「日記」カテゴリーアーカイブ

ある日の埔里日記2017その2(5)小埔社の老茶樹

3月22日(水)
小埔社の老茶樹

1日休みがあって、先日約束した東邦紅茶の茶園に連れて行ってもらえることになった。茶摘みはその日の天気次第だが、当日は快晴。朝8時に工場の方に行ってみたが、まだ誰も来ていなかった。少し待つと郭さんがやってくる。同時にピックアップがやってきて、それに乗れという。今日は郭さんではなく、おじさんが茶畑に連れて行くというのだ。

 

喜んで助手席に乗る。おじさんは35年前に東邦紅茶で働き始め、茶作りが無くなった後は、他で働いたが、最近の復活で戻って来た。最盛期の東邦紅茶では埔里の何人かに一人はここで働いていた、と言われるほどの、規模を誇っていた。創業者の郭少三氏の印象を聞くと『すごく厳格な人で、まるで日本人、という感じ』だったと話す。また昔作られていた物と今の茶の違いについては『当然作り方も変わっているし、品種も違うので、味は昔とは同じでない』という。

 

そんな話をしていると、早くも茶畑のある小埔社に着いた。まずは老茶樹のある畑を見に行こうと車を降りる。緩やかな斜面に茶樹が植わっているが、これが80年前、郭少三氏がタイより持ち帰ったというシャン種だった。向こうの方のかなり背の高い木が見える。おじさんが『普通は茶摘みに都合の良いように木を切ってしまうのだが、あれだけは見本として残してある』というのだ。

 

記録によれば、郭少三氏は1933年、タイのチェンマイから山中に入り、苦節1か月、紅茶作りに向いていると思われるシャン種を見付けて台湾に持ち帰った。基本的に日本がアッサム種を持ち込んでいたので、それに対抗する、いや特色を出すためにシャン種が使われたらしい。日本統治下の台湾で、台湾人がビジネスをしていく、というのはどのような困難があったのだろうか。シャン種の持ち込みに関しても、恩師の山本亮教授の支援があった、という話は出てくるが、果たして妨害行為などはなかったのだろうか。

 

その貴重なシャン種の茶樹を目の前にすると、やはり歴史、ということを考えざるを得ない。東邦紅茶は少三氏の努力により、広大な茶園を有するようになり、ここ小埔社一帯はほぼ東邦の土地だったと言われている。しかしその後の困難な時期に土地を切り売りし、茶樹もビンロウ樹などに代わっていった。それでも残った茶樹、何とも愛おしい。

 

もう少し車を進めると、斜面に茶畑が広がり、いい天気の中、茶摘みが行われていた。摘んでいるのはインドネシアからの出稼ぎ者だという。何となく以前見たベトナム人の摘み手に比べて、動作がゆっくりしている。というか、こちらが近づいていくと、にっこり笑ってくれたりして、ベトナム人のような緊張感がない。それがよい所だろうか。おじさんによれば、『ベトナム人はもっと稼げる高山の茶摘みに行くので、使えない』とのこと。茶葉の品質を保つため、収量ではなく、固定給として、ゆっくり摘んでもらっているともいう。

 

斜面をずっと降りていくと、茶樹が途切れる。その下に人がいたので近づいてみると、コーヒーを植えているという。最近始めたそうだが、『これからはコーヒーだ』という声を時々聞いているので、実際の珈琲畑でその実感が沸いてきた。だが果たしてこの試み、うまくいくのだろうか。

 

茶畑の中に、大きな木があったりする。『普通は大きな木は土の養分を吸い取るため、茶樹の近くにあると、その茶樹は育ちにくいのだが、ここではむしろいい茶樹が育っている』と説明される。この茶畑には最近流行りの台茶18号、紅玉が植えられている。『18号は良く育つし、収量が多いから、皆が競って育てるんだ』という。尚このあたりでは春に2回以上茶摘みをするが、18号は18日程、日を開けて摘むが、シャン種なら14日で摘めるという。

 

この茶畑の周囲もコーヒーの他、野菜なども植えられており、茶だけで食べていける状況ではないように思われる。ボーっと茶畑を眺めているとおじさんが『茶摘み人の弁当を取りに行くけど、戻るか』というので車に乗せてもらい、工場まで戻って来た。郭さんと最後の確認をして、東邦紅茶の歴史の一端を取り敢えず文章にすることができた。

 

交流協会雑誌『交流』2017年4月号「埔里の紅茶工場」

https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/15aef977a6d6761f49256de4002084ae/466e98259720a5184925811a0024804b/$FILE/%E4%BA%A4%E6%B5%81_913%E5%8F%B7_2%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%82%8B.pdf

 

尚この文章の中で、郭春秧を郭少三の祖父と書いてしまったが、これは完全な思い違いであり、郭さんからも『郭春秧は少三の父、郭邦彦の良き雇用主』と説明を受けている。ただ同じ郭姓であり、春秧の墓は邦彦一族の墓に横にあり、現在も一緒に供養している、と聞いていたので、つい錯誤してしまった。申し訳ない。

ある日の埔里日記2017その2(4)武界のさくら

3月20日(月)
武界へ

 

今日はちょっとお休みしたいな、と思ったのだが、葉さんから『武界へ行きたいか?』と連絡があったので、『行きたい』と答えると、『じゃ、明日の朝』と言われ、7時には迎えが来てしまった。もう流れに乗るしかない。皆が暇なうちに連れて行ってもらえるところには連れて行ってもらうのがよい。葉さんの愛車は部品が壊れていたが、いつの間にか治っており、快適なドライブとなる。

 

途中で朝ご飯を5人分も買った。今日はどんな作業をするのだろうか。正直3月下旬になろうとしているが、まだ涼しい。車で1時間弱、海抜1400m、武界はそれほど有名な場所ではないが、実は高山茶の世界ではかなりいいお茶を作っている。近くにはキャンプ場などの看板が見える。最近はアウトドアのお客さんが多いらしい。きっと政府の補助が出ているに違いない。ティーツーリズムか。

