてはレジェンドである。毎日健康のために散歩を欠かさない。『今年は天気が悪いから茶の出来はどうかな』と心配そうだ。

 

そこから数分歩くとセブンイレブンがある。その前に偉信の店がある。いつ行っても誰かお客がいる。何となく冬茶を飲みながら雑談していると、ちょっと行こうか、という。実は雑談の内容は『30年前の鹿谷はどんなところだったのか』というもので、その答えを口で言うより、実際に見せてくれるというのだ。

 

先ほど光演さんたちがコンテストを仕掛け、ブームとなった凍頂茶。偉信が子供の頃は、鹿谷の道路の両脇は殆ど茶畑だったというのだ。彼が連れて行ってくれた場所には、そのほんの微かな痕跡、古い茶樹がいまだに植わっていた。だが周囲は殆ど野菜畑になっており、自分で食べる分を作っている。その奥には檳榔の木が植わっている。

 

昔は皆が総出で茶葉を摘んでいたよ、と懐かしそうに話す。それが20年ぐらい前には茶畑が段々無くなっていき、10年前には全く無くなってしまった。茶葉はもっと高い杉林渓などで摘まれ、この鹿谷は製茶された茶葉の集散地に姿を変えた。30年前はバブル、その時儲けた人々は不動産などに投資し、今や家賃収入で食べている。

 

偉信のお父さんは学校の先生で、バブルとは無縁だった。茶農家は先生の何十倍もの収入を得ていたらしい。公務員というのは現役時代の給料は安いが恩給がもらえるので、老後が安泰だと思われていたが、民進党に政権が変わり、この恩給に手が付けられようとしている。台湾茶業はこの恩給、年金問題で今後大きく変化する可能性もある。

 

竹山へ行くにはバスに乗ればよいのだが、偉信が車で送ってくれた。何と10分で着いてしまった。今回竹山で訪ねる劉さんは、FB上でしか知らない人。だが偉信は良く知っていると言って店まで連れて行ってくれたので、これは大変助かった。バス停から歩くと結構遠いのだ。

 

私は劉さんの名前を知っていたが、FB上では奥さんとお友達になっていた。入っていくとご主人がすぐに対応してくれる。私のようにお茶を買うのではなく、お茶の歴史に興味があるなどという輩は、奥さんではなく、ご主人の担当のようだった。竹山は鹿谷より下にあり、早くから交通の要所として栄えていたのだろう。筍は有名だが、お茶がるわけではなく、劉さんのお店でも、色々なお茶を扱っていた。

 

劉さんにはお茶を飲みながら、凍頂茶の歴史などを教えてもらった。本来はもっとこの竹山の歴史を質問するべきだった、と思ったのは店を後にしてからだった。ここにはMさんやSさんなど、日本人も時々来るという。お茶はしっかりしたものがあるのだろう。帰りは劉さんに竹山工業区のバス停まで送ってもらった。このバスがいつ来るのか不安だったが、15分ぐらい待つと何とかやって来た。後は朝来た道を戻るだけ。夕日がきれいだった。

 

高鐵駅に着くと、埔里行きバスの到着まで30分あったので、上階に上がり、夕飯を食べる。ここには丸亀製麺もあれば、ロイヤルホストもある。その一番外れにはまいどおおきに食堂まである。今回はそこで弁当を買ってみる。100元。見た目はきれいで、味もまあまあだが、何かが欠けている気がした。それが何かは分らず。

 

まあ、台湾でわざわざ日本の弁当や日本食を食べる必要はないかな、と思ってしまう。私がこの6年の旅で得た強み、それは日本食を食べなくても平気なこと、そしてシャワーさえあれば、風呂に浸かることを望まなくなったことかもしれない。この2点は、アジア放浪では必須のような気がしている。

ある日の埔里日記2017(9)霊厳山寺と埔里酒廠

120日(金)
霊厳山寺

 

翌日も天気が良かった。お昼に炒飯を食べたいと思い、出掛ける。台湾のチャーハンは大陸よりうまい、という印象を持っていたが、埔里でうまいチャーハンを見つけることはできていなかった。昨日行った日式料理屋、そこで親子丼を食べたが、その向かいにある店がなかなか良いとの情報があった。因みに親子丼は、悪くはないが、やはり日式である。中華鍋で作る所がよい。味噌汁は甘い。

 

麻油炒飯と書かれているが、何のことだろう。聞いてみたかったが、店員はいない。地元の常連さんが『そこの紙に自分でオーダー書いて、厨房へもってけ』というではないか。持っていくと、『そこに置いといて』と素っ気ない。果たして作ってもらえるのか。ちょっと時間はかかったが、チャーハンが出てきた。見た目は美味しそうだ。だが何か麻油かはわからず仕舞い。スープは無料で付いてくるのでまあいいか。

 

今日はWさんに自転車を借りる。ちょっと行ってみたいところがあったのだが、歩いて行くには遠い。バスは殆ど走っていない。そこで自転車となる。埔里の街を南方面へ走る。川を越えて、更に漕いで行くと、何となく重い。空気がちゃんと入っていない感じだ。更には凄くなだらかだが登りなのだ。

 

何とか漕ぎ切り、着いたところはお寺。霊厳山寺という名前だった。なぜここに来たのか。それは昨年11月末、バンコックでヨーガの合宿に参加していた時、夜のビデオ鑑賞で、NHKスペシャルを見た。台湾の仏教について語られている中、このお寺が登場したので、記憶に残ったという訳だ。そこでは台湾において、女子の出家が認められており、この寺に沢山の出家尼僧が集まるという内容だった。