 

葉さんが任されている茶園に到着した。工場の周辺に茶畑が広がっている。まずは工場内で朝ご飯を食べる。葉さんは車をバイクに乗り換え、すぐに茶園を走り回り、私は一人で大きな目玉焼きの入ったご飯を食べた。茶園は非常にきれいに整備されており、雄大な自然の風景にマッチしていた。葉さんは今年からこの茶園の管理を任され、有機肥料を増やし、現在大改造の真っ最中らしい。連日ここに通っている。

 

茶園では、雑草取りが行われていた。親戚の若者がしゃがみ込んで懸命に草をむしっていた。茶摘みの中心はベトナム人だが、彼らを草むしりで投入するわけには行かないらしい。葉さんのおじさんの一人が管理の手伝いをしていた。若者は彼の子供らしい。厳しく指導しているのはそのせいらしい。

 

私は草をむしるわけでもなく、作業を手伝う訳でもないので、すぐに暇になってしまった。葉さんが帰るのは午後3時頃と聞いており、それまで何をすればよいのだろうか。取り敢えず付近の散歩を始めた。まずは見える所から歩く。周辺にも茶畑が広がっており、数軒の茶工場が見える。作業している人が私の姿を見て、ちょっとビックリしている。

 

更に坂道を歩いていると、後ろから来た車が急に停まった。何だろうかとみていると、運転席から顔を出した若者から挨拶された。よく見ると、旧正月に訪ねた原住民茶作りメンバーの息子だった。茶園を視察中だというが、まさかここで会うとは!世の中は狭い、ということだろうか。それにしても私のことがよく分かったな。

 

慰霊碑のようなものが建っていたので近づいてみると、なんと日本語が書かれている。1970年代に日本人夫妻がここに住み、宗教活動?を行っていたらしい。1980年代に相次いで亡くなったが、その信者たちにより、碑が建てられたとある。工場に戻ると、昼の弁当が運ばれてきた。茶園に弁当を配送する商売があるのだろうか、それとも親戚あたりが運んできたのだろうか。とにかく絶景の茶園を眺めながら、弁当を頂くのは気持ちがよい。でも茶は全くでない。

 

ランチ後の散歩で下の方に歩いて行く。するとある所から、何となくさくらが咲いているのが見えた。更に進むと、何と茶畑の中に桜の木があり、花がきれいに咲いていた。こんな光景、初めてみた。誰がここにさくらを植えたのだろうか。誰一人いない場所で、咲き誇るさくらをゆっくり眺める贅沢。これは何かのご褒美だろうか。それにしても茶樹と桜、何とも不思議な組み合わせだった。皆に知らせたくてFBにすぐにアップしたら、かなり反響がある。

 

予定通り午後3時頃に山を下りることになった。気が付くと滞在時間は7時間にもなっていた。その間、葉さんは時々茶園を見回り、水をやる程度で特に作業はしていなかった。雑草はかなり取られた様だが、さすがに日中の作業は辛い。このような人海戦術では、将来は厳しいと言わざるを得ない。

 

午後4時過ぎには部屋に戻った。かなりの疲労感がある。それでも山を歩き回ったので、腹は減っていた。フラフラ外へ出ると、なぜか餃子が食べたくなる。こういう時は焼き餃子がよい。台湾でも餃子と言えば、水餃子か蒸し餃子が一般的だが、焼き餃子のチェーン店も存在する。どうも大きな店は2つあるようだが、私はその内の一つがお気に入りだ。

 

この店にはキムチ餃子などのキワモノもあるが、プレーンの餃子は至極美味しい。餃子は棒状で、北京など北を想起させる。台湾には国民党と共に渡って来た、多くの山東人、東北人がいるため、中国の北の食い物を食べることもできる。ワンタンスープも添えて、70元もあれば、腹一杯食べられるので、家族連れなどで常に賑わっている。

ある日の埔里日記2017その2(3)講茶学院

3月19日(日)
講茶学院

 

なんだか急に忙しくなる。昨晩新竹から埔里に帰ったのだが、今朝はまたバスで台中に向かう。今日は湯さんの講茶学院セミナーを特別に見学することになっていた。湯さんのお茶の知識を広めようという試みは、とても興味深い。一体どんなことをしているのだろうか。そしてどんな人が受講しているのだろうか。

 

台中駅に着いて、朝飯代わりに何か食べようかと思ったが、何とこの辺には本当に店がない。しかも日曜日の朝、非常に閑散としていて静かだ。仕方なく、会場まで約30分、ゆっくり歩いて向かう。途中川があり、何だか雰囲気のよさそうな喫茶店があり、古びた建物も点在していたが、結局何も食べず。

 

会場は凄く立派なマンションの会議室。やはりきちんとしたセミナーは会場も重要かなと思う。参加者が続々と集まって来た。その数20名弱。台中近郊だけではなく、何と台北や高雄から早朝に車を飛ばしてきた参加者もいた。これは人気のプログラムなのだ。茶業関係者、と言ってもこれからお茶屋さんを開くとか、お茶愛好家とか、様々な人々が茶の基礎を学べる場なのだ。私の向かいに座った若者などはアメリカでお茶屋をやろうと目論んでいるという。すごい世界だな、台湾は。

 

講義の内容も、水の資質の話など、あまり語られない事柄も含まれており、有意義だった。勿論お茶の種類別の香りと味の判定など、プロでも難しい内容に取り組んでいた。講義と実技、ワイングラスを使ったテースティングなどが混ざっており、受講者を飽きさせない。台湾だけでなく、日本を含む世界の茶業の現状が紹介されるなど、基礎的な内容が極めて多岐に渡って網羅されており、勉強になる。

 

会場の外が急に騒がしくなる。何かと見てみると、お祭りのようで、被り物などをした人々が練り歩いている。すぐ近くにお宮があったので、そこから出てきたのだろうか。後で昼休みに外へ出ると、もう一度戻ってくる姿を、見ることができた。被り物はかなりデカい。そして神輿のようなものもやって来た。日曜日の静かな住宅街に、音楽も鳴り響いている。因みに講義が終わって帰る時もまだやっていた。一体何なんだろうか。

 

昼休み、参加者は思い思いに出て行き、ランチを取る。私は湯さんたちと一緒に弁当を頂いた。湯さんとアシスタント2人、チームワークもよい。こういうセミナーの開催になれている感じだ。食事が終わると、皆さんが帰ってきて、自己紹介方々、かなり具体的な交流(商売など)が繰り広げられる。

 

午後は更に実践的な授業が続く。透明な鑑定杯を使って、茶葉の様子、茶色を見る。そして茶の香りや味を自らの言葉で表現するなど、まるでワインのテースティングのようだ。確かにそうすることによって、1つずつの茶への印象が非常に強くなる。茶葉の基礎を知るには好都合と言える。

 

午前10時から午後5時過ぎまで、途中のランチ1時間を抜いて、6時間の講義を集中して聞くのは結構厳しい。最後にはテストまであり、今日の講義の復習までできるようになっている。1日でかなり知識が増えた感じがする。帰りはかなり疲れたので、湯さんの車で駅まで送ってもらい、そこからバスで埔里へ戻った。腹が減ったので、バス停近くの店で食事を済ませて部屋へ帰る。

 

部屋に着くとWさんから電話が掛かってくる。今からマコモダケの夜間栽培を見に行かないか、というお誘いだった。マコモダケは埔里の名産品であり、一度見てみたいと思っていたので、バイクで迎えに来てもらった。WさんのGHのお客さんも一人、バイクに乗ってやってきた。台湾には何度も来ており、今回はバイクを借りて思いっきり走るためにやってきたという。

 

マコモダケの畑は、何となく稲作の水田に似ている。ただ真っ暗な道を行くと、煌々と電気が点いている場所があった。そこが畑であり、驚く。かなり大規模な設備をつけている。マコモダケは夜、光を与えると成長するということらしいが、何だか可哀そうに思ってしまう。自然の日の光で成長してもらった方がよいのでは、などと思うのは、農業を知らない素人だからだろうか。

 

朝まで電気はついているらしいが、ずっと見学する必要はない。すぐ近くの地母廟に行ってみる。夜の廟はかなり煌びやかに見える。この寺は規模もすごく大きい。夜でもお参りに来ている人がいる。自転車に乗った子供が遊んでいるのが、台湾らしい。

ある日の埔里日記2017その2(2)沙坑茶会

再び東邦紅茶へ

午後は2月の初めに訪問して驚いた東邦紅茶を再度訪ねた。今回の原稿の主役となる会社なので、疑問点を確認しに行く。当然既に茶作りは始まっており、忙しい時期なのだが、郭さんは快く応じてくれた。いや、むしろ前回は茶葉がなかったので、臨場感がなかったが、今回は話にも迫力が増し、勿論いい写真も撮れた。

 

2階に上がるとすでに茶葉が萎凋槽に入れられていた。いい感じで萎びている葉もある。紅茶作り、という感じがよく出ていた。あのナイロンの萎凋棚の出番がないのがとても残念だ。今回は紅玉とシャンの2種類の茶葉が摘まれていた。この工場には自らの茶畑から来る葉、そして他所の茶畑から来る葉があるようだ。ちょうど茶作りは始まったばかり、これから長丁場になりそうだ。

 

事務所で、作り立ての茶を頂きながら、確認事項を1つずつ整理していく。今朝の黄先生の質問には『おばさん(長女)はアメリカに嫁いで60年になるが、今も元気だ』という。あとで黄先生にお伝えしなければなるまい。この郭家は実にグローバルな家だ。お爺さんは日本で教育を受け、その娘2人はアメリカ暮らし。当然日本にも親戚はいるはずだが、連絡は取られていないようだ。

 

ここまで話を聞いていくと、やはりどうしても茶畑が見てみたくなる。来週なら連れて行ってあげる、と言われたので、あの80年前に少三氏がタイとビルマの国境で発見したシャン種の木を見に行く約束をして、工場を後にした。それにしてもこの会社、歴史が実に面白い。

 

一度部屋に戻って先ほどの内容を整理してから、夕飯に出た。そろそろ同じような物ばかりになってしまうので、目新しい物を探す。すると、香港式の文字が見えた。鴨と叉焼と鶏の3点セット、私の大好物だ。スープは自分でとり、80元でたらふく食べられた。これは良い所を見つけたと喜んだが、何とその3日後には閉店し、店舗は貸出物件になってしまった。

 

実は旧正月を過ぎて戻ってきてみると、他にも閉店した店がいくつかあった。あのお気に入りにメロンアンパンの店も、4月には閉店すると、既に告知されている。どうやら家賃更新が正月明けにあり、2-3年で店が変わっていくらしい。あまり儲からなければ、またしんどければ辞めてしまう、いかにも台湾らしいスピード感だ。

 

3月18日(土)
沙坑茶会

今朝は早起きした。今日は新竹で開催される沙坑茶会に出席することになっている。この会は黄正敏さんの弟の許正清さんが会長、そして主催者の会。台湾中からお茶関係者が集まってくるというので、そのお仲間に入れてもらった。場所は車でないといけないので、バスで高鉄台中駅まで行き、そこで湯さんに拾ってもらい、同行した。

 

6時半に埔里を出て、7時20分に高鉄駅に着く。湯さんもちょうどやってきて、うまく合流出来た。そこから高速道路を走り、土曜日のため新竹付近の渋滞もなく、何と9時前には会場である、許さんの茶工場に到着してしまった。この工場のことは、6年前に黄さんから聞いていたが、よもや訪れる機会があるとは思っていなかった。

 