 

埔里になぜ大きな寺が多いのかという謎は前回の中台禅寺でも考えたが、答えは得られていない。もしやここに来れば何かわかるかも、という期待もあった。入口に自転車を停め、坂を上り始める。かなり急な階段には『開山30周年』と書かれている。やはりここの歴史も30年程度だった。恐らくは台湾政府の政策と何らかの関係があるのだろう。

 

上っていくと、途中に廟がある。そしてその上の大雄寶殿がデカい。近寄っていったが、1階はガランと広い。2階以上は宿舎かな。この寺について知るすべはない。まごまごしていると一人の女性が声を掛けてくれたが、今は殆ど人がいない時期だと告げられる。『20年前の日本のテレビで見たお寺なんですが』と言ってみても、『昔のことは分らない』と言われてしまう。それでも色々と探してみると、1999年の大地震で寺が倒壊したこと、その後いち早く復興したことが分かった。つまり私がNHKで見た寺は、やはり地震で無くなっていたのだ。

 

この小高い場所から眺める埔里の街は爽快だった。その背後には新しい大雄寶殿、そこに立っていると先ほどの女性が現れ、『108回念仏を唱えたら、お水がもらえますよ』と笑顔で言って去っていく。観音様に向かって念仏を唱えようとしたがうまくできずに諦める。信心が大いに足りない。

 

また自転車に乗り、街に戻る。折角自転車に乗っているので、埔里酒廠にも行ってみた。ここは6年前に行ったと思うのだが、記憶がない。酒廠の建物、1階は紹興酒を含めて、土産物屋になっている。私は真っすぐ2階へ。酒廠の歴史を勉強する。1917年、日本時代に作られていた。当時の専売品目には、酒やたばこ、塩や樟脳と並んでアヘンと書かれているが、茶は入っていない。

 

元々埔里は水がよい場所だったという。今でも埔里の水はある意味で台湾のブランドになっている。日本時代は清酒の製造が主流だったとあるが、光復後は接収され、紹興酒の生産が始まる。巷では紹興酒は蒋介石の地元の酒であり、好きだったから作らせた、などと言われるのを聞いたことがあるが、さすがにそんな歴史はどこにも書かれていない。ただ介寿酒という、蒋介石の誕生を祝う酒が作られていたようだ。

 

その昔、台湾で働いていた頃は紹興酒をたらふく飲まされたが、台湾人は紹興酒など好きだったのだろうか。それとも日本人は中華料理と言えば紹興酒、なので、飲ませたのだろうか。ここも921大地震で大きな被害が出たがいち早く復興させたらしい。建物の外へ出ると、そこには紹興酒と吟醸の大きな瓶の模型があり、その奥には廟があった。日本時代には神社があったのだろうか。

ある日の埔里日記2017(8)山茶の茶畑へ

119日(木)
山茶の茶畑へ

 

翌日はさすがに疲れが出て、かなり遅く起き上がる。だが今日もまた声がかかる。これは何とも嬉しいことだ。先日夜突然迎えに来てくれた王さんが、彼の茶畑に連れて行ってくれるというのだ。折角なので、行ってみることにした。今回は迎えに来てもらうのも悪いので、こちらからバスに乗ってお店へ行く。

 

午後1時のバスに乗ると、20分ぐらいで魚池農会に着く。約束は2時だったので、少し付近を散策する。魚池には何度も来ているが、一人であることなどなかったのでちょうどよかった。意外と建物が多い街並み。そこで売られているのが、苗だったりするのがよい。昼下がりは人も歩いておらず、静かだった。

 

王さんの店に行くとすぐに車で出発。鹿嵩にあるその茶畑へ行く途中、やはりアッサム種の古い茶樹が所々で見られた。そして辿り着いたところは景色抜群の茶畑。向こうに檳榔の木が生い茂る。斜面にはかなり古いと思われる茶樹が株単位で植わっていた。その歴史は分らないところもあるが、アッサムとも違う種類であり、山茶と言っている。日本統治が始まる前からあるのではないかともいう。確かに南投県には原生種と言われる茶樹が存在するとは聞いているが、どうだろうか。その真偽は私のような者には全く分らないが、この茶畑を眺めていると何だか気持ちがよい。

 

もう一つの茶畑にも行った。そこは最近台茶18号を植えた畑だった。こちらは比較的平らな場所に茶樹がズラッと植わっていた。やはり主力は台茶18号らしい。これは育ちもよく、収量がある。先ほどの山茶は貴重だが、収量がなく、付加価値が認められなければ、商品にはなり難い。ここにはフルーツも色々と植えられており、季節ごとに採って食べることもできるらしい。

 

店に戻ると奥さんが『山のバナナは美味しいよ』と言って一房くれた。ただくれたのではなく、1週間は食べるな、と指示があり、バナナは段ボールに詰められ、リンゴも入れられ、厳重に縛られた。旧正月前に開けて食べるように言われ、ワクワク、ドキドキ。台湾では昨年の台風の影響でバナナの産量が激減、現在価格もこれまでにないほど高くなっている。私は台湾バナナが大好き。

 

更には店の向かいのレストランで夕飯までご馳走になってしまった。ここの料理は豚肉など、地元の新鮮な食材を使い、何ともうまい。またなぜか魚やしじみも味わいがある。調理がうまいのだろうか。王さんの子供たちもやってきて、皆で美味しく頂いた。帰りはまた車で送ってもらう。何とも有り難い半日だった。