既に会場の設営はされていたが、規模は予想をはるかに上回るものだった。70-80人が参加する。そして何より、日本的なコーナーが設けられており、静岡から3名の方がゲストで来ていた。もう一人ロンドン在住のインド人、紅茶商人も来ていた。驚くほど国際的な会だった。

 

10時の開始と共に、日本の手もみが披露される。こちらの茶葉(肉厚で硬い)を使っての手もみはかなり大変そうだった。台湾人、特に茶農家の皆さんは興味津々で次々にAさんの指導の下、手もみに挑戦していた。言葉は通じなくても、身振り手振りで伝わるものだ。それからAさんから手もみについて紹介のスピーチがあった。インド人からインド茶事情の解説もあった。日本語や英語での通訳も行われた。

 

何よりも、多くの茶業関係者、それも幅広い人々が集っているのに驚いた。顔見知りの茶農家もいた。有名な台北の茶商もいた。豊原のジョニーも家族で来ていた。まさにお茶ファミリー集結といった感じだ。なかでも今回初めて会った葉先生は、台湾茶の歴史をもう一度見直す活動をしており、大変参考になった。『文山包種茶も凍頂烏龍茶も巷で言われているのは本当の歴史だろうか』といい、その論拠となる文献を拾い集め、世に問うている。

 

勿論これまでの歴史を信じてきた人、特にその歴史で売って来た茶商や地元民からの反発はかなり強く、悩みも多いようだ。そして彼が取り出した1枚の文献、それは日本統治時代に日本語で書かれたものであるが、彼は日本語世代ではないため、それを完全に理解するには至らないという。『台湾茶の歴史を精査するには日本語が必要である』として、今後協力関係を築いていく予定となる。これは何とも喜ばしいことである。

 

昼ごはんの弁当を食べると、許さんのお父さんが挨拶した。96歳でまだ元気だ。その後数十種類も並んだ茶葉のテースティングが始まる。台湾の冬茶、日本茶、インド茶が並んでおり、専門家らしく、皆真剣に議論している。日本の茶席では女性二人がお茶を点て、振る舞っている。こんな幅の広いお茶会、日本にあるだろうか。もしあれば好評を博することは間違いない。最後に客家独特にデザートが出てお開きとなる。何とも収穫の多い一日だった。

ある日の埔里日記2017その2(1)初めての台中空港

《ある日の埔里日記2017その2》

 

2月初めに一旦離れた埔里!すぐに戻るぞとばかり、3月中旬、香港より無理をして飛んでいく。そこまでする必要はあったのかと思うが、それが臨時拠点というものだろう。何より居心地がよい。今回は半月の滞在だ。

 

3月14日(火)
香港から台中空港へ

 

香港を飛び立った香港エクスプレスは、あっという間に台中に到着した。僅か1時間半ちょっとだったように思う。機内はきれいで、CAの対応もよく、フライトは申し分なかった。乗客は台湾に遊びに来る香港人が多く、台湾人も一部乗っていたが、外国人は見当たらなかった。まるで国内線だな。国際線で1万円ぐらいだから、これからも台中の香港エクスプレスは使えるような気がする。台中空港にはこれまで降りたこともなく、全くのノーマークだった。

 

空港が小さいので、すぐに入国手続きは終わり、荷物も出てきて有り難い。まずはスマホのシムカードを買う。これが買えなければ滞在に大いに支障がでる所だが、ちゃんと中華電信があり、問題なく15日間800元の物が買えた(30日で1000元だから割高だが仕方がない)。後は台中市内までどうやって行くかだが、これが意外と問題だ。バスが少ないのだ。30分に一本程度、それも飛行機の着陸に合わせて設定されているようだ。

 

乗り場は分り易かったが、30分待ってやっとバスが来た。しかしこのバス、空港バスではなく、普通の路線バスだから、荷物が大きいと一般乗客の迷惑になるのは目に見えている。なぜこんなに不便なんだろうか。まあ、あまりにお客が居なければバスも採算は取れないだろうが、せめて空港-駅の専用バスは欲しい。

 

空港は海の近くにあり、市内へ向かう道は下り坂でその高低差が分かるほど。案の定途中でお客がどんどん増え、車内は満員状態になる。乗客の方が旅行客の大きい荷物には慣れている感じだ。三越やそごうも通過して、何とも窮屈な環境で約1時間かけて、台中駅に着く。バス代は安いが何とかすべきだろう、この状況は。

 

それから埔里行きのバスを待つ。空港には午後2時には着いていたのに、結局埔里に着いたのは午後5時過ぎていた。これでは桃園空港から来てもあまり変わらない。しかも空港で購入したスマホシムが起動せず、大家の葉さんにもメッセージが入れられない。仕方なく電話して、連絡を取った。埔里に着くと目の前に中華電信のショップがあるので、そこへ飛び込む。

 

どうやら、きちんと設定を変更せずに単にシムを差し込んだだけだったらしい。やはり台中空港は日本のスマホに慣れていなかった。しかも埔里のこのショップで治してもらったのは良いが、のちに東京に行くと、今度は日本のシムが起動しなくなってしまった。もう一度日本の設定をやり直す羽目になる。非常に面倒なので何とかして欲しい。

 

取り敢えず、荷物を引き摺って宿へ向かう。葉さんの奥さんから鍵を受け取り、懐かしの部屋に入る。そしてすぐに外へ出て、池上弁当を頬張る。何しろLCCでは食事は出ない。朝8時に食べてからずっと何も食べていなかったので、この弁当がこのほか、美味く感じられた。おまけに付いてくるヤクルトもうまい!その日は何だかえらく疲れたので、すぐに寝込んでしまう。

 

3月17日(金)
黄先生のサロンへ

それから2日ほど、部屋を掃除したり洗濯したり。そして原稿を書くため、資料を整理していた。交流協会の雑誌に台湾茶の歴史を連載する話が決まり、その確認作業に追われていた。食事も朝昼兼用は下の食堂で食べるほど。まあ、ここのおこわご飯は美味いので、何度でも食べられるが。そして何より、『ああ、帰って来たね』とおばさんに言ってもらえるのは嬉しい。

 

今日はWさんから電話があり、画家の黄先生のサロンへ行かないかと誘われた。1月にも一度お邪魔しているので、気晴らしも兼ねて、Wさんのバイクの後ろに乗り、伺うことにした。Wさんのお客さん(毎年1か月埔里に滞在)がサロンへ行くので、そのついでだった。このサロンは毎週金曜日の午前、在埔里の日本人も集まってくる。

 

黄先生は相変わらず80歳とは思えないほどお元気。私が先般、埔里の東邦紅茶の工場を訪ねたことを話し、お土産に紅茶を渡すと『ああ、あそこの長女は私と小学校の同級生だよ、今はどうしているのかな?』というではないか。確か郭少三氏には娘が3人いたと読んだ記憶があり、うち2人はアメリカに嫁に行ったようだが、この長女がそうなのだろうか。やはり埔里では東邦紅茶はとても有名な地元企業であったことも合わせて教わる。

 

帰りは一人でとぼとぼ。ちょうど腹が減ってきたので、その辺の店に飛び込む。焼きそばがあるというので頼んでみたが、これは焼きそばだろうか。柔らかく茹でたそばに、そぼろをのっけて、更に目玉焼きも足されている。台湾には中国大陸から様々な物が持ち込まれているが、焼きそばは来なかったのだろうか。そう思っていると、急に日本のソース焼きそばが食べたくなる。あれはやはり日本料理だろう。

ある日の埔里日記2017(21)台北にて

2月8日(水)
台北で

取り敢えず埔里としばしのお別れとなる。部屋に荷物を残しているのですぐに帰ってくるつもりだが、ちょっと寂しい。バスターミナルまでの道のりも、2つもの大きな荷物を持っているのに、なぜか早く感じられる。9時10分発の国光号に乗り、一路台北へ向かう。バスは順調に走行し、12時過ぎには台北駅に着いてしまった。

 

駅から歩いて定宿へ向かう。10分で到着して、チェックイン。腹が減ったので外へ出てランチ。すぐ近くの串カツ屋に入り、ランチのカツどんを注文する。何故明日日本へ行くのに、かつ丼を食べているのか、自分でもわからない。でも今食べたいと思った物を食べているだけだから、それでよい。

 

食後の散歩、いつも歩いている道ではあるが、久しぶりに南京東路を渡ってみた。林森公園、かつてはなかった公園が今はある。昔この公園のある一帯には、バラック小屋が多数立ち並び、香港から出張に来て、CDなどを売る店に良く立ち寄ったのが、懐かしい。もう20年以上前の話だ。

 

この公園、日本時代は墓地だったらしい。三板橋墓地。第3代総督、乃木希典の母親が葬られたとある。その後共同墓地化され、第7代総督、明石元二郎は在任中福岡で没したが、その遺骨は故人の遺志により台湾に持ち帰られ、ここに埋葬されたらしい。その時の鳥居が紆余曲折の末、今ここに建っている。明石と言えば、日露戦争時の諜報活動、特にロシア革命への支援などで有名な人物だが、台湾総督が最後の任務となった。

 

林森公園から中山北路の方へ小道を歩いて行く。こんなところにと思うほど、意外にも古い家が残されている。民家として使われているものもあれば、改装してカフェなどを開いているところもある。場所的には便利であるし、ホテルオークラの裏と言えば、何となく人が集まるのだろうか。

 

その後、先日台中で会った蔡さんに誘われて、葉さんという女性のもとへ行く。彼女は雲南省の山中などに自ら行き、磁力の強い、本物の茶葉を集めているという。お茶を飲むというより、薬としての効き目を重視しているようだ。実際にお茶を飲んで、その後力が入るかどうかなどの実験を行うと、見事に茶葉によって違うことが分かる。

 

何とも不思議な話だが、これは土の持つ力などの影響によるらしい。今や台湾には真に磁力を発揮できるような場所、昔から自然に茶が生えているような場所はない、といい、飲むべき茶葉はないと言い切る。台湾で山茶など、原生の茶樹があると言われる場所でも、実体は人の手が入っているという。

 

蔡さんの知り合いの学生もちょうど来ていたが、彼の目的な『風邪を引いたので、それを治すお茶』を飲むことだった。葉さんの茶はいわゆる漢方薬のように煎じて飲んでいる。煎じるための壺も特別な土で作っているという。飲ませてもらうとかなり濃い。お茶というより、薬であれば納得できるものだった。何とも不思議な体験をした。頭の中では全く理解できていない。

 

夜はその昔北京で一緒だったHさんと会う。彼と最後に会ったのは、3年前だろうか。場所は蘇州だった。その時生まれた赤ちゃんが三歳になっている。奥さんは、17年前北京でお茶を習った時の同期なのだ。何とも懐かしい。彼は蘇州からそのまま、台北に赴任となったらしい。しかも前任者は大学の後輩、Fさん。何とも奇妙な繋がりであるが、中国関係者にはよくある話だ。雲南の鍋をつつきながら、思い出話に花が咲く。こんなことも久しぶりだった。

 

2月9日(木)
今朝は早く起きて、MRTに乗り、国立図書館へ向かう。中和にある別館には、日本時代の資料が眠っているので、それを覗きに行った。何と9時の開館前に行列ができているのにはびっくり。だが6階まで上がると、人はいない。前回も親切に案内してくれた女性が今回も色々と助けてくれて、検索が進む。何とプリントはせずに自分のUSBに日本時代の新聞記事を入れることができる。すごい!

 

宿にとって帰って、チェックアウトして、空港に向かう。駅前からバスに乗り、桃園空港へのお馴染みのコースだ。もうすぐMRT空港線が開通すると言われて何年経つだろうか。今度こそ3月に開通するというが、にわかには信じられない。エバ空港は今日も快適で、予定時間より早く成田に着いた。ここから1000円バスで東京駅へ行けば、旅も終わりだ。

ある日の埔里日記2017(20)埔里文庫

2月7日(火)
埔里最後の日に

 

1か月は長いようで短かった。色々なことがあり過ぎて、埔里に来た日が遠い過去のことのように思える。滞在中、台湾茶の歴史についての興味が急速に芽生えていったが、これをどのように調べればよいのだろうか。手始めに折角いるのだから、埔里の歴史が分からないかと、来て早々に図書館を訪ねていた。4階に埔里文庫という歴史を展示している場所を見つけていたが、その時は係の人が忙しかったので、出直すことにしていた。ところが旧正月で1週間以上図書館は休みとなり、また土日は文庫がお休みということで、今日まで再訪できていなかった。

 

午前中は荷物の整理をした。1か月もいると、いやでも荷物が溜まっていた。ゴミ類は昨晩のゴミ出しでほぼ捨てていたが、本や資料などをどうするか。結局バッグ一つをここで預かってもらうことにして、帰国荷物を分けることとなる。日頃整理整頓ができていないことを露呈させる。

 

昼ごはんは近所で気に入っている、焼肉飯を食べる。焼肉という文字が引っかかりやすい。実際には焼肉弁当の体であり、大き目の肉が2枚入っていて、後は野菜や蛋など。店内で食べるとこれがどんぶりで出てくる。何というか、どこがうまいか言葉で表せないがうまいのだ。スープは無料、自分でよそう。60元。

 

午後図書館へ向かう。歩いても5分位だ。隣には建物の下にバスケットコートがある。図書館の1階は新聞や雑誌があり、近所の老人がゆっくりと眺めている。3階には歴史関係の本もあり、前回はここで台湾の歴史関連を眺めた。中には日本時代に書かれた日本語の本まである。

 

そして4階の埔里文庫。前回もちらっと見ていたが、日本時代の商店や診療所が再現されており、実際に使われた備品なども展示されている。また埔里在住カメラマンの残した書籍なども展示されている。尚入口付近には、霧社事件で亡くなった日本の巡査やセデック族の女性の写真などが大きく展示されている。これは何を意味するのだろうか。この歴史を現在の埔里の人々はどのように捉え、どのような位置づけで展示しているのだろうか。原住民であるセデック族といわゆる台湾人の間にも、溝があったはずなのだが。

 

埔里の歴史に関する本も多数置かれているが、その中でお茶に関連したものを探すのには苦労した。日本統治時代、勿論まだ高山茶などは存在せず、埔里が茶の集積地だったという話もない。何冊かの本を開いては閉じ、開いては閉じ、していると、係の人が『何を探しているのか?』と声を掛けてくれた。

 

事情を説明すると『そのような資料を本から探すのは難しい』と言って、色々と検索を掛けてくれた。埔里にあった東邦紅茶は別にして、魚池など南投県まで範囲を広げて見てもらうと、いくつかの発見があった。本願寺の大谷光瑞などの名前も出てきて、大いに興味をそそる。やはり日本と台湾、色々な歴史がありそうだ。

 

係の人はとても親切に、教えてくれた。ここに来るより、国史館のサイトにアクセスする方がよいなど、かなり具体的なアドバイスがあった。有り難い。それでも公開されている資料には限界がありそうだ。それを一つ一つ見つけて、確認していくことが歴史への近道なのだろうか。

 

夕方、図書館を出て、帰路に就く。宿の近くまで来ると、ちょうど許さんと目が合う。先日茶工場を案内してくれた人だ。明日埔里を離れると挨拶して、茶を振る舞われる。旧正月はずっと店を閉めていたが、家族で韓国旅行に行っていたようだ。韓国の印象を聞くと『飯がうまくない』との答え。まあ何を食べたかはわからないが、台湾人には合わないかもな、と思ってしまう。

 

そんな話をしていると、バイクが店の前で停まり、おじさんが入って来た。手にはキャベツをぶら下げている。親戚のおじさんが持ってきたのかと思ってみていたが、ちょっと台湾語でのやり取りがあり、許さんがお金を渡すと、おじさんは立派なキャベツを6個も置いていった。

 

昨年はキャベツが高値になり、生産農家が増え、今は価格が暴落。捨てるよりマシということで、安い値段で引き取ってもらうべく、家々を回っているらしい。『我々も農家だからその気持ちはわかる』と言って、引き取ってあげたらしい。この辺が生産者に近い場所だろうか。ぜひ持って行ってくれと言われたが、私は明日埔里を離れる身、残念ながら遠慮した。キャベツ炒めにしたら、美味そうなのに。それにしても農家は大変だ。夕飯は牛肉麺を食べて〆た。

 

ある日の埔里日記2017(19)28年ぶりの霧社にて

2月5日(日)
28年ぶりの霧社にて

ずっと雨が降らない埔里。今日も出掛けることにした。もうすぐ一旦埔里を離れるので、出来ることはやっておこうと考えた。ついに決意して霧社に上る。これまで梨山へ行く際など、霧社を何度か通ることはあったが、ここで降りることはなかった。そういえば、ここで一度食事をしたことはあったが、それも自分の意志ではなかった。敢えて避けて来たとも言えるだろう。

霧社に行ったのは一度切り。あれは1989年の冬だったと思う。当時台北に駐在していた私は、業界関係者の1泊2日のゴルフ旅行に参加した。台中でラウンドした後、幹事が連れて行ったのは埔里。彼は蝶々の収集が趣味で、よくこの付近に来ていたらしい。そして山道を登り、廬山温泉で1泊することになっていた。霧社を通った時、バスは急に停まり、幹事は我々を鳥居のようなものがあるところへ案内した。そこが霧社事件の首謀者、モーナルーダオを祭っていた、と言われても、誰一人ぴんと来なかった。

その当時、霧社事件は教科書にもなく、台湾在住者でも知る者は殆どなかったのだ。というか、戒厳令解除直後の台湾は、今とは全く違う雰囲気があった。日本語はかなり通じたが、日本統治時代の話などはこそこそ話す人もいた。あれだけの人が話し、NHKの衛星放送さえみられる台湾で、日本語は公には禁止されていた。2・28事件なども全く伏せられた歴史だった。

そして廬山温泉で泊まった宿。そこのオーナーのお母さんが出てきて、ゆっくりとした日本語で淡々と霧社事件のことを語り始めた時は、正直呆然となってしまった。彼女は当時日本人として教育を受けた模範生で警察官になっていた、花岡二郎の妻、高山初子さんだったのだ。1930年、18歳だった。宿のオーナーは事件の時、彼女のお腹の中におり、それで皆が彼女を逃がしたと。はっきりした日本語なのに、頭が混乱して、心が震えてしまう内容だった。あれ以来、何も知らなかった自分を大いに恥じ、そして霧社には近づかなくなっていた。

バスは容赦なく山道を上がり、1時間で霧社に着いた。ガイドブックを見て、まずは日本人墓地があった場所を探したが、全く見つからない。徳龍宮があったので、そこに上ってみると、下の碧湖、いい風景が見られた。ここは日本時代、霧が丘神社と呼ばれたらしい。それからセブンイレブンの前を通り過ぎ、少し下る。

 

モーナルーダオの像がそこにあった。28年前に来た場所はここだった。だが、随分ときれいになっている。抗日英雄の文字や『莫那魯道烈士之墓』という漢字に少し違和感がある。日本も台湾もずっと秘してきたこの事件、1990年頃から注目されるようになり、英雄として扱われている。そして当時はタイヤル族と言われていた彼らが、2008年にセデック族と呼ばれるようになってもいた。それは映画の題名で知ってはいた。

 

更に下っていく。台湾電力の分社がある場所が、事件の舞台となった公学校の跡地だ。ここで運動会当日、140名近くの日本人が殺されている。企業の敷地だから立ち入りはできない。外に事件の概要を伝えるプレートがあるだけだ。今は何事もなかったかのように穏やかな午後なのだ。

 

急に尿意を催してきた。元公学校の敷地の道の向こう側に建物が見え、トイレがあったので使わせてもらった。そして出てきて驚いた。ここが最初に探していた日本人墓地の跡だったのだ。これは何かに呼ばれていると感じざるを得ない。1950年代に道路工事のために受難者記念碑は撤去されたとある。今や台だけが僅かに見え、整備も全くされていない場所、カメラのシャッターを押すもなぜかうまく作動しない。こんなことがあるだろうか、いやあるのだ。

 

かなりの疲労を覚える。もうこれ以上、この地に留まることは難しい。ちょうどバス停があり、バスが来たので、それに乗り込み、埔里に戻った。今日のこの体験が何を意味するのかは分からないが、引き寄せられていく感覚は残っていた。その夜、それまで封印していた映画、セデックバレを英語版で見た。やはり違和感が残り、そして疲れが増した。

 

ある日の埔里日記2017(18)豊原に新年のあいさつに行く

24日(土)
豊原に新年のあいさつに行く

 

とうとう完全に正月が終わった。それでも土曜日なので正月ムードは抜けてはいない。今日はこの2年ほど、折に触れてお世話になっているジョニーのところへ新年のあいさつに出掛けることにした。彼は通常は非常に忙しいのだが、正月明けなら少しはマシかと連絡を取ってみると、店にいるというので飛び出していく。

 

9時のバスで台中駅まで行き、そこから台鉄で豊原まで。もう慣れた道のりだ。豊原も昨年2晩泊まったので、ほぼ地理は把握できている。問題なく泉芳茶荘に辿り着く。相変わらず午前中、店の前は露店が立ち並び、人が多く出て、買い物している。そこを潜ると、店に入れる。この店はお母さんが仕切っており、常連さんがお茶を飲んでいた。

 

ジョニーが出てくる。とすぐに『早く行こう』と席を立つ。どこへ行くのかと思ってついていくと、近くの市場だった。そこでは新鮮な魚などが売られており、そのまま刺身でも食べられると言われたが、目的地は2階だった。そこは薄暗かったが、奥の方に人影があり、近寄ってみると屋台の周りには人が大勢いた。

 

なぜ急いできたのかはすぐに分かった。売り切れご免なのだ。基本的に午前中で閉店するらしい。注文も難しい。列に並ぶことなどもなく、店の人が1人ずつ注文を聞いていく。どんな順番だかさっぱりわからない。私ならイライラするだろうが、ここに来る人は皆辛抱強い。まずは席、いや椅子を何とか確保して、それから店員が来て、ようやく注文。当帰排骨湯と乾麺!

 

勿論出てくるまでにも時間が掛かるが、これまたみな辛抱!そこまでしてここへ来るのかとある意味食べないうちから感動する。そして麺を一口食べる頃にはもう全てが極楽!たれの味が抜群なのだ。ジョニーは小学生の頃からここに通っているという。そのままの味を保っているというからすごい。確かにここは一度来る価値のある場所だろう。しかし地元の人に連れられてくる以外、来ることは難しい。

 

午後は店に戻り、お茶を飲む。昨年は冬茶の出来が良いとは言えないと、方々で来ていたが、梨山も例外ではないかもしれない。折角なので、ちょっと違ったお茶を所望したところ出てきたのが、梨山の鉄観音茶。しかも2015年製造。これが私にはかなりフィットしており、即購入した。ジョニーのところは以前紅茶がヒットしたこともあるが、時々思わぬ物があったりする。それが老舗であり、懐が深いということだろうか。

 

お父さんがやってきて、色々と昔の話を聞かせてくれるのもよい。お父さんは1970年代に梨山に最初に茶樹を植えた人として知られており、先日訪問した湯さんも、台湾茶の生き証人としてインタビューした、と言っていた。今回は『凍頂烏龍茶の価格のピークは1984年だった』との話を聞き、大変興味深く勉強した。実際に商いをしている人は研究者とはまた違う、生の情報を持っているものだ。店には1984年と書かれた茶缶が残されていたが、勿論中身は入っていないとのこと。一体どんなお茶だったのだろうか。

 

ジョニーの奥さんが赤ちゃんを連れて入ってくると、店にいる全員がそちらに注目して、あやし始める。こういう大家族、近所の人々に小さい頃から育てられている人は、将来どうなるのだろうか。女の子だから、おばあちゃんのように店を仕切るのだろうか。孫を抱くおばあちゃんもいつもより相当に表情が柔らかい。

 

夕方、店を失礼した。廟東の夜市に寄って、何か食べたかったが、昼ご飯の食べ過ぎでお腹が一杯となり、断念した。ただその道だけを歩いて見ると、まだ日も出ているのに、既に大勢の人が屋台に群がり、食べ物を食べていた。その活気、本当にここの夜市は人気がある。豊原というところが、如何に豊かな土地であったかが、よくわかる。帰りはまた元来た道を引き返す。今日は腹が一杯で、夕飯すらも断念した。

ある日の埔里日記2017(17)集集線を旅してみる

22日(木)
集集線を旅してみる

 

正月気分もだいぶ取れてきた。閉まっていた食堂も再開し、日常が戻りつつあった。今日は前々から行きたいと思いながら、行ったことがなかった集集線に乗りに行く。この電車に乗るには、どうやって行くのがよいのか。よくわからないまま、取り敢えず埔里からバスがあった水里へ向かった。

 

午前10時半にバスが来た。乗り込んだのは老人ばかり。ちょっと不思議に思っていると、この路線は日月潭に向かう王道などは通らずに、初めから山道を行く。九族文化村の方へ行ったかと思うと、今度は反対側へ。ものすごく遠回りだと気付いた時には、遅かった。ただただ揺られていくしかなかった。途中でほぼ全員が降りてしまい、乗っているのは2-3人となる。

 

山道を1時間以上進んで、ついにダムが見えてきた。そして車埕の駅らしい建物もちらっと見えた。ここが集集線の始発駅だとは知っていたが、周遊券が買えるのは水里だと聞いていたので、ここで下車せずに終点まで向かう。水里の街は先日葉さんの車で通りかかったが、こんなところに駅があるんだ、というような小さな駅だった。駅に横がバスターミナルだ。

 

窓口で周遊券を買いたいというと、『ニ水でしか売っていない』と軽く断られてしまう。一体何のために周遊券があるんだと言いたかったが、ない物は仕方がない。取り敢えず腹ごしらえをして、街を散策。ここは川を中心に街が成り立っており、日本統治時代は栄えたのかもしれないが、今はひっそりしている。

 

駅に戻り、まずは車埕まで一駅乗る。駅はかなり立派で、昔の雰囲気を出しており、既にテーマパーク化している。駅から外には出ずに10分後に折り返す電車にそのまま乗車して、集集駅まで乗ってみた。車内はきれい。単線のローカル列車が田舎を走っていく。何となく気分が出る。乗客は思いの他多くて、座れない。まだ正月休みで子連れが多い。中国から来た観光客なども乗っており、海外からも注目されているらしい。

 

駅前には集集鉄路文物館があったが、展示はごく簡単だった。1922年に開業したというこの路線、日本時代から921地震までの歴史が語られていた。隣には蒸気機関車や戦車が展示されている。駅舎は日本時代からの古さを誇っていたが、921地震で被害を受け、今は何とか再建されたということらしい。それにしても平日にもかかわらず、観光客が多いのでビックリしてしまった。

 

駅前から街を散策してみたが、特にこれというものはなかった。ここは完全に観光地化しており、古きよきものがある、という雰囲気はなかった。むしろ子供たちが来て楽しい、家族連れのレジャーの場、という感じがする。確かの列車の車両自体にもアニメが描かれており、それを証明していた。

 

とにかく人がないところへ行きたかった。線路沿いを歩いて行くと、段々と人が少なくなる。そんなところでなぜかフルーツを売っているおばさんがいた。わざわざ人通りがないところで何故なのだろうか。それでも何となく気になってみてしまう。向こうも気が付いてにっこりする。うーん、こういうのには何とも弱い。

 

更に行くと、軍史公園という場所があった。戦車や戦闘機が展示されている。なぜここにあるのかは全く不明だった。ただ見学者は少なくゆっくりできたのでよかった。帰りもテクテク歩いて駅へ向かった。徐々に人が多くなり、出来れば早くここを離れたかった。バスもあるようだったが、どこへ行ったらよいか分からなかった。結局ようやく来た電車に乗り込み、そのまま30分、終点の二水迄行ってしまった。

 

二水は集集線の終着駅でもあるが、台鉄にも繋がっている。次の駅は田中。この付近はその昔は、茶葉が運び込まれ、鉄道で台北などに持っていく中継地点の役割を果たしていたと聞いたことがある。駅付近を歩けば何か分かるかなと思い、散策を始める。駅前には人通りは殆どない。

 

駅前から伸びている通りを歩いていると、かなり古い建物がいくつか見られた。その付近がその昔栄えていた可能性を示すものだとは思うが、何しろ何も資料がなく、また表示などもないため、よくわからない。お茶屋らしいところもあったが、開いているのかさえ不明。仕方なく、いくつかの廟やら古い家屋を見て駅に引き返した。事前の調べが必要だった。まあ、元々今日ここに来ることは自分でも予想していなかったのだから、また来ればよい。

 

台鉄の普通列車は30分に一本程度しかない。それに揺られて1時間以上かけて、新烏日駅に辿り着いた。二水は彰化のすぐ南ぐらいに思っていたが、随分と離れていた。高鐵台中駅からバスで埔里に戻り、今日の長い、一周の旅が終了した。夕飯は、旧正月中ずっと閉まっていた、池上弁当で鶏排飯を食べた。ここの弁当の安定感とボリューム感は捨てがたい